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七福神めぐり

2016-01-12 14:23:49 | 日記

   

平成22年から「ウオーキング会」に参加させて貰っている、リーダーお二人の、お一人は各地を歩き山も愛していて地理に詳しく、もうお一人は勉強家であり、図書館へ良く行かれ、各地の名所 旧跡を調べられ、都内の建物名 会社名をすべて教えてくれる、近郷の地理も詳しく、名所旧跡へも案内してくれ、その故事来歴を教えてくれる、大変勉強になる。

    毎年5~6回各所へウオーキングで歩くが、平成23年からは、年初のウオーキングは、各所の七福神巡りを遣る、もう 六回と各地の七福神を巡った、42の神社仏閣をお詣りした御利益か、風邪ひきも腹痛も起こさず、40年以上1日として  寝た事がない、七福神巡りの他にも、ウオーキングと云うと、各所の神社仏閣へ行くことが多く、都内 近郷の有名社寺も随分参拝した。

  リーダーダーが下見を行い、道を間違わずに案内してくれ、小生はみなさんの後ろをとぼと
ぼついて歩くだけの気楽さだが、
20 人以上になると、先頭から殿までは、100m以上も差がついてしまい、信号で分断されたり、迷子がいないか、怪我をしないか、歩いていても大変気を使って気苦労が多い、小生が参加させてもらっただけでも30回を越している、この間迷子も、怪我も一人も出ないで、皆さん無事に元気で家路についている、リーダーの気遣いのお蔭だ。

 毎回大体15,000歩から17,000程歩くが、大変いい運動になり、知らない街並みを、おしゃべりしながら楽しく歩いてい
る、とても健康的で体にいい、いつもリーダーに感謝している、これからもみなさんの後をついてでも、できるだけ参加させて貰おうと思っている。

 
22118に秩父「音楽寺」ほかを歩いたが、この時は七福神巡りではなかった。
明治171031日秩父事件が起きて、この音楽寺が一つの拠点となり、ここから農民が山を駆け下り、秩父事件は 始まった、この石碑には「我々は暴徒と云われることを、拒否する」と書かれている、貧困による、止むにやまれぬ農民 商人が貧困打破を、政府に訴えた事件だった
 
H23年1月7日 川越七福神巡り、川越七福神巡りは著名な社寺が多い、川越大師喜多院 川越東照宮 川越成田山 連馨寺 七福神には入らぬが、一時北院より権勢が有った川越中院などが有る、連馨寺には子育ての呑龍上人 体を撫でると病気が治る「おびんずるさん」等が祀られている
 

H24年1月11日 神田界隈の七福神巡り、神田明神は江戸時代ら信仰が厚かった神社で、今でも年初仕事始めには、数万 数10万人の会社経営者やサラリーマンの参拝が有る。
この本殿を右側に回ると、野村 胡堂作、明神下の岡っ引き「銭形 平次」と子分「がらっ八」の石碑が並び建ち、こんな石碑を見ると、何となく本当っぽい話になってくる

   
H25年1月25日 浅草界隈七福神巡り、浅草寺は正月と云わずいつ行っても賑わってている、近くには,昔吉原の遊郭が有り、明暦三年の江戸大火には、今は埋め立ててなくなっているが、「弁天池」へ花魁 女郎が火を避けて大勢池に入り焼死した、供養塔が建ち弁財天が祀られている
   
H26年1月7日 日本橋界隈七福神巡り、日本橋七福神は著名な神社は少ないが、近くの旧日銀内を見学する機会を得た
   
H27年1月13日 旧東海道品川宿界隈の七福神巡り、道幅は昔の東海道と変わりはないが、宿場の面影を留めるものはほんの僅かだが、旅人で賑わった頃に思いを馳せる事はできる。
 此の七福神の先に「鈴ヶ森刑場跡」がある、
火炙りの鉄柱を立てた丸い穴の空いた礎石 磔台の木柱を立てた四角い穴の礎石や供養塔その他の遺跡が残り、処刑された人の怨念が残るのか、薄寒さを感じる。
今は車の通行が激しい道路に面しているが、その昔夜など薄気味悪くて、近くを通ることなどできなかっただろう
   
H28年1月6日 目黒界隈七福神めぐり、江戸時代に発達した七福神巡りも、この目黒不動尊を中心とした七福神は、初期の物と云われ、今も根強い信仰を持っている
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

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