遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『100万回生きたねこ』  佐野洋子  作・絵  講談社

2018-10-11 10:40:09 | レビュー
 友人のブログでこの絵本のことを知った。この絵本を早速読んでみた。
この絵本、なんと1977年10月に第1刷が出版され、刷を重ねるロングセラー本だという。知らなかった。
 この絵本、子どもから大人まで楽しめる絵本である。年齢に応じて、楽しめるとともにコトバとこのメッセージに含まれた意味を考えるとき、様々な材料に溢れている。さらに味わえるという要素がいかようにも加えられそうである。
 長年生きてきたせいか、様々な考えを囓ってもいる。この絵本を「子どもの心」、「子どもの感性や見方」から読むことはできそうにない。読んでいると雑念が渦巻いてしまう。逆に、様々に色づけされた頭を使ってみる立場から、子どもの心とはかけ離れた次元になるが、少し印象論をまとめてみたい。

 「100万回生きたねこ」というタイトルから、一匹のねこの物語ということが想像できる。ジャータカというコトバを連想した。
  絵本本文の最初のメッセージは、

  100万年も しなない ねこが いました。
  100万回も しんで、100万回も 生きたのです。
  りっぱな とらねこでした。
  100万人の 人が、 そのねこを かわいがり、100万人の
 人が、そのねこが しんだとき なきました。
  ねこは、1回も なきませんでした。

から始まる。見開きページの左にメッセージ。右に「りっぱなとらねこ」が作者自身により描かれている。
 つまり、作者のメッセージと絵での描写は完全にシンクロナイズしていると思う。メッセージを絵にする際、作者の図柄としてのイメージがそのままそこに表現されているとみてよいだろう。絵本の文に対し、第三者の絵を描く人がいて、その人の頭脳のフィルターを通して文を解釈して生み出された絵ではない。
 本のカバー、内表紙、そしてこの右のページにそれぞれ「とらねこ」が描かれている。これを見比べてもおもしろい。表情と姿態が変化していて、ここの右ページに描かれたとらねこが一番おとなしそう・・・・・。このメッセージから「とらねこ」の一代記というストーリーと明確にわかる。

 作者は第1行目に、「100万年もしなない」と書く。
 「100万年も生きた」ではない。こう記せば、100万年という時間量を1匹のねこが継続して生きたことになる。たぶん、素直に読めば・・・。一歩譲って、トータルで100万年という解釈もあるかもしれない。
 「100万年もしねなかった」とは記していない。「しなない」という事実を記すだけである。「しねなかった」と記せば、「しにたいけれどしねずに生きた(生き返って生きた)」というねこの意思が入ってくる。
 「100万回も しんで」、「100万回も 生きた」というフレーズは、「しなない」という事態が繰り返され、その累計数という事実を記すだけである。

 100万年、100万回、100万人のそれぞれの関係はどうなるのか?
 ねこを飼って、かわいがり愛玩した「人」の方は「ないた」のに、ねこは「1回もなきませんでした」というにはなぜ?

 「しんで」、「いきた」というコトバから、たぶん多くの日本の大人は「輪廻転生」という仏教語を連想してしまうだろう。私はまず連想した。
 『新・佛教辞典 増補』(誠信書房)を引くと、「輪廻」はサンスクリット語の「サンサーラ」という語の訳であり、「流転」とも訳すという。「インド古来の考え方で、人間が生死を繰りかえすことをいう(転生)。」という意味である。その考えが仏教にも取り入れられた。「仏教では、三界(欲界・色界・無色界)・六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)に生死を繰りかえすことをいう。」と考えられてきた。かつては、六道を廻ることが、文字通り人間が畜生にも、餓鬼にもなるという転生が信じられていた。尚、この辞典には、「六道は現代的に考えれば、怒り、貪欲、愚痴、争い、喜悦などの意識の段階を出入りすることを指し、そうした出入りを繰りかえすのが人間ということになる」という解釈も加えてある。

 このとらねこは、輪廻(転生)したが、とらねことしていきたと記されているので、仏教でいう畜生道を外れていないことになる。仏教の輪廻観でとらえたら、どう解釈できるか、という面白さが加わる。このストーリーからは逸脱するかもしれない。
 絵本では、ねこがねことして生き死にを繰り返すということにとどまる。だが、この輪廻(転生)という視点を加えること自体が、古来からの人間のものの見方、考え方をここに反映していると言えるのではないか。絵本やアニメの世界に、「争い」という観点があたりまえの如くにストーリーに組み込まれているのと、同様に。

 この絵本では、まずとらねこが「しんで、いきた」その100万回の繰り返しの中のいくつかを語っていく。だれのところで生きたかの事例である。
 とらねこにとっては、王さま⇒船のり⇒サーカスの手品つかい⇒泥棒⇒ひとりぼっちのおばあさん⇒小さな女の子という形で、変転と飼い主が変わっていく。
 そのそれぞれのとらねこの生きた場面では、書き方が一定のパターンを繰り返している。この点も、「繰り返し」ということが、無意識のうちにリズムを生み出していく。絵本を読む、あるいは絵本を読み聞かせられた子どもたちには、一つのお話からとまどいなく、余分なことを考えずに、その枠組みに乗っかって絵、様々なシチュエーションでの想像を拡げて行きやすく工夫されているように感じる。
 そのパターンを抽出してみよう。

  あるとき、ねこは○○のねこでした。ねこは、○○なんかきらいでした。
  ○○は、****にねこを、つれていきました。
  あるひ、ねこは、・・・・・・して、しんでしまいました。
  ○○は、~~~のねこをだいて、なきました。
  ○○は、・・・・・にねこをうめました。

という話の進め方で、スタイルがパターン化されている。
 いずれでも、とらねこは飼い主を「きらい」だったとだけ記す。そこに理由は記されていない。飼い主は、ねこの死をかならず悲しんで泣いたことが繰り返されている。かわいがったねこを埋葬するというセレモニーがエンディングとなっている。
 飼い主がねこをどこに連れて行ったかを記すだけである。そこでとらねこがどのようにしていたか、どんな思いをいだいたかなどは、右のページの絵を見ながら、絵本の読者が自由に想像力をひろげていける世界である。飼い主がどのように、どんな気持ちで歎き悲しんだかの想像も同様である。どのようにねこを埋めたのかという状況の想像も読者に委ねられている。howの要素は読者の想像に任される。whyの要素はストーリー全体を通じて読者が考えるか、直観的に感じ取ることに委ねられていると言える。

 それぞれの場面では、○○の部分は飼い主ひとりしか登場させていない。その家族や周りの人は現れてこない。この文脈で考えると、とらねこが100万回、それぞれ1人の飼い主との関係で生きそして死に、100万人の飼い主が泣いたということになる。
 となれば、あるときのとらねこがどれくらいの期間を生きたかもまた、読者の想像力に任されている。それは数日かもしれない、数年かも知れない、数十年かもしれない。結果的に通算して「100万年もしなない」という時間の長さが結論としてまず表現されたようである。

 その先で、場面がターニング・ポイントを迎える。次のように、作者はとらねこの境遇を切り替える。

  あるとき、ねこは だれの ねこでもありませんでした。
  のらねこだったのです。

いままで飼い主がいたというとらねこがのらねこになったのです。しかし、「ねこは はじめて 自分の ねこに なりました。 ねこは 自分が だいすきでした。」に場面が激変する。つまり、とらねこの境遇は、飼い猫から野良猫に。一方、とらねこの感情の在り様もまた激変する。「飼い主キライ!」から「自分ダイスキ!」へと。
 そこには、とらねこの主体性と自我の観点に光が投げかけられているのではないか。愛玩動物という位置づけで、他律的に受け身的に生きた繰り返しとの決別であり、自分で自分のことを考えるという存在への自覚の芽生えでもあるのだろう。
 絵本を読む子どもたち、読み聞かせられる子どもたちには、こんなことは関係のない話だろう。飼い主との関係が切れた、自由になったとらねこの自由さの側面に子たちの心が向かうかもしれない。このあたりに、一つ子どもから大人まで、そのメッセージを味わえるという奥行きを持っていると言える。
 こんな理屈っぽいことを抜きに、ただ楽しめばいいのかもしれないが。

 この後、絵本はおもしろい展開をする。ステップだけ触れておこう。
 第1段階 多くの雌猫がとらねこのお嫁さんになりたくてアプローチ
      とらねこの対応が語られる
 第2段階 とらねこに見向きもしない白い美しい雌猫の登場。
      とらねこがどういう行動をとるか。子どもも大人も楽しめる。
 第3段階 「ねこは、白いねこの そばに、いつまでも いました。」
      子猫が生まれ、子猫が巣立って行く。とらねこと白いねこは年をとる。
 第4段階 白いねこが死に、とらねこが死ぬ。
このステップの最後は、次の一文である。
     「ねこは、もう、けっして 生きかえりませんでした」

 この後半での私がキーセンテンスになっていると感じるのは、次の文がいくどか繰り返されていくことである。

   白いねこは、
   「そう」
   と、いったきりでした。   というのが3回と、

   白いねこは、
   「ええ」
   と、いったきりでした。   というのが2回である。

「ええ」と「そう」。短いコトバの中の、意味の広がりと奥行きは読者の感性、解釈に委ねられている。

 このストーリー、「100万年もしなない」とらねこが、「もう、けっして生きかえらない」状態に至る物語である。生き返らないという状態が、ハッピーエンドとなるお話である。

 輪廻の世界を脱して涅槃に至る物語。白いねこは、さしずめ観音菩薩の化身であろうかという読み方をしたくなる。こんな解釈、子どもたちは考えないよね、ゼッタイ・・・・。

 絵本のカバーに2つの書評文が掲載されている。その一つのなかに、読者がこの絵本を開いてみて、「おもしろいと思ってみればよいと思う」「それぞれに受けとめられるふしぎなストーリーでもある」と評されている。

 あなたなら、この絵本、どのように読みますか? 開いてみてほしい。

 ご一読ありがとうございます。

作者について、ネット検索してみた。情報を一覧にしておきたい。
佐野洋子  :ウィキペディア
佐野洋子 著者プロフィール :「新潮社」
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