「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

W杯デイリー(民放版) 、そろそろ番組作りも大変みたい

2014年07月10日 12時52分37秒 | テレビ番組

ブラジルW杯の日本での放映体制は、NHKと民放のコンソーシアムによる全試合生放送なので、日本での盛り上がりという点では、スカパーだけの放映よりは、格段のアナウンス効果である。

これで日本代表が決勝トーナメントにでも進んでくれれば、日本中お祭り騒ぎ間違いなしだったと思う。

日本抜きの決勝トーナメントにはなったが、有力チームと意外なチームがとり混ざった組み合わせの連続で、特に準々決勝は感動の試合続きで、存分に楽しませてもらっている。

その楽しみをショーアップしてくれているのが、「W杯デイリーハイライト」の番組名で統一された民放各社の番組だ。

各局とも、平気でゴルデンタイムに2時間番組を編成しているが、日本代表が早々に敗退した今となっては、各局とも「あぢゃ~」という思いなのではないか。

準決勝第一試合ブラジルvsドイツ戦があった今日の担当は日テレさん。試合は1試合しかなかったのに夜7時から2時間番組を組んでくれている。

だが、朝刊の番組欄に載った番組内容予告を読んで、私は「あぢゃ~」と叫んでしまった。やるに事欠いて、こんな内容でやるのかよぉ、という感じだ。
一応、内容予告を転記しておく。

番組名 FIFAワールドカップデイリー「さんま手越のスゴイ人が選ぶスゴイ人」
・吉田沙保里厳選の肉体がスゴイ人
・園児100人が判定ご当地キャラ名シーン
・上島竜兵が選ぶリアクション1位は?
・IKKOの美女サポ格付け
・川口春奈も!
という具合だ。

メインキャスターの手越にさんまが絡めば、それはおもろいバラエティという予想がつく。しかし、園児、上島、IKKOと続くコーナー、内容の予測がしにくい。

といっても、今日は、ブラジル歴史的大敗というニュースバリューのある試合の日である。バラエティ色が薄まった番組に仕上がるのではないかと思っていたが、やはり、さんまはさんまだ。

新聞の番組欄を見た時ほどの「あぢゃ~」感はなかったが、やはり、準決勝という段階まで進んできた中での2時間番組作りは、相当大変だなぁ、と同情を覚えた。

ワールドサッカーの世界を、ますます日本で身近にしてもらえるというテレビ局の貢献に、当・サッカー文化フォーラムは感謝、感謝なのだが「あまり無理しなくてもいいですよ」という思いも芽生える。

番組では、岡崎慎二、長友佑都、香川真司らのエピソードや本田圭祐のブリーフ一丁姿も登場させ、これからも日本代表を見捨てていないよというメッセージは感じられたので、よしとするか、という感じだった。

さぁ、いよいよ決勝はドイツvsアルゼンチン、そしてもその前にブラジルvsオランダの3位決定戦。3決戦は、どういう試合になるのだろう。かつて1990年イタリアも、2006年ドイツも開催国として準決勝で敗れ3決戦に回った。そして両国とも意地をみせて3位は確保した。

今回、ブラジルは、そのようなモチベーションは保てるのだろうか。決勝もさることながら、そちらも気になる。

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50年たってもリプレイされるような歴史的試合を見てしまった

2014年07月09日 16時20分56秒 | 世界のサッカー

2014ブラジルW杯準決勝、ブラジルvsドイツ戦、ドイツが実に7点をとって1-7で勝利した。これは歴史的試合だ。

1950年のブラジル大会決勝で、ブラジルがウルグアイに敗れた試合は、いまだにリプレイされる。64年も前の試合でリプレイの対象になるのは、よほどの試合だからであり、今朝の試合もその仲間入りを果たした。

ブラジルが今後もサッカー王国と言われ続けるならば、という但し書き付きではあるが、まぁ世界ナンバーワンの地位は失うことがあっても、強豪国であり続けるだろうから50年たっても、観客席で思わず泣きじゃくってしまったメガネの少年の映像など、どこかの場面がリプレイされ続けるに違いない。

それにしても、まさかの屈辱的試合である。ただの負け方ではなく、ハンパない負け方だった。世界ナンバーワンのサッカー王国が、親善試合などではなく、ホンチャンのW杯、しかも準決勝で7点も取られ、6点差で負けてしまうなどという結果を誰が想像できただろうか。

まさにサッカーというものの恐ろしさを、これでもか、これでもかと見せつけた。

これでブラジル国民は、1億総代表監督と言われるほど、セレソンに対して厳しいノルマを課してきたことを、総懺悔しなければならないだろう。セレソンに対して過酷なノルマを課すなどということは、国民の側が、いかに身の程知らずだったかということだ。

おそらく、今後のブラジル国内のメディアの論調をはじめ、さまざまな空気は劇的に変わるに違いない。これまで、あまりにも高望みしてセレソンにプレッシャーをかけ続けてきたことに対する自戒の念が多分に支配するに違いない。

そうやって、また50年先に「サッカー王国」と称賛される時をめざして一歩一歩立て直していくことになるだろう。

それにしても、勝ったドイツには何のわだかまりもないのだが、なんとも悲しい試合だった。やはりW杯は祝祭でありたい。であれば開催国でしかも誰もが認める優勝候補のブラジルに決勝の舞台にあがって欲しい、それがサッカーを愛する者の自然な願望というものだ。

ネイマールも、キャプテン、チアゴ・シウバを欠いても団結して準決勝を凌ぎ切る。そういうシナリオを期待するのが自然な願望というものだ。

それがだ。7点も取られたあげくに、自国の不世出の怪物FW・ロナウドが持っていたW杯通算得点記録まで相手チームのFW・クローゼに破られてしまったのだ。これほどの屈辱、これほどの悲劇はそう滅多にあるものではない。

そういう試合を見てしまったのだ。勝ったドイツに対して、ニュートラルな気持ちで称賛を贈るには相当長い年月を要する気がする。

なにはともあれ、記録にとどめておくことただけはしなければならない。

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スポルティーバ誌「保存版・本田の時代、サッカーに熱くなれた幸福な4年間」

2014年07月08日 23時19分47秒 | サッカー情報

手元にスポルティーバ誌、ブラジルW杯・特集号がある。特集テーマが「保存版・本田の時代、サッカーに熱くなれた幸福な4年間」

サブタイトルには「本田圭祐を読みつくす44ページ」とある。

内容はまだ読んでいないが、私は、心の中にあったひとつの霧が晴れた思いでこの雑誌を手に入れた。

ブラジルW杯で何人かの選手が「目標は優勝」と勇ましく宣言して戦いに挑んだものの、結果はグループリーグ敗退。

NHKと民放がコンソーシアムを組んで放送体制を組み、日本代表をCMに起用した映像も含めて、大会前に大いに盛り上がった結果の反動として、それなりのバッシングや潮がひくような静けさに包まれている昨今だが、日本代表が帰国した空港で、ねぎらいにも似た雰囲気があったことや、私自身も6月26日のこの欄で「本田圭祐選手、長友佑都選手、私(たち)は、ただ、ただ感謝しているから。」と書いたように、なぜか「まぁ、終わってしまったけれど、しかたがない」感もあるのだ。

では、それが何から来るものなのか。

6月26日の書きこみでは、「あなた方には十分、可能性を感じることができたし、優勝と広言することも、勝負に向かう人間が、自信なさそうではダメなのであり、仮にベスト8やベスト4を狙うには優勝を目指す気持ちと鍛錬がなければ資格がないという世界であることを、私たちは十二分に知っているから」そして、

「決して、ただの放言で優勝と口にしているのではなく、高い目標に挑戦する気概がなければ、世界の勝負に打って出ることなどできないということ」も知っているから、と書いた。

それだけでは、言い足りない何かがあると思うけれど、それは何んだろう、と、漠然と思っていたところに、スポルティーバ誌の特集である。中身を読むまでもなく、タイトルが雄弁に物語っている。

そうなんだ、この4年間、まさに本田の時代であり、その本田自身が、自らの進化を、計り知れない努力と強靭な精神力で身をもって示し、その進化を背景に「ワールドカップで優勝をめざす」と日本代表を鼓舞し続けてきた、その4年間のプロセスこそが、私たちに幸福な、サッカーに熱くなれた道のりをもたらしてくれたんだ。

私はスポルティーバ誌が、実に正鵠を射たタイトルをつけたことは、同誌が週刊プレーボーイ誌の増刊号という位置づけであることと無縁ではないと思っている。

週刊プレーボーイ誌の若者への思いやりある眼差しこそが、本田圭祐がもたらしてくれた4年間の意味を的確に見据えられたのだ。

私は、本田圭祐のようなタイプの選手が、引き続き、また現れてくれることを願望するが、ほとんど、それは無理かも知れないとも思う。

よく比較されるのは中田英寿選手だが、本田圭祐がこの4年間にもたらしてくれた「サッカーに熱くなれた幸福な」感覚は、中田英寿選手からは皆無といっていいほど得られなかった。

本田圭祐選手のような強烈なメンタリティと、有言実行の生きざまを備えた人間は、そう出現するものではない。

4年後、8年後のワールドカップで、さらなる成果をもたらす日本代表の中核に、どのようなタイプの選手が収まるのか、あるいはまた、強烈な個性は出てこないまでも数人の力強い人間力を備えた選手たちによって、日本代表が牽引されるのか、今大会のベスト8まで勝ち進んだチームに見られる、いくつかのパターンが「ひな型」になるのかも知れない。

いずれにせよ、冒頭述べたように、スポルティーバ誌、ブラジルW杯・特集号「保存版・本田の時代、サッカーに熱くなれた幸福な4年間」は、タイトルそれだけで、私の心の中にあったひとつの霧が晴らしてくれた、価値あるタイトルだと思う。

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W杯サッカー、多くの選手にみられる「入れ墨」に眉をひそめる

2014年07月02日 16時06分15秒 | アート・文化

入れ墨、または刺青と日本では呼ぶものを、最近はタトゥーと呼んで、なにかファッションとか自己表現的なものとみる向きが、徐々に増えているのだろうか?

ここでは、言葉を「入れ墨」と統一して表現させていただく。

日本では、長らく入れ墨は、いわゆるヤクザの世界の人たちが、強い自分であることを自他ともに誇示するために彫るもので、そういう人たちは、一般社会とは隔絶した世界に住むことを、それこそ自他ともに認めて過ごしてきた。

したがって、公衆浴場や温泉など、多くの人たちが裸を見せ合う場では「入れ墨の方お断り」というのが日本の文化的常識だったし、それゆえ、私を含めて多くの人たちが生理的に「入れ墨」を入れた人たちと生活を共にするのは受け入れ難いものになっている。

もちろん、過去にも「遠山の金さん」の背中には見事な桜吹雪の模様が彫ってあったとか、任侠映画のヒーロー、高倉健さん演じる主人公の背中にも見事な唐獅子牡丹の模様が彫ってあったなどと語られることはあっても、あくまで遠い存在、フィクションとか作り話的なこととして見せられているわけで、身近なことではないのだ。

それが、いつのころか、おそらく21世紀に入ったころからではないかと思うが、少しづつ、タトゥーという言葉とともに足や手の見えにくいところにアクセサリー的に入れ墨をする人たちが出てきて、その場所も、最初は見えにくいところだったのが、次第に、いわば年を追うごとに見える場所に、形も大きくなって、また、している人も、女性にも見られ、つまりは抵抗感がなくなってきているように感じる。

おそらく、20歳台前半より若い人たちに「タトゥーをどう思うか」と聞けば「別にいいんじゃない、その人の自由で・・・」と答える人が過半数を超えそうに思う。21世紀に入る前、まずピアス、つまり耳に穴をあけてアクセサリーをすることが、最初は「親からもらった身体に傷をつけてまでオシャレとかファッションなんて」と眉をひそめられたことが、そのうち、どうということがなくなり、その抵抗感が薄れた頃、今度はタトゥーに進んだように思う。そして、それも、ここにきて、日本でもあまり抵抗感のない現象になってきているのだと思う。

つまり、昔の価値観、規範意識では説得できない時代の変化というものを感じざるを得ない。おそらく先の若い人たちに「タトゥーとは入れ墨のことで、そう思っている大人は、生理的に受け付けないものなのだよ」といっても、「ヘェー、入れ墨?、わかんなぁ~ぃ、いまはファッションだと思う」と言って取り合わないだろう。

そういう中で、W杯サッカーの選手たちの入れ墨である。これも大会毎に派手さを増している。

2006年大会で、イタリアvsフランスの決勝、例のジダン頭突き事件の当事者だったイタリアのDF、マテラッツィ、彼がいろいろと、ジダンが我慢ならないことを小声で呟き続けた結果の頭突き行為だったということで、マテラッツィとはどういう男だと注視してみたら、彼の腕には大きな入れ墨が施してあって「このヤクザな野郎」と眉をひそめたことがある。このチームのキャプテン、ファビオ・カンナバーロの腕にも入れ墨があり、イタリアリーグで流行ってきたのかと感じていたが、今年の大会では、そこにもかしこにも入れ墨選手だらけだ。

私が今回、こうして入れ墨の話を書いたのは「日本代表の今後」を考えたからだ。現在の日本代表にも、見えない程度に入れ墨をしている選手は何人かいるに違いない。ただ、あからさまな入れ墨の選手は、まだ見当たらない。

どうなのだろう、今回のW杯に出場している外国選手のような、あれほどギドギトした入れ墨を日本代表選手たちがするようになったら、多くの日本人が、いまのように応援するだろうか?

試合を応援していても、その都度目に入る、あのドス黒い色の肩や腕を見て、心底応援する気持ちを持ち続けられるだろうか?

おそらく一人でもそういう選手がピッチに立ったら、まず賛否の嵐でマスコミが飛びつく大事件になるだろう。その時の容認派は「世界で当たり前のことだから」「選手の自由意思の範囲内だから」ということになるのだろう。果たして、そういう容認派が多数派になるのだろうか?

もし、議論が分かれた時、日本サッカー協会は、そういう選手は代表に呼ばないなんてことをやるだろうか? あるいはそういうことができるのだろうか?

私は近未来、そういう悩みを抱える時がくるであろうことを予測だけしておきたい。

これは、大きな意味での文化の問題でもあることから、当サッカー文化フォーラムでも無関心でいようとは思わない。ただ、子供たちに夢を与える存在の日本代表チームの選手たちの逞しい腕にドス黒い入れ墨が入っている姿を、見せても仕方がないと思うべきか、いや、規範というものがなくては、元も子もないと言うべきか、議論に一石を投じておきたい。

それは、日本代表だけの問題ではない。Jリーガー、つまり子供たちのあこがれの存在であるプロサッカー選手として、どうなんだ、という点でキチンとして欲しいのだ。一人ひとりの選手はもちろん、各チームも協会も、逃げないでもらいたい。いずれ、避けて通れない場面が出てくるに違いないから。

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