遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『常在戦場 家康家臣列伝』 火坂雅志  文藝春秋

2015-06-14 22:54:29 | レビュー
 本書は、副題に「家康家臣列伝」とあるように、川家康の重要な家臣について扱った短編作品集である。ただし、2作品は、家康の「家臣」とは呼びがたい人物を扱っている。だがまあ、大勢としては家臣列伝としておけるというところか。
 最初に、短編作品のタイトルと誰を主な登場人物、つまり家康家臣として取り扱っているかを一覧にし、一行コメントを付しておこう。目次に番号はないが、仮に番号をふっておきたい。

1. ワタリ    鳥居彦右衞門元忠  伏見城落城の折に、城中で割腹する生き様
2. 井伊の虎   女武者・井伊直虎  井伊家発展の陰の存在だった人物の生き様
3. 毒まんじゅう 石川数正  家康の重臣の一人だったが秀吉側に出奔した生き様
4. 梅、一輪   大久保忠隣 大蔵藤十郎の登用と政争の渦中に入る事が破滅の因に
5. 馬上の局   家康の側室・阿茶  戦場・馬上での活躍。家康のよき相談相手に
6. 川天狗    角倉了以  保津川の開疏、富士川の開疏、高瀬川の開削に邁進
7. 常在戦場   牧野忠成  一度死に、新たに生まれ変われの命に従った生き様

ご覧のように、4と5は普通にいう「家臣」の範疇からはずれると思う。しかし、内容的には准家臣的な働きをすることになる。列伝として採り上げるに適う切り口でこれらも作品が仕上がっている。家康の視点でみれば家臣と同列になるだろう。
 
 本書のタイトルは、7つめの短編の題がそのまま利用されている。家康が将軍秀忠に残した遺言により、最終的には越後国長岡藩の初代藩主となった牧野忠成が藩是とした言葉が「常在戦場」だったという。この作品の末尾で、著者はこの語句の意味をこう記している。「その真の意味は、たとえ合戦場で華々しく手柄を挙げることがなくとも、『手柄は人生のどこにでも落ちている』」ということだとする。それは忠成の生き様を色濃く投影した言葉なのだという視点で、忠成の生き様が描き出されていて、こういう武士も居たのかという思いが残る。家康のしたたかさを感じさせる一編でもある。
 忠成の意味する「常在戦場」は、形を変えて他の6つの作品にも共有されていると見る事ができるだろう。

 それでは、作品毎に読後印象を多少まとめておきたい。

 これらの作品を、家康家臣群の伝記としてとらえれば、十分な予備知識がないので、どこまでが事実でどこから著者の創作が加わわているのかはわからない。フィクションという次元において、人物像の本質に迫り、鮮やかに人物像を切り出したものとして受け止めた。そこには、一面の真実が現れているように思う。
 家康の重要な家臣たちを列伝として個々に描くことを通して、間接的に政治家・家康像を炙り出している局面がある。著者は、家康こそが「常住戦場」を強烈に意識していたことを、裏のテーマとしているのではないか。常住が戦場である故に、常にそこには戦略・戦術があり、冷徹な判断が伴っている。己の「まつりごと」思考を軸に敵にも味方にも、重要な家臣たちにも対処していく家康の生き様である。

1. ワタリ
 戦国時代、諸国を渡り歩いた商工業民をワタリと呼んだという。鳥居氏はもともと紀州熊野三山の山伏だったといわれ、ワタリの出身だとする。その鳥居氏が矢作川の下の渡りに住みつき舟稼ぎ、馬借などで経済力を蓄える。元忠の父が、三河領主二代にわたって仕えていたという背景が基盤になる。父の命で、駿府に人質となっている10歳の竹千代(後の家康)のもとで仕えるために、13歳の元忠が駿河に出向いたときの対面場面からストーリーが展開する。
 「おれはモズを飼い、狩りができるように仕込んでいる」という竹千代の得意げな言に当初元忠は失望する。しかし、竹千代の本音を理解できるようになると、竹千代と元忠の絆が深まっていく。そのプロセスが興味深い。元忠が鳥居氏の経済力とワタリの情報網を駆使して、時代を読み家康のサポートをしてく生き様が簡潔に描かれている。
 元忠が家康に終始仕えたのは、己の夢のためだったとするところがおもしろい。一方、家康が「鳥居彦右衞門の功、大なり」と言いつつ、「ゆからぬ者」と評していたというのも実におもしろい。本作品の最後の一文は、「経済力を持ち、あらゆる情報を握っていた鳥居元忠は、家康にとってかけがえのない存在でありつつも、まさにゆからぬ者にほかならなかった」である。

2. 井伊の虎
 「遠江国司藤原共資(ともすけ)の養子共保(ともやす)が、井伊谷に土着。城山の地に居館を構えて、井伊氏を名乗ったのがはじまりとされる。以来、井伊氏は遠江国の代表的な国人領主として、井伊谷に連綿として長い歴史を刻んできた」という。
 井伊家第22代が井伊直盛であり、世継ぎの男子はできず、姫を得た。その姫はお直と名づけられる。お直が5歳の折、お直を生んだ母が流行病で死ぬ。その後、直盛は独り身を通す。その直盛がお直に「この井伊谷の水のように生きよ」と口癖のように言う。「そなたはそなたのままであれ」という意味なのだ。そして、井伊家の宗家として生まれたお直に、井伊家を守り抜け、それがつとめだと語る。
 お直8歳のときに、叔父の息子・直親と婚約し許嫁となる。だが時代の趨勢はままならない。その状況が描き出される。出家を決意したお直は大叔父の南渓和尚から、女を捨てよと言われる。尼になるのではなく、僧侶になれと言われるのだ。一種の方便だろう。だが、これが後に、僧侶となった次郎法師(お直)が、井伊家のために還俗し、井伊直虎(つまり女武者)として一旦井伊家の当主の座につくこととなる。そして、虎松を養子とする。
 この作品では、直虎が虎松とともに、家康と対面し、虎松を家康の小姓として仕えさせるまでを描く。虎松の念願は直虎から託された井伊家再興である。虎松は300石で家康に小姓として取り立てられ、万千代と改名する。元服して、直政と名乗る。川軍団の四天王の一人と言われるようになる井伊直政の誕生だ。お家再興を軸に武将としての行動方針を決めた直政の背景を感じとれる作品にもなっている。 
 この作品のテーマは、お直が井伊家存立のために取った行動、数奇な生き様を描くことにあるだろう。こんな凄烈な生き方をした女性がいたとは驚きである。
 
 滋賀県彦根市に、龍譚寺という古刹がある。この寺を訪れたとき、その由緒として、井伊谷にお寺のルーツがあるという記載を読んだ記憶がある。この短編を読み、龍譚寺の背景が生き生きとして来て、一層興趣を感じた。
 浜松市の井伊谷にある龍譚寺に、井伊家霊屋があり、井伊直虎(次郎法師)の位牌「戒名 妙雲院殿月舩祐圓大姉 」が安置されていて、井伊家墓所に井伊直虎の墓も、「妙雲院殿」として建立されているようだ。

3. 毒まんじゅう
 石川数正は、清和源氏の出であり、先祖が石川判官代義兼であることを自慢にしていたという。川譜代の臣であり、家康より9歳年長である。家康が駿河今川家の人質に差し出されるときに、石川数正も供の一人となる。この作品では、数正の内奥にある武家の名門清和源氏の末流という誇りが、駿府の京風文化に親近感を抱かせ、彼の行動を位置づけていく様子を描き込む。後に家康の正妻・築山殿となる瀬名姫を見知ることが契機となって、彼の生涯を変えていく有り様が描かれて行く。無骨者が多い三河武士の中で、京風文化に馴染み弁が立つ数正が、家康の外交官的役割を果たし、それなりに成果をあげていく。しかし、それが逆に三河武士の風土の中では溝ができ、浮き上がった存在になるという一端にもなる。
 家康が、数正を築山殿が生んだ嫡男・竹千代(後の信康)の後見人としたことから、一層数正の生き様は変転していく。秀吉が数正に目をつけるのだ。
 この作品のタイトルは、秀吉が数正を分析して、三成に語る言葉から取られている。
「仕掛けようによっては、あやつは毒まんじゅうでも喜んで食らいつく。忠義、忠義と口では言いながら、ぎりぎりのところで利に誘われる心の弱さがあると、わしは見た。つまるところ、わが身がいちばん可愛い」と。
 このストーリーを裏読みすると、逆に家康が数正の内にある「毒まんじゅう」的要素を知りつつ、数正の動きの先を読みきっていて、数正を使っていた。数正の行動に乗せられたふりをしていたと見ることができるのではないか・・・・とすら思う。
 この作品の末尾の一行「家康にとっては、石川家は、おのが目の黒いうちに潰しておきたい家のひとつであったにちがいない」というのは、意味が深そうに思えてくる。そんな興味深さがある。

4. 梅、一輪
 川家臣団の中で、大久保家は特異な地位を築いていて、大久保党と呼ばれるひとつの族党組織を形成していたとする。その大久保党の支流である大久保忠世の嫡男が、大久保新十郎忠隣である。忠世の家のほうに人材が輩出し、川家臣団で重きをなした。
 忠隣は、家康を守るという一念に徹し、生きるも死ぬも一緒という思いを貫く武士である。
 長篠の戦いで武田勝頼の軍勢を撃破した後に、千曲川のほとりで、忠隣が年のころは十六、七と見える美しい娘・多岐に会釈され、尋ねられたことから、ストーリーが具体的に進展していく。多岐は意図的に忠隣に会釈して、話すきっかけを作ったのだ。それは、父・大蔵藤十郎を忠隣の家臣に登用してほしいということだった。
 大蔵藤十郎は甲州流の金堀り術に長けた人物だった。忠隣は藤十郎に油断のならないものを感じつつ、この男を使いこなすことが、主君家康への忠義につながると信じて、家臣に登用する。この藤十郎が、後に忠隣の推挙で大久保党に加わえられ、大久保長安と名乗り、活躍するようになる。長安は家康の「まつりごと」のために、有益な家臣に成り上がっていく。
 忠隣は関ヶ原の合戦において、秀忠の傅役として秀忠軍に加わり、中山道を進む。軍監として本多正信が目付役に就く。真田昌幸の籠もる上田城の攻略についての戦略において、忠隣と本多正信の間で意見が対立し、確執が深まっていく。結果的に、秀忠軍の関ヶ原への遅参となる。本多正信の自己保身が様々な謀略を連鎖させるという描写が人間臭さを加え、そういう動きをするだろうなと納得させる。興味深い部分だ。
 大久保長安の活躍が、長安の死を境にして、政争という形で忠隣に思わぬ運命をもたらすことになる。この作品は、その経緯を描いていく。

 「まつりごと」の戦略的遂行のためには、家臣の忠義をも切り捨てることが正当化できるのか・・・・。作為的に操作された情報を与えられ、それにより判断を下す形が、大御所家康を誤らせたのか? 「忠義」とは何か? 「忠義」は状況対応型の行動なのか、普遍的行動でありえるのか? 所詮状況次第で「家臣」は道具ということなのか? ・・・・深読みすると、様々なに考える材料を含ませた作品に仕上がっているともいえる。
 さらりと読むだけでも、おもしろい。忠隣と多岐の関わり方が、忠隣という人物を知る重要な要素ともなっているように感じる。
 忠隣が「道白」と号したというのが興味深い。家康はこの号を聴き知っていたのだろうか。

5. 馬上の局
 家康の側室に、こんな行動力のある女性がいたのを初めて知った。著者が想像力を羽ばたかせて織りなした部分があるだろうが、家康の相棒と位置づけられるような側室が居たということ、家康を支えた女性がいたというのが興味深い。
 話は、家康の制止を無視して、小牧・長久手の戦いの戦場に、女武者の姿で毎朝颯爽と現れる阿茶の像を描くところから始まる。この作品の楽しいところは、阿茶の聡明さと、家康の側室が多い中で、家康に対応する己の道を主体的に選び取って行ったところである。家康の心をしっかりとつかむためには、どう行動すべきかを考え、実行した女性を描いた興味深い作品となっている。
 家康に見出され、側室となった受け身的な立場から、家康の重臣的立ち位置に己の生き様を変化対応させていった、またそれだけの能力があった女性として描かれている。
 「そなたは女ながら、男以上に胆力がある。そこらの男どもよりも、武士の血が濃く流れておる。わしはただの女としてではなく、ひとりの人間として、そなたを信頼しておる。暇を取りたいなどと、間違っても申してはならぬぞ」「ともに天下をめざそうぞ」と著者は、家康に語らせている。
 阿茶が生んだ娘が長じて後、家康の手がつき側室になるなど、女・側室としての阿茶の苦悩の側面を描き込みながら、側室の世界を超脱した女性を描き出していて、自立した女性の存在が描かれる。2つめの作品、井伊直虎とはまたひと味ちがう女傑の存在が描かれていて、楽しい。

6. 川天狗
 角倉了以が保津川を開疏し、高瀬川を開削したことは、京都の住人として知っていたが、家康の命令を受けて富士川の開疏を成功させていたことは知らなかった。
 この作品は、角倉了以の異相を冒頭で描くことから始め、権力者にへつらいおもねる大商人ではない了以の立ち位置をまず、ストレートに出してくるからおもしろい。
 「われら商人にとって、目を向けるべきは顧客。市井に生きる民あってこそ、飯が食えるのでございます」と家康に対座して語る了以に、逆に家康が信頼感を抱き、人物を評価し見込むというところが楽しい。
 ある経緯があり、家康の女秘書官的存在になっていた阿茶の局と了以が旧知の間柄になっていたという背景が設定されている。それが事実かどうかは知らないが、そんな人と人の関わりが、了以と家康を結びつける契機になったのかもしれないと思う。
 了以の経歴を一通り語りながら、なぜ了以が河川の開疏・開削という社会事業に己の生きる道を見出して行ったかという点が描き込まれている。ただし、その行動にはちゃんと商人の視点が根底にあり、利他を図るという反面で、自利の利益採算性は合理的に計算され、投資効果が見込まれるという前提があったのがおもしろい。自力で行う事業は世のためになるが、結果的に利益は得るというしたたかさが痛快である。計算された上での、リスクテイクの姿勢がうまく描き込まれている。
 反面で面白いのは、河川の開削事業に対する了以の信念と行動力を利用する家康のしたたかさが間接的に描かれている点である。
 江戸時代において、河川の開疏・開削がどのように実行されたのかを知るのにも役立つ小品である。了以にとっては、利を前提においた、経済構造を変えるための川との戦いという観点が、冷ややかに見る商人との戦いでもあり、常在戦場でもあったのだ。
 京の街中、四条・三条に出るたびに必ず横切る高瀬川が一層歴史的背景を重ねて感じられるものになった。了以という人物に思いを馳せるトリガーとなる作品と言える。
 
 
7. 常在戦場
 事の発端は、大久保忠隣と同様に、秀忠軍に従い、中山道を進んで美濃表に出て、関ヶ原に向かう途中での、信州上田城での秀忠軍の苦戦にある。三河以来の譜代の臣、牧野康成の息子の牧野忠成がこの作品の主人公だ。
 「気性が烈しく、しかも勇猛で弓馬の道にひいでていることから、武辺を好むあるじ家康に愛され、将来をおおいに期待されていた」忠成が、上田城攻めで失策を犯す。真田正幸の詐術・力量を見くびり、軍令を無視して一番駆けをして、敗退する。上田城攻めの失敗が、秀忠軍の関ヶ原の戦場への遅参となる。その結果、忠成は責めを負う立場に追い込まれる。軍監の本多正信は、自己保身を背景に、秀忠に責任がないことを主張し、上田城攻略での失態を牧野らの責任と主張する。己に非がないと信じる忠成は出奔するという行動に出る。
 出奔した忠成が辛苦をなめる経験を経て、父が謹慎生活を続ける大胡城に舞い戻る。待っていたのは、伏見に居る家康からの呼び出しである。家康の前に参上した忠成は、「そなた今日は死ぬ気でまいったな」「ならば、一度死ね」と言われる。一度死んで、新たな忠成に生まれ変われという命である。「死ぬ気になれば、できぬことはあるまい。このわしも、幾たびかの死地をくぐり抜けて、いまここにある。まことの戦いは、死んだと思ったところからはじまるものよ」。そして、京都所司代の板倉勝重に委細は聞けと指示される。ここからが巧妙な展開になっていく。忠成に課せられたのは影働きの道だった。
 それは忠成の武士観を揺るがすものだったが、いくさなき世において、手を泥で汚しながら時勢を変えていくことに連なり、川の天下を実質的に招来することへの加担となることだった。このプロセス展開が簡潔に描かれていく。この部分は、フィクションが多いのか、史実が多いのか、わからないところが興味深い。所詮、闇の部分なのだから。
 忠成が、一度死に生まれ変わって影働きをする展開の中で、後に忠成の正室となる佐和との出会いがあったというストーリー展開は楽しいところである。
 ここにも、家康の巧妙な人使いの一端が描き出されていて、家康のしたたかさが窺える。「まことの戦い」とは何か? それが「常在戦場」という言葉と直結していることは間違いが無い。家康の「まことの戦い」に、忠成が巧妙に組み込まれたということである。 「牧野忠成は、骨身を惜しまずよく働いてくれた。牧野家に厚く報いてやるがよい」と家康は将軍秀忠に遺言を残したと著者は描く。秀忠は、この言葉の真意を知らされていたのだろうか・・・・。なかなかおもしろい作品に仕上がっている。

 ご一読ありがとうございます。
 

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本書に関連する語句をネット検索してみた。一覧にしておきたい。

龍譚寺  :「彦根観光協会」
龍譚寺(浜松市) ホームページ
   井伊直虎(次郎法師) 
   龍潭寺 井伊家墓所図
大久保忠隣  :ウィキペディア
大久保長安事件 :ウィキペディア
第69回 政争に敗れた大久保忠隣(ただちか)の家紋 :「歴史人」
運光院  :ウィキペディア
阿茶局  :「コトバンク」
角倉了以  :「歴史倶楽部」
保津川下りの歴史  :「保津川下り」
角倉了以  :ウィキペディア
牧野忠成(越後長岡藩初代)  :ウィキペディア

インタビュー・対談   :「本の話WEB」
志をいだき、野望を持ち、家康の周りに集まった異才たち
 『常在戦場 家康家臣列伝』 (火坂雅志 著)  聞き手「本の話」編集部


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