遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『等伯の説話画 南禅寺天授庵の襖絵』 須賀みほ  青幻舎

2015-11-03 09:37:19 | レビュー
 この表紙は、天授庵の襖絵の一面に描かれた「南泉斬猫図(なんぜんざんみょうず)」と呼ばれる禅機図の一部、猫をクローズアップしたものである。
 この場面の襖絵が見開きで大きく写し出されている前のページに、著者はこの禅機図のシーンをこう説明している。この有名な説話の経緯を著者が文に書き表している。その部分の前半を引用する。

 ある日、東西両堂の僧らが一匹の猫をめぐって争っていた。
 そこに行き合わせた南泉禅師は、猫を片手に取り上げてもう一方の手に刀をかざし、こう言った。
 「わたしを納得させる一言を何でもいい、言ってみろ。さもなくばこの猫を斬る」
 だが誰も言葉が出ない。
 やむなく南泉は皆の前で猫を斬った。

 この表紙の猫は、南泉和尚がいま正に猫を斬ろうする直前のシーンに描かれた猫。
 この後、南泉が愛弟子・趙州にこの話をした時に趙州がとった行為が、後半として文で説明され、その襖絵一面が見開きの襖絵の次のページに載せられている。そして、また、文章で南泉と趙州にまつわる別の逸話が紹介された後、この禅機図の部分拡大写真がそれぞれ見開きで掲載されていく。

 他もそうだが、クローズアップされた部分図は、襖全体図を見た後に眺めると、一層に興趣が湧く。そこに描かれた僧や事象の迫力におされる感すらある。

 本書は、襖絵の全体図とクローズアップした部分図の写真が数多く掲載されている。それら襖絵の間に上掲のように著者の解説文がおりこまれ、相乗効果が発揮されていく。その文とは、該当箇所の襖絵に関わる襖絵構成上の説明、襖絵の背景に関わると考えられる和歌、漢詩などを使っての解説、禅機図に描かれた説話・公案の解説などである。

 この本のおもしろさの一つはページが打たれていないことにある。
 そして、まとまりのある襖絵全体の面を一列に見開きで写し出し、その襖絵に付された名称が、本書の章立てとなっている。章番号などはない。つまり、襖絵をどこから見始めてもよいということにもなるのだろう。

 本書のタイトルに「等伯の説話画」と記されている。巻頭で著者は、「それは物語の場をかたちづくる、ナラティブアートとしての襖絵である」と説明する。ナラティブアートという私には見慣れない用語をネット検索で調べると、「過去の出来事の一場面やこれから起こりうるであろう事象を、具象的に描く表現方法」(現代美術用語辞典)とある。

 天授庵には長谷川等伯筆の襖絵が32面あり、すべて水墨で一部淡彩がほどこされた絵である。この本は、これら32面の襖絵の記録撮影と造形研究という5年間の成果を基にしたものだそうである。本書は2015年4月15日に初版が発刊された。後掲のように、2015年3月末に、デジタルで複製した等伯筆の襖絵が南禅寺天授庵に奉納され、敷地内収蔵庫に保管されていた現物の襖絵が、デジタル版襖絵で天授庵本堂を再び飾ることになったのである。
 本書の本文に記載はないが、読後に調べて見ると、ハッセルブラッドのマルチショットを用いた記録撮影が進められたという。本書の写真はこの機材を使ったものだろう。「中判カメラの世界で最高の高精細を誇る2億画素のカメラ、ハッセルブラッドのH5D-200cMS」という説明がネット掲載のページにあった。

 この襖絵は、東に枯山水庭園を眺めて天授庵本堂の東側の南北方向に3室が並ぶそれらの部屋を飾るものだそうである。非公開だったので詳しくは知らなかった。本書で全体のイメージが浮かんできた次第。建物を中心にしてみると、これら襖絵は次の構成になっている。

  北の間  商山四皓図  中国の故事を描いた図     8面
  中央の室 禅機図    禅師の説話をあらわす図   16面
  南の間  松鶴図                   8面
 
 本書では、「商山四皓図」「松鶴図」「禅機図」という章立てで構成されている。そして、禅機図は、「懶瓚煨芋図(らんさんわいうず)」「南泉斬猫図」「五祖・六祖図」「船子夾山図(せんすかっさんず)」という4つの説話から構成されるが、この順番で解説されていく。 

 商山四皓図を等伯は大徳寺の真珠庵にも襖絵として描いているそうである。四皓とは鬚も眉も白くなった4人の老隠士を意味し、東園公、夏黄公、用理先生、綺里季のことだとか。秦末に政乱を避けて商山に向かう姿が描かれている。4人がそれぞれ被る帽子のスタイルが異なっているのがおもしろい。それぞれが跨がっているのはその耳の形状から驢馬のように見える。ここでは商山の地域の自然を詠んだ王維と裴迪の漢詩が紹介されている。
ゆったりとした四皓の移動風景である。

 松鶴図は、ポピュラーな題材である。「屈曲する松の幹や枝と、鶴の首から胴にかけての線がつくりだすS字形の呼応は、襖や屏風の立体的構造の中でことに美しい構成をかたちづくる」という説明には、なるほどと思う。鶴の胴は淡く彩色されていたのだろうか・・・・、写真では胴部が判然としなくなってきている。経年変化の影響がでているようだ。じっとみつめていると、おぼろに胴部の輪郭がみえるように思う鶴もある。
 ここでは、市原王と紀貫之の和歌及び許渾の漢詩の一節が、松鶴図の意図に照応するものとして紹介されている。
 詩歌に造詣の深い人々は、この松鶴図を見ながら、和歌や詩文と等伯の描く景物のクロスオーバーを楽しみ、その余韻を愛でたのかもしれない。

 4つの場面を描く禅機図は、それぞれを眺めてみるだけでは、そのもつ意味がわからない。ここに記された解説にある説話や公案の内容を知り、理解していてこそ、この描かれた場面の奥深さにふれられることがわかる。近現代絵画と中世・近世絵画の鑑賞視点の違いが身近に体験できる書といえる。
 禅機図に付された解説文はこれだけ読んでいても、けっこう興味深くおもしろい。禅の世界の一端にふれることができると思う。
 
 本書の襖絵の解説として付された文のすべてではないが、そのうち和歌、漢詩、説話など主要なものに、英文での翻訳が併記されているのも大きな特徴となっている。日本人あるいは日本語の読める人だけでなく、諸外国の人々にも英語をコミュニケーション・ツールとして、この書を楽しみ、襖絵を鑑賞できる。

 尚、和文と英文翻訳の対比を試みるのも、副産物としておもしろいかもしれない。
 松鶴図のセクションの説明に引用されている許渾の漢詩の一節を一例として引用してみる。

 青山に雪あって松の性を諳んず
 碧落に雲なく鶴の心に称へり    --許渾

 これに付された解説文は;
 白雪つもる山、瑞々しい緑をたもつ松に、その強さをおもう。
 雲一つない青空、舞う白鶴の姿に、その清らかさをみる。

 付された英文への翻訳は:
 On the snow covered mounain, only the pine trees are evergreen;
The sudden realization of the power of the eternal.
Under the clear blue sky dances a handsome crane;
For the first time the joy of wisdom is celebrated.
by Xu Hun


 私が特に惹きつけられたのは、襖絵の部分拡大図にみる「目/眼」の描写である。
 人物と動物の目/眼が生み出す顔の表情に実に引きつけられる。
 まさに「目は口ほどにものを言う」という言葉を連想した。その実例がここにある。
 
ご一読ありがとうございます。

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本書に関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
ナラティヴ・アート (Narrative Art) :「artscape」(「現代美術用語辞典」)
インスタレーション (Inatallation)  :「artscape」(「現代美術用語辞典」)
天授庵(南禅寺塔頭) :「京都観光Navi」
天授庵  :ウィキペディア
長谷川等伯(信春)とは :「石川県七尾美術館」
等伯の作品2 :「長谷川等伯」(七尾商工会議所)
 このページに天授庵所蔵「禅宗祖師図襖」(南側四面、北側4面)及び「商山四皓図襖」(西側4面、南側4面)の写真が掲載されている。
 一点の謎は、ここに掲載の「禅宗祖師図襖」南側四面の左端にある「懶瓚煨芋図」を見ると、なぜか上掲本の同図とは人物の向きが反転していることに気づいた次第。襖の引手が明確なので、左の2面が反転した図になっている・・・不思議。
速報 等伯のふすま絵、デジタルで複製し奉納 南禅寺塔頭の天授庵
  2015/3/31 13:09   :「日本経済新聞社」
等伯・墨のコンポジション─南禅寺天授庵襖絵 研究調査報告展と記念クロストークイベント   :「HASSELBLAD」
商山四皓  :「画題wiki」
絹本著色文王呂尚・商山四皓図〈/二曲屏風〉:「文化遺産オンライン」
商山四皓・文王呂尚図屏風 :「e國寶」
曽我蕭白「商山四皓図屏風」の謎 :「My Favourite Rugs and Kilims」
五祖・六祖図 狩野永真 :「東京文化財研究所」
重要文化財 禅宗祖師図 天授庵方丈障壁画  :「南禅寺」
第五節 南泉斬猫  禅語録の諸相 pdfファイル :「花園大学国際禅学研究所」
第九則 南泉斬猫  従容録  :「仏とは何か」(東山寺)

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