「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

サッカーを広報する知られざるスペース・都道府県会館

2015年03月28日 21時02分23秒 | サッカー情報
手元に「ナンバー」誌創刊35周年記念号がある。カズさんとヒデ・中田英寿氏が笑みをこぼしながら写真に収まっている表紙だ。

記念号のタイトルは「日本サッカーへの提言」
この号の読後感については、別の機会にしたい。

この冊子をめくると「創刊35周年記念イベント」という告知ページがある。3月27~29日の3日間、丸の内の「丸ビル1F・マルキューブ」で行なわれるとのこと。

この告知を見て、広報力を持っている、あるいは広報力を発揮することの威力を感じた。丸ビルのイベントスペースなので、集客力もあり告知が十分であれば、さぞ賑わうに違いない。

一方、丸の内からさほど遠くない平河町というところに都道府県会館がある。
その名のとおり全国ほとんどの都道府県が東京事務所を置いている集合ビルのようなところだ。

そこの地下1階からは地下鉄有楽町線・半蔵門線・南北線などが乗り入れている「永田町駅」に直接行ける通路がある。その通路の最初のコーナーに、各都道府県のPR用パネルが1枚づつ、計47枚ずらりと並んでいる。会館側に一番近いほうから沖縄県、駅に一番近いところに北海道という具合だ。

大きなパネルに各地域のアピール写真が飾られているのを一つひとつ見るだけでも旅情をそそる楽しいコーナーだ。

私は、この通路をいつも急ぎ足で通過することが多いので、じっくり足をとめることがないが、この3月は1ケ月間、各都道府県をホームタウンとするサッカーチーム、J1、J2、J3、JFLのチーム紹介といった期間だった。



私はJ3あたりになると二つ三つしかチーム名を覚えていないので、各パネルを見て「あぁ、そうか、ここにもある」という具合だし、JFLチームは初めて知るチームがほとんどだった。

まだ全国すべての都道府県にチームがあるわけではないので、サッカーチームのパネルを貼れなかった県は残念だったと思うが、いずれは参入したいと考えて地元で頑張っているのではないかと思った。

この都道府県会館の試み、今年だけでなく毎年続けてもらいたいと思うが、果たしてどうだろうか? 来年も気をつけてみたい。

ちなみに、パネルで気にいったところを2~3紹介しておきたい。









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「サッカー文化フォーラム」を商標登録しました。

2015年03月24日 19時41分51秒 | サッカー文化
当・サッカー文化フォーラムは、いまのところ、このブログ、そして不完全ながらもホームページとフェイスプックで構成されている個人レベルのサッカー情報発信基地だが、その視線は100年先を見据えている。

皆さんにも時々お知らせしているように、当フォーラムは、1990年頃から取り組んできている日本サッカーの映像記録、雑誌・新聞等の情報記録の収録・収蔵を100年先まで継続して繋いでいくこととしている。また、それらの情報記録を読み解いて得られる日本のサッカー文化の進化・成長過程をさまざまな形で紹介していく文化活動を展開して、サッカーを愛する多くの皆さんに貢献したいという「志」を持っている。

そうした「志」を持った者の証しであり、「サッカー文化フォーラム」が公的存在であるということを示すために、商標登録申請しておりましたが、このほど特許庁より認められました。

この商標登録、結構、困難な道のりだったことから、その経緯を皆さんにもお知らせしたい。
出願に先立ち、特許関係の手続きをしてくださる弁理士事務所に相談したのは2013年の秋、1年半前だ。

当方が進めているサッカー情報の収録・収蔵とそれを活用した将来的な「志」に共感していただき、代理人を引き受けていただいたのは当時の社名で「凛特許事務所」、現在は国際的な活動を社名にも反映させようということで「特許業務法人RIN IP Partners」に変更されている。

同事務所により特許庁に出願手続きしていただいたのが2013年11月。何事もなく認められれば2014年4~5月ごろには終わっていたが、そうはいかなかったのだ。

その時期、特許庁からきた通知は「拒絶」とのこと。すぐさま同事務所は、反論意見提出を提案、そのように進めていただくこととした。

反論意見書を提出してからまた半年以上経過した2014年10月、特許庁からきた通知は再び「拒絶査定」、しかし、特許事務所としても納得がいかない決定だということで「不服審判請求」により争うことが可能だと提案があった。

出願、意見書提出に続き、また不服審判請求ということで、その都度費用が加わっていくので、決して安易な判断ではないのだが、やはり、可能な限り手を尽くす気持ちのほうが勝っていたので、引き続きお願いすることにした。

そして、今月、やっとのことで「出願登録を認める旨の審決」(専門用語で言うとこういう表現になるそうです)が下されたとの連絡を受けたわけです。

これで最後の支払い費用、10年間の登録料と特許事務所への成功報酬をお支払いして、晴れて「サッカー文化フォーラム」は商標登録です。

いい経験でした。特許事務所さんも小さな案件とはいえ、手がけた出願が通ったことで安心されたことと思うし、当方も最後まで信頼してお願いしてよかったと思う。

もしお読みになった方で何か出願を考えておられる方がいらっしゃったら、同事務所にご相談されることをお勧めする。年々多忙になっておられるようなのでスムーズに受けていただけるかどうかはわからないが・・・。

以上、特許事務所さんへの御礼の気持ちも込めて、今回の商標登録出願から認められるまでの経緯を記録してみた。

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「伝説の年、1997~1998年」 もう一つの検証事項の中身

2015年03月15日 16時09分24秒 | サッカー文化
久しぶりの書き込みなので、いつ以来か確認したら、前回の書き込みが2月15日、ちょうど1ケ月ぶり、まったくの偶然だが、そういう区切りの日に書き込みするというのも、いいものだ。

1ケ月も空白にしていたのには、いろいろ理由がある。一つは身体的理由。2月下旬のある日から花粉症の症状が始まった。私の花粉症は、かなり生活に支障をきたす症状で、このシーズンは生活のパフォーマンスがかなり落ちる。

二つ目の理由は、今年6月で丸3年を迎えるサッカー映像のビデオテープからHDD変換作業の関係だ。2月4日の書き込みでもふれたが、この1ケ月間は1998年分の膨大な映像と格闘してきた。

特に6月の1ケ月分の映像量は、おそらく、それまでの半年分の映像量がわずか1ケ月間で流れたのではないかと思う。たまたま月初めの6月2日に日本代表のキャンプ地から「カズ代表落ち」の報が飛び込んできて日本中が騒然となったことで情報量の急増に拍車がかかった。

そんなわけで1ケ月もの空白を作ったが、HDD化作業のほうは日本代表が3戦全敗という成績で初のW杯挑戦を終え帰国したところで一段落、それが6月29日、まさに6月の終わりとともにW杯喧騒も潮が引くように静まったことで、作業にも少し余裕が出た感じなのだ。

2月4日の書き込みでは「1997年9月から1998年7月までの時期が、日本サッカーにとって、永遠に語り継がれる「伝説の年」であることを、あらためて実感しながら作業している。」と紹介した。

そして、翌2月5日に書き込みでは「前回の書き込みで「伝説の年、1997~1998年」、それはただの伝説の年ではなく、検証すべき事が残された「伝説の年」ということで、日本代表加茂監督更迭、岡田コーチ昇格に絡む検証事項を取り上げた。そして、この年の、もう一つの伝説は「カズ選手のワールドカップ代表落ち」である。これも、まさしく大事件、大伝説となった。」と書いた。

2月4日の時のように、ここでもまた、1998年前半の時期に何が起きたのか、かいつまんでご紹介したいと思います。


「伝説の年、1997~1998年」Part.2

ワールドカップイヤーである1998年の日本代表は、2月に豪州遠征を行なって本格始動した。そして3月1日からのダイナステイカップから実戦による本格準備がスタートした。しかし6月の本大会までの公式戦は6試合、決して多いとはいえない中でチームを調整していかなければならない。

ちなみにW杯全試合の放映権を持っているNHKは、このダイナスティカップ初戦をW杯特別編成のキックオフとした感じで、BSを中心に「W杯特集がんばれフランス大会」という毎週1回程度の特番をスタートさせた。翌週3月8日には同番組を3時間枠で放送している。

このダイナスティカッブ3試合で、日本の攻撃の軸は完全にカズから城に交替した。カズは第3戦の中国戦で初めてスタメン出場したが目立ったパフォーマンスを発揮できず後半途中で最初の選手交替を告げられ、城にピッチを譲っている。

この中国戦を落としたことで岡田監督の腹は完全に固まったと考えられる。カズのスタメン起用はもうないと。

このあと4月1日に韓国・蚕室で行なわれた2002年共催記念試合にカズは招集を見送られている。5月7日にはキリンカップを戦うメンバーとして日本代表25人が発表され、カズもメンバー入りしたがキリンカップ2試合での出場機会はゼロだった。

ここまで6試合、最初の韓国戦、香港戦には勝利したが、その後の中国戦以降は2敗2分け、得点は4試合で2点、それこそ伝統の決定力不足を露呈し始めていた。


カズ代表落ちに日本中騒然

そして6月2日の本大会登録22人の発表でのカズ代表落ちである。日本中が騒然となった。テレビも新聞もスポーツ面だけでなく、ワイドショーをはじめさまざまな切り口で論じる国民的関心事となった。

カズが北澤とともにフランスから帰国して行なわれた6月5日の会見も、各番組が長い時間をかけて取り上げる関心の高さで、カズの一言一言が注目された。

一方、W杯開幕が近づくにつれて新たな問題が生じた。日本から2~3万人の観戦ツァーがフランスに出かける直前になって、各旅行会社ともチケットが入手できていないという問題が表面化したのだ。

大手旅行代理店は急きょツァーを中止して旅行代金返還処置に踏み切ったが、中小の代理店は現地での入手に望みをつないだことから大勢のサポーターがチケットを持たないまま渡仏した。現地でチケットを求めて奔走する代理店社員やサポーターの姿が、W杯開幕に湧くフランスから届いた。

日本代表が初めてW杯の舞台に立った歴史的な日6月14日、余談だが私の誕生日である。日本がW杯に出場するようになって以来、6月14日というのは大会開幕日であったり日本戦の日だったりすることが多いため、この節目の日を結構楽しませてもらっている。

それ以降の3試合、日本は0-1、0-1、1-2の3戦全敗で大会を終えた。試合が行われた6月14日、6月20日、6月26日は日本中が応援に湧いた。テレビ視聴率は空前の数字で、日本中でパブリックビューイング方式の観戦がセットされ、W杯観戦が単なるスポーツ観戦ではなく国民的イベントになった。

翌日のモーニングショー、ワイドショーも城彰二選手や名波寛浩選手、川口能活選手の実家などにレポーターを出し、また全国主要都市での応援ぶりをつぶさに伝えた。民放各局では、試合直後の番組で、試合映像素材が放映権の関係で使えないため子供用のサッカーゲーム盤などを使って試合経過を放送するなど苦労しながらの番組作りとなった。

3戦全敗の日本代表が帰国した日、6月29日の羽田空港で城彰二選手にペットボトルの水がかけられる出来事こそあったが、総じて日本での受け止めは「よくやった、ご苦労さん」というものだった。

加えて、岡田監督が辞意を表明したことで、敗戦の責任を監督がキチンと取ったのだから、それでいいではないかという論調が大勢を占めた。

ただ、サッカー解説者、スポーツジャーナリストの一部には「なぜこういう結果になったのか」「こうなることは予見できたはずなのに、なぜ他の手だてを講じなかったのか」という点をもっと厳しく検証すべきだという意見もあったが、W杯の決勝トーナメントが進み大会がクライマックスに近づくにつれて、次第に日本でのW杯報道量は減少していき、少しづつ熱気が冷めていくのだった。

W杯初挑戦の検証 その①「信念の人・岡田監督がはまり込んだ陥穽」

6月2日、岡田監督がキャンプ地で最終登録の22人から外れる3人を発表したが、二人目に読み上げた「カズ、三浦カズ」という映像が日本に流れて以来、日本中は騒然となった。「カズが外れた!」「なぜカズが?」といった驚きとギモンに始まって、議論はさまざまな切り口に発展していった。

この時の議論の視点を幾つか整理すると、

(1)最初から22人にする必要がわかっていたのに、なぜフランスに連れていってから外すようなことをするのか、カズを外すにしてもフランスに出発する前に発表すれば、このような屈辱的なことにはならなかった。

(2)カズのような日本サッカーの功労者を外す時の遇し方を岡田監督は知らない。その意味で岡田監督はW杯のような舞台を任せられる監督とは言えない。

(3)選手選考は監督の専権事項であり、岡田監督の説明は戦術的理由ということで、それは仕方がない。納得せざるを得ない。

おおよそ、このような議論が中心だった。
この時期にはほとんど論じられなかった視点が一つ抜けている。それは、日本が3戦全敗で帰ってきて思い知らされたことでもあり、よく結果論として片づけられる部分だが、W杯のような舞台に必要な、より高いレベルでの試合経験、あるいは大舞台になればなるほど力を発揮するタイプのチョイスという視点である。

岡田監督は信念の人である。揺るぎない信念でチームを率いることができるタイプの監督であるすが故に、前年の絶体絶命のアジア予選を勝ち抜けたのかも知れない。

しかし、それ故、自分の信念に凝り固まってしまった時、大切な視点を見落としてしまう陥穽にはまったとも言える。

つまり、いくらカズのパフォーマンスが落ちたといっても、いくら戦術的にスタメン起用がない選手だといっても、W杯という極限の舞台で、何か打開策が欲しい、何か通常ではないものを出せる力が欲しいという時にカズの出番をイメージすべきなのだ。

カズは、これまでも幾度も日本を勝利に導いてきた。ブラジルで鍛えた勝利への執念、イタリアで経験した世界最高峰の肉弾戦、そうした経験値を持つ選手はカズしかいないのに、その財産を岡田監督は放棄したのだ。

W杯という舞台には、そういう選手が一人でも二人でもいるかいないが勝負を分ける。それが3戦全敗後に言われた「世界という舞台での経験のなさ」なのだ。そこは、必ず歴史の検証を受けなければならない部分だということを指摘しておきたい。


W杯初挑戦の検証 その② 論じられない「外れるべき一人」

岡田監督がカズを外したということは、代表選手25人のうち少なくとも23番目の選手だということだ。しかし本当にそうだろうか?

各ポジションをみた場合、FWは5人も選んでいるからカズを入れれば6人になってしまうという議論もあった。また守備重視の戦術を取らざるを得ないのでディフェンシブな選手は一人でも多く残したいという考えもあった。

しかし本当にそうだろうか? どんな大会でも現実には出場機会かゼロの選手が必ず数人出てくる。私はカズが22人の枠に入ればFWで3ないし4番目のチョイスであるべきだと思うし、(1)の視点に立てば、どう考えても23番目以下の選手だとは思えない。

岡田監督は「おそらく出場機会がないであろう20番目、21番目、22番目の選手とカズの必要性を天秤にかけた場合どうだろう」という思考をとっていないであろう。信念の人・岡田監督にはそういう発想が湧かないのではないか。

「カズ代表落ち」の報道を通じた議論でも「では、カズが残ったとしたら外れるのは誰だろう」という議論はなかった。これは日本的な気配りから来ているに違いない。そこは誰も触れたくないのだ。

しかし、W杯代表選手選考という難しい判断のレベルをより高めていくには、この点も歴史の検証という洗礼から逃れられないのではないか。


W杯初挑戦の検証 その③「サッカーはその国の文化を反映する」・・・ 喉元過ぎれば問わないのも日本の文化?

さる3月14日、BS朝日で興味深い番組を見た。毎週土曜日夕方の「ザ・インタビュー」という番組で、この日は聞き手がゴン中山、いまは中山雅史氏と呼ぶべきだろう。ゲストは川淵三郎氏である。

二人ともJリーグ草創期からのキーマンだけに共通の話題が多く、中山雅史氏もインタビュアーとして、とても駆け出しとは思えないほど、上手に仕切っていた(ように思うのは編集が上手だからか・・・)

いろいろな話の中で、ちょうどアギーレ後任問題も話題になり、協会の責任について話題になった。川淵さんは「協会は責任をとらないのかとか、いろいろ言われるが、そんな必要は全くない。第一、監督を解任した度に会長が辞任していたんじゃ、たまったものではない。協会というのは代表監督選びだけやっているわけではないんだから」という趣旨のことを話しておられた。

川淵さんは、まぎれもない実績をあげてこられた方だし、話術もわかりやすく具体的な方なので、ついつい「それもそうだな」と思ってしまいがちだが、結構、本質のすり替えがあったりして、だまされてしまうこともある。

例えばアギーレ解任に端を発した協会への批判というのは、アギーレ問題に限った話ではなく、ザッケローニによるブラジルW杯惨敗の総括も含めた、日本代表の将来に対する危機感から出ている話で、協会の危機意識、問題解決能力、そして具体的な取り組み姿勢に対して向けられている。

なぜ前任の強化委員長は原博実さんなんですか? なぜ現在の強化委員長は霜田正浩さんなんですか? もはや、代表監督選びの実務責任者の人というのは、協会の一担当者に留まらない国民的関心事を担う人だ。

しかし、実際の人材は、そのような重責にふさわしいかどうか吟味された形跡もなく、いわば身内の都合、身内の引きで決まっている。もはや何百億円もの予算を動かす組織にあって、そういう不透明な人選は許されないのに、それがまかり通っている。そのことに対する批判といっていい。

そういった批判は、なかなか多くの国民には伝わっていない。だからアギーレ問題のようなことが出た時にメディアで批判が噴出する。

しかし、今回、代表監督はハリルホジッチ氏に決まった。これでしばらく協会批判は収まる。つまり協会批判のネタを失ってしまうからだ。協会の危機意識、問題解決能力、そして具体的な取り組み姿勢といったことは何一つ解決されていないのに関わらずである。

だから私は、「サッカーはその国の文化を反映する」・・・ 喉元過ぎれば問わないのも日本の文化?と言いたいのだ。

それは1998年の時もまったく同じである。3戦全敗して帰ってきました。岡田監督は責任をとって辞任しました。それで「おしまい」である。代表22人の選考は的確だったのか? 各試合の采配は的確だったのか? 今後に生かすべきは何なのか、協会は社会的に厳しく問われることもなく、組織内だけで総括して、事を終えた。

1998年に関してはチケット問題に翻弄されたサポーター、旅行業者に対する協会の関与の希薄さも検証の対象となるべきだったが日本人はかくも寛容な民族である。「とにかく協会も初めての経験で、どんな対応をしていいのか全くわからなかった」と言われれば「それもそうだね」と日本人は言ってくれるのだ。

チケット問題は、そういう世界に無知な日本人が手玉にとられた例だ。かくも日本人をだますのはたやすい。そういう連中にボロ儲けされたのだ。私は1998年を「世界を知らないで出かけようとした日本人が、いいように食い物にされた」という点でも伝説の年だと考えている。

もはや「喉元過ぎれば問わない」などとノンキなことを言わないで、このような事がもしまた起きたら「ただでは済まない、なめんなよ」という強い気持ちを持つべきだと主張して「伝説の1997~1998年」に関する検証事項をまとめたい。

【この書き込みは3月15日に開始して3月16日に完了しています。標題も当初「サッカー、この1ケ月間に考えたこと」としておりましたが、最終的に変更しました。ご了承ください】






















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