スマート詩吟は面白い

スマート詩吟及び福祉詩吟は私の造語です。それらの普及を図っていきたいと思います。

闘病記19/24回(竜宮城への旅が終わって)

2012-12-23 21:25:46 | エッセー「竜宮城への旅が終わって」

 

8.実家帰省

 

久し振りに長崎実家に帰省し、母と再会して母は喜ぶと同時に私の不自由な身体をを見て嘆いた。

子供が障害者になったのだから悲しむのは当然である。

改めて、横浜・長崎が遠く隔たっていることを感じ、何故長男でありながら長崎を出て東京方面に就職したのか悔やまれてしまう。しかしこんなことで後悔しては少しも前向きになれない。吉川英治「宮本武蔵」の中に「我事において後悔せず」は、万事において実践すべきことである。

入院当初長崎帰省は不可能と思っていたが、退院後妻と同行であるが1年間に3回帰省できた。少々不具合になったが、都会で頑張って成果を出したではないか。今度は独りで帰省するつもりである。

実家は外風呂の為、身障者にとって風呂に入ることが一大事であり、実家帰省できたとしても入浴は介護施設の世話にならざるを得ないと思っていたことをベースに置くと独りで風呂を使えるのだから以前と変わらない。悔やむことは無い。

 

 本年初めに幼なじみの訃報を聞きお墓参りをした。食道がんの発見から1年前後で亡くなったと聞きまた彼の蔵書2000冊の所有を知った。

定年後地域の為に私設図書館を開設し、憩いの場の提供を夢見ていたとのことで彼の無念さの大きさを推し測ることが出来なかった。それに比べて私は何と弱腰になっているのか。もっと目標があったではないか。彼の奥さんから

「少し位の不自由さを与えられたとしても長生きして下さいね。奥様の為に!!

と励まされた。

強く生きることは義務であると思う。 

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闘病記18/24回(竜宮城への旅が終わって)

2012-12-22 17:37:18 | エッセー「竜宮城への旅が終わって」

 

水泳教室は無事入会できたが、泳力に関してはさっぱりである。左片マヒであるから積極的に左手を動かそうとするとバランスを崩し全く前に進まない。マヒの回復の為に左手を積極的に使いたいのであるが、コーチから最初は右手だけで練習する様にとアドバイスを受けている。成果が出るのはもっと先になりそうである。

パラリンピック金メダリスト成田真由美さんの著書「私、泳げなかったのに」を読んで感動し、いつか私も泳げる様になりたいと思っている。諦めずに続けていくことにしている。

本書を書いている8月にNHKBS連続ドラマ「薄桜記」が放映された。左腕を切り落とされた主人公の武士が左手が無いにも拘らず左手指が何となく気になるのだというセリフがあった。私は感覚が無いだけだから左手でモノを掴む時はしっかりと左手を見つめ改めて左手に新しい動作を覚えさせたいと思っている。

6ケ月の壁は無いと思って努力することが肝要である。リハビリが目的ではない。健常の頃無意識に行っていたことを今後は時間は余分に掛かるであろうが自覚して行うだけのことである。

加齢に伴う不具合を先取りしてしまったと考えると少しは気分が楽かもしれない。これは受容の第一歩とも思える。

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闘病記17/24回(竜宮城への旅が終わって)

2012-12-22 17:34:51 | エッセー「竜宮城への旅が終わって」

 

年金と失業保険が同時に受給出来るかと取らぬ狸の皮算用をしていたが発症してしまった訳である。

入院中、失業保険手続き延長願いを提出した。退院3ケ月後ハローワークに出向いた所、給付手続きがスムーズに出来たと同時に身障者手帳保持者となり過分な上乗せがあった。

身障者は社会から随分と支援を受けているものだと改めて納得し感激した。

またこの手帳発行に際して保土ヶ谷区役所を訪問し、区役所主催の中途障害者支援の会「カルガモ会」の紹介を受け毎週定期的に参加したので日常生活にメリハリがついた。

このカルガモ会は役所主催の為、体操、発声訓練、栄養指導等すべてプログラム化されスケジュールをこなしていくという感覚であった。

参加者の障害程度は千差万別であるが、月日を重ねるにつれ本音で話し合える場になっていき自分たちで運営する重要性も感じた。

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闘病記16/24回(竜宮城への旅が終わって)

2012-12-22 17:32:32 | エッセー「竜宮城への旅が終わって」

 

7.障害者スポーツセンタ

 退院しても自分自身の福祉については無知であった。退院後2,3ケ月して日常の生活が安定してきたので水泳教室に通いたいと思った。60歳から65歳まで勤務した子会社では埼玉の単身赴任で健康管理の為に夜間水泳教室に通いやっと25メートルを泳げる様になっていた。水泳教室では泳げる様になった楽しい思い出と同時に一緒に練習した先輩が10年前はマヒしていたので車椅子で連れてこられたのですよ」と言われたことを思い出した。水泳はきっとマヒ回復に最良と考え障害者スポーツセンタに申し込んだ。

ところが身障者手帳の所持を問われ「持っていない」と答えた。同時に私は身障者手帳を持つ身なのだということを改めて気付かされた。保土ヶ谷区役所に出向き福祉について指導を受けた。身障者が税金面、交通運賃、医療費等非常に細分化され優遇されていることを初めて知った。


 私は健常時の頃、年金センターに何回も足を運び自分の年金がどうなるのか聞いていた。私は65歳前後の退職だったので失業保険について次のようなアドバイスを受けていた。

 

「失業保険と年金は同時に両方もらえません。但し65歳までです。
   65歳前後の退職の場合ハローワークに65歳過ぎに行くと両方もらえます」

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闘病記15/24回(竜宮城への旅が終わって)

2012-12-22 17:29:12 | エッセー「竜宮城への旅が終わって」

 

神奈川県民センタの月例会「片マヒ自立研究会」には10名位参加すると聞いていた。
森山氏の本を読んでいたにも拘らず、色んな障害の方が後ろ向きの会話ばかりしているのだろうと勝手に考えているのが参加する前の思いだった。

私はこれから奇異な集団の方と付き合うことになるのかと考えることで心を一層落ち込ませてしまった。

ところが参加してそのイメージとは真逆ということにすぐ気付いた。真っ先に驚いたことは暗い顔をしているのは私だけで、森山氏始め会員全ての方が前向きな体験を発表されていることであった。森山氏から「中途障害になったことで人生を2回送るのですよ!!」という言葉は目から鱗が落ちることであった。

森山氏は発症後でも歴史研究、カメラ、書道及びハーモニカと続けその道を究められ、講演会で積極的に発信されていたが、残念ながら本年3月に82歳で永眠された。もっと教えてもらうことがあったが「新しいステージに上ってきなさい!!と言われた言葉を忘れることが出来ない。
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