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老いて楽しく

余生を楽しむ

鏡開き今昔

2019-01-12 09:18:25 | 日記
鏡餅開けてびっくり
 

数十年前は「鏡開き」と言うと、柔道のメッカ「講道館」などで大きな鏡餅を開いて、汁粉にして大勢で盛大に祝ったのを、テレビで紹介していた、今はそんな風景が全く見られなくなった、昭和 平成 今年は新年号に代わる、時代は大きく変わっていくのか。

日の経つのは早いもので、つい先日元日を迎えたと思ったら昨日はもう「鏡開き」、松の内も過ぎ鏡開きが過ぎれば正月も終わり。

我が家は一昨年末まで米は、米屋さんに配達して貰っていた、12月になると、のし餅の数量、お供えの大中小それぞれの数量を聞きに来て、暮れは遅くても25日までは配達してくれていた。

その懇意にしていた米屋さんも、寄る年波、後継者もなく体力の限界で、一昨年末を以て閉店した、昨年の鏡開きはその米屋さんのお供えを開いた、大 中 小皆プラスチック容器入っているが、日にちも経ち硬くなっている、これを霰に刻むのは結構労力がいる。

昨年暮れは止む無くスーパーにある市販のお供え大小と市販の切餅を買ってきた、大きなお供え何か重みがないなとは感じていた。

昨日11日鏡開き、お供えを下ろして開いてみた、大きなお供えの中には、切り餅が7個入っていた、軽いなと感じていたが、まさか切り餅が7個入っていたなんてびっくり仰天、今はそういう時代なんだ、時代を認識せざるを得ない、小さいお供えは容器の型の通りお供えが入っていた、そうだろうなあの小さい容器の中に切り餅一つとはいかないだろう、お供えと言っても形ばかりのものになってしまった。

お供え餅の変化や、今年は出した年賀状に返事の来ないのが数通あり、終末年賀を言ってきた人も何人かいる、もうそんな年代に入っているのを痛感する。

 
プラスチックの容器の大の中身は切り餅入り
 
切り餅7個が入っていた、小さい方はお供えが入っていた、まさか切り餅一つ入れる訳にはいかないだろうから、今年は量も少ないので、霰には切らなかった
 

老いて慎重に

2019-01-06 10:35:28 | 日記
残念ながら不参加
 
明日7日ウオーキングの会が、田端駅から西日暮里 日暮里 鶯谷周辺の七福神めぐりに行く、最後の詰めは不忍池の弁天様で上がり。

小生も戦前から戦中本郷区駒込神明町に住んでいた、最寄り駅は駒込駅で、田端駅はあまり利用したことはないが、駒込界隈居住の支那事変 太平洋戦争などで戦死した英霊が、田端駅に帰ってくる、地元小学校の上級生が校旗を先頭に、男の一クラス全員が(当時一クラス63人も居た)英霊が到着する時間に合わせて、駅頭に並んで御遺骨を迎える、黙祷をして地元有志の弔辞など短い時間の儀式が終わって帰校する、「英霊迎え」と言う行事があり、田端駅へは何回か行った、たぶん駒込に点在する小学校の輪番制だったような気がする。

今では蒸気機関車が客車を引っ張って走ると人気で、乗客が殺到するが、当時の田端駅は貨物の入れ替え駅で、貨物の牽引は全て蒸気機関車、蒸気機関車が一杯活動していた、蒸気機関車は日常茶飯事目にして、珍しい物ではなかった。

田端駅を超すと荒川が流れ、水泳は得意だったので、友数人と荒川へ泳ぎに行き、向こう岸まで往復などして水泳を楽しんだ、当時水泳パンツなどなく、泳ぐ時は六尺褌だった、色は赤か白それは水中で危険があった時に認識しやすい色だから、今六尺褌と言っても知る人も居ないだろう、締め方も分からないだろう、今では荒川は遊泳禁止になっているのだろうか。

軍の命令で駒込神明町から駒込千駄木町へ移転させられた、移転先は大観音通りと言って、白山上 肴町(現向ヶ丘二丁目)団子坂下の都電通りを渡ると、谷中 根岸と続く繁盛した商店街だった、ここで3月10日の大空襲にあった。

根津神社も近く、谷中界隈も時々歩き、懐かしい所で、今回のウオーキングも懐かしい所で是非行きたくて、参加を申し込んでいたが、右膝に痛みではないが違和感があり、田端から上野までの距離を歩いたら、膝を痛める事必定と思い断念した。
 
H24.1.11ウオーキングの会で根津神社を訪れていた、参拝する会員一同
 
同日不忍池弁財天も訪れ、無病息災を願い煙を全身に受ける会員
 
蓮は枯れ寒々しい不忍池
 
 

正月飾り付け一切廃止

2019-01-02 15:02:08 | 日記
今年の暮れから気楽になれそう
 
年を取り最近動作が鈍くなり、以前は思い立ったことがあると、すぐ行動に移したが、最近は思い立った事もすぐには行動できず、時間がたつと、まあいいかと折角思い立った事も放棄してしまう。

 父親が昔通りの仕来たりでやってきた正月を迎える準備を、自分では父親の半分程しか出来ないが踏襲してきた、門松を立て、各部屋へお供えを飾り、縁起物を飾り、7日に門松を下ろし、11日鏡開きにはお供えを下ろし、我が家はお供えを賽の目に切り、1ヶ月以上干してカラカラにする、よく干せば梅雨時 夏場もカビが生えない、我が家には数年前の霰がある、この霰切も重労働になって来た。

昨年末は「終末年賀状」などと騒がれた、年賀状を止めようとは思はないが、正月飾りは今年を以て一切止める事にした、毎年川越大師の達磨を買ってきて、片眼を入れ、無病息災に過ごせたら両眼を入れてお返しに行く、正月3日が初大師だが、あまりの混雑で2日の朝早めに納めに行く、これも大義になったので、今年は納めるだけで、新しい達磨は買ってこなかった、お札も他の縁起物も一切なし、来年は門松もお供えも一切なし。

正月行事一切止めて天罰が下っても、もう惜しまれる年でもないので止める事にした。
 
門松は28日か30日早朝に立てる、29日或いは大晦日に立てる人もいるが、九(苦)の日大晦日の一夜飾りは、昔から忌み嫌われる
 

昨年暮れに若い女子アナウンサーが何人も、お供えの上へミカンと言っていたが、お供えの上は橙を載せるのが本来。
大過なく無病息災両目を入れて、達磨収めを待つ。達磨を納めに行くと目の小さい達磨を見かける、白目を少し残して、大きく入れるのがいい、目が小さいと目に力がなく貧弱

 
応接間 居間 風呂場 トイレ 人間生活必要欠くべからざる所へ
 
台所の水神様の為、昔は井戸端にも飾った
 

大晦日寝ると

2018-12-31 15:47:46 | 日記

大晦日は寝ると白髪が生える?

 
小生子供の頃、大晦日に寝ると白髪になると、お袋に聞かされていて、白髪になるのは嫌だから、眠い目を擦りながら、兄達と双六や福笑いその他のゲームなどして一生懸命起きていたが、12時を回ると上瞼 下瞼がくっついてしまう。

当時は今と違ってテレビなどなく、ラジオのみ、ラジオも大晦日特集を遣っていたのかもしれないが、子供心には分からない。

戦後放送媒体が発達して、テレビで「紅白歌合戦」 コロンビアトップ ライトの司会で「レコード大賞」等有り、大晦日の夜を楽しませてくれた、自分でも紅白歌合戦のメンバー表を見て、どちらが勝つか予想して、最後まで見ていて、一喜一憂したしてたこともあった、その頃は歌手も歌も分かり、楽しめた、あと「ゆく年くる年」を見て、夜を徹して起きていたことがあった、それはもう20年も前の事か。

最近の紅白歌合戦も、歌手の名前はカタカナか横文字、歌もカタカナか横文字が多くなった、見ていても全く楽しめず分からない、詰まらないものだ、それだけ時代に遅れてしまったのだろう。

この20年ばかり歌合戦も ゆく年くる年も見たことない、8時頃床へ入って白河夜船、早寝早起きこれが小生にとっては天下泰平だ。

元日の朝所沢神明社へ歩いて初詣に行く、これが結構いい運動になる。 
 

IWCついに脱退

2018-12-27 11:07:38 | 日記
鯨肉ってそんなに貴重?
 
安倍晋三さん初め政府のお偉方が決め、IWC脱退を菅官房長官が世界に向けて発信した、30年来の捕鯨制限から脱退、来年7月からは商業捕鯨が再開される、だが捕獲範囲は経済的排他水域(EEZ)内の捕鯨だ。

戦前から戦後にかけては年間20万トン以上のクジラを捕獲していた、佃煮屋では照り焼き 角煮  ベーコン各種あった、魚屋には赤身の刺身 尾身の刺身  晒クジラ 鯨の各部位を売っていた、揚げ物屋には鯨かつ 竜田揚げなどとにかく鯨料理はどこにでもあり庶民の栄養源だった、学校給食にも多く提供された。

現在のクジラ捕獲高は5~6千トンか、数少ないが鯨専門店も疎らに点在する、愛好者で繁盛しているのだろう。

先日ある調査で鯨料理に興味を示したのは、よく食べた60代後半から80代の人が18%台、あまり食べたことがない20台の人は3%に満たない数字、そうだと思う店頭にもなければ、鯨料理店も少なく接する機会もない、今は旨い豚肉 牛肉が豊富に店頭に並んでいるから、目に触れない鯨肉など意識にないのかもしれない。

数年前あるスーパーで、クジラの尾身のブロックを冷凍して売っていた、懐かしく買ってきて、溶け切らず硬めに解凍してスライス、食べたが脂ばかり強調されて気持ち悪い、2切食べてあとは全部廃棄した。

国民があまり望んでいない鯨肉に何でそんなに情熱を燃やすのか。
 

IWC脱退 なぜ

2018-12-23 11:13:54 | 日記
短慮は敗北
 

戦前から戦中 戦後にかけて、鯨はよく食べられた、当時国民の大きな栄養源だった、鯨料理はどこでも売られていて、庶民的な食品だった。

鯨を利用した商品も豊富で、赤身の刺身 クジラかつ 竜田揚げ 鯨のベーコン 脂身の脂を抜いて晒した晒クジラ、酢味噌か少し辛子を混ぜた酢味噌和えも旨い、尻尾に近いところの「尾身」など脂がのって鮪のトロに匹敵する、小生まだ子供だったが、父親が晩酌の時肴にしてよく食べていた、旨そうなので、時々ちょっかいを出してご相伴にあずかる。

今の何でも有る食品豊富の時と違って、戦前 戦中 戦後の食糧難時代、国民の大きな栄養源だった、自分でも戦後成人して酒が飲めるようになった時、鯨料理はよく食べた。
当時の日本は捕鯨技術もさることながら、世界の海で捕鯨に活躍捕鯨大国だった。

乱獲もあったのか鯨資源が減少して、IWC(世界捕鯨委員会)が発足して、捕鯨が大きく制限された、当然国内から鯨を提供する店が大きく減少した。

昔仙台へ赴任中、仙台の北にある女川町は、捕鯨の港で街中に鯨料理店が多くあり、堪能させて貰った、鯨は捨てるところなく全て活用できる貴重な資源だ。

日本は「調査捕鯨」と称して南極海 日本近海で捕鯨をしている、幸い鯨資源も増えてきたようだ。
先日のIWCで日本は脱退を決めているようだ、脱退したところで無制限に鯨を捕れる訳ではない、国民がもっと鯨を供給しろと要求しているわけでもない、そこここに鯨専門店もあり満足している。

捕鯨条約を脱退する意義はどこにあるのだろう、世界から孤立するリスクを背負う程重要なことか、少し短慮にすぎないか、もっと話し合い日本の立場を主張して相手国を説得するすることはできないか、時間は掛かるけど。

捕鯨とこれとは少し違うかもしれないが、戦前 野村 来栖両大使が「国際連盟」脱退を宣言して、日本は世界から孤立して国内は疲弊、第2次世界大戦へと繋がり、敗戦という大きな試練に直面した

 
鯨の刺身 美味今でも食べたい ある資料から拝借
 
鯨の尾身 鮪のトロを上回るかも絶品だ ある資料から拝借
 

写真展

2018-12-21 10:00:31 | 日記
皆さんとても努力している
 
先日 或るサークルの友人が所属している写真クラブが、所沢市役所1階ギャラリーで展示会を開いた、招待状を頂き、友人が当番の日に鑑賞に行った。

非常にレベルの高いクラブで、一枚いちまいが何かを語りかけてくる、撮影した場所 季節 時間がなんとなく読み取れる、だがその一瞬のシャッタ―チャンスを捉える感というか技術、これは長い経験と卓越した感性の賜物だろう。

ライトアップしたスカイツリーの先端に満月が輝いている、その月も煌々と輝く月ではなく、霞んだ月で春の季節を想わせる、墨田川には遊覧船が、高速道の車の流れ、撮影の位置 時間おそらく根気よくその瞬間を待ったのだろう、掲載したかったが、余計な物が反射で映り込み、掲載遠慮。

池に新緑が映り、緋鯉が水面に背びれと尾びれで波紋を描く、これが真鯉で黒いのでは絵にならない、この瞬間をよく捕らえた、偶然で写せるものではない。

少しぬかるんだ馬場で、日本式馬術、その競技の最中落馬した瞬間を捉えていた、これはその場所に居たから捉えられた、偶然の瞬間。

30数点に及ぶ写真、どれもみな力作、友の説明を受けて、写真展を楽しんだ。

小生にはこの様な写真は絶対撮れない、最高の映像を撮る為、じっと我慢して刹那的シャターチャンスを捉える、短気だからじっと耐えて待つことができない。
 
所沢市役所へは年に2~3回しか行かない、事務的手続きなどない、1階ギャラリーで開かれる、写真展 陶器展 華道展の招待で行くくらい。
 
友の当直日、昼前に行ったが鑑賞者が多く訪れていた
 
緋鯉の波紋 いつでも撮れそうな写真だが、この二つの波紋を撮る為、根気よく何枚も撮ったことだろう、複写の為鮮明さが欠ける
 
落馬の瞬間、よくぞこの場所に居合わせた、落馬者の無事を祈る、もっと作品を載せたいが、人影やライトが反射で映り込み、折角の作品を傷つけてはいけないので2点にした
 
市役所1階ロビーで、クリスマスリース 正月輪飾り素人展を遣っていた、素人とは言え中々立派な作品があった、写真展と一緒にそちらも楽しんできた
 
ウーン素人とは言え中々の力作
小生の旧友も毎年中野のホールで写真展を開く、この写真展もレベルが高い、皆さん余生を各方面で楽しんでいる、自分では何の特技も技術もない、皆様の力作を鑑賞して楽しんでいる。

旧友と忘年会

2018-12-17 10:21:29 | 日記
心通う友は楽しきかな
 
小学校時代の親しい旧友が、所沢へ集まって忘年会をした、写真展や何かの機会があると集まって旧交を温めている、昨日は偶には小生地元の所沢へ集まろうと言ってくれた。

東大和市と中野区から所沢へ集まってくれた、以前はもっと人数も多かったが、年々あの世へ旅たつ人も多く、今回は3人になってしまった、でも小学校時代の旧友、途中空白期間があったが70数年来の友、ざっくばらんに打ち解け何でも話し合う、思い出話や、もう先が見えた終末の話もある。

52年目の卒業式を主導した友が、「俺が死んでも通知しないから」と言う、参列もお焼香もしないでいいと言う、小生びっくりした、その友は級友の死に久喜までお焼香に行き、親しき友の法事に出席、音信不通の友の安否を尋ねて、炎天下汗を流して1万歩もき回った、そんな友を思う心の人が、何で自分のお焼香も拒絶するのか、小生それは違うだろうと思った。

その友が先か、自分が先に逝くか分からない、だが小生が後になったら、今まで親友として過ごしてきたのに焼香もできない、そんな淋しい話はない、「もし自分が後になったら、君に葬送の辞を贈りたい」と酒の勢いもあったが、少し声を荒げて言ってしまった。

喧々諤々そんなきつい言葉も受け入れてくれる、とても嬉しい二人の同級生、なんでも話し合える友は貴重だし有難い、今後も大切に交友を温めたい。
 
所沢駅西口から北へ延びるプロペ通りがある、所沢の一番の繁華街だろう、その通りの中程に「磯丸水産」という居酒屋が有る、24時間営業で繁盛しているようだ、間口は狭いが奥行きが広く、結構大きな店舗だ。
 
友二人と所沢駅頭で会い、磯丸水産で忘年会が始まる、先ずはビールで乾杯
 
ビールと一緒におつまみが付く、この他団子や別の小魚も付いている
 
ビールの乾杯の後、今日は濁り酒で行こうとなった、コップになみなみ注いで受け皿に一杯、一滴もこぼさずうまく注ぐものだ
 
何はともあれ定番のサザエのつぼ焼き、一人の友サザエの白い身の所だけ食べて、黒いわたの所を残している、二人に秋刀魚の腸を食べるか聞いてみた、二人とも食べないと言う、小生秋刀魚のわたの所へ大根卸し醤油少々七味を振り掛けて食べる、秋刀魚で一番旨いところで好物だ、頭と骨を残して奇麗に食べる、友二人にすると小生は下手物食いにみえるかもしれない。
 
濁り酒のお変りも進み、これも定番の刺身盛り合わせ、友も年相応に小食になり、程よく酒も回り気持ちよく酩酊腹も満たし、2時間半の楽しい会話と、来春元気で会合を約して所沢駅頭で解散した。
折角所沢迄足を延ばしてくれたので、所沢名物「醤油団子」数本をお土産に持って行って貰った

戦争後日談ー2

2018-12-11 09:24:38 | 日記
疎開先烏山市に母校の記念樹があった
 
小生縁故疎開したため、集団疎開は経験していない、依って集団疎開の厳しさ 苦しさ 辛さは判らない。

烏山市のお寺、旅館 民家に分散して集団生活をしていたようだ、食糧事情 衛生面 親元を離れた寂しさ、いろいろな面でつらい過酷な生活を強いられたのかもしれない。

各寺院他に分散宿泊していたが、疎開本部は当地のお寺「慈願寺」だった、この本部から疎開児童へ各種管理 情報が発せられていたようだ。

戦後地元の栃木県立烏山女子高等学校 社会部の生徒が、昭和55年に「地域から見た戦争」をテーマに、我が母校の生徒たちの疎開生活を、大嶽浩良教諭指導の下で史実 資料を調査 研究を重ね論文に纏め、小冊子を作り同校の文化祭で1部300円で販売、その売上金で百日紅の苗木を購入、焼失廃校になった母校富士前小学校の為、疎開先本部になった「慈願寺」の境内に記念樹を植えてくれた。

 昭和19年当時烏山に疎開した2組の級友有志数人が、平成18年に大変お世話になった当地寺院 旅館等を訪ね、当時お世話になったお礼を述べた、その折本部の「慈願寺」に当校の記念樹が有ることを知らされた.

戦災で焼失廃校になった母校の形見の様な「思い出の木」が遠く離れた烏山市に有る事に感動、記念樹の脇にその由緒と感謝の気持ちを記した銘鈑設置するプロジェクトが発足した。

当時のクラス編成は1組は男ばかり、2組は男女半々、3組は女ばかりだった、52年目の卒業式は1組主導だったが、銘板設置は2組主導で事業は進められた。

2組の委員達が文京区役所、現地寺院と折衝、銘板制作業者と打ち合わせ、資金調達等、苦労をしたようだが、1組と3組は協賛の為打ち合わせ会に出席で気楽だった。

平成20年9月8日30人弱の同級生が訪烏、本部の慈願寺の記念樹の脇に銘板設置を希望したが、記念樹の所へはあまり人が行かないので、法事などで人の出入りの多い本堂玄関入り口の上に掲額された。

小生縁故疎開したので集団疎開の烏山は全く知らない、どんな風景のどんなお寺に分散して暮らしたのか、それをこの目で確かめたくて掲額一行に参加した、周りは山に囲まれ那珂川の清流が市内を流れしっとり落ち着いた風光明媚な所だ、平和な時にこの地に住んだら、心広く大らかな生活ができそう、だが戦争が熾烈を極めている時であり、疎開児童には親から離れ 衛生面 食糧事情 つらく悲しいことが多かったようだ。

お世話になった各寺院へお礼の挨拶に行く、代が変わった住職も多かったが、疎開児童の事は語り継がれ話してくれた、とても優しく歓迎してくれた、お礼訪問した児童も70歳半ば、温かく歓迎してくれた住職方と、昔を語り合う本当に平和は有難い、我々昭和一桁に生まれ、戦争を体験したが、平成20年を以て戦後は終わった。
 
学童疎開で各寺院宿舎に分散宿泊した、その本部になった 慈願寺
 
烏山女子高生徒が我が母校の記念樹を植えてくれた、慈眼寺境内にある百日紅
 
学童疎開について研究テーマを主導された大嶽先生、当時の資料集め、真実追及の苦労を、縷々語ってくれた、素敵な先生だ。
 
疎開本部になった 慈願寺の住職さんにお礼の記念品を贈る
 
慈願寺本堂玄関上に掲げられた記念額
 
額の除幕
 
記念樹の前で慈願寺住職と大嶽先生と記念撮影
 
同級生がお世話になった 寶憧院、那珂川を越した地に有り閑静なたたずまい
 
烏山新聞に当日の模様が掲載された

小生の拙い戦争の思い出話も今回を以て終了します、毎日とても多くの方にお読み頂きありがとうございました。 

今後も戦後の色々な事象について投稿すかもしれません、興味がありましたらお読みください。


戦争後日談ー1

2018-12-07 08:45:11 | 日記
52年目の卒業式
 
 3年8か月に及ぶ戦争も終わり、昭和19年9月から20年3月まで田舎の学校へ転校して、卒業証書も貰った、祖母の怪我で20年2月と3月は東京へ帰り、実質5ヶ月しか通っていない田舎の学校の卒業証書は重みもなく、母校本郷区富士前国民学校の証書が欲しかった。 
 

明治20年代に開校した本郷区でも由緒ある小学校、大正5年に改築された母校、左奥の出っ張りが階段と裁縫室だった、その階段の踊り場に、全身を映す大きな鏡が有り、そこに記された文字を今も覚えている 「鏡には 姿ばかりが 映るぞと  思う心の 恥ずかしきかな」今もこの教訓は心に残っている、今はなき懐かしき母校、5年と一学期通った。

 

 集団疎開した人達も3月末に卒業式の為栃木県烏山の疎開先から帰ってきたが、母校が焼失隣の昭和国民学校の屋上を借りて卒業式を挙行中、空襲警報が鳴り避難で卒業式中断、あとになって藁半紙に謄写版印刷の卒業証書を貰ったようだ、自分では田舎の学校の証書を貰っているので出席はしなかった。
 国民学校卒業式も満足に出来なかった過酷な年代だった。

 終戦から50年たった平成7年11月、元級友の有志が3大新聞の尋ね人欄に「富士前国民学校 昭和20年卒業生名簿作り」の記事を載せた、自分でも小学生時代の友と会いたいと消息を訪ねていたところ、その記事を見て有志に直ぐ電話した。

 その後芋ずる式に判明した級友数名が、母校近くの文教婦人会館の一室に会合、50年ぶりに旧友と会う、やはり面影は残っているが、どうしても思い出せない顔が有り、名字を聞いて えっそうなのかと思い出す、国民学校同級生の元気な顔を見てとても嬉しかった。

 ここで有志の考えが披露された「正式な卒業証書」を貰っていないので、改めて卒業証書を貰う会を立ち上げたい、その有志をT君としよう、以後T君を中心に改めて証書を貰うための会合を、2か月に一度、巣鴨駅前の喫茶店「ルノアール」で打ち合わせをした、『52年目の卒業式』を平成9年3月を目標に話を進めた、我々1組と 2組 3組を併せて60数名と連絡が取れた。

 このT君校長先生を経て、定年後も教育界に身を置き顔が広く、文京区長 教育委員会を説得、2か月に1回ほどの会合を重ね、企画も熟してきた、母校は空襲で焼失後廃校になったので、隣の昭和小学校で遣る事になった、この昭和小学校の校長先生もT君の後輩で全面的に支援してくれた。

この昭和小学校が改築を行い、平成9年1月に完成した、改築された小学校は非常に近代化された設備で、改築された同校卒業生より先に、我々52年目の卒業式を3月1日に挙行した。

 区長 教育委員会の委員長、同校5年生 6年生その父兄、我々の先輩卒業生も列席、テレビ各社 3大新聞の取材もあり盛大な卒業式が出来た、校長先生から卒業証書を一人ひとり受け、出席の区長初め多くの委員、在校生 先生方 先輩達に送られて会場を出た時は感謝で涙が出た、T君の努力が大きく貢献した。

 母校が焼失全ての資料が失われてしまい、卒業生の通し番号も不明、新たな番号を設定してくれた、新番号でもありがたい、母校の卒業証書を手にしたのだから。

 戦前から戦後の厳しい時代を乗り越えてきた我々昭和一桁の世代、52年目の卒業式で証書を貰い、戦後に区切りができたかと思ったが、まだ我々の戦後は終わっていなかった。

 
52年目の卒業証書を手にし、区長 教育委員 校長先生 各役員との記念撮影
 
読売新聞記事
 
 
52年目に卒業証書を手にして、戦時中を過ごした小学生にしては、まだ戦後は終わっていなかった。
朝日新聞記事