「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

前回の書き込み「イニエスタが愛した神戸」であり「幸せな神戸サポーター」でもありました。を仕上げました。

2023年11月29日 21時52分53秒 | サッカー選手応援
前回11月14日に書き込んだ、「「イニエスタが愛した神戸」であり「幸せな神戸サポーター」でもありました。」を、本日、一部加筆、一部修正しながら仕上げましたのでお知らせします。
またお読みいただければと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「イニエスタが愛した神戸」であり「幸せな神戸サポーター」でもありました。

2023年11月14日 21時10分38秒 | サッカー選手応援
昨夜11月13日、NHK-BSで「イニエスタが愛した神戸」と題するドキュメンタリー番組が放送されました。
2018年に日本中はもとより世界中のサッカーファンを驚かせたバルセロナから神戸への移籍から丸5年間、途中、コロナ禍や自身のケガの影響など難しい状況の中でも、華麗なプレーでサッカーファンを魅了してきたイニエスタ選手。

今年7月1日の試合を最後に、神戸を去りました。
2022年シーズンの後半、そして今シーズン、出場機会が激減していたイニエスタ選手ですから、出場機会を求めての退団であることは明白でしたが、バルセロナを退団したときと同様、移籍先を決めないままの退団でした。

そこにはイニエスタ選手ならではの葛藤、苦悩があってのことだと、このドキュメンタリーは描いていました。
NHK大阪局の制作ですので、イニエスタ選手に寄り添い神戸に寄り添った作り方ではありますが、これまでの外国人選手とはずいぶんタイプの違う選手であること、それでいて、日本サッカー界がこれまで迎えた外国人選手の中でも、おそらくナンバーワンの実績とテクニックを持った選手であることを、伝えていたように思います。

当・夢追い人は、このドキュメンタリー番組のあらましも追いながら、私なりに、イニエスタ選手と神戸、イニエスタ選手と日本サッカー、スター選手とそのクラブサポーター、さらにはスター選手とホームタウン市民との幸福な関係について、感じたことを書き留めたいと思います。

【ここから先は、11月29日と11月30日に、部分的に加筆したり修正したりして、仕上げました】

イニエスタという選手は、有り余るサッカーの才能と、誰にも勝るサッカー選手としての栄光を手にしていながら、心の病にさえなりかねない繊細で、内向き志向の心優しいタイプのサッカー選手、という、およそスーパーなサッカー選手には似つかわしくないタイプの選手ではないのかと感じました。

それを確信させたのは、当・夢追い人の最も得意な「サッカーに関する映像の収録データ」にある、2014年8月24日に収録したWOWOWの番組「トップアスリートの肖像 アンドレス・イニエスタ、スペイン代表の頭脳と呼ばれる男」です。

この番組はスペインのカタルーニャテレビ局が2013年に制作した1時間番組で、地元局のインタビュアーがバケーション中のイニエスタの自宅をたずね、1晩泊めてもらいながらその妻子を含めたプライベートに密着したドキュメンタリー番組で、日本ではおそらくお目にかかれない作り方の番組でした。

さまざまなことを話題にしたインタビューの中から、イニエスタ選手の性格や人柄がよく出ている部分をご紹介しましょう。
子供という家族が増えて生活がどう変わったかを問われて、
「僕は頑固な人間なので、以前は家でも試合のことを思い出してビデオを何度も見直したり、ミスの原因を考えたりして長時間眠らないでいた。」奥さんが話を継いで「一晩中寝なかったこともあるのよ」
「でも、次の試合で200%の力を出して結果をだせばいいと、考えるようになった」

きみのオリジナルワインのラベルには「情熱は内に秘められている」と書かれているけど、それって君自身のことだよね? と問われて、
「そうだね、ワインが少し、人生が少し、スポーツ(サッカー)が少し、何でも少しづつ」
インタビュアーが、物静かに見えても内側を見たら・・・、と追い打ちをかけると、奥さんが「そうなの、何でも自分で仕切りたがるの、あれも、これも、何でも思い通りにしたがるの」と。

場所を公園に変えてインタビューは続きました。
インタビュアーが「アンドレス・イニエスタはサッカー選手には見えないサッカー選手です」というナレーションを挟んで「チームでタトゥーをしていない数少ない1人でしょう。彼の振る舞いが、あまりにも普通なので、かえって目に留まってしまいます」「常にありのままの自分を見せ、控え目で感受性の強い人です」

インタビュアーは、それを奥さんにぶつけてみました。「イニエスタは一般的なサッカー選手のイメージからかけ離れていると思いませんか?」「ええ、私もそう思います。私も普通の人間なので、似たもの同士、双子みたいだと思います。」

インタビュアーから「これまでのサッカー人生で泣くほどの辛いことはあったの?」と問われてイニエスタ選手は「2010年の4月にケガをした時は、これからどうなってしまうのかを考えて、ピッチを出るあたりから控室まで涙が止まらなかった」と話していました。

実は、前年の2009年7月、同じカタルーニャ地方のライバルチーム・エスパニョールのキャプテンをしていたダニエル・ハルケ選手が遠征先のイタリアで急性心筋梗塞のため26歳の若さで亡くなった出来事がありました。ダニエル・ハルケ選手とイニエスタ選手はU-16代表からU-20代表、そして五輪代表とずっとスペイン代表チームを共にしてきた親友でした。

この親友の死はイニエスタ選手に大きな精神的ダメージを与え、心の病で専門家の助けを借りなければならないほど追い込まれてしまったといいます。そして後に奥さんになるアンナさんや両親の支えで何とか持ちこたえていた時に追い打ちをかけたのが2010年4月のケガだったのです。

2010年4月と言えば南アW杯でスペインが悲願の初優勝を決める決勝戦で劇的な決勝ゴールを決めた、わずか3ケ月前の出来事です。いわば「絶望の淵から歓喜の生還」といった経験だったでしょう。イニエスタ選手が「幸いサッカーというスポーツは、時には何もないところからすべてが変わるからね」と言ったのは、その劇的な経験があったからでしょう。「あのゴールを決めた日から、いいほうに人生が変わった。幸運にも、その前の時期は過去のものになった。僕をより逞しく、さらに良くしてくれた」と振り返っています。

あの2010年南アW杯決勝で、もはや延長に入ろうかという時間帯、劇的なゴールを決めたイニエスタがチームメイトと歓喜を共にした後、一人ピッチの外に向かって走り出し、とった行動が、ユニフォームの下の肌着に書いてあった「ダニ・ハルケ、いつも僕たちと一緒だ」のメッセージを、天国のダニエル・ハルケ選手に捧げることでした。

そして、それはチームメイトの誰にも明かさずにとっておいた行動でした。イニエスタ選手は「君の死から始まった僕の精神的なダメージは4月のケガで絶望のどん底まで沈んだ。その僕がケガから回復して、こうして試合に出られた。もし運よくゴールを決めることができれば、そのゴールは、不運にもこの世を去った、天国の親友ダニ・ハルケに捧げたい」と心に秘めていたのでした。

ワールドカップ史上初めてのスペイン優勝に導いた歴史的ゴールを決めた「華々しい」選手、周囲は本人の気持ちとは無関係に、そのようにイニエスタ選手を描きました。むろんイニエスタ選手自身も誇らしくはあったものの、決して「華々しい」スター選手でありたいとは思っておらず、優勝への貢献と同様に親友ダニ・ハルケへの思いも大切にする選手だったのです。

まるで、そのまま映画にしてしまいたい出来事です。

そういうメンタリティの選手であるが故に、バルセロナという世界に冠たるクラブ愛を誇る街で、小さな時から育った選手にとって、クラブを愛し、そして、その街を愛するサポーターの前で「相手チームの一員として戦う選択肢はない」と考えるところもイニエスタ選手の真骨頂であり、それが日本を選ぶことにつながっていくメンタリティだったのだと思います。

おそらくイニエスタ選手は日本もタトゥーをしている人が少ない、自分と同じメンタリティの国かも知れないと考えたと思います。

バルセロナを去ることを発表したイニエスタ選手の情報を聞いて、神戸のクラブオーナーである楽天・三木谷会長は、すでにバルセロナとスポンサー契約を結んでいることから、間髪を入れずバルセロナに飛んで、イニエスタの自宅を訪問して直談判をしましたが、そのスピード感と行動力に、三木谷氏のビジネスマンとしての凄さを感じます。

しかも、ただ直談判をすればいいとは思っておらず、三木谷会長の最も得意なプレゼンという形でイニエスタ選手の心が確実に動くプロジェクトを仕立てて談判をしたと思います。もちろん、そこには三木谷会長の故郷である神戸が大震災を受けた地であり、震災が起きた、その日がクラブの本格的な始動の日であったというドラマ性に満ちた話を加えたでしょう。プレゼンの「つかみ」の話としては、もってこいの材料だったに違いないですから。

当然のように、クラブをJリーグチャンピオンチームに、そしてアジア王者のチームにして欲しいというのが、誘い文句ですが、それはどのクラブでも同じことであり、それを、さまざまな準備の上で進めていく「クラブのプロジェクト」としてプレゼンすることが勝敗の分かれ目になります。三木谷会長は、そういうプレゼンターとしては超一級の腕前です。

イニエスタ選手獲得にあたっては、アメリカ大陸、中東、そして東アジアのクラブが対抗馬として考えられたと思いますが、仮に他のクラブが金満にモノを言わせたとしても、三木谷会長のプレゼン力であれば勝負ありだったと思います。なぜならイニエスタ選手にとっては、金の多寡が重要なのではなく「なぜ自分が必要なのか」という理由のほうが重要だからです。

その意味で三木谷会長はイニエスタ選手が説得相手であったことは、大変幸運だったと思います。

そうして加入した神戸で、描いたシナリオ通り2020年1月1日、しかも完成したばかりの新国立競技場の最初のスポーツ公式戦、いわば「こけら落とし」の試合、王者・鹿島を相手にした天皇杯決勝を制して、悲願のクラブ初タイトルをもたらしたことでイニエスタ選手の神戸での成功物語は順調に軌道に乗り始めました。

そんな矢先、コロナ禍による中断、自身も十分な準備が出来ないまま参戦したACL2021の試合で、右足太ももを負傷、選手生命を危ぶまれるほどの重傷を負ってしまいました。まさに好事魔多し、です。

長く辛いリハビリの期間を通じて神戸の街の人たちとのふれあいが生じ、神戸の人々の温かさを身に沁みて、心優しいイニエスタ選手は耐え抜きました。そして家族とともに神戸にいることの幸せをかみしめたことでしょう。

しかし、クラブの成績が思わしくなくイニエスタ選手がピッチに復帰してもクラブを押し上げる力にはなりませんでした。次第にベンチを温める時間が多くなりJ2降格さえちらついてきた中、イニエスタ選手は「自分に何ができるのか」「自分は何をしなければならないのか」を必死に模索しました。

そして意を決して、ある試合の前にロッカールームに全員に集まってもらいゲキを飛ばしたのです。
いつもは穏やかなイニエスタ選手の強い言葉にチーム全員が目覚めました。その試合から5連勝、降格の危機を脱しました。

翌2022年、今度はチーム方針として、イニエスタ選手に頼らないチーム作りを始めたことから、イニエスタ選手の出番はますます減ってしまいました。この街でサッカーを続けたいけれど、それがままならない。まだ引退しようという気持ちにはなれない。どうすればいいか思い悩む日々が続きました。コロナ禍で長らくスペインに戻れないでいたイニエスタ選手。

Jリーグの中断期間を利用して、ひさびさに両親のもとに帰ったイニエスタ選手。ご両親はイニエスタ選手の出身地であるスペイン南部の農村・フエンテアルビージャ地方にあるイニエスタ選手の自宅から割と近いところに住んでおられる。もちろんバルセロナにも自身の居宅はあるが、フエンテアルビージャの自宅で生活することも多いようです。

先に紹介したスペイン・カタルーニャテレビ局のインタビューで「君はもうカタルーニャ人かな」と問われてイニエスタ選手は「僕はフエンテアルビージャ人であり、カタルーニャ人でもあり、スペイン人だ」と答えています。決して自分の故郷は失いたくない、とも答えています。

そんな、心の拠り所とも言える故郷に久しぶりに戻り、いま日本で自分が抱えている葛藤に、つい眠れない夜、両親の部屋をノックして、ここで寝てもいいかと言ったそうです。

若い頃は頑固なまでに突き詰めて考えてしまう性分で、つい朝まで寝ないでしまうことがあった自分も、百戦錬磨の試合経験を重ねていくうち、次第に気分転換が上手になっていたのですが、いま抱えている葛藤にうまく答えが出せないでいるうちに、久々に眠れない夜になり、両親の部屋をノックしたのです。

数々の栄光を手にしたイニエスタ選手でも、やはり自分が岐路に立たされてしまうと、葛藤に思い悩み、それを両親や妻と子供たちとの時間の中で癒し、心のバランスを保ち続けたのです。

なんという出来事でしょう。幸福な形でサッカー人生を締めくくりたいと希望に満ちてやってきた日本で、拠りによって「去るか留まるか」葛藤に苦しむことになろうとは。こんな歌詞の歌がありました。「何が悪いのか今もわからない、誰のせいなのか、今もわからない・・・涙で・・」

2023年、今シーズンこそはという思いで臨んだが、チーム作りは着々と進み、皮肉にもイニエスタ選手抜きで首位に立つほどになりました。まだまだ選手としてやれる、神戸で選手を続けたい、しかし現実はイニエスタ選手抜きのチームが強くなっている。イニエスタ選手に決断の時が迫ってきました。

そしてついに、イニエスタ選手は決断します。神戸を去ることを。
当・夢追い人は、三木谷会長が慰留したという話は寡聞にして知りません。イニエスタ選手の入団を成功させた時のような熱は、もはや三木谷会長にはなくなっていたようです。ビジネス的には、もう不要ということなのでしょう。

イニエスタ選手が「ホームタウン神戸になくてはならない選手」なのではなく、もしリーグ制覇、アジア制覇に役立ち、それが楽天グループのビジネスに還元されるうちは必要だが、それがなくなれば不要になる。それが三木谷会長のビジネスにおける鉄則のようです。

イニエスタ選手は、大好きな「神戸」なのに「神戸」を去らなければならない、「ホームタウン神戸」は自分を必要としていない。皮肉です。まるで映画のストーリーのようです。

退団表明から7月1日のラストマッチまでの日々、神戸に家族と暮らすイニエスタ選手は、あらためて自分を大切にしてくれたサポーターそして「ホームタウン神戸」の人たちの思いを感じながら過ごしました。一人の偉大な選手が異国の街に来て、そのクラブと街を愛し、またサポーターも市民も、その選手に心から敬意を持つ関係、ここまでの深いつながりは、おそらく初めてのことではないでしょうか。

よく鹿島に愛されたジーコが引き合いに出されますが、決定的に異なるのは、ジーコは鹿島に住んだわけではなかったということです。ジーコにとって「鹿島」は、あくまで仕事場であったという点です。

ただ、イニエスタ選手自身も「鹿島におけるジーコさんのようになりたかったが、自分はなれなかった」と述懐しています。つまり、決してジーコを手離さなかった鹿島のクラブ首脳陣と、イニエスタ選手をあっさり手離してしまう神戸の首脳陣との違いが、不幸な別れを生んでしまったのです。

それらも含めて、イニエスタ選手と神戸の関係性というのは、イニエスタ選手という選手が極めて日本人的な穏やかさ、心優しさを持った人であることから生まれた関係性なのかも知れませんが、そんな情緒的なことを思いやる神戸の首脳陣ではないという、ねじれた関係でもあったということです。

冒頭にも触れたように、神戸退団もバルセロナ退団の時と同じように行き先を決めないでのことだった。番組では7月に退団しているにもかかわらず、その後、イニエスタ選手がどうしているかについては触れませんでした。
ネットで調べてみると、中東UAEの中堅クラブ、エミレーツで、UAEリーグを戦っているという。ここも、そう簡単には神戸と相まみえる可能性が低いのかも知れません。

このほかネットには、イニエスタ選手の持つスポーツ・エンタメ会社と、つい最近、J3クラブのYS横浜と資本提携を結んだというニュースが載っていました。
日本とスペインとの懸け橋になりたいと願っていたイニエスタ選手が、神戸で叶わなかった思いを、よりによって、同じ港町のライバル都市・横浜で叶えようとしているのかも知れません。

今にして思えば、三木谷会長のプレゼンというのは、神戸という地域に根差したプロジェクトにイニエスタ選手が必要だったのではなく、三木谷会長の描いているビジネスプランの一つの駒としてイニエスタ選手が使えるというだけのことだったのです。イニエスタ選手は、自分が「『神戸』に必要とされている」と感じたでしょうから、三木谷会長は罪深いと思います。

イニエスタ選手には、ぜひ何らかの形で日本との関わりを持ち続け、ぜひ日本とスペインとの懸け橋になっていただきたいと
思います。

今回、イニエスタ選手の書き込みをしてみて、つくづく、この選手は映画かドラマにしたくなる人だと感じました。スペイン南部の農村からFCバルセロナの育成組織、ラ・マシアの一員に選ばれてから始まったサクセス・ストーリーだけの物語ではない、両親・妻子などとの愛情物語、ダニエル・ハルケ選手との友情物語、FCバルセロナ、スペイン代表を栄光に導く神ゴール、そして異国の地・神戸での希望と絶望の交錯、さまざまなファクターに満ちたストーリーを歩んだ選手でした。

スペインの映画人やドラマ人が手掛けなくても、日本人が手掛けるべきだと思いますし、当・夢追い人も脚本をモノにしたいものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ワールドカップをめぐる冒険」のことを9月29日「小野選手引退表明」の書き込みのあとに加筆しました。

2023年11月09日 22時54分36秒 | サッカー選手応援
フジテレビの番組で以前放送されていた、小野伸二選手、高原直泰選手、稲本潤一選手の3人を追ったドキュメンタリー番組「ワールドカップをめぐる冒険」のことを、9月29日の書き込み「小野伸二選手が引退を表明しましたね。「日本サッカー史上最高」と評する人たちが多い選手でした」の後ろに、加筆する形で書き込みました。
結構、記事1本分ぐらいの文量になりましたので、ぜひ、そちらにお立ち寄りいただき、お読みください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2019年12月15日放送、テレビ東京「その日、人生が変わった。サッカーがくれた未来」を昨日見ました。

2023年11月04日 17時04分56秒 | サッカー文化
昨日、2019年12月15日に放送された、テレビ東京の番組「その日、人生が変わった。サッカーがくれた未来」というドキュメンタリーを見ました。かれこれ4年も前の番組です。

当「夢追い人」がサッカー関係の番組などを収録し続けてきたことは、何度か紹介しました。最終的には今年(2023年)1月初めで、一切の録画作業を終了しました。昨年暮れのカタールW杯の収録と、その余韻が残った番組の収録をもって終了した感じです。

その後は、収録済の試合、番組等のHDDへの格納と、データベースである「ファイルメーカー」への記録作業に全力をあげているところです。
今回ご紹介するテレビ東京のドキュメンタリー番組は、その点検作業で出てきたものです。

もともとテレビ東京さんは「FOOT×BRAIN」という番組で「この国にサッカー文化を」を合言葉に、当「夢追い人」が考えている「サッカー文化フォーラム」を、番組上で体現してくれています。この「FOOT×BRAIN」という番組をフォローしておけば「サッカー文化」として扱うべきテーマの太宗を掴むことができる感じです。

この2019年12月15日放送の番組は「FOOT×BRAIN」の拡大版というか、年末特集版といった趣きで、4人の方を紹介しながら、その方が「サッカーというものに出会って、いかに人生が変わったか」を伝えてくれています。
その4人は、
①「熱血課長、街とクラブをつなぐ51歳」というタイトルで、FC東京のホームタウンの中心地であり「味の素スタジアム」の所在地でもある東京都調布市役所の、産業振興課長をされている方
②「夢は日本一の芝」というタイトルで、湘南ベルマーレの本拠地である「レモンガススタジアム・平塚競技場」のピッチメンテナンスに心血を注ぐ湘南造園の社長さん
③「会計士からJリーグ理事へ」というタイトルで、「Jリーグを使おう」とJリーグの改革と社会連携に全国を飛び回っている若き女性理事の方
④16歳「僕はあきらめない。アンプティサッカーで日本一の夢」というタイトルで、足に障害を抱えカナディアンクラッチ(松葉づえのような用具)で体を支えながらアンプティサッカーに青春を賭けている16歳の方

どの方も、何かの縁でサッカーと出会い、サッカーの持つスポーツとしての素晴らしさ、世界的な広がりを知り、特にJリーグが地域との関わりをとりわけ重視していることに、人生が変わるほどの大きな刺激を受け、サッカーの世界にのめり込んでいる方々です。

当「夢追い人」は、中年に差し掛かった頃、サラリーマンとして終わる人生に見切りをつけ、当時、仕事で関わることができた「まちづくり、むらおこし」の分野で、自立していこうと脱サラをした人間です。

それがちょうどJリーグスタートの時期と重なりましたので、例えば鹿島アントラーズのホームタウン地域の皆さんが、何とかJリーグ参入を認めてもらうために、大変な努力と団結で必要なミッションを完遂して、見事にスターティング10チームの枠に滑り込んだいきさつなどを、つぶさに見ていました。

そして、Jリーグが次第に参加チームを拡大していく方針であったことから、一般の産業誘致と同様、Jリーグ参入に向けた取り組みも、まちづくりの大きなチャンスであることを、自分が関わった「まちづくり、むらおこし」関連のセミナーなどで提言してきました。

ですから、30年を経た現在、多くの地域で、Jリーグクラブの存在を、そのホームタウンの人々が「わがまちの誇り」「わがまちの起爆剤」「わがまちが一つになれる存在」として大切にしてくれる時代になってきたことを、実感しています。

プロサッカーリーグというのは、勝負の世界であり、1部リーグから2部リーグ、現在は3部リーグまで、成績によりふるい分けられる世界です。1部リーグであれば注目度も高く、有名選手も多いわけですが、そういう華やかな部分を望むだけなら、決してJリーグクラブは地域に根付かないでしょう。

Jリーグ30年の歴史にも、スタート当初、全国ナンバーワンの人気を誇ったクラブが、その分、地域を大切に思わないかのようなふるまいに終始して、結局、下部リーグに落ちて、地域からの支えも十分に得られない悲哀を味わっている例があります。

海外には3部リーグだけでなく4部リーグ、多いところでは5部リーグぐらいのプロクラブがいくらでもあります。そういうクラブが、その地域で成り立っていないかと言えば、熱烈にサポートする人々に支えられ、いつかは上位リーグに上がる日を夢見て何十年も戦っているクラブがあります。

結局プロサッカーグラブは、勝負の世界で勝ち上がる目標は持ちつつも、地域になくてはならない地域文化の一つとして存在するようになってこそ、初めてプロサッカークラブなのです。

それには、プロサッカーの歴史も、最低でも50年以上、イングランドやイタリア、スペインなど欧州のクラブは100年以上の歴史を積み上げてこそ「地域文化」として根付いていますから、日本でも、そのような継続の力で「地元のクラブが地域文化の誇り」となるまで育てていく必要があると思います。

サッカークラブの運営には、ある程度の資金が必ず必要になります。クラブの収支だけでやっていけるクラブは一握りです。ですから「地元のクラブが地域文化の誇り」となるまで育てていくには、地域の経済界をはじめ多くの人々が資金面でも支えクラブを守り抜いていくという思いが必要であり、クラブ側には「このクラブは守ってやりたい」と思ってもらえる日頃からの努力が不可欠です。

それには「技術・体力などでは他のクラブにかなわないが、このクラブの選手たちは決して最後まであきらめない。その頑張りには本当に頭が下がる」といったプレー面の努力が第一ですが、サッカーの指導や交流、そしてボランティア活動など、地域との積極的な交流による信頼と親近感も欠かせません。

Jリーグの若き女性理事が「Jリーグを使おう」と呼びかけたのも、地元のサッカークラブが持っている、さまざまなリソース、アセットといったものを地域の皆さんに知っていただいて、ぜひ、使えるものは使ってくださいということで、それが地域におけるクラブの価値をあげることにつながると考えてのことです。

30年を経た今日、J2やJ3のクラブは、そうして重要性をどのクラブも深く理解しています。そして、地域の側にも調布市の課長さんや湘南の造園会社社長さんのように、サッカーとの出会いによって、クラブを支えることに自分の未来を見つけた人たちが、どの町のクラブにも出てきています。

Jリーグの村井前チェアマンは、川崎フロンターレ・中村憲剛選手からかけられた「Jリーグは「地域密着」と言っていますが、川崎Fは一生懸命、それこそ必死にやっています。Jリーグはどんなことをしてますか?」という一言にガーンと頭を殴られた気がして、Jリーグ本体も地域貢献・地域連携というものについて旗を振り直さなければならないと決意したそうです。

その具体的な作戦が、上記番組の③「会計士からJリーグ理事へ」すなわち米田恵美さんの招へいです。彼女の行動力、オーガナイズ力は「Jリーグを使おう」という刺激的なキャッチフレーズに見事に集約されています。

当「夢追い人」は、最近つくづく思います。Jリーグもそうですしサッカー界における経営感覚が、ずいぶんMBA的になってきたなと。MBAというのはご存じのように「経営学修士」と呼ばれる大学の学位のことですが、つまり、打ち出される施策が極めて論理的というか、唸ってしまうことが多いのです。

例えば、Jリーグ理事に招へいされた米田恵美さんが打ち出した2つのコンセプト。
1 .ダイバーシティ&インクルージョン(Diversity & Inclusion)、個々の「違い」を受け入れ、認め、活かしていくこと。
2. トライセクター・リーダー(Tri-sector Leader)、民間・公共・社会の3つの垣根を超えて活躍する人材のこと。
これらの言葉選びもそうですし、その言葉が表している考え方が、とても、当「夢追い人」の及びもつかない内容です。

ですから、当「夢追い人」のような草の根の「ただサッカーを愛するだけの人間」には、JリーグやJFAで構想されているようなことは、別世界のことで、とても自分がその議論の中に入れるような気がしなくなっています。
昔「サッカー」と「まちづくりむらおこし」を結びつけることに関われればと願っていた当「夢追い人」が、何の能力もない「ただサッカーを愛するだけの人間」だということを、最近、いやというほど思い知らされているところです。

やはり、社会的なこれだけ大きな存在になった日本のプロサッカー界をリードしていくには、相当の経営感覚が必要なのだ、相当能力の高い人でないと務まらないのだと、つくづく思わざるを得ません。

ちなみに「Jリーグをつかおう」というキャッチフレーズで全国を駆け回った米田さんは、2022年にJリーグチェアマンが野々村氏に交代して、役員体制も一新されたのを機にJリーグ理事を退任されました。

「シャレン」や「Jリーグをつかおう」という合言葉が彼女の退任とともに消え去ることなく引き継がれていくことを願ってやみません。そのあたりは「FOOT×BRAIN」でもフォローしてもらえるとありがたいのですが。

ところで、今回取り上げた2019年12月15日放送の番組ですが、あれっと思ったことがあります。それは、放送された日付です。思い起こすと、この放送からまもなく、年が明け1月末から新型コロナウィルス禍が全世界にひろがり、日本国内でも、まったく様相が変わってしまった直前の番組です。この時は、まだ、なんの憂いもなく未来を見据えていられた時です。

あれからほぼ4年、やっと元通りの日常が戻ってきて、やっと、また何の憂いもなく未来を見据えられそうなところまで来ました。世界的に見れば戦争が暗い影を落としています。それこそ「日本有事」にでもなって、私たちの日常がまた破壊されるようなことにならないことを願うばかりです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする