遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『墨龍賦』 葉室 麟  PHP

2018-03-11 10:27:16 | レビュー
 2017年4月、京都国立博物館開館120年記念特別展覧会「海北友松」が開催された。
 本書は同年2月に単行本として第1版第1刷が発行されている。振り返ってみると、奇しくも同じ年に本書が先行して出版されていた。この単行本の表紙には、京都の建仁寺蔵の「雲龍図」の部分図が使われている。
 
 こちらに引用しご紹介するのは5月中旬に「海北友松」展を鑑賞した折に平成知新館前に置かれていた箱型の大きな展覧会への誘いの掲示板である。
 鑑賞後に購入した図録を見ると、これらの双龍は、建仁寺大方丈の南東側にある「札之間」の北側と西側の襖に描かれた水墨画である。展覧会では海北友松筆の別の雲龍図の展示も併せて鑑賞できた。しかし、やはりこの建仁寺蔵の「雲龍図」は代表作にふさわしくその迫力は秀逸だと感じた。

 この歴史小説は海北友松の生涯を描いている。そして、全体構成の二重構造がおもしろい。京都に住む絵師小谷忠左衛門という名前が「序」の冒頭に登場する。まず、私の第一印象は、この本は海北友松を書いている筈なのに、小谷某って誰? だった。不敏にして私はこの名前自体の記憶がなかった。
 名も無い絵師として、35歳まで京で過ごしていた小谷忠左衛門が、二代将軍秀忠の没後、間もない頃に京都所司代に呼びだされ、春日局の召し出しということで、急遽江戸に赴く。そして春日局に対面する。忠左衛門は、春日局から海北友松のことを語り聞かせられるという導入になっている。
 そして、この巻末は、春日局の話を聞き終えた忠左衛門のその後を簡潔に記して擱筆している。忠左衛門は、春日局により徳川家光への推挙を得て、江戸に屋敷を与えられ海北家を再興し、友雪の号を用いるようになったという。海北友雪と言われれば、少しはわかったのに・・・・というところ。
 2009年京博で「妙心寺」展が開催された。手許にある図録を見ると友雪筆「雲龍図」が展示されていたことを再認識した。妙心寺には海北友松の作品も蔵されている。もっと身近には、祇園祭の宵山で「八幡山」を訪れる度に海北友雪筆「祇園会後祭山鉾巡行図」(六曲半双)の屏風絵を見ていることでこの絵師への親近感がある。
 拙ブログ記事でこの屏風絵を少しご紹介しています。こちらからご覧いただけるとうれしいです。( 観照 [再録] 祇園祭 Y2014・後祭 宵山 -6 八幡山 )

 回り道をするような描き方をしたのは、この歴史小説と大きく関わるように思うからでもある。
 本書の印象は、まず第一に海北友松の伝記小説であるとともに、安国寺恵瓊の生き様を併せて描き、友松と恵瓊の関係を一つの軸に描き挙げていると感じる点にある。同時期に、友松と恵瓊は東福寺に属し僧として修行の身だったという。この両者の関係を私は初めて知った。そして、本書で言えば最後のステージになるが、安国寺恵瓊が慶長年間に建仁寺の復興に乗りだしていたという。そこに友松が訪れ、建仁寺の襖絵や障壁画を描かせて欲しいと頼んだことが契機になり、恵瓊が快諾したとする。その結果、建仁寺に友松の作品が現存する契機になったようだ。
 方丈を飾る絵の内の一つとして、完成した「雲龍図」を数ヶ月後に恵瓊が見て瞠目したシーンを著者はエピソード風に描き込む。
(恵瓊)「まことに見事じゃ、しかし、何とのう、懐かしく思えるのはなぜであろうか」
(友松)「それはかつて恵瓊殿が会われたことがあるからであろう」
  ・・・・・ 略 ・・・・・
(友松)「この絵には武人の魂を込めました。されば、恵瓊殿がこれまでに会った武人たちを思い出されたのではございませんか。たとえば、山中鹿之助殿、清水宗治殿などでございましょう」
 友松のこの説明に対し、恵瓊はこの絵の双龍に込めた武人の魂とは、明智光秀と斎藤内蔵助であろうと尋ねる。著者はこのシーンを次のやり取りで締めくくる。
「いかんと言っても、もはや描いてしまったものは、いかんともしがたいでしょう」
恵瓊はおかしげに笑った。友松はうなずいた。
「わたしは、絵とはひとの魂を込めるものであると思い至りました。この世は力ある者が勝ちますが、たとえどれほどの力があろうとも、ひとの魂を変えることはできません。絵に魂を込めるなら、力ある者が亡びた後も魂は生き続けます。たとえ、どのような大きな力でも変えることができなかった魂を、後の世のひとは見ることになりましょう」(p260)
 この双龍の解釈に友松の言として著者の思いも込められていると受け止めた。片方だけで無く、双龍を眺めることそのものに一つの意味があるかも知れない。そんな気がしたので、上掲の画像を加えてみた。
 著者はこの歴史小説で、東福寺の僧海北友松が生き方の選択に対し内心で葛藤するプロセスを描き込んで行く。そして行きつく先として友松は絵師となる生き方を選択したと。「絵とはひとの魂を込めるものであると思い至りました」と友松に語らせる。そこまでのプロセスを描き出すことがこの歴史小説の一つのテーマなのだと思う。葛藤と苦悩の先に見出した自己存在の発露としての孤高の画境である。
 絵師となる決意を友松がするまでの内心の葛藤の一面に、絵とは何かという問いがある。この側面を著者は友松と狩野派との関わりという形で描き込む。友松は兄に言い渡されて、仏門に入る。東福寺で修行することになる。ここで友松が描いた絵を見た狩野永仙(元信)が、東福寺の住持に友松の絵師としての素質を発見し、絵を学ばせるよう頼む。それで、友松は元信の弟子となる。時折東福寺を訪れる幕府御用絵師・狩野元信に見込まれた友松は絵に精進していく。しかし、友松の描いた龍図を元信は見て、狩野派がある限り、絵師にはさせんと断言する。その後、元信から永徳が狩野派を継承すると、永徳もまた友松の絵を見にくる。そこから、永徳と友松の関係が始まって行く。この二人の絵に対する考え方と技量について、両者の対立、葛藤、協働、並びに一方で互いに認め合う局面というプロセスを織り交ぜながら、やはり異なる道を歩む二人の存在を描くことを通して、著者は友松の画境に迫る。興味深いアプローチである。還俗してから絵師の道に入った友松は、かなりの期間永徳の許で、狩野派の下絵を描く絵師としての生活を続けていたということをこの歴史小説から知った。友松が独立した絵師として頭角を現すのは60代からのようである。

 海北友松は己の視点を通して、彼の生きた戦国時代の様々な人々の生き様を見つめる。織田信長、豊臣秀吉、毛利一族などではなく、明智光秀と斎藤内蔵助に武士の姿、魂を見出して行くことになる。それは絵師として生きる選択をする友松の前段となるプロセスに重なる。この側面の経緯を描くというのがこの歴史小説でもう一つのテーマになっていると思う。それらは友松が絵を学ぶために取る行動プロセスと裏・表の関係となって結びついている。恵瓊が関わりを持ったいくつかの戦の背景部分・裏話を、恵瓊と友松の関わりを通して描かれて行くところが興味深い。なぜなら、恵瓊は友松にスパイまがいの役割をくり返し頼むという場面が組み込まれて行くのだから。また、その依頼に友松がどのように対応したかが読ませどころにもなっていく。

 この小説が二重構造になっていると述べた。それは春日局の行為に表象されているように思う。徳川家光の乳母であるお福が、春日局として大奥で権勢を持つ存在になっていったという知識はあったが、お福が斎藤内蔵助利三の子だったということを、この小説の説明で初めて知った。
 この小説では、斎藤内蔵助が本能寺の変後に捕まり処刑された事実を記した後、友松が茶の湯の友である真如堂の住職、東陽坊長盛の許を訪れた折りに、長盛の示唆を受け、斎藤内蔵助の遺骸を処刑場から奪取しに出かけ、寺に葬るという行動を描く。春日局は後に、友松の子に対し、この時の恩義に報いるという構図になっている。

 上記図録の巻末に友松関連事項を記した「年表」が載っている。これを読むと、友松59歳までの年表部分に直接友松関連での史実として記されていることはごくわずかである。 天文2年(1533)に友松が海北全右衛門尉綱親の子として生まれたこと。3歳の折に、父が多賀城での戦で討ち死にした事が契機で、友松が東福寺に喝食として入った可能性。天正元年(1573)友松41歳、織田信長が浅井家を滅ぼした時に、友松の兄が討ち死にしたこと。天正10年、友松50歳のとき、粟田口で磔となった斎藤利三の遺骸を奪い、真如堂に葬ったという伝承があること。これだけである。そして、友松27歳時点で狩野元信が没し、58歳時点で永徳が没したという史実。永徳の死により友松が狩野派を離れた可能性。これが付記されている。

 つまり、この歴史小説は、友松自身についての史実が少ない期間を主に扱い、その戦国の世の中で東福寺の僧としての生活から還俗して絵師としての生活に転換して行った友松を描き出す。フィクションを加えた著者の想像力が生き生きと羽ばたいている。
 東福寺に入り、そこで武術を鍛錬しつつ、いつしか還俗し武士としての生き様をのぞみつつ、一方で絵の道に精進し、絵とは何かを追究するという2つの生き方の間での葛藤を続けた姿がそこにはある。武術で鍛錬した力が、騒ぎに巻き込まれた場面に友松が介入することで斎藤内蔵助との面識ができ、明智光秀と出会う。一方、恵瓊との出会いが中国地方での戦と友松の接点を生み出していく。それが、雪舟の絵を友松が見聞する機会にも繋がる。東福寺の僧となっていた天雲と恵瓊を介して出会う。その天雲は還俗し、尼子勝久として尼子の再興を目指す。天雲との出会いが、友松を山中鹿之助と面識を持つことへと繋がって行く。石田三成の一行に加わり九州への見聞を拡げることや、独立した絵師として活躍を始めた友松の晩年に、宮本武蔵が絵を学ぶためにしばし逗留したというエピソードまで書き込まれている。そして友松はその逗留の反面の意図を見極めていたとまで記しているから楽しい。
 友松の生涯という伝記小説から、安国寺恵瓊という人物に波紋が広がっていく。
 著者・葉室麟が生きていれば、ひょっとしたら、安国寺恵瓊を直接扱い、別のフェーズでその生き様をストーリー化する構想を持っていたのではないかと思いたくなる。

 海北友松筆の「雲龍図」、やはり惹きつけられる。

 ご一読ありがとうございます。


本・書籍ランキング
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。

本書からの関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
東福寺 ホームページ
建仁寺 ホームページ
建仁寺方丈障壁画 雲龍図襖 海北友松  :「Canon 綴TSUZURI」
海北友松  :ウィキペディア
海北友松  :コトバンク
海北友松  禅宗祖師・散聖図  :「静岡県立美術館」
「海北友松」代表作  :「Art & Bell by Tora」 
開館120周年記念特別展覧会 海北友松 :「Internet Museum」
海北友松展  :「THE SALON OF VERTIGO」
安国寺恵瓊  :ウィキペディア
安国寺恵瓊  :「コトバンク」
安国寺恵瓊  :「年表でみる戦国時代」
毛利家の外交僧安国寺恵瓊はなぜ関ケ原敗戦で斬首されたか? :「歴史好きのつぶやき」
広島・安国寺恵瓊で知られる安芸安国寺(不動院)と二葉の里、歴史の散歩道を巡る旅
  :「ニホンタビ」
尼子勝久  :ウィキペディア
尼子勝久  :「コトバンク」
尼子勝久  :「年表でみる戦国時代」
春日局  :「コトバンク」
春日局(齋藤福)~江戸城大奥での栄華を極める :「戦国武将列伝Ω」
海北友雪  :ウィキペディア
海北友雪  :「コトバンク」
源平合戦図屏風 海北友雪  :「東京富士美術館」
八幡山の屏風 海北友雪 祇園会後祭山鉾巡行図屏風  :「八幡山」
第3章「徒然草を読む」 海北友雪《徒然草絵巻》 サントリー美術館 徒然草 美術で楽しむ古典文学  :YouTube

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)



本・書籍ランキング
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。

徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『大獄 西郷青嵐賦』   文藝春秋
『嵯峨野花譜』  文藝春秋
『潮騒はるか』  幻冬舎
『風のかたみ』  朝日新聞出版
===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新5版(46+4冊)2017.7.26