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『中庸』第十九節、二十節

2015-02-09 10:32:02 | 漢文
                  第十九節
さて前節で人に信用される為には自分自身を誠にしなければならないと説いたが、その誠とは、あまねくこの世で行われるべきものとして天が定めた道である。そしてこの天が定めた誠の道を、生きる上で追及し実践することこそが、人として為さねばならない道なのである。本来誠とは天性であり、誠そのものは、ことさらに努力をしなくても道に適い、ことさらに思慮を巡らさなくても得られ、物事に動揺することなく適正な道を指し示すものである。この至誠を十全に身に備えている者が聖人である。しかし多くの人は聖人の域に達することは出来ないので、少しでもそれに近づこうと努力をする、その為には、前節の締めくくりで述べたように、物事の善惡を正しく認識して、善惡を明らかにして、最善を択んで実行することに務めることである。

誠者、天之道也。誠之者、人之道也。誠者不勉而中、不思而得、從容中道、聖人也。誠之者、擇善而固執之者也。

誠は、天の道なり。之を誠にするは、人の道なり。誠は勉めずして中り、思わずして得、從容として道に中る、聖人なり。之を誠にする者は、善を擇んで固く之を執る者なり。

                  第二十節
前節で述べた事、乃ち誠を身に備え、最善を択んで実行するためにはどうすればよいかと言えば、第一には、物事を広く学ぶことである。第二には、学べば學ぶほど疑問がわいてくるので、それを明らかにして先生に問いただすことである。第三には、こうして学び知ったことを、我が身に当てはめて慎重に反省し熟慮することである。第四には、熟慮した上で、明晰にそのことの倫理的是非、善惡を見分けることである。第五には、こうして学び明らかになったことが、理に適い、善であるならば忠実に実行することである。以上五つの事を実行する為の心構えは以下の通りである。第一には、学ばないことが有れば之を学び、学びおおせないからと言って、途中で投げ出さないこと。第二には、問い忘れていることがあれば問いただし、理解するまで止めないこと。第三には、思い足りないことがあればより一層熟慮して、途中で投げ出さないこと。第四には、熟慮して事の是非善悪を見分けることが困難であっても、明晰に判別するまで途中で止めないこと。第五には、十分に実行できないことがあれば、努力を重ねて忠実に実行し、途中で投げ出さないことである。以上のことを十分に行うことが出来れば、誰もが至誠を身に付けた聖人に近づくことができるであろう。

博學之、審問之、慎思之、明辨之、篤行之。有弗學、學之弗能、弗措也。有弗問、問之弗知、弗措也。有弗思、思之弗得、弗措也。有弗辨、辨之弗明、弗措也。有弗行、行之弗篤、弗措也。人一能之己百之、人十能之己千之。果能此道矣、雖愚必明、雖柔必強。

博く之を學び、審らかに之を問い、慎みて之を思い、明らかに之を辨じ、篤く之を行う。學ばざる有れば、之を學びて能くせざれば、措かざるなり。問わざる有り、之を問いて知らざれば、措かざるなり。思わざる有り、之を思いて得ざれば、措かざるなり。辨ぜざる有り、之を辨じて明らかならざれば、措かざるなり、行わざる有り、之を行いて篤からざれば、措かざるなり。人一にして之を能くせば己は之を百し、人十にして之を能くせば己は之を千す。果して此の道を能くせば、愚なりと雖も必ず明らかに、柔なりと雖も必ず強し。

<語釈>
○「明辨之」、「明」は明晰、「辨」は弁別で、見分けること。

<解説>
朱子は第十四節の“哀公政を問う”からこの節までを一つの節としている、内容から考えると朱子の判断は妥当であると思う。十四節では、哀公が政治について尋ねられ、孔子は君主自身が五達道を理解し、三達徳を実践することであると答えられた。十五節では、その三達徳を自ら備えているのが聖人であるが、殆どの人はそうではない。故に人は学ばなければならず、そうすることに依り誰もが聖人に近づくことが出来るのだと説き、修己治人の道を示し、具体的に国を治める為には九つの原則があると述べている。十六節では、この九原則を身につける具体策を述べ、十七節では、それを行い遂げる根本的な方法は事前に準備することであるとしている。十八節では、政を治めるには、いくら学び事前の準備を整えても、人から信用されなければ治めることは出来ない、その為には人は誠を身に備えなければないと説き、儒教の基本概念である「誠」について述べている。十九節では、「誠」とは、天が定めた道であり、この道を
生きていく上に於いて追求し実践することが人の道であり、その為に事の善悪を明らかにして最善を尽くすことであると述べ、この二十節では、その為に、学び、問い、思い、辨じ、行うことを途中どんな困難があろうとも、投げ出さずに最後までやり遂げることであると結論付けて十四節から本節までを締めくくっている。人は誰でも至誠の聖人に近づくことが出来るのであり、それを目指すことこそが人道なのであろう