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『孟子』巻第六藤文公章句下 五十七節、五十八節

2017-07-09 10:18:30 | 四書解読
五十七節

孟子は宋の臣の戴不勝に言った。
「あなたは宋の王が善政を行う立派な人になることを望んでいますか。それならはっきりと申し上げましょう。今ここに楚の大夫がいて、自分の子に齊の言葉を学ばせたいと思っているとしたら、あなたは齊の人を教育係にしますか、それとも楚の人を教育係にしますか。」
「齊の人を教育係にします。」
「一人の齊人が教育係になったとしても、まわりで多くの楚人が楚の言葉で話しかけていたのでは、鞭を持って厳しく齊の言葉を覚えさせようとしても、上達は望めません。しかしあなたが其の子を連れて齊に帰り、莊や嶽の街で数年暮らさせたら、鞭を持って厳しく楚の言葉を話させようとしても、そうならないでしょう。それと同じことで、あなたは薛居州を立派な人だと考えて、王様の近習にさせました。もし近習の者たちが、年寄りも若い者も、身分の卑しい者も尊い者も、皆薛居州のような立派な人ならば、王様は誰と善くないことをなされましょうか。逆に近習の者たちが、年寄りも若い者も、身分の卑しい者も尊い者も、皆薛居州のような立派な人でなければ、王様は誰と善いことをなされましょうか。薛居州一人の力だけでは、王様を善政を行う立派な王にすることはできません。」

孟子謂戴不勝曰、子欲子之王之善與。我明告子。有楚大夫於此、欲其子之齊語也、則使齊人傅諸。使楚人傅諸。曰、使齊人傅之。曰、一齊人傅之、衆楚人咻之、雖日撻而求其齊也、不可得矣。引而置之莊嶽之間數年、雖日撻而求其楚、亦不可得矣。子謂薛居州善士也、使之居於王所。在於王所者、長幼卑尊、皆薛居州也、王誰與為不善。在王所者、長幼卑尊、皆非薛居州也、王誰與為善。一薛居州、獨如宋王何。」

孟子、戴不勝に謂いて曰く、「子は子の王の善ならんことを欲するか。我明らかに子に告げん。此に楚の大夫有らんに、其の子の齊語せんことを欲すれば、則ち齊人をして諸に傅たらしめんか。楚人をして諸に傅たらしめんか。」曰く、「齊人をして之に傅たらしめん。」曰く、「一齊人之に傅たるも、衆楚人之を咻せば、雖日に撻(むちうつ)ちて其の齊たらんことを求むと雖も、得可からず。引いて之を莊嶽の間に置くこと數年ならば、日に撻ちて其の楚たらんことを求むと雖も、亦た得可からず。子、薛居州を善士と謂い、之をして王の所に居らしむ。王の所に在る者、長幼卑尊、皆薛居州ならば、王は誰と與にか不善を為さん。王の所に在る者、長幼卑尊、皆薛居州に非ざれば、王は誰と與にか善を為さん。一薛居州、獨り宋王を如何せん。」

<語釈>
○「咻」、音はキュウ、義はかまびすしくすること。○「莊嶽」、顧炎武云う、莊は是れ街の名、嶽は是れ里の名。

<解説>
教育に於いて環境の重要性を説いたものである。趙岐の章指に云う、諺に曰く、「白沙涅(デツ、黒土)に在れば、染めずして自ら黒し、蓬麻中に生ずれば、扶けずして自ずから直し。」と。この語句は『史記』や『荀子』などにも引用されており、当時環境の重要性が広く説かれていたのであろう。

五十八節

弟子の公孫丑が尋ねた。
「先生は進んで諸侯に面会をお求めになられないのは、どういうわけでございますか。」
孟子は言った。
「昔は臣下で無ければ、自分から面会を求めることはなかった。だから段干木は、魏の文公がわざわざ会いに来た時、垣根を乗り越えて逃げ出したし、泄柳は魯の繆公が尋ねてきても、門を閉じて中に入れなかった。だがこの二人の対応は少しやりすぎだ。相手が望んで会いにくれば、会ってもよいのだ。昔、魯の大夫の陽貨が孔子に会いたいと思っていたが、呼びつけては失礼になるのではと思い控えていた。そこで大夫が士に贈り物をしたとき、不在で直接受け取れなかった場合は、後日大夫の家までお礼に行かなければならないという礼の定めを利用して、孔子の不在を見計らって、蒸豚を届けさせた。孔子も亦た会いたくないので、陽貨の不在を窺って出かけてお礼を言った。この場合は、陽貨が先に礼を行ったので、孔子も訪問しないわけにはいかない。そこでこのようにして礼を失わずして会うことを避けたのである。曾子は、『肩をすぼめておせじ笑いをするのは、夏の野良仕事よりも疲れる。』と言い、子路は、『相手の言葉に賛同できないのに、調子を合わせているような人は、恥ずかしいのか顔を赤くしているように見える。だがそんな人物は私のあずかり知らぬところだ。』と言っている。これから見ても、君子の修養がどんなものか分かるというものだ。」

公孫丑問曰、不見諸侯、何義。孟子曰、古者不為臣不見。段干木踰垣而辟之、泄柳閉門而不內。是皆已甚。迫斯可以見矣。陽貨欲見孔子而惡無禮。大夫有賜於士、不得受於其家、則往拜其門。陽貨矙孔子之亡也、而饋孔子蒸豚。孔子亦矙其亡也、而往拜之。當是時、陽貨先。豈得不見。曾子曰、脅肩諂笑、病于夏畦。子路曰、未同而言、觀其色赧赧然。非由之所知也。由是觀之、則君子之所養、可知已矣。

公孫丑問いて曰く、「諸侯を見ざるは、何の義ぞ。」孟子曰く、「古者は、臣為らざれば見ず。段干木は垣を踰えて之を辟け、泄柳は門を閉じて內れず。是れ皆已甚だし。迫らば斯に以て見る可し。陽貨、孔子を見んと欲して禮無しとせらるるを惡む。大夫、士に賜うこと有るに、其の家に受くること得ざれば、則ち往きて其の門に拜す。陽貨、孔子の亡きを矙(うかがう)いて、孔子に蒸豚を饋る。孔子も亦た其の亡きを矙いて、往きて之を拜せり。是の時に當り、陽貨先んぜり。豈に見ざるを得んや。曾子曰く、『肩を脅かし諂い笑うは、夏畦よりも病る。』子路曰く、『未だ同じからずして言う、其の色を觀るに、赧(タン)赧然たり。由の知る所に非ざるなり。』是に由りて之を觀れば、則ち君子養う所、知る可きのみ。」

<語釈>
○「段干木」、朱注:段干木は魏の文公の時の人なり。○「泄柳」、朱注:泄柳は魯の繆公の時の人なり。○「陽貨」、趙注:陽貨は魯の大夫なり。○「夏畦」、夏の野良仕事。○「未同而言」、趙注:「未同」は志未だ合わざるなり。相手の言葉に賛同できないのに相槌を打つこと。○「赧赧然」、赤面の貌。

<解説>
朱注に云う、此の章は聖人の禮義の中正を言う、と。物事には適正があり、過ぎるも及ばぬも避ける可し、ということであろう。

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