本作品は6章構成である。
第5章の末尾に著者はこう記す。
「史書は、あるいは歴史の正当性は、常に勝者の側によって作られる。喧伝される。敗者は、歴史の中で沈黙するのみである」(p357)
その少し前に、
「光秀はその才幹はありながらも、秀吉や家康に比べ、人としての愛嬌が足りなかった。だから人がついてこず、肝心なときに天下を取り逃したのだ、と。しかし、果たしてそうであろうか。」(p357)と、問題提起する。
つまり、この作品で「信長は、時が経ってもよほど光秀のことを信用していたものと見える」(p356)という視点から光秀像を描き出した。
13代足利将軍の近臣であり、和泉細川家、従五位下・兵部大輔藤孝(=細川藤孝)の築地塀が崩れ放題の屋敷に居候として身を寄せていた時点から、丹波丹後を基盤に畿内の最重要地域・五ヵ国、計二百四十万石の指揮権を信長から任されるに至るまでの期間を中心にストーリーを展開していく。
第6章は潰え去った光秀に関わる後日談として語られていく。そのことは後でまた触れよう。
この作品のおもしろい点は、光秀が土岐明智氏の長で美濃源氏という名族の貴種だとはいえ、零落した一介の浪人の境遇から、畿内五ヵ国の指揮権を握り後世に近畿管領と称される立場になるまでのプロセスを中心に描く視点である。愚息と称する癖のある破戒僧と剣術家新九郎との関わりが深まっていく経緯を軸としながら話が展開されていく。
その際興味深い点の一つは、愚息と新九郎が当時の世間の価値観を超絶した生き方をしていること。出世をする、金を儲ける、豊かで楽な生活をするという欲望とは無縁の位置に身を置こうとしている人物だということである。もう一つは、愚息が最少限の世過ぎのために骰子(さいころ)賭博で金を稼ぐ。その博打で最後は愚息がほぼ勝つという結果になる。その賭博にいかさまはなく、いまで言う確率論が根底にある。その仕組みの不思議さが愚息・新九郎・光秀を結びつける契機になり、光秀が戦術を練るときに、確率論の思考法を取り入れていくことにもなる。かつその確率論の思考法が細川藤孝や信長にも光秀を介して波及していくこととなる。合理的思考を尊ぶ信長が、確率論的思考に興味を示し、それを己の発想に取りこんでいくのは言うまでもない。
この作品のおもしろさはたぶん愚息、新九郎という人物を創作して史実の空隙にうまく折り込み、光秀の思考と生き様を描いた点だろう。そして大胆な史実解釈へと想像力を飛翔させているのがおもしろい。ひと味違った光秀像を描き出している。
玉縄新九郎時実と名乗る新九郎は、関東の在所を飛び出し、京の都で剣術家として名をなそうとして出てきたが、落ちぶれて京の辻で生活のために追い剥ぎまがいとなっている。永禄3年(1560)春、旅から戻って来た光秀を辻で襲うのだ。襲うと言っても真剣勝負をする形で金品を得ようとする。腕に自信がある光秀は新九郎の力量を見切って、刀を投げ出してしまう。そこに愚息が現れて止めに入る。なぜここに愚息が出てくるのか、そこには骰子賭博が関わっている。
新九郎は、あっさりと大小の刀を渡す光秀に、一つの問答を投げかける。それは愚息から問われて新九郎自身が答えられなかったものである。「一から十までを足し上げた数字は、いくつになる」新九郎が五たび呼吸するうちに正解を出せと光秀に言う。正解が出れば刀を返すというのだ。
今なら大抵の人が学校で習うか聞いたことがある有名な足し算である。そう「1+2+3+・・・・+10は?」即座にガウスのエピソードを思い浮かべた。
光秀は間一髪で正解し、刀を取り戻す。それがきっかけで、愚息と新九郎は後日、光秀が居候する細川藤孝の邸に出向いていくことになる。そこから、彼ら3人の不思議な繋がりが始まっていく。光秀がこの二人の思考法や生き様から様々なことを学び、美濃源氏としての明智氏の名を世に高めるため、土岐明智氏一統のためにと悪戦苦闘し、戦国の世の武士の処世に活かしていくことになる。
光秀が帰宅後、「一から十までを足し上げる」という問題を、妻の煕子に問いかけ、藤孝にもそのことを告げることになる。藤孝はこの話から、愚息に興味を抱いていく。この足し算問題を軸とした人間関係の描き方がおもしろい。
このプロセスで、人が人をどう見るか、どういう関係づくりをするか・・・・著者はそこに人のあり方を問いかけているのではないかと、私は思う。
細川藤孝と光秀が、足利義昭を将軍として擁立していく計画を実行し、各地方の大名に働きかけていく。朝倉氏に話を持ちかけるが、朝倉氏は動こうとしない。光秀が信長に義昭擁立の話を持ちかけることから、光秀の武将人生が展開していくのはよくご存じの通りだ。その史実の狭間において愚息と新九郎が光秀のサポーター的な役割を担うことになる。この二人は光秀の人間性に惹かれているのだ。愚息は細川藤孝とは一線を画している。愚息の視点、価値観から、白黒で人物評価すると、悪人藤孝、善人光秀である。なぜそうか?そこに著者の視点があるとも言える。読んでいただいてのお楽しみ・・・・である。
愚息は「敬うのは釈尊のみ」と発する。原始仏典を囓ってきた立場の僧であり、日本のどの宗派にも属さない孤高自立の破戒僧なのだ。愚息は骰子賭博の原理も彼の地で学んできたという。
義昭を擁立して天下布武の旗印を掲げた信長に対し、近江の六角氏が最初の障害となる。その六角氏攻めにおいて、光秀は難敵・長光寺城攻めで己の力量を信長に知らしめようとする。この時光秀には愚息の骰子賭博の理論が城攻めの戦略思考のベースになる。その展開が興味深いところ。そして、最後の攻略段階で愚息の意見を聞くという形になっていく。そしてこの城攻めの攻略思考に信長が興味を示すことから、信長と愚息の対面に展開していく。俄然おもしろくなる。ちょっと奇想天外なストーリーづくりでもある。二人の対面は、愚息にとっても信長という人物をある意味で鑑定する機会となる。勿論、信長が愚息を評価する機会でもあるが。
信長に対する愚息の熱弁に対して、「そう、西田幾多郎がこの時代に生きていれば、泣きながら手を握ったであろう言葉を吐いた」という一行を記しているという興味深さも余録としてある。
本作品には2つの流れがある。一つは光秀が苦心惨憺しながらもその力量を発揮し、信長の下で出世街道をばく進していくストーリー。もう一つが愚息・新九郎の出会いから始まって、奇妙な共同生活を送る「二人の暇人」(p109)の生き様である。その二人が光秀の人生と関わりを深めていくというのがこの物語といえる。光秀と愚息・新九郎の接点の基軸が確率論でもあるのだ。
愚息と新九郎が瓜生山麓の荒れ寺に住み着き共同生活を始めて半年後の晩秋に、二人は懇願されて麓の里村での略奪居座り強盗を退治することになる。それを契機に、新九郎は剣術を里人などに教え始めるようになり、剣術指導を通じて剣術の理を追究していく。それは新九郎にとっては新境地開眼への道になる。人に問われて、「笹の葉流」と称するようになり、京の都での評判になっていくという展開はおもしろい。
そこで最終章の第6章に触れておこう。
この章は、秀吉の天下統一の7年後に時期が飛ぶ。慶長2年(1597)の晩春から始まる。この頃新九郎は綾小路に道場を開いている。その新九郎が久しぶりに愚息の寺を訪ねる。愚息も年を取り、九州の故郷に戻って死ぬという。そんな二人が、光秀の生き様について語り合うと言う形の展開となる。ある意味、ここで光秀論の一端が語られている。
この章で興味深い記述を2つ抜き出しておきたい。
一つは、故郷に旅立とうとする愚息を新九郎が送ろうとする段階で生じたエピソードの結末における会話の一節である。
「あの性質(たち)の悪さたるや、十兵衛やわしら程度では到底及ばぬ。負けるのも当然じゃ。今回ばかりは骨身に沁みた」(これは、愚息の言。新九郎に対し、細川藤孝のことを俎上にのせている。)
もう一つは著者の思いであろう。著者は光秀の遺体が三条河原に晒された事実について、その遺体が光秀だったかどうかには疑問を呈し、判断を保留している。その上で本書の締めくくりにおいて、光秀についてこのように言及している。
「ただ、その最晩年に、春の日を愛でる心境に一度でもなれていれば、せめてもの救いだったのではないか。咎は咎としても、だ。」
最後に、印象深い章句をご紹介しておきたい。
*何かを得るに足る能力とは、頭の出来不出来ではない。その資質、あるいは気質なのだ。 p342
*ちなみに光秀が丹波を治めていた頃に、人に語った言葉がある。
仏の嘘をば方便といい、武士の嘘をば武略という。
これをみれば、土民百姓はかわゆきもの也。
・・・・
意外に思えるかもしれないが、光秀の右の感覚は、その主君であった信長の持つ世界観に酷似している。育ちも、あるいは感情や行動の発露のさせ方もまったく正反対の二人ではあったが、その社会の原理を見据える視点では、両者の考え方はその微妙な色あいこそ違え、ほぼ一致していた。 p366-367
*現代風に言えば、人間集団の頂点に立つ武将の思考法は、組織の利益を第一に考える法人の動きとして捉えるべきで、個人として見るべきではない、ということだろう。 p368
*信長が寡兵をもって大軍に立ち向かったのは、桶狭間の戦い以降では、この戦(注記:石山本願寺と光秀軍の籠もる天王寺砦との戦い)しか存在しない。信長は、常に彼我の利害・力量の計算に長けており、戦力が相手を上回るまでは、決して行動を起こさなかった。 p369
*演じる側、それを受けて演じ返す側・・・・物事は常に表裏一体となって変化し、うごめき、進む必然なのだ、と。決して片面だけでは動かぬ。 p377
*生まれながらにして持った美濃源氏名流としての矜持、そして一族の離散という憂き目からの、失地回復への自責の念・・・・つまり、(我は、こうありたい)と思うより、(我は本来こうあらねばならぬ。いや、あるべきだった)という責務の意識が、光秀の行動原理のすべてにおいて先行していた。 p381
*比叡山の焼き討ちを信長に諌止したのは、織田家臣の中で、光秀ただ一人であった。 p383
*ただ、完全に滅びぬものには滅びぬだけの理由があるのだろう・・・・近頃よく、そう感じるのみだ。 p390
*「おのれは、我が肩に並ぼうとするか」
信長の気持ちを一言で言えば、そうなるだろう。 p395
*歴史の表舞台で、その生き様の初志を貫徹しようとする者は、多くの場合、滅ぶということよ。信長とて例外ではない。自分が蒔いた時代の変化に、自らが足をすくわれた。生き方を変えられぬ者は、生き残れぬ。・・・・四つの碗が二つになったときに、その初手の理が変わるように、世の中も変わっていく。ぬしが変わらなくても、ぬし以外の世の中は変わっていく。やがてその生き様は時代の条件に合わなくなり、ごく自然に消滅する。 p407
ご一読ありがとうございます。
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本作品を読み、興味のある関連語句をネット検索していた。一覧にしておきたい。
まずはその過程で知ったサイト情報。
角川書店の「野生時代」に、作品のあすじを紹介しているページに出会った。
これはまあ番外情報だが。
源氏 :ウィキペディア
清和源氏の系譜 :「系譜から見る歴史」
美濃土岐氏の歴史と文化 :「美濃源氏フォーラム」
古代氏族系譜集成にみる土岐一族 宝賀寿男氏
明智光秀 :ウィキペディア
光秀の出生地 :「明智光秀・桔梗物語」
明智家臣団 :「明智軍記からみる明智光秀」
カール・フリードリヒ・ガウス :ウィキペディア
細川氏 :「戦国大名探究」
京都に代々伝わるが謎の多い名門の流派 吉岡流の吉岡憲法直綱 :「日本剣豪列伝」
閑吟集 :「日本文学ガイド」
藤戸石(京都市伏見区) :「ふるさと昔語り」(京都新聞)
西田幾多郎 :ウィキペディア
明智城 :「可児市観光協会」
明智城(美濃国可児郡) :ウィキペディア
勝竜寺城 :ウィキペディア
勝竜寺城公園の紹介 :「長岡京市」
長光寺城(瓶割城) :「近江の城郭」
長光寺城 :「滋賀県の城館」
箕作山城 別名・箕作城 :「近江の城郭」
和田山城 :「近江の城郭」
観音寺城の戦い :ウィキペディア
山城の国一揆を探る :「京阪奈ぶらり歴史散歩」
一乗院 :ウィキペディア
東大寺・知足院 :「奈良の寺社」
東大寺・戒壇堂 :「東大寺」
九十九髪茄子 :ウィキペディア
大名物 唐物茄子茶入 付藻茄子(松永茄子) :「静嘉堂文庫美術館」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
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第5章の末尾に著者はこう記す。
「史書は、あるいは歴史の正当性は、常に勝者の側によって作られる。喧伝される。敗者は、歴史の中で沈黙するのみである」(p357)
その少し前に、
「光秀はその才幹はありながらも、秀吉や家康に比べ、人としての愛嬌が足りなかった。だから人がついてこず、肝心なときに天下を取り逃したのだ、と。しかし、果たしてそうであろうか。」(p357)と、問題提起する。
つまり、この作品で「信長は、時が経ってもよほど光秀のことを信用していたものと見える」(p356)という視点から光秀像を描き出した。
13代足利将軍の近臣であり、和泉細川家、従五位下・兵部大輔藤孝(=細川藤孝)の築地塀が崩れ放題の屋敷に居候として身を寄せていた時点から、丹波丹後を基盤に畿内の最重要地域・五ヵ国、計二百四十万石の指揮権を信長から任されるに至るまでの期間を中心にストーリーを展開していく。
第6章は潰え去った光秀に関わる後日談として語られていく。そのことは後でまた触れよう。
この作品のおもしろい点は、光秀が土岐明智氏の長で美濃源氏という名族の貴種だとはいえ、零落した一介の浪人の境遇から、畿内五ヵ国の指揮権を握り後世に近畿管領と称される立場になるまでのプロセスを中心に描く視点である。愚息と称する癖のある破戒僧と剣術家新九郎との関わりが深まっていく経緯を軸としながら話が展開されていく。
その際興味深い点の一つは、愚息と新九郎が当時の世間の価値観を超絶した生き方をしていること。出世をする、金を儲ける、豊かで楽な生活をするという欲望とは無縁の位置に身を置こうとしている人物だということである。もう一つは、愚息が最少限の世過ぎのために骰子(さいころ)賭博で金を稼ぐ。その博打で最後は愚息がほぼ勝つという結果になる。その賭博にいかさまはなく、いまで言う確率論が根底にある。その仕組みの不思議さが愚息・新九郎・光秀を結びつける契機になり、光秀が戦術を練るときに、確率論の思考法を取り入れていくことにもなる。かつその確率論の思考法が細川藤孝や信長にも光秀を介して波及していくこととなる。合理的思考を尊ぶ信長が、確率論的思考に興味を示し、それを己の発想に取りこんでいくのは言うまでもない。
この作品のおもしろさはたぶん愚息、新九郎という人物を創作して史実の空隙にうまく折り込み、光秀の思考と生き様を描いた点だろう。そして大胆な史実解釈へと想像力を飛翔させているのがおもしろい。ひと味違った光秀像を描き出している。
玉縄新九郎時実と名乗る新九郎は、関東の在所を飛び出し、京の都で剣術家として名をなそうとして出てきたが、落ちぶれて京の辻で生活のために追い剥ぎまがいとなっている。永禄3年(1560)春、旅から戻って来た光秀を辻で襲うのだ。襲うと言っても真剣勝負をする形で金品を得ようとする。腕に自信がある光秀は新九郎の力量を見切って、刀を投げ出してしまう。そこに愚息が現れて止めに入る。なぜここに愚息が出てくるのか、そこには骰子賭博が関わっている。
新九郎は、あっさりと大小の刀を渡す光秀に、一つの問答を投げかける。それは愚息から問われて新九郎自身が答えられなかったものである。「一から十までを足し上げた数字は、いくつになる」新九郎が五たび呼吸するうちに正解を出せと光秀に言う。正解が出れば刀を返すというのだ。
今なら大抵の人が学校で習うか聞いたことがある有名な足し算である。そう「1+2+3+・・・・+10は?」即座にガウスのエピソードを思い浮かべた。
光秀は間一髪で正解し、刀を取り戻す。それがきっかけで、愚息と新九郎は後日、光秀が居候する細川藤孝の邸に出向いていくことになる。そこから、彼ら3人の不思議な繋がりが始まっていく。光秀がこの二人の思考法や生き様から様々なことを学び、美濃源氏としての明智氏の名を世に高めるため、土岐明智氏一統のためにと悪戦苦闘し、戦国の世の武士の処世に活かしていくことになる。
光秀が帰宅後、「一から十までを足し上げる」という問題を、妻の煕子に問いかけ、藤孝にもそのことを告げることになる。藤孝はこの話から、愚息に興味を抱いていく。この足し算問題を軸とした人間関係の描き方がおもしろい。
このプロセスで、人が人をどう見るか、どういう関係づくりをするか・・・・著者はそこに人のあり方を問いかけているのではないかと、私は思う。
細川藤孝と光秀が、足利義昭を将軍として擁立していく計画を実行し、各地方の大名に働きかけていく。朝倉氏に話を持ちかけるが、朝倉氏は動こうとしない。光秀が信長に義昭擁立の話を持ちかけることから、光秀の武将人生が展開していくのはよくご存じの通りだ。その史実の狭間において愚息と新九郎が光秀のサポーター的な役割を担うことになる。この二人は光秀の人間性に惹かれているのだ。愚息は細川藤孝とは一線を画している。愚息の視点、価値観から、白黒で人物評価すると、悪人藤孝、善人光秀である。なぜそうか?そこに著者の視点があるとも言える。読んでいただいてのお楽しみ・・・・である。
愚息は「敬うのは釈尊のみ」と発する。原始仏典を囓ってきた立場の僧であり、日本のどの宗派にも属さない孤高自立の破戒僧なのだ。愚息は骰子賭博の原理も彼の地で学んできたという。
義昭を擁立して天下布武の旗印を掲げた信長に対し、近江の六角氏が最初の障害となる。その六角氏攻めにおいて、光秀は難敵・長光寺城攻めで己の力量を信長に知らしめようとする。この時光秀には愚息の骰子賭博の理論が城攻めの戦略思考のベースになる。その展開が興味深いところ。そして、最後の攻略段階で愚息の意見を聞くという形になっていく。そしてこの城攻めの攻略思考に信長が興味を示すことから、信長と愚息の対面に展開していく。俄然おもしろくなる。ちょっと奇想天外なストーリーづくりでもある。二人の対面は、愚息にとっても信長という人物をある意味で鑑定する機会となる。勿論、信長が愚息を評価する機会でもあるが。
信長に対する愚息の熱弁に対して、「そう、西田幾多郎がこの時代に生きていれば、泣きながら手を握ったであろう言葉を吐いた」という一行を記しているという興味深さも余録としてある。
本作品には2つの流れがある。一つは光秀が苦心惨憺しながらもその力量を発揮し、信長の下で出世街道をばく進していくストーリー。もう一つが愚息・新九郎の出会いから始まって、奇妙な共同生活を送る「二人の暇人」(p109)の生き様である。その二人が光秀の人生と関わりを深めていくというのがこの物語といえる。光秀と愚息・新九郎の接点の基軸が確率論でもあるのだ。
愚息と新九郎が瓜生山麓の荒れ寺に住み着き共同生活を始めて半年後の晩秋に、二人は懇願されて麓の里村での略奪居座り強盗を退治することになる。それを契機に、新九郎は剣術を里人などに教え始めるようになり、剣術指導を通じて剣術の理を追究していく。それは新九郎にとっては新境地開眼への道になる。人に問われて、「笹の葉流」と称するようになり、京の都での評判になっていくという展開はおもしろい。
そこで最終章の第6章に触れておこう。
この章は、秀吉の天下統一の7年後に時期が飛ぶ。慶長2年(1597)の晩春から始まる。この頃新九郎は綾小路に道場を開いている。その新九郎が久しぶりに愚息の寺を訪ねる。愚息も年を取り、九州の故郷に戻って死ぬという。そんな二人が、光秀の生き様について語り合うと言う形の展開となる。ある意味、ここで光秀論の一端が語られている。
この章で興味深い記述を2つ抜き出しておきたい。
一つは、故郷に旅立とうとする愚息を新九郎が送ろうとする段階で生じたエピソードの結末における会話の一節である。
「あの性質(たち)の悪さたるや、十兵衛やわしら程度では到底及ばぬ。負けるのも当然じゃ。今回ばかりは骨身に沁みた」(これは、愚息の言。新九郎に対し、細川藤孝のことを俎上にのせている。)
もう一つは著者の思いであろう。著者は光秀の遺体が三条河原に晒された事実について、その遺体が光秀だったかどうかには疑問を呈し、判断を保留している。その上で本書の締めくくりにおいて、光秀についてこのように言及している。
「ただ、その最晩年に、春の日を愛でる心境に一度でもなれていれば、せめてもの救いだったのではないか。咎は咎としても、だ。」
最後に、印象深い章句をご紹介しておきたい。
*何かを得るに足る能力とは、頭の出来不出来ではない。その資質、あるいは気質なのだ。 p342
*ちなみに光秀が丹波を治めていた頃に、人に語った言葉がある。
仏の嘘をば方便といい、武士の嘘をば武略という。
これをみれば、土民百姓はかわゆきもの也。
・・・・
意外に思えるかもしれないが、光秀の右の感覚は、その主君であった信長の持つ世界観に酷似している。育ちも、あるいは感情や行動の発露のさせ方もまったく正反対の二人ではあったが、その社会の原理を見据える視点では、両者の考え方はその微妙な色あいこそ違え、ほぼ一致していた。 p366-367
*現代風に言えば、人間集団の頂点に立つ武将の思考法は、組織の利益を第一に考える法人の動きとして捉えるべきで、個人として見るべきではない、ということだろう。 p368
*信長が寡兵をもって大軍に立ち向かったのは、桶狭間の戦い以降では、この戦(注記:石山本願寺と光秀軍の籠もる天王寺砦との戦い)しか存在しない。信長は、常に彼我の利害・力量の計算に長けており、戦力が相手を上回るまでは、決して行動を起こさなかった。 p369
*演じる側、それを受けて演じ返す側・・・・物事は常に表裏一体となって変化し、うごめき、進む必然なのだ、と。決して片面だけでは動かぬ。 p377
*生まれながらにして持った美濃源氏名流としての矜持、そして一族の離散という憂き目からの、失地回復への自責の念・・・・つまり、(我は、こうありたい)と思うより、(我は本来こうあらねばならぬ。いや、あるべきだった)という責務の意識が、光秀の行動原理のすべてにおいて先行していた。 p381
*比叡山の焼き討ちを信長に諌止したのは、織田家臣の中で、光秀ただ一人であった。 p383
*ただ、完全に滅びぬものには滅びぬだけの理由があるのだろう・・・・近頃よく、そう感じるのみだ。 p390
*「おのれは、我が肩に並ぼうとするか」
信長の気持ちを一言で言えば、そうなるだろう。 p395
*歴史の表舞台で、その生き様の初志を貫徹しようとする者は、多くの場合、滅ぶということよ。信長とて例外ではない。自分が蒔いた時代の変化に、自らが足をすくわれた。生き方を変えられぬ者は、生き残れぬ。・・・・四つの碗が二つになったときに、その初手の理が変わるように、世の中も変わっていく。ぬしが変わらなくても、ぬし以外の世の中は変わっていく。やがてその生き様は時代の条件に合わなくなり、ごく自然に消滅する。 p407
ご一読ありがとうございます。
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まずはその過程で知ったサイト情報。
角川書店の「野生時代」に、作品のあすじを紹介しているページに出会った。
これはまあ番外情報だが。
源氏 :ウィキペディア
清和源氏の系譜 :「系譜から見る歴史」
美濃土岐氏の歴史と文化 :「美濃源氏フォーラム」
古代氏族系譜集成にみる土岐一族 宝賀寿男氏
明智光秀 :ウィキペディア
光秀の出生地 :「明智光秀・桔梗物語」
明智家臣団 :「明智軍記からみる明智光秀」
カール・フリードリヒ・ガウス :ウィキペディア
細川氏 :「戦国大名探究」
京都に代々伝わるが謎の多い名門の流派 吉岡流の吉岡憲法直綱 :「日本剣豪列伝」
閑吟集 :「日本文学ガイド」
藤戸石(京都市伏見区) :「ふるさと昔語り」(京都新聞)
西田幾多郎 :ウィキペディア
明智城 :「可児市観光協会」
明智城(美濃国可児郡) :ウィキペディア
勝竜寺城 :ウィキペディア
勝竜寺城公園の紹介 :「長岡京市」
長光寺城(瓶割城) :「近江の城郭」
長光寺城 :「滋賀県の城館」
箕作山城 別名・箕作城 :「近江の城郭」
和田山城 :「近江の城郭」
観音寺城の戦い :ウィキペディア
山城の国一揆を探る :「京阪奈ぶらり歴史散歩」
一乗院 :ウィキペディア
東大寺・知足院 :「奈良の寺社」
東大寺・戒壇堂 :「東大寺」
九十九髪茄子 :ウィキペディア
大名物 唐物茄子茶入 付藻茄子(松永茄子) :「静嘉堂文庫美術館」
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