新駅名発表 |
昨日 山手線新駅名が発表されてびっくりした、何とも安っぽく品のない駅名。 田町―品川間に新駅ができるので駅名を募集した、「高輪」「芝浦」「芝浜」などが上位に選ばれたが、「高輪」が圧倒的に多かった、中には「高輪ゲートウエイ」という投票もあったが130位 たったの36票 安っぽい駅名、昔からの来歴でゲートウエイをつけた様だが、山手線駅名にカタカナは全く似合わない。 |
長い戦争が終わった |
昭和20年8月15日正午に放送された「昭和天皇の玉音版」現在はNHK放送博物館に、永久保存のため厳重に保護され、展示されている。 |
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昭和20年8月15日終戦の日は山梨へ疎開中だった、朝6時か7時のニュースで「今日正午天皇陛下のお言葉がある」と放送されて居たようだ、朝ご飯を食べている時に父親が話していた。 |
終戦で戦争を語るは完結しますが、昭和20年卒業の国民学校6年生は、戦後の処理が残っていた、戦後処理を2遍投稿したいと思う。 |
川越パレード |
去る11月11日(日)に朝鮮通信使のパレードが、川越の蓮馨寺から蔵の町を通り、札の辻迄行進した。 |
横断幕を広げパレードを開始 |
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行列の初めに特徴ある帽子と色鮮やかなコントラストのある衣装でラッパと鉦が賑やかに一行を盛り上げる |
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通信使一行の主役の先導をする侍 |
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一行の主役「正使」 |
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正使に続く上官一行 当時の衣装と帽子が特徴的、後ろには女官が続く |
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後に続く太鼓隊 民族衣装に面白いお面をかぶる、帽子のてっぺんの房は頭を振るとくるくる回る |
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アイヌ衣装をまとった一行も協賛 |
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沖縄エイサーなども一行を盛り上げる |
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各国の民族衣装をまとい美女軍団が続く |
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昔の朝鮮通信使一行とは形が大きく変わってきているだろうが、街興しの一環か、観客を楽しませてくれるのは良い事だ。 |
昭和20年3月10日の大空襲 |
空襲が激しくなった時に疎開先から本郷区の両親の元へ帰った、本土空襲は頻度を増していた、1万mの安全空域をB29が編隊を組んで主として焼夷弾だが爆弾も投下した。 当時東京は「東部軍管区」だった、南方洋上にB29編隊を確認すると、「東部軍管区情報、南方洋上に敵数目標有り」とラジオ放送と共に警戒警報のサイレンが鳴った、相模湾近くになると「東部軍管区情報、敵数編隊相模湾上空に侵入」の放送 直ちに空襲警報のサイレンがけたたましく鳴り響く、暫くするとB29編隊が現れる、自分の頭上でなければ安心、自分の頭上を飛ぶ時は焼夷弾 爆弾に見舞われる可能性が高い、国民学校6年生が恐怖心もなく、冷静に空襲の状況を見つめる、そこまで死を覚悟していた。 |
B29から投下された焼夷弾は一つが親爆弾で、空中で分解され数100発に分解される、一機がこれだけ撒くのだから、数千発になる、これが数十機となると大変な投下数になる。 ウイキーぺアー資料から拝借した |
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東京空襲も3月初めまでは昼間1万mの高空からの爆撃だったがサイパン島ほかのB29基地の司令官の交代があったらしい、作戦が変更され、3月10日深更から明け方に掛けての空襲は、高度3,000m~4,000mの低空からの焼夷弾投下。 3月10日深更空襲警報が鳴り響き、すぐさまゲートルを巻き外へ飛び出す、灯火管制の真っ暗闇の帝都高空に照明弾が投下され、その明るいこと昼間のよう、照明弾で明るくなった帝都にB29がランダムに襲い掛かった、1万mの高空のB29は15センチ程に見えたが、3,000mになると途轍もなくでかい、4発エンジンが轟々と唸り、焼夷弾をばら撒く、下町を中心に攻撃していたが、山の手にも焼夷弾投下、火災の光でB29の機体は赤く照らされ、焼夷弾をばら撒いていく、低空な為高射砲は使えず、機関砲で応戦、曳光弾が夜空に描く赤い光跡が奇麗だった、B29に吸い込まれ火を噴き墜落していく。 焼夷弾の落下音も高空ではヒユ―と言いう音だが、低空になると大雨の様にザーと言う音に変わる、体の周りにパラパラと落下、よく直撃を受けなかった。 焼夷弾も2種類あり、黄燐焼夷弾は筒も細く落下すると破裂、油の火玉が八方に飛散して火災を起こす、この火玉が体に着くと粘りついて離れず大火傷か死を意味する、油脂焼夷弾は六角の筒も太くドロッとした油が流れ出し燃え広がる。 我が家近辺も数か所火の手が上がるが皆必死の消火作業で延焼は防げたが、我が家の数軒先の蕎麦屋の親父さんが、我が家の裏に落ちた焼夷弾を消しに行った時破裂、焼夷弾の蓋が太ももに刺さり、「やられた」の悲鳴が上がり、動脈を切り大量出血、父親が大通りに引っ張り出し止血したが、医者も看護婦もいるわけがなく、素人の止血のみ出血多量10数分で亡くなってしまった。 気が付いたら周り中火の海、火勢が強くなると上昇気流が発生、炎が渦を巻いて火柱が立つ、そんな状況の中、死を感じるより何か美しい絵を見ているような錯覚を起こした、現実は周り中火の海で逃げる隙間もない、父親も死を覚悟したのか家族みんなを集めた、だが奇跡が起こった我が家周辺の数町会が焼け残った、正に九死に一生である。 夜が明けて周辺町会を歩いてみた、地面は猛火の余熱で靴底から熱さが伝わる、地獄絵とはこの事を言うのか、都電は鉄骨のみを残し無残な残骸、消防車も焼け爛れた残骸を残し、電線は垂れ下がり、周辺道路には焼け焦げて性別も分からない死体が無数散乱、見渡す限り焼け野原熱気が冷めやらず、 炭を大量に保管していた倉庫はうず高い火の山、少々の放水では全く受け付けない、三日三晩燃え続けた、紙は火に強いびっしり積むと燃えないものだ、あの猛火の中 紙の倉庫の紙は、回りが少し焦げただけで水も浸透していない、火事場泥棒が大量の上質紙を一日で全て持ち去った。 |
帝都大空襲の後の惨事、ある写真を拝借したが、当時本郷区もこれと同じ惨状だった、死体累々余りの悲惨さにぼかした。 或る展示場の写真を拝借した。 |
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一夜明けたら今までの景色が一変見渡す限りの焼土と化し、今まで見えなかった先がが見通せるようになった。、 ある資料館の写真を拝借 |
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3月10日の帝都絨毯爆撃の後も帝都爆撃はあったが、地方都市への爆撃に移行していった。 3月10日の空襲で父親が此の侭東京にいたのでは一家全滅になると判断、郷里山梨へ家を借りて疎開した、学童疎開の時と違って、家族皆で疎開できたのは嬉しかった。 甲府市が終戦前7月7日深夜空襲を受けた、七夕空襲などと言われている、その時は甲府市から3里離れた日川村にいた、甲府盆地の空を赤く染めた空襲も、火に囲まれ生死を分けた空襲を経験したので恐ろしさは何も感じなかった、その空襲で伯母の家も焼失し、甲府市が全滅した、翌日父親と甲府の伯母の安否を尋ねに行った、家族無事で避難していた。 我が母校も3月10日の空襲には焼け残ったが、あとの空襲で焼失、5年1学期通った母校がなくなったのはとても寂しかった、その後再建されることなく、本郷区の由緒ある母校も廃校になってしまった。 |
学業より勤労奉仕が多くなった |
学童疎開で疎開者が地元の級友に手痛い洗礼を受けたが、級友とも仲良くなり交流が出来楽しく過ごせたが、教室で勉強の機会は少なかった。 ガソリン不足で軍用車 飛行機燃料が逼迫、松の根っこ(松根油)を堀り精製して燃料にした、(だが燃料としては余り役に立たなかっようだ)土手の補強に植えられた樹齢数十年を経た大木の松の根っこ堀り、小学生の力では大変な労力、それでも頑張って掘った。 飛行兵が搭乗する時に着る羽毛入りのチョッキ、羽毛が無くなり代替えにススキの穂を入れた、そのススキの穂を取りに、葡萄郷勝沼の先の山へ4里も歩き山へ入ってススキの穂を刈った、往復8里も歩き山でススキの穂を刈ったが遠足気分で楽しかった。 疎開者いじめをした10数人の級友とも、或る事をきっかけにとても仲良くなった。 疎開者は食料が乏しいだろうと、松根堀り、ススキの穂採取の時など、お握りを余分に持って来て、おい食えよと分けてくれた、祖父母の家で食料には不足なかったが、余分に作ってきてくれ、分けてくれる心根がとても嬉しかった。 若い人は兵隊に取られ、一番の働き手が極端に不足していた、全ての産業に老若男女総動員された、 年4回の養蚕 田植え 田の草取り 稲刈り 麦撒き 麦踏み 農家は一年中繁忙、農繁期、養蚕の忙しい時は「農繁休み」が10日くらい有った、疎開者は田畑 養蚕は無いが、祖父の田畑手伝い、空いた日は親類や友の家に手伝い感謝された。 当時養蚕は大きな産業、「お蚕さん」と言って大切に育てた、だがあの芋虫、初めはとても手で掴む事など気持ち悪くてできなかった、普通2階が蚕室でそこで蚕を育てている、蚕も大きくなって桑の葉を与えると一斉に食べだし、その音は強い雨が降って居る様、ザーという音がする、どうかすると夜中寝ている時、額に蚕が這っている事がある、びっくり思わず手で払いのける、こんなことも農村生活の一端だった、大きな籠を背負って桑の葉摘みも上手になった。 初め疎開者と地元生徒と反発が有ったが、疎開者も地元に溶け込み仲良くなった。 地元の生徒と仲良くなり日々楽しく過ごせ、親元を離れている寂しさも癒され疎開生活も楽しかったが、「好事魔多し」昭和20年1月下旬祖母がまさかりで薪を割っていた時、どうした弾みか割った薪が祖母の右手甲に当たり酷く腫れ家事が出来なくなった、隣に住む叔父の家も子供7人の大所帯、面倒見られないから、取り敢えず東京へ帰れと言う事になった この後東京本郷区の今は「谷根千」などと人気スポットになっている千駄木の親元へ帰った、やはり両親兄弟と一緒に生活出来るのは嬉しかったが、田舎の学校へ籍を移しているので母校へ通学はできなかった。 昭和20年になるとB29の空襲もその度合いを増していた、空襲の激しい真っただ中に疎開から帰った。 |
植物の生命力 |
我が家の狭い庭の一角に毎年時期が来ると朝顔が群生する、それは昨年咲いた花が種を落とし芽を出す、そこへ家内が棚を作り朝顔を這わせ、7~8月になると毎朝100以上の花を咲かせる、夏の朝顔は9時頃になると日差しが強くなり萎んでしまう。 その朝顔の種が少し離れた所に飛び、10月末に芽を出し、11月半ば過ぎの晩秋に毎朝10個以上の花を咲かせる、晩秋の朝顔は日差しが弱いので夕方まで咲いている、季節外れの朝顔が楽しめる。 その脇にじゃが芋が大きく成長している、これも季節外れの植物、根には多分子芋をつけている、来春3月には芽を出し6月には小さいけれどじゃが芋が収穫できる。 |
11月半ば過ぎ咲き誇る朝顔、日差しが弱いので夕方まで咲いている |
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朝顔の脇に成長したじゃが芋、季節外れ、でも根には子芋がある、来年3月には芽を出し、6月には小さいじゃが芋が収穫できる、霜が降りると一晩で霜枯れる、朝顔もじゃが芋もあと何日かの運命。 |
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これは季節の植物、春先ホームセンターでコリウスの苗4種を買ってきた、1株は根を虫に食われ枯死、他の3株の内1株が勢いよく急成長、他の2株に覆い被さるように成長、他の二株も負けじと頑張るが、負けてしまった。 朝雨戸を開けると鮮やかな葉の色で目が覚める、 |
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武蔵丘陵にある森林公園、以前公園の一角にコリウスを広大に植え、各種色とりどり見事な花壇だった、毎年植栽が変わるようだ、興味ある人は森林公園へお問い合わせを |
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空襲激しく 学童疎開 手痛い歓迎 |
物量に勝る米海軍と各地の海戦で、帝国連合艦隊も多くの空母をはじめ各艦船の損害激しく、威容を誇った帝国連合艦隊もその戦力を急速に失った。 連合艦隊司令長官山本 五十六が飛行機で移動の暗号を米軍に解読され、待ち受けた米戦闘機に撃墜され、連合艦隊の大きな柱を失った。 アッツ島をはじめラバウル航空基地撤退、南方諸島の玉砕相次ぎ、硫黄島は死闘のあと玉砕 マリアナ諸島 サイパン島にB29基地を建設、東京空襲が激しくなり、少国民保護で学童疎開が19年夏休みの終わり9月から始まった。 先に大きな疎開が2つあったと書いたが、一つは空襲に備え家を壊す「強制疎開」防火地帯設定の為家の撤去、一つは「学童疎開」であった、田舎に親類が有り面倒を見てくれる人がいる人は縁故疎開 田舎のない人は集団疎開に行った、自分では山梨の母方の祖父母に預けられた、隣には叔父夫婦家族もいた。 9月1日叔母に連れられ転校手続きは終わり、田舎の学校へ転入した、親しみ慣れた母校の旧友と離れ、見ず知らずの学校へ転入、不安と心配、親元を離れた心細さ、子供心に負担は大きかった。 自分のクラスには疎開の児童が何人か居た、他のクラスにも何人か居た。 疎開の生徒は学童服にランドセル、学帽をかぶり運動靴を履いて登校した、田舎の生徒は洋服の子が大半だったが、着物の子もいた中には姉妹をおんぶして通学する子もいた、、履物は手作りの藁草履 教科書ノート 筆箱類はひもで十文字に結んで持って来た、疎開者と地元の子が服装持ち物に差があった、それが地元の子にしては気に入らない、東京の奴等は生意気だと感じたようだ。 学校の直ぐ脇に古墳を思わせる小山が有りてっぺんは狭いが平地が有り、そこへ疎開者を一人ずつ呼び出し10人ばかりで総殴りの洗礼をする、自分でもいつ呼び出されるかびくびくしていた、ついにその日が来て10数人にぼこぼこに殴られ、洋服はポケットがむしられボタンはみんな飛んでいた、自分でもどのように暴れたのか記憶にない、数人が鼻血を出し唇が切れたり目の周りを青くしていた奴もいた、自分でも顔 むこう脛 太腿に大きなあざ 唇は切れ頭はたんこぶだらけ だが泣かなかった。 いくら祖父母 叔父叔母と言っても、両親兄弟とは違い心細く淋しかった、そんな中で暴力の洗礼、小学校正門前に村役場が有り、叔父がそこへ勤めていた、暴力を受けた直後叔父の所へ行き顔を見た時初めて涙が出て泣いた、役場の女性が傷の手当てをしてくれた、とても優しく嬉しかった。 集団疎開の級友は那須烏山に疎開した、それなりに苦しみ辛さが有った様だが、体験していないので書けない。 |
疎開中の山梨県日川村 此の砂利道は甲州街道(国道20号線)、当時勝沼から甲府行きのバスが通る以外、自動車はあまり通らない。 |
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従兄弟たちと川遊びをする、魚の手掴み漁法を教わったり、鰻捕りの仕掛けを20個ほど作り、夕方鰻が遡上しそうな所へ仕掛ける、翌早朝仕掛けを上げに行くと、4~5本の天然鰻が掛かっている、従兄弟は鰻捕りの名人だった。 東京は空襲も激しくなりつつあったが、田舎はまだのんびりしたところもあった。 |
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国破れて山河在りの譬え、上の写真は昭和19年 下の写真は平成24年 70年近い隔たりがあるが背景の山並みは姿は変わらず、故郷は懐かしき哉 |
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スパルタ教育 |
大東亜戦争が始まると小学校教育も大きく変わった、スパルタ教育である、担任の教師の性格にも大きく関係するが、厳しい指導をする教師もいた。 教育勅語 青少年学徒に賜りたる勅語 宣戦の詔勅 5ヶ条の御誓文 軍人に賜りたる詔勅 歴代天皇125代の天皇名の暗記、この全てを暗記させられた、教室で突然指名され暗記の教育勅語とか、青少年に賜りたる勅語を全部を言わされる、最後まで言えなければ教壇から白墨をぶつけられ、根曲がり竹の根っこのしなる鞭で頭を叩かれる、その痛い事。 宿題を忘れると水を張ったバケツを膝に置いて廊下に座られられる、酷い時は水を張ったバケツを頭に載せて廊下に立たされる、姿勢を崩すと濡れてしまう過酷な罰だ、それは拷問に近い罰だ、そんな体罰を受けても親が抗議するなんて事は絶対ない。 往復びんたも有り、教師が自分の手が痛いので、スリッパでびんたを食らわされ頬から血が出る事も、我々学童も自分が悪かったとそれを受け入れていた、今こんな体罰が有ったら、モンスターペアレントが大騒ぎするだろう、教育委員会委員が平身低頭謝るだろう、だが戦時中は強い子供を育てるのが当然と思っていた、そんなスパルタ教育を受けてきたので、現在も少々の事では動揺しない、厳として物事に対処する、その分融通性に欠けるが。 そんな折 クラスに「航空少年団」「海洋少年団」などが先生の指名で結成された、小生海洋少年団に組み込まれた、海洋少年団の名入りの水兵帽 捕縄と6尺棒を渡され何かとても嬉しかった、各所で大きな催しがあると動員され、捕縄と六尺棒を使って交通整理などをして、何か役に立っていると誇らしかった、日比谷公園などへもよく整理に行った。 手旗信号 モールス信号も覚えた、手旗信号は実際には余り役に立たなかったようだ、モールス信号は難しかった、手旗信号の基本形は今でも覚えている、モールス信号はほとんど忘れた。 戦時中の小生、陸軍士官学校より、江田島海軍士官学校を受けたかった、制服は紺の立て襟ボタンなし渕はモールで飾られ、腰には短剣とても格好良かった、低脳な小生だが格好に憧れ猛勉強したが、その前に終戦になってしまった、小学生でも軍人になるよう洗脳されていた。 棒倒し 騎馬戦は運動会の花形、棒倒しは2回戦遣る、1勝1敗なら3回戦までやる、攻める組 守る組と別れる、小生守る組になっても攻めてしまい、相手の肩に飛び乗り棒にしがみつき引きずり降ろそうとする相手を蹴飛ばし、棒の上に登り揺さぶる、騎馬戦でも負けたことなし、そんな闘争心を戦中は教育された。 |
陸軍士官学校の服装より海軍兵学校の服装に憧れた ある資料より拝借 |
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屑鉄を拾い海軍省へ献金に |
戦況も厳しくなる中、軍事費もひっ迫してきた、政府も軍事臨時国債を発行したり、資金集めに大童。 級友一同もお国のために役に立ち、努力が報いられた。 |
お見送りした当時のお召し車 エンブレムの所に天皇旗を掲げ、走り去っていかれた。 ウイキーぺデアより拝借 |
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物量 戦備費に大きな違いが、 |
物資 経済力に優れた米国は、ハワイの艦船被害も克服、昭和18年後半になると、制海圏 制空圏を手中に収め、大反撃を開始南方諸島で激戦が行われ、日本軍の玉砕が相次いだ、南方方面も戦況不利で退却を余儀なくされ、食料不足による栄養失調 疫病 マラリア等で、米英軍の追撃より、そちらで戦死者が増えたと聞く、全く悲惨な状況だったようだ。 アリューシャン列島のアッツ島、山崎大佐以下2,000人の守備兵に対し、米軍は10倍の2万の兵士を送り、アッツ島も玉砕した、アッツ島玉砕に歌もできた、キスカ島守備兵は濃霧の夜陰に乗じて撤退した。 B25爆撃機も改良され、帝都空襲も頻度が高くなり、当時2つの大きな疎開が実施され、初めに「強制疎開」が有った、その疎開とは、当時の東京は狭い道路に木造住宅が密集していた、空襲が激しくなって火災が発生 延焼を防ぐため、道路に面した片側の家を全部撤去して道路を広げ、防火地帯を設けた、当時重機などなく、人力で柱に縄をかけみんなで引っ張り、人力破壊だった。 我が家もその強制疎開に当たり家を失い、住み慣れた本郷区(現文京区)神明町から千駄木町へ移転したが、代替えの家が見つかるまで3か月、隣にあった天理教の本堂に間借りして暮らした、その間の保証など何もない。 その間B25も改良されB29、発動機4つの大型機になり、数10機の編隊が1万mの高空から爆弾 焼夷弾攻撃が始まった、当時の日本軍の高射砲は8千~9千mしか届かない、B29の下で炸裂していた、その上をB29は悠々と飛行していた。 ある日B29に高射砲弾が命中、機体が2つに割れ、主翼部分は大きく回転しながら墜落、尾翼部分はバランスが良かったのか、そのままの形で大きく弧を描き、主翼と共に東京湾に落ちた、小生それを目撃した、何か航空ショーでも見ているようで、空襲の怖さを忘れていた。 後日尾翼部分を引き上げ日比谷公園に展示された、それを見に行ったが、尾翼部分だけでもその巨大さに驚いた、こんな物を作るアメリカに勝ち目はないと感じた。 その空襲で千駄木の団子坂上ほか谷中地区にも500k爆弾投下が有り、4階のビルに不発弾が直撃4階の天井を突き抜け地下迄貫通した、一つは住宅地に落ちた、落下地点から200mくらい離れた所に居た、、その爆発音、空気の振動、地響き物凄いものだった、直径10m以上 深さ8mくらいか、その土が防空壕を埋めてしまい、中の人4人が生き埋めになった、近隣の人が掘り起こしに掛かったが無残な姿で死亡してた、作業が終わらない内に、憲兵隊 警察が来て一般人は遠避けられた、その悲惨な死を見てから絶対防空壕には入らないと決めた、爆弾で一気に吹き飛ばされるか、焼夷弾の直撃で即死の方がずっと楽だと思った、国民学校6年生にしてこの覚悟、戦争とは非情なものだ。 |
B29に高射砲弾が直撃 機体が2つに割れ、東京湾に落ちていった。 ウイキイぺデアから拝借 |
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当時の列国国債高の表 ロシア イギリス アメリカ フランスは10億円以上、日本は僅か3億円少々、列国陸軍費にしても日本の5倍を費やしている。 |
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当時の軍人の給与表だが古い資料のコピーの為見難いのはご容赦ください |
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