gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

『孟子』巻第八離婁章句下 百九節、百十節

2018-04-20 10:07:31 | 四書解読
百九節

孟子は言った。
「夏の禹王は美酒を遠ざけて、善言を好んだ。殷の湯王は中正の道を固く守り、賢者を登用する際にもどこから来たのかを問題にしなかった。周の文王は民に対して傷ついた者をいたわるように、慈愛の心で接し、更に仁道をより多くの人に及ぼすことを望み、常に未だ不十分であると思い、努力を重ねていた。武王は近習の臣下にも馴れ親しんで礼を失するようなことをせず、遠くの者も疎略にしなかった。周公は夏・殷・周三代の善政を兼ねて、禹・湯・文・武四王の行った事を実施しようとした。そしてそれが今の実情に合わなければ、天を仰いで日夜考え続け、幸にその方策が見つかった時は、少しでも早く実行したくて、座ったままで夜の明けるのを待つというほどであった。」

孟子曰、禹惡旨酒而好善言。湯執中、立賢無方。文王視民如傷、望道而未之見。武王不泄邇、不忘遠。周公思兼三王、以施四事。其有不合者、仰而思之、夜以繼日。幸而得之、坐以待旦。

孟子曰く、「禹は旨酒を惡みて善言を好む。湯は中を執り、賢を立つること方無し。文王は民を視ること傷つけるが如く、道を望むこと未だ之を見ざるが而(「如」の義に読む)し。武王は邇きに泄れず、遠きを忘れず。周公は三王を兼ね、以て四事を施さんことを思う。其の合わざる者有れば、仰いで之を思い、夜以て日に繼ぐ。幸にして之を得れば、坐して以て旦を待つ。」

<語釈>
○「禹惡旨酒」、趙注:「旨酒」は美酒なり、儀狄、酒を作る、禹飲みて之を甘しとす、遂に儀狄を疏んじて旨酒を絶つ。○「執中、立賢無方」、趙注:中正の道を執る、惟れ賢は速やかに之を立て、其の何れの方從り來たるかを問わず。○「泄邇」、趙注:「泄」は「狎」、「邇」は「近」なり。○「三王」、趙注:三王は三代の王なり。夏・殷・周の三代。○「四事」、趙注:四事は禹・湯・文・武の行う所の事なり。

<解説>
禹・湯・文・武の四王と周公の事跡について述べられているが、儒教における周公の位置づけがよく表れている内容である。趙岐の章指にも云う、「周公能く三王の道を思い、以て成王を輔く、太平の隆、禮樂の備え、蓋し此に由るなり。」

百十節

孟子は言った。
「周が衰えて、古よりの聖王の恩沢も途絶え、太平の道も衰えてしまった。その為民間の間から王を称える詩も消えてしまった。こうして詩が亡んで世の正しい道理が伝わらなくなったので、これを正そうとして孔子は『春秋』を作った。これは歴史書であって、晉では『乘』と言い、楚では『檮杌』と言い、魯では『春秋』と言ったが、歴史書という点では皆同じである。その『春秋』の内容は、齊の桓公や晉の文公の覇業の事跡を記しており、その文章は史官が記したものを踏襲しているが、それだけではなく、孔子は、『史実の中で、正義のけじめは、私が自らつけさせてもらった。』と述べておられる。」

孟子曰、王者之迹熄而詩亡。詩亡然後春秋作。晉之乘、楚之檮杌、魯之春秋一也。其事則齊桓、晉文。其文則史。孔子曰、其義則丘竊取之矣。

孟子曰く、「王者の迹熄んで詩亡ぶ。詩亡んで然る後春秋作らる。晉の乘、楚の檮杌(トウ・コツ)、魯の春秋は一なり。其の事は則ち齊桓・晉文。其の文は則ち史。孔子曰く、『其の義は則ち丘竊かに之を取れり。』」

<語釈>
○「王者之迹熄而詩亡」、趙注:王者は聖王なり、太平の道衰え、王迹止熄し、頌聲作らず、故に詩亡ぶ。

<解説>
この節は、藤文公章句下の六十節と俱に、孔子が『春秋』を作った根拠の一つとなっている。春秋の時代には各国で史書が書かれていた。それを晉では『乘』、楚では『檮杌』と呼んだが、これは珍しい命名で、たいがいは『百国春秋』、『周之春秋』、『齊之春秋』などと呼ばれていた。これら各国の史書が現在伝わっていたら、春秋時代の研究は大きな変化を遂げていただろう。