暮らしの差し色

慢性腎臓病の夫と二人、静かな生活です

’64 東京オリンピック

2013-02-16 17:54:54 | 日記

今日、録画した「ALWAYS三丁目の夕日’64」を観ました。

東京オリンピックの開会式のときの、五輪の輪を飛行機が作る様子を映していました。


東京オリンピックのとき、私は東京の小学生でした。

私はうちから空を見上げて、飛行機雲の五輪の輪を見たような記憶があります。


学校では、毎日幾種類かのオリンピック放送をテレビ観戦するために、ひと学年の児童を、
親テレビのある教室に移動させ、子テレビの教室の生徒は、親テレビの生徒のイスを2つ並べて
3人掛けにして座らせてもらいました。

もう生きている間に、日本でオリンピックをやることはないだろうから、貴重な東京オリンピックを
見ておきなさい、という趣旨だったように覚えています。


これがまた、苦痛の時間で、どんな放送を見たのかもほとんど覚えていません。

3人掛けで座れればまだいいほうで、子テレビの教室から来た生徒は立って観ることもありました。


まだ年端もいかない子供には、オリンピックの試合を観ることの重要性より、長時間立っていることの
苦痛のほうが大きくて、早く番組が終わればいいのに、とずっと思っていました。


私の家庭は、野球やプロレスなどテレビで中継するスポーツ番組を観る習慣はなかったのです。

唯一、祖母が相撲中継を夕方観ていた気がします。


2020年に東京にオリンピックを招致する運動をしていますが、今の私は、外国で開催する
オリンピックを夜中でも起きてきて観るくらいですので、東京でオリンピックが開催されれば、
生きていたら、自分の目で、生の競技を観に行きたいと思います。



当時のことを振り返ると、街にはまだ傷痍軍人の障害者の方が白い着物を着て、松葉づえで歩いていました。
 
環状八号線の通りを、金魚売りや竿竹屋、お豆腐屋さんの売る姿と呼び声がありました。


1967年には、吉田茂元首相の国葬があり、家の前の環状八号線を車列が通過していきました。

車が来る前に、2階にいた私たちは、

「降りてきなさい。上から見てはだめよ。」

と、言われ、階下に降りていきました。

車列が通ったときは、歩道に近所の方たちが並んで、こうべを垂れてお見送りをしたようでした。



昭和の頃を思い出すと、なにしろ、寒かったことを覚えています。

家が木造建築だったこともその理由の一つだとは思いますが、ダイニングキッチンにガスストーブひとつ。

もっと小さかったころは、ストーブはなく、炭の掘りごたつと火鉢が暖房でした。

からだを壊すと、通りを隔てた向こう側にある内科医院に連れて行ってくれて、そのお医者さんの
診察室に、ストーブが赤赤と火が燃えて、うらやましかったです。

夜も寝る時、布団が冷たくて、あんかを入れていました。

今は、羽毛掛布団で寝ているので、からだもすぐ温まりますし、朝までぬくぬくです。

子供の頃は、日本中貧しかったので、寒いのはどのうちもそうだったのだろうと思います。

お金持ちだけが、暖かったのでしょう。


「失われた20年」と言いますが、あの頃よりは、日本は豊かだと感じます。




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