「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

今更ながら知る中田英寿選手の偉大さ

2018年09月28日 18時34分34秒 | サッカー選手応援
一昨日26日の書き込みで、最新のN umber誌が、中田英寿選手の欧州挑戦20周年という節目をとらえて「越境フットボーラー欧州戦記」という特集を組んだことをお伝えしました。

そして、日本サッカー界不滅の偉業ともいえる欧州挑戦の成功者である中田英寿選手の偉大さを感じたと書きました。

実は、1年前の書き込み「日本選手の欧州サッカー挑戦、これまでと、この先」では、中田選手について、こう書きました。

「かつて、中田英寿選手も中村俊輔選手も、ペルージャやレッジーナといった第一段階での成功は手にしました。しかし第二段階には進めなかったと思います。ACミラン、インテルあるいは他のリーグのビッグクラブに引き抜かれるところまでは行かなかったと言えます。

確かに中田英寿選手はASローマでスクデットを獲得できました。そのことをもって「成功を収めた」といっていいのかもしれません。けれども、私は、中田英寿選手自身には、それほどの達成感はなかったように思います。チーム内での彼の立ち位置は、フランチェスコ・トッティという絶対的なエースの次のセカンドチョイス的なものではなかったでしょうか。(中略)

つまり欧州挑戦の第二段階というのは、スタートが「プロビンチャ」(地方の弱小・中堅クラブ)であっても、最終的に世界最高峰のリーグのビッグクラブに引き抜かれ、そこで押しも押されぬレギュラーを張れることができた時だと思うのです。」

そして、次にこう続けています。
「いま日本選手は、そこを目指すところにきたといえます。乾選手や柴崎選手に続き・・・・」と。

つまり、20年前の中田選手の欧州挑戦は、今でいえば欧州挑戦の第一段階の成功だけであり、第二段階には進めなかった」といっています。

この書き込みは、今と20年前をごっちゃにした書き方になっています。20年前の世界最高峰のリーグだったセリエAで、第一段階も何も、いきなりペルージャで成功したことを成功と言わず、セリエAのビッグクラブといわれるACミラン、インテル、ユベントスに引き抜かれるところまで行けなかったのだからといっています。

それは、まるで小中学生のサッカー選手が、大人に交じって堂々と渡り合ったのに「プロ選手とやったわけではないので、たいした出来事ではない」といっているようなものでした。

20年前の、そうした挑戦と成功に憧れて、その後の選手たちが続くことができたのであり、中田英寿選手に対する現地の評価があったればこそ、その後の日本選手に道が開かれたことは、紛れもない事実です。

中田英寿選手は欧州で9年間プレーし続けた選手です。20年後の今日ですら、そこまで活躍し続けている選手は数えるほどしかいない偉業を「偉業」と呼ばずにいたことを恥じなければなりません。

今回のN umber誌特集の、中田英寿選手の部分を書き下ろしたのは、もはやサッカーライターとしては大御所といってもいい年代になったであろう、金子達仁氏です。

その金子氏が、こう書き出しています。
「(N umber編集部のメンバーには)中田のペルージャでのデビューを知らない子が多いんですよ。中田英寿って存在が当時の日本にとってどんな意味を持っていたのかも」

まさに20年の流れを端的に表現してますし、だからこそ、今、この特集を組む意味が分かるというものです。

そして、金子氏は、当時の中田英寿選手の置かれた状況について、つぎのように書いています。
「開拓者、先駆者の挑戦をリアルタイムで体感していない人たちには、ぜひとも想像していただきたいのだ。
自分以外はすべて敵といってもいい環境で、未踏の地に挑むことの困難さと偉大さを。」

金子氏が、こう訴えたのは、彼自身さえも初めて気付かされた、中田英寿選手のある話の持つ意味の重さを、伝えたかったからだと言います。

金子氏と中田英寿選手は、今年6月、この企画のこともあってイタリアを巡る旅をしたそうですが、その時に中田英寿選手が、20年前の同じ時期にスペインからイタリアに移籍した、当時、鳴り物入りだったデ・ラ・ペーニャという選手と自分とでは「覚悟がちょっと違ったのかも知れない」という話をしていたというのです。

つまり、デ・ラ・ペーニャ選手には、仮にうまくいかなくても帰れるリーグがある、という気持ちがあったのではないだろうか、「その点、僕の場合はイタリアに来た時点で、帰るという選択肢はまったくなかったから。

【ここからの書き込みは、10月1日に加筆したものです】

やるか、つぶれるか。そこの出発点というか、」

そのあとに続いた話こそが、金子氏が「こうやってもう一度中田英寿について書く機会がなければ、何も気づかないままスルーしてしまった可能性が高い」として、気付かされた「覚悟がちょっと違ったのかも知れない」という言葉だったというのです。

金子氏は続けています。「覚悟がちょっと違った? いまになって思えば、何と多くの意味の込められた言葉だったことか。」

中田英寿選手自身は、あのキャラクターです。力説風に言うでもなく、さりげない口調で言ったことでしょう。

けれども、その「覚悟」の重さというか深さというか、厳しさたるや、まさに本人の言葉を借りれば、「やるか、つぶれるか」ここでいう「やるか、」というのは、あらゆる障害を乗り越えて結果を出すということであり、「つぶれるか」というのは、いかなる事情があろうとも結果が出ずに終わってしまうかです。自分には、選択肢がそれしかない、という覚悟です。

おそらく、結果が出せなければ生きては帰れない、それぐらいの気持ちだったのでしょう。それを知ることができて、あのデビュー戦のユベントス戦での2ゴールという「(ハットトリックの可能性さえあった)衝撃的なパフォーマンスが20年目にして腑に落ちたところです。

この覚悟について金子氏はこう書いています。

「とはいえ、当時の中田英寿が内に秘めていた覚悟が、相当に異質なものだったのもまた事実である。
ペルージャのユニフォームに袖を通したとき、中田は21歳だった。失敗しても、まだ十分にリカバリーが効く年齢でもあった。にもかかわらず、彼は「Jリーグに戻って出直す」というリカバリーの道を、あらかじめ、そして完全に断ち切ってイタリアに渡っていた。
これがどれほど異様な決断だったかは、その後の挑戦者たちがたどった道のりを見ればわかる」

つまり、欧州挑戦に出た選手は数え切れないぐらいになったけれど、Jリーグに戻らずに現役を終えた選手は、中田英寿選手をおいて他にいないというのです。

メジャーリーグに挑戦した野茂英雄投手もそうだったように、改めて、彼らが抱えていた覚悟というものの重さ、凄みを感じざるを得ないと讃辞を送っています。

金子氏はまた、中田英寿選手が、サッカー選手としても、プロスポーツ全体においても、多くのものを変え、そして先駆者になったと書いています。

ことサッカーについていえば。中田英寿選手の成功により、雲の上のそのまた上だった世界最高峰の舞台・セリエAは、日本人にでも手の届くところにあると多くの人が知った、ということ。

そして金子氏は「彼がもたらした最大の変化は、アスリートの立場、ではなかったか。」と喝破しています。

すなわち、彼がある時期から、メディアとの関係に違和感を感じ始め、それに頼ることをせず、自らインターネットを通じて情報発信するようになった、そのことこそ、日本のアスリートとメディアとの関係に革命を起こした出来事だったと。

確かに。

彼はサッカー界のみならず、スポーツ界全体にとっても時代の先を行き、時代をリードした存在だったということがわかりました。

メディアという存在は、第4権力とも呼ばれ、一個人がまともに闘おうとして勝てる相手では決してありません。
ある個人が、何かのきっかけでメディアの標的になると、それこそ社会的に抹殺されかねないことになります。

中田英寿選手も、ある時期、そうした類のバッシングを受けたことについて、金子氏が詳しく書いておられますので、関心を持たれた方は、N umber誌961号をお読みください。

最後に金子氏は、こう自問しています。
「中田英寿は天才ではない。(中略)だが、天才ではない中田は、天才ですら届かなかった領域に足を踏み入れた。日本のサッカーだけではなく、スポーツ界全般にまで影響を及ぼす存在となった。
なぜそんなことが可能だったのかーーーずっとそのことを考えてきた。答えが見つかれば、第二、第三の中田英寿の出現を促すことができる。もう何年も、答えを探し続けてきた。
そして、まだ探し続けている。」

金子氏の書き下ろしは、ここで終わりではなく、氏自身なりに辿り着いている答えを紹介しています。それも本文をお読みください。

金子氏の書き下ろしを通じて、今更ながら知る中田英寿選手の偉大さをご紹介しましたが、今回のN umber誌には、もう一つ興味深い記事が載っていました。

それは、中田英寿選手の代理人でもあり、中田英寿選手のプロモーション一切を取り仕切った所属事務所社長でもある、サニーサイドアップの次原悦子氏の、ペルージャ入団交渉の真相ともいうべき「ペルージャ契約秘話」がそれです。

当時31歳だった次原社長、セリエAに精通しているわけでもなく、契約ビジネスのプロでもない彼女に全てを任せた中田英寿選手の信頼感たるや、やみくもな賭けなどとは無縁の中田選手、人を見る目の確かさに驚嘆してしまいます。

「中田と私はガウチの城に幽閉された」というキャプションがついているこの真相秘話、これもぜひ本文を。

N umber誌からの引用、特に金子達仁氏の書き下ろしからの引用が長くなり、ほとんど書き写しと言われてしまいそうな内容になりました。

けれども、「Jリーグ」というプロスポーツのジャンルに初めて登場したといっても過言ではない、本格的ライターの金子達仁氏が、日本におけるサッカー文化の醸成に果たした貢献を大いに顕彰したいが故のことであります。

最後に、そのことをお伝えして終わりたいと思います。

では、また。







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