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『孟子』巻第十一告子章句上 百四十一節、百四十二節

2018-12-19 10:23:35 | 四書解読
百四十一節

告子は言った。
「人の本性は、柔らかくて曲げやすい川柳みたいなもので、義は木を曲げて作った曲げ物のようなものだ。人の本性により後天的な仁義を行うというのは、柔らかい川柳の木を曲げて、曲げ物を作るようなものである。」
孟子は言った。
「あなたの考えでは川柳が有している本性に基づいて、曲げ物を作るのか。それともその本性を損ねて曲げ物を作るのか。もし川柳の本性を損ねて曲げ物を作るとするなら、人間も亦た本性を損ねて仁義を行うことになるのか。それはとんでもない議論だ。天下の人々を導きながら、仁義の道に禍を与えるものは、きっとあなたのような議論だろう。」

告子曰、性猶杞柳也。義猶桮棬也。以人性為仁義、猶以杞柳為桮棬。孟子曰、子能順杞柳之性而以為桮棬乎。將戕賊杞柳而後以為桮棬也。如將戕賊杞柳而以為桮棬、則亦將戕賊人以為仁義與。率天下之人而禍仁義者、必子之言夫。

告子曰く、「性は猶ほ杞柳のごときなり。義は猶ほ桮棬(ハイ・ケン)のごときなり。人の性を以て仁義を為すは、猶ほ杞柳を以て桮棬を為るがごときなり。」孟子曰く、「子能く杞柳の性に順いて、以て桮棬を為るか。將た杞柳を戕賊して、而る後以て桮棬を為るか。如し將た杞柳を戕賊して、以て桮棬を為らば、則ち亦た將た人を戕賊して、以て仁義を為すか。天下の人を率いて、仁義に禍いする者は、必ず子の言なるかな。」

<語釈>
○「告子」、趙注:告子なるは、告は姓なり、子は男子の通称なり、名は不害、兼ねて儒墨の道を治む者なり、嘗て孟子にに學びて、性命の理を純徹すること能わず。○「性」、朱注:性は、人生まれて稟(さずかる)る所の天理なり。○「杞柳」、水辺に生ずる一種の柳、かわやなぎ、又はこぶやなぎ。○「桮棬」、木を曲げて作る曲げ物。○「戕賊」、兩字共に義は、そこなう。

<解説>
告子篇は「性」について多く説かれている。この節の趣旨を服部宇之吉氏がまとめているので、それを紹介しておく。「人性は本来善悪無し、譬えば杞柳の如きなり、仁義は性の用にして成器なり、譬えば桮棬の如し、故に人性を以て仁義を為すは、杞柳を以て桮棬を造るが如しとは告子の論旨なり。杞柳は桮棬と成るべき性を有するに非ず、人が杞柳を切り創りて桮棬に造るのみ、乃ち桮棬は杞柳の性に逆らいて成れるものなり、今告子の論ずるが如く、杞柳を人の性とし桮棬を仁義とせば、仁義なるものは人の性に逆らい人の性を戕賊して成ると言わざるべからず、比喩當を失えるは明らかなり、故に孟子は告子の言を以て、天子の人心を害し仁義に禍するものと論断せり。」

百四十二節

告子は言った。
「人の本性は出口がなく渦巻いている水のようなものだ。東に切って落とせば東に流れ、西に切って落とせば西に流れる。人間の本性には、本来、善・不善の区別がない。それは水に東に流れるか西に流れるかの区別がないのと同じである。」
孟子は言った。
「確かに、水には東に流れるか西に流れるかの区別はないが、上に流れるか下に流れるかの区別もないのか。人間の本性が善であることは、水が下に流れるのが自然の理であるのと同じである。人間の本性が善であることは当然のことで、水が下に流れるのも当然のことである。だが、仮に水面を打ち付けて飛び上がらせば、額より高くあげさせられるし、水をせき止めて一気に逆流させれば山の上にまで押し上げることが出来るだろう。しかしこれらは水の本性と言えるだろうか。外からの力がそうさせたのである。人間も時に不善をなすのは、これと同じで、外からの力がそうさせるのだ。」

告子曰、性猶湍水也。決諸東方則東流、決諸西方則西流。人性之無分於善不善也、猶水之無分於東西也。孟子曰、水信無分於東西、無分於上下乎。人性之善也、猶水之就下也。人無有不善、水無有不下。今夫水、搏而躍之、可使過顙、激而行之、可使在山。是豈水之性哉。其勢則然也。人之可使為不善、其性亦猶是也。

告子曰く、「性は猶ほ湍水のごときなり。諸を東方に決すれば、則ち東流し、諸を西方に決すれば、則ち西流す。人性の善不善を分かつこと無きは、猶ほ水の東西を分かつこと無きがごときなり。」孟子曰く、「水は信に東西を分かつこと無きも、上下を分かつこと無からんや。人性の善なるや、猶ほ水の下に就くがごときなり。人、善ならざること有る無く、水、下らざること有る無し。今夫れ水は、搏ちて之を躍らせば、顙を過ごさしむ可く、激して之を行れば、山に在らしむ可し。是れ豈に水の性ならんや。其の勢い則ち然るなり。人の不善を為さしむ可きは、其の性も亦た猶ほ是のごとければなり。」

<語釈>
○「湍水」、服部宇之吉氏云う、湍水は流れ出づる口の無き所にて渦巻く水を云う。○「顙」、趙注:「顙」(ソウ)は「額」なり。○「激而行之」、水をせき止めて、逆流させること。

<解説>
孟子は周知のとおり性善説の提唱者である。この節ではそれを鮮明に述べている。ただその論法には納得のいかない点もある。「人性の善なるや、猶ほ水の下に就くがごときなり。」と述べているが、「人生の善なるや」を「人生の不善なるや」に改めればどうだろうか。そうすれば性悪説になり、外からの力で善に導かなければならない。その力を礼に求めたのが荀子であり、法に求めたのが韓非子である。どちらを支持するかは人に由り違うだろう。