遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『売国』  真山仁   文藝春秋

2015-06-05 17:16:22 | レビュー
 検事ものはブログで読後印象を書き始める前に読んでいた和久俊三の赤かぶ検事シリーズと、ブログ記事を書き始めてから読んだ柚月裕子の作品である。赤かぶ検事シリーズはほぼ全作品を読んでいる。和久・柚月両氏の作品は、独任制度のもとで検事の主人公が活躍する作品である。個性的な検事がそれぞれ自らの信条を持ち、検事としての使命に基づ、独自の思考・判断で事件に臨んでいく。 
 それに対し、この作品は東京地方検察庁特捜部の立件捜査活動を扱う。政治家の絡む贈収賄問題で超大物政治家を摘発しようと総力を挙げるという顛末ストーリーである。特捜部の検事ものを読むのは初めてである。そういう点で面白かった。また、この著者の作品自体を読むのも初めてである。

 とはいうもののこの作品は、特捜部が取り組み始めた事件に投入された一人の検事・冨永真一の活動を主体に描き出されていく。つまり、政治家を摘発するための捜査、証拠固めのプロセスで、冨永検事が如何に考え、どのように行動し、どういう成果を積み上げていき、どんな結果をだしたか、というストーリー展開になる。事件としてターゲットになる政治家・橘洋平に逮捕状を突きつけるまでを描く。
 この作品の一つの面白みは、特捜部という組織で動く検事の中で、独任で事件を扱う検事の感覚と法に対する己の信条を生かそうとする冨永の姿勢と行動にあると思う。
 もう一つは、私の読み方が不十分なのかどうかは、読んでいただかないと判断できないことだが、橘洋平が「売国」という観点でグレーゾーンに留まる印象が残る点がおもしろい。なにほどか、闇の中に残す形で一応の結末をつけている感じがする。
 そして、興味深いのは、「構造」という単語に構成という意味合いをも含ませると、この作品が様々な次元で「二重構造」を組み合わせた作品と思える点である。

 まず、ストーリーの全体の展開が、2つのストーリーの同時進行として構造化されている。一つは特捜部が大物政治家をターゲットとして独自捜査を行い、立件を目指す捜査活動プロセスのストーリーであり、もう一つはロケット開発のための研究者集団の活動プロセスというすとーりーである。それは宇宙産業が確立する前段と言えるストーリー。
 前者は上記の通り、冨永真一検事の行動と活躍を軸に展開する。後者は、父親の後姿を見つめ、小さい頃からロケットを身近に感じ、自分でロケットを飛ばしたいと夢みて、修士課程での研究を始める八反田遙である。その遙が相模原にある宇宙航空研究センター(宇宙セン)の寺島教授の研究室に入り、ロケット開発研究のプロセスの語り部となる。つまり、寺島教授を筆頭とした研究室の活動を通して、日本のロケット問題を眺めて行くことになる。遙の父が寺島教授と面識があり、遙の父が寺島にロケット開発の夢を託した男である。寺島教授は、今や日本の宇宙輸送工学系のエース的存在なのだ。彼は、橘洋平が日本における宇宙産業の確立において期待をかけるエースでもある。
 この後者のストーリーの中にも、遙の父の研究に纏わる「売国」の局面が描かれる。これは、様々な研究分野において実際に発生してきた「売国」のシンボリックな一例なのかもしれない。
 この2つのストーリーが最終的に接点を持って行き、エンディングとなる。

 第2の二重構造はこの作品のタイトル「売国」と直接関係する。ここでは、アメリカに日本を売るという意味合いで使われている。そして、「売国奴」を「アメリカに通じ、本来は日本の国益となるものを損ねている者」(p279)という意味で使っている。それが具体的に誰をさすのか、それはどの行為を為した誰なのか。それが問題である。
 日本の国益を損なう事案があれば、不正を抉り出す捜査はいくらでも行う。国破れて正義あり、という信念を標榜する小松一平次長検事。次長検事は検事総長の補佐役である。それが特捜部のめざす立場だと、羽瀬喜一は考えている。
 一方で、世間では親米族と目される橘洋平が考える売国奴の輩である。不正な大物政治家として、特捜部がターゲットにしている当の人物が「売国」の輩が誰であるか、どう対処すべきかを図っているという興味深さがある。

 第3の二重構造は、橘洋平をターゲットに捜査に乗り出した特捜部の組織体制自体から生み出される。
 検事総長が日本初の女性特捜部長を就任させ、実績づくりを狙う。このアイデアはよしとしても、選ばれた岩下希美は、自己顕示欲が強く、検察官としての能力は低い。小松も羽瀬もそう評価する人物なのだ。
 小松が、特捜部の副部長に羽瀬を指名する。小松は、羽瀬が重石となることを期待し、実質的には羽瀬に東京地検特捜部復権のための全権を委ねたいと目論む。特捜部復権のために、若手の育成が鍵だとして、小松は羽瀬に若手2人を選抜し、特捜部で徹底的に鍛えよと言う。選抜される一人が、冨永真一なのだ。
 特捜部のスタートに辺り、この組織自体に二重構造が生み出される。それが捜査活動に影響するようになる。
 
 第4の二重構造は、この作品の構成と言った方が良いかも知れないが、長編小説の中に短編小説が組み込まれた感じの二重構造になっている。任官12年目を迎えていて、東京地方検察庁公判部検事として、冨永真一が扱う「あかねちゃん事件」の顛末譚である。それがこの作品の導入部でもある。冨永が独任の検事として、己の信念と粘り強い証拠固めを行い本領を発揮し、裁判で大成果を出す。冨永の人となりがまず印象づけられる。それが特捜部への異動の原因にもなる。特捜部での捜査活動で、冨永が持ち前の力量を発揮していくことになる。独任の検事の仕事と特捜部という組織で動く検事の仕事という二重構造である。主に「あかねちゃん事件」を扱う第1章「秘密の暴露」だけでも、けっこう楽しめる小品となっている。
 ここの二重構造でおもしろいのは、「検察官になれば誰もが特捜検事を目指すと世間では思っているようだが、冨永は任官以来、一度も特捜部を希望したことはない。」という冨永のキャラクター設定だ。冨永の心中の二重構造である。独任の検事の目で、特捜部の検事の行動を眺めつつ、己の信条を変えずに、己の動きをとるという心理が描かれる。

 第5の二重構造は、特捜部における捜査活動は贈収賄という観点である。国税庁の告発を受けて群馬県の土建会社を脱税で上げたところ、本郷五郎会長宅から使途不明金の用途を示唆するリストが記された5年分の手帳が発見された。そこに端を発している。その手帳の記録が多数の政治家への贈収賄の摘発に繋がる可能性を秘めているのだ。そしてその手帳には本郷と橘が学ランを着てタバコを吸うという若き日の写真が挟まれていた。家宅捜査に立ち会った本郷は隠し金庫からその手帳が発見されると、その後自殺する。
 贈収賄事件の不正を抉り出すという特捜部の捜査は、ここから橘洋平が最重要のターゲットとなる。ここには、何か不自然さがあるのでは・・・・。そんなスタートでもある。
 この手帳がまずキーになるはずなのだが、暗号で記録された内容が容易には解明できない。その解明作業を冨永が課題に与えられるところから始まる。
 この暗号の謎解きプロセスが、この長編の中では二重構造になった短編的小品ともいえる。この部分は、第4の二重構造の2つめとしてもよい。
 特捜部の中での冨永の行動に、別の切り口が加わってくる。幼馴染みで学生時代からの親友・近藤左門から入手した情報が影響を与える事になる。大学卒業後、近藤左門は文科省に入り、今は宇宙開発やJASDAの長期計画を策定する宇宙委員会の事務方を務めているという。その左門に会うために冨永は連絡を取ろうとして取れず、ある経緯で左門のスマホを入手する。そこに厳重にパスワードの賭けられた情報が入っていたのだ。それは左門が検事・冨永に売国奴を告発する情報だった。ただし、検事としての冨永の観点からすれば、立証する証拠が十分には整えられていない告発内容だった。一方で、冨永が関わっている特捜部の立件捜査との交点があるというものなのだ。この左門の情報をどう使うか、そこには検事としての冨永の立ち位置が問われるというファクターがある。
 なぜなら、突如、左門が特定秘密保護法違反の第1号として俎上に上がる事になるのだから。どこからそういう違反告発が提起されてきたのか・・・・様相はこみ入っていく。
 贈収賄による不正政治家摘発のための特捜部の捜査に対し、その捜査に携わる冨永の親友・近藤左門による特定秘密保護法違反告発という影が被さってくるという二重構造である。羽瀬副部長にとっては、寝耳に水という話なのだ。冨永の行動が特捜部の捜査活動を揺るがしかねない局面を匂わせる形となる。
 
 第6の二重構造は、東京地検特捜部の捜査活動という表のストーリー展開に対して、冨永検事に対してという形で、公安が立ち現れてくるという展開である。公安は近藤左門を追う立場、特定秘密保護法違反の捜査という観点で冨永に接触してくる。公安は誰の指示のもとに動いているのか・・・・・。その背景はグレーである。
 不正な政治家の摘発という特捜部の動きに対し、公安となのる人物の動きへの指示はどこからくるのか。ここには、検察庁と警察庁の公安という国家組織の二重構造が読み取れる。その接点は「売国」という接点なのだろう。これらの国家組織の行動の起点となっている指示がどこから出ているのか、それにより「売国」の意味づけがグレーでもあるのだが・・・・。

 いくつもの二重構造が組み込まれた中で、全体のストーリーが展開していく。
 
 プロローグは昭和30年1月10日、橘洋平が、”鎌倉の老人”に呼ばれ、宇宙開発を将来の日本の産業にするための後方支援をせよと課題を与えられるシーンから始まる。
 この小説の最後は、その橘洋平が世紀の告白をすると会見の場を設定し告白をする。その場で逮捕状が出される。逮捕から二日後、入院、治療中の橘が持病の心臓発作で息を引き取る。
 これで終わりではない、冨永が話を伺いたいとコンタクトをとったある人物の遺体が発見され、自殺と殺人の両面から捜査が始まるという状況で終わる。
 この人物が誰か? 近藤左門はどうなったのか? 
 それは、この作品を読んで確かめていただきたい。

 そして、エピローグがくる。エピローグは、意外な結末である。突然に青天の霹靂のような事実が明らかになる。ここにある二重構造は、橘洋平をグレーな様相のままにとどめるものにもなっている気がする。一方、八反田遙を語り部としたロケット開発の研究室の行く末のしめくくりも描かれている。この局面をとらえると、この結末は、橘洋平が”鎌倉の老人”の課題を何とか守り抜いたということになるのだろうか。かろうじて、その方向に歩み出た気はする。
 日本における航空産業、ロケット開発、宇宙探査に繋がる産業の実態はどうなのか。考える材料を提供してくれた小説でもある。

 特定秘密保護法違反の捜査のやり方・・・・これについて、わずかだがその描写がある。もし、こんな形で捜査が進展するなら、恐ろしい法律である。著者はさりげなく、この小説にエピソード風にこの局面を書き加えているだけなのだが・・・・。
 
 久しぶりに、シンボル的な扱いだが、実在の人物・糸川英夫博士の名前をこの作品で目にした。ペンシルロケットという言葉もなつかしい。

 銅像にはこんな碑文が添えられているという。この作品を読み、初めて知った。

   ”人生で最も
    大切なものは
    逆境と
    よき友である
         糸川英夫”
 

ご一読ありがとうございます。

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本書とは直接の関係はない事項も含め、事実情報を少しネット検索してみた。一覧にしておきたい。

捜査について  :「検察庁」
  「特捜部(特別捜査部)」って何ですか? の項目もあります。
特捜部  :「マネー辞典 m-Words」
特別捜査部  :ウィキペディア
東京地方検察庁  ホームページ

東京地検特捜部設立の歴史。 :「日本人は知ってはいけない。」
東京地検特捜部の発足についてーー参考資料(「」ブログ2009/3/9)
    :「哲学者=山崎行太郎=毒蛇山荘日記」
地検特捜部を解体せよ !   :「今この時&あの日あの時」
特捜の歴史  :「トクソウ」
田原総一朗×郷原信郎(第1回)「特捜部は正義の味方」の原点となった「造船疑獄事件の指揮権発動」は検察側の策略だった!  :「現代ビジネス」
徳洲会事件で東京地検特捜部が直面する「諸刃の剣」:「Medical CONFIDENTIAL 集中」

笠間治雄検事総長殿  要請書  検察の在り方検討会議元委員等有志18名

検察庁の歴史的に根ざす構造的腐敗(1)  :「海千山千」
検察庁の歴史的に根ざす構造的腐敗(2)  :「海千山千」
  大阪高検の三井環公安部長の不法逮捕
ロッキード事件が特捜部とメディアの関係を変えた :「法と経済のジャーナル」

内之浦宇宙空間観測所  :「胆付町」HP
糸川英夫博士の銅像が除幕されました  :「胆付町」HP
イプシロンロケット試験機打ち上げ成功 :「胆付町」HP
JAXA 宇宙航空研究開発機構 ホームページ
種子島宇宙センター :ウィキペディア
宇宙開発委員会 :「文部科学省」
  宇宙開発委員会は平成24年7月12日に廃止されました。
宇宙開発委員会について  平成24年7月11日 宇宙開発委員会 事務局 pdfファイル
宇宙開発利用部会  :「文部科学省」
日本の航空宇宙工業 50年の歩み  :「日本航空宇宙工業会」
航空宇宙産業データベース pdfファイル  :「日本航空宇宙工業会」

『売国』わが国の宇宙開発と戦後政治の闇 :YouTube
 真山仁スペシャルトークvol.12  『売国』(文藝春秋)刊行記念トークイベント


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