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『孟子』巻第十萬章章句下 百三十二節

2018-10-26 10:25:36 | 四書解読
百三十二節

孟子は言った。
「伯夷は、心を害うような色は見ない、心を害うような声は聞かない、君として立派な人物でなければ仕えず、それなりの人民で無ければ使わなかった。世の中が治まっていれば進んで仕え、乱れていれば退いて隠れてしまった。横暴な政治をする朝廷や横暴な民と俱に居ることに堪えられなかったのである。そのような礼儀をわきまえない村人と一緒に居ることは、伯夷にとって朝廷に出るときの衣服や冠をまとって、泥や炭の上に座っているようなものであったのだ。紂王の時代には北の海辺に隠棲し、濁った世の中が清むのを待っていた。そのような人物だから、後世、彼の風格を聞いた者は、貪欲で頑なな人物でも感化されて清廉になり、意気地のない人物でも感化されて志を立てるようになるのである。それに対して伊尹は、『どんな君でも君であり、仕えてならぬことはない、どんな民でも民であり、使ってならぬことはない。』と言って、世の中が治まっている時も乱れている時も進んで仕官した。伊尹は言う、『そもそも天がこの世に人間を生じさせるに当たっては、先に物事を知った者に、まだ知らない者を教えさせ、先に目覚めた者が、まだ目覚めていない者を目覚めさせようとしているのであって、私は当にその先覚者だ。私が堯・舜の道を以てこの民を目覚めさせよう。』と言った。かくして伊尹は天下の人民の内、一人の男、一人の女でも堯・舜の恩沢を被っていない者が有れば、あたかも自分が彼らを溝の中へ突き落したかのように感じたのであった。このように人民を幸福にするという天下の重大事を己の任務としたのだ。柳下惠はけがれた君主でも仕えることを恥だとは思わなかったし、つまらない官職でも断らなかった。進んで官に仕えその才能を隠すことはなかったが、自分の信じる道は貫き通した。だから人から見捨てられても恨むことはなく、生活に困窮しても気にせず、村人と共に暮らし、ゆったりとした生活に満足し、去り難い風であった。そして『お前はお前だ、わしはわしだ。たとえおまえがわしの前で裸になるという無作法なことをしても、わしを穢すことはできない。』と考えた。だから柳下惠の風格を聞いた者は、心の狭い男でも感化されて寛大になり、薄情な男でも感化されて情が深くなったのである。孔子が齊を去ったとき、米を水に漬けながら、炊飯する暇も惜しんで、米をそのまま持って去るほどに、足早に去って行った。しかし故郷の魯を去るときは、『遅々として進まぬ吾が歩みよ。』と言われた。これは父母の国を去るのだから当然の姿である。去るべき時は速やかに去り、久しく留まるべき時は久しく留まり、隠棲すべきときは隠棲し、仕えるべきときは仕える、このようにその時の状況に合わせて行動するのが孔子である。」
又孟子は語を改めて言った。
「伯夷は聖人の中でも清廉に徹した人である。伊尹は聖人の中でも自分の役割を理解していてそれをやり遂げようとする人である。柳下惠は聖人の中でも、周囲との調和を重んじた人である。孔子は聖人の中でも、時の宜しきに応じて事を行う人である。だから私は孔子を集めて大成する者と言うのだ。集めて大成する者とは、音楽を奏するのに、まず金鐘を鳴らして始め、最後は玉器を鳴らして終わることで、金鐘を鳴らすとは、演奏の筋を示し、調和を引き出すことで、玉器を鳴らして終わるとは、それを締めくくることである。物事の筋道を示し調和させるということは、智に属することであり、それをまとめて終えることは、聖に属することである。弓術に喩えると、智は技巧であり、聖は力である。百歩以上離れた所から的を射た場合、的まで届くかどうかは力の問題であるが、当たるかどうかは力の問題ではない。だから力と技巧が、乃ち智と聖が必要なのである。」

孟子曰、伯夷目不視惡色、耳不聽惡聲。非其君不事、非其民不使。治則進、亂則退。橫政之所出、橫民之所止、不忍居也。思與鄉人處、如以朝衣朝冠坐於塗炭也。當紂之時、居北海之濱、以待天下之清也。故聞伯夷之風者、頑夫廉、懦夫有立志。伊尹曰、何事非君。何使非民。治亦進,亂亦進。曰、天之生斯民也、使先知覺後知、使先覺覺後覺。予、天民之先覺者也。予將以此道覺此民也。思天下之民匹夫匹婦有不與被堯舜之澤者、若己推而內之溝中。其自任以天下之重也。柳下惠、不羞汙君、不辭小官。進不隱賢、必以其道。遺佚而不怨、阨窮而不憫。與鄉人處、由由然不忍去也。爾為爾、我為我、雖袒裼裸裎於我側、爾焉能浼我哉。故聞柳下惠之風者、鄙夫寬、薄夫敦。孔子之去齊、接淅而行。去魯、曰、遲遲吾行也。去父母國之道也。可以速而速、可以久而久、可以處而處、可以仕而仕、孔子也。孟子曰、伯夷、聖之清者也。伊尹、聖之任者也。柳下惠、聖之和者也。孔子、聖之時者也。孔子之謂集大成。集大成也者、金聲而玉振之也。金聲也者、始條理也。玉振之也者、終條理也。始條理者、智之事也。終條理者、聖之事也。智譬則巧也。聖譬則力也。由射於百步之外也、其至、爾力也。其中、非爾力也。

孟子曰く、「伯夷は目に惡色を視ず、耳に惡聲を聽かず。其の君に非ざれば事えず、其の民に非ざれば使わず。治まれば則ち進み、亂るれば則ち退く。橫政の出づる所、橫民の止まる所、居るに忍びざるなり。鄉人と處るを思うこと、朝衣朝冠を以て塗炭に坐するが如きなり。紂の時に當り、北海の濱に居り、以て天下の清むを待てり。故に伯夷の風を聞く者は、頑夫も廉に、懦夫も志を立つる有り。伊尹曰く、『何れに事うるとして君に非ざらん。何れを使うとして民に非ざらん。』治まるも亦た進み、亂るるも亦た進む。曰く、『天の斯の民を生ずるや、先知をして後知を覺らしめ、先覺をして後覺を覺らしむ。予は天民の先覺者なり。予將に此の道を以て此の民を覺さんとす。』天下の民、匹夫匹婦も堯舜の澤を與被せざる者有るを思うこと、己が推して之を溝中に内るるが若し。其の自ら任ずるに天下の重きを以てすればなり。柳下惠は、汙君を羞ぢず、小官を辭せず。進みて賢を隱さず、必ず其の道を以てす。遺佚せられて怨みず、阨窮して憫えず、鄉人と處り、由由然として去るに忍ぶざるなり。『爾は爾為り、我は我為り。我が側に袒裼裸裎すと雖も、爾焉くんぞ能く我を浼(けがす)さんや。』故に柳下惠の風を聞く者は、鄙夫も寬に、薄夫も敦し。孔子の齊を去るや、淅(セキ)を接して行く。魯を去るや、曰く、『遲遲として吾行く。』父母の國を去るの道なり。以て速やかにす可くして速やかにす、以て久しくす可くして久しくす、以て處る可くして處る、以て仕う可くして仕うるは、孔子なり。」孟子曰く、「伯夷は、聖の清なる者なり。伊尹は、聖の任なる者なり。柳下惠は、聖の和なる者なり。孔子は、聖の時なる者なり。孔子を之れ集めて大成すと謂う。集めて大成すとは、金聲して玉之を振するなり。金聲すとは、條理を始むるなり。玉之を振すとは、條理を終うるなり。條理を始むるは、智の事なり。條理を終うるは、聖の事なり。智は譬えば則ち巧なり。聖は譬えば則ち力なり。由ほ百步の外に射るがごとし。其の至るは、爾の力なり。其の中たるは、爾の力に非ざるなり。」

<語釈>
○「頑夫廉」、「頑」は、趙岐は貪に、王念孫は「鈍」に解する。「頑夫」は、この二つを合わせて、貪欲で頑固な人物に解する。「廉」は清廉。○「懦夫」、朱注:「懦」は柔弱なり。意気地のない人物。○「由由然」、ゆったりする、自得する貌。○「袒裼裸裎」、「袒裼」は、はだ脱ぎ、「裸裎」は全身裸。「袒裼裸裎」で裸になることで、無作法な態度を指す。○「鄙夫」、心の狭い男。○「薄夫」、薄情な男。○「接淅而行」、服部宇之吉氏云う、「接」は乾かすなり、「淅」は水に漬せる米なり、「接淅」は水に漬せる米の水を去り、乾かし、炊がずして去ると云うことなり、去ること急にして、飯を炊ぐの暇なく。米のままににて持ち去るなり。○「集大成」、趙注:孔子は、先聖の大道を集めて、以て己の聖徳を成す者なり。○「振」、朱注:「振」は「収」なり。○「條理」、朱注:條理は脈絡なり。筋道のこと。

<解説>
この節は他章との重複が多いが、古より聖人として尊ばれている、伯夷・伊尹・柳下惠・孔子の四人を並べての人物評は面白い。これらの誰に共感を覚えるかは人によって違うだろう。