遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『約束』  葉室 麟   文春文庫

2022-01-06 16:11:33 | レビュー
 まるで記念写真のような表紙。この絵解きから始めよう。
 ここに登場しているのはこの小説の主な登場人物である。中段の向かって左側は一見で推測できる。そう、西郷隆盛。右側は・・・・「西郷さァ、西郷さァと子供のころに約束しもうしたなあ、国のために命を捨てると。おいは約束を守りもしたぞ」(p275)と最後に著者が語らせる大久保利通(加納謙司)。斜め後の左側でVサインをしている娘は小曾根はる(神代冬美)。右側のラシャ地の制服に革帯を締めているのは薩摩出身の益満市蔵(加納浩太)、警保寮邏卒(のちの巡査)。前の左側に正坐するのは得能ぎん(柳井美樹)。前の右側で右膝を立てて坐っているのは芳賀慎吾(志野舜)である。
 この表紙に登場していないが、主な登場人物が他に幾人か加わる。
 一人は勝海舟。小曾根はるは長崎から上京してきて勝海舟の屋敷に寄寓していた。勝は長崎ではるの父、商人の小曾根乾堂に世話になったことがあるという縁だった。西郷従道もその一人になる。得能ぎんは、西郷隆盛の弟、西郷従道の屋敷に行儀見習いに来ていて、従道の妻清子の実家(得能家)の遠縁にあたる娘である。

 益満市蔵は川路大警視から西郷従道の屋敷の離れ座敷に滞在する西郷隆盛の身辺警護を命じられることから、隆盛との関係が生まれていく。一方で、市蔵は島田千五郎に連れられて巡邏中に、銀座通りを渡ろうとしていた老婆と5,6歳の孫娘が馬車の馬とぶつかる事故を目撃して馬車に駆け寄る。馬車に乗っていたのは勝海舟。名前を尋ねられた市蔵が名乗ると、勝は薩摩の益満休之助を知っている。暇ができたら氷川町の屋敷に遊びに来いと気軽に声をかけた。それを契機に市蔵は勝海舟との縁ができる。
 芳賀慎吾は、九州、小倉藩出身だが、父が司法卿江藤新平と学問の交流があったことから、江藤の書生になっていた。江藤は、明治6年(1873)10月、辞表を出し、西郷同様、野する。そして江藤は明治7年佐賀の乱に加担していく。

 なぜ、括弧書きで人名を併記したのか。それがこの小説のおもしろいところである。
 浩太、舜、冬美は高校生、美樹は高校中退なのだが、9月23日、学校からの帰路にばったり会い、交差点での信号待ちをしている時に、彼等は雷に撃たれたのだ。その交差点で、偶然にも浩太はパトカーに乗る父謙司を見かけていた。この雷に撃たれたことで、彼等は平成の時代から明治6年(1873)にタイムスリップしてしまったのだ。明治時代の日本橋の相模屋という呉服屋の前で雷に撃たれた。彼等は明治政府の高官に仕えていたり、関わりがある人間に転生していたことから、相模屋が親切にも店の奥に運び込んで手当をしてくれたのだ。浩太の意識が戻る前に、舜、美樹、冬美が話し合って出した結論は、明治の人間の肉体にそれぞれの意識が入り込み、明治の人間の意識は回復せずに、舜たちのそれぞれの意識がダブっている。明治の人の意識を感じることはできる状態なのだという。彼等は明治の日本に紛れ込んでしまったのだ。
 この4人以外にさらに2人が転生している。その一人が浩太の父、警視庁捜査一課長の加納謙司である。もう一人が元警察官、刑事で加納謙司の部下だったこともある飛鳥磯雄。彼は懲戒免職になっていた。さらに数日前に銀行を襲った強盗殺人犯で、交差点で止まるパトカーに近づき、浩太の父。謙司に日本刀を振り下ろした瞬間に、彼も又雷に撃たれていた。そして、明治の時代に同様に転生する。誰に転生し、どういう役回りになるかは伏せておこう。

 つまり、明治に生きるある人間に転生し、その人の意識の一端を感じながらも、平成を生きる元の自分の意識を携えている存在。明治の人間としてその時代のただ中に投げ込まれるということになる。彼等は転生したそれぞれの人の立場でこれから明治を生きて、行動していくことになるという次第・・・・・・。がぜん興味が増して行く。
 
 浩太が益満市蔵として意識を回復した段階で、彼等4人は「皆で力をあわせてあっちの時代に戻る」という約束をかわす。「そうしないと、この時代に埋もれてしまって元の僕たちの体に意識が戻らないということになるかもしれない。」「その時は死んだということだろう」と。本書のタイトル「約束」はここに由来する。
 「約束」には、もう一つの意味が含まれていた。
 「正しいと思うことのために戦う。それが俺たちの約束だ。」(p279)このストーリーを通じて、この側面を味わっていただくとよい。

 平成を生きる高校生4人がそれぞれ全く異なる境遇の明治の人間に転生した。だが、ここから彼等がどのように力を合わせて平成の現在に戻るために助け合っていくのか。それがこのストーリーである。
 日本史の授業で明治時代初期の断片的史実の知識として学んだ彼等が、ダイナミックな現実の日常生活の中で起こる事象に関わる者、時代の渦中に投げ込まれた者として明治を生きて行くことになる。つまり、明治日本を生きる同時代体験ストーリーが展開されていく。
 いわば日本史の教科書、歴史年表に記述される断片的事実のを繋ぎ、裏に蠢いている泥臭くダイナミックな人間の思いと行動が、著者の仮説を交えて連続した総体として描き込まれていく。歴史として記録に残る断片的史実が鮮やかに織上げられていく。

 明治4年(1871)11月、岩倉具視全権大使他大久保利通、木戸孝允、伊藤博文ら一団が欧米視察に出発し、明治6年(1873)9月に国内で征韓論が沸騰している渦中に一行が帰国する。征韓論は紆余曲折を経るが、10月に征韓派の敗北となる。西郷隆盛は下野し、鹿児島に帰る。この時点から明治初期の歴史が大きくうねり始める。自由民権運動の展開が始まる一方で、1874年2月の佐賀の乱、4月の征台の役。1875年9月の江華島事件。1876年2月の日韓修好条約(江華条約)調印。10月に神風連の乱ほかが発生し、1877年2月の西南戦争へと突き進む。6月に西郷隆盛が自殺し、西南戦争が終結する。
 このストーリーはこの時代の翻弄にまきこまれ、転生した4人の視点と行動を軸にしながら描き込まれていく。それは西郷隆盛と大久保利通を浮彫にしていくことにもなっている。
 設定のおもしろさとこれら一連の史実の解釈への興味から一気に読んでしまった。

 この小説、葉室麟の没後に発見された未発表原稿である。葉室麟がデビュー前、あるいはデビュー前後に書いた作品という。きれいにプリントアウトされ、右側に穴をあけて綴じられた『約束』の原稿、葉室麟と著名されたものとして発見されたそうだ。つまり葉室麟の小説家の原点としての一冊! 2021年12月、文庫オリジナル作品として刊行された。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連する事項を少しネット検索してみた。一覧にしておきたい。
岩倉使節団  :ウィキペディア
岩倉使節団~海を越えた150人の軌跡~ :「アジア歴史資料センター」
岩倉使節団  :「NHK for School」
西郷隆盛  :ウィキペディア
西郷隆盛  :「コトバンク」
大久保利通 :ウィキペディア
大久保利通 :「コトバンク」
勝海舟   :ウィキペディア
西郷従道  :「近代日本人の肖像」
益満休之助 :「コトバンク」
勝海舟   :ウィキペディア
江藤新平  :ウィキペディア
征韓論   :ウィキペディア
征韓論   :「コトバンク」
「佐賀の乱」で若き命を落とした江藤新平  :「SAGA 賢人ラボ」
神風連の乱  :「コトバンク」
西南戦争   :「コトバンク」
ラストサムライたちの戦い -西南戦争- :「かごしまの旅」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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