「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

本田圭祐と中田英寿 私論Part-2

2013年05月30日 11時31分43秒 | インポート

前回に続き、本田圭祐と中田英寿について述べてみたいが、そのためには1993年から現在までの、日本代表におけるピッチの王様の系譜に触れる必要があると思う。

それについては、あまり異論が出ないと思うが、カズ、中田英寿、中村俊輔、本田圭祐と切れ目なく受け継がれたと思う。

受け継がれたと書いたが、いわば力で凌駕し移行したケースが、カズから中田英寿、そして中村俊輔から本田圭祐ではないだろうか。

カズから中田英寿への移行は、前回書いたジョホールバルの時点である。カズは1-2と劣勢の中、交代を命じられピッチを去った。オレ?オレが交代なの?といぶかしがったカズ選手の仕草は、まだピッチの王様の座を明け渡す自らの運命を、にわかには受け入れがたい気持ちをよく表していた。

そして彼が去ったピッチ上では、中田英寿が、誰にも気兼ねする必要がなくなったといわんばかりに、縦横無尽に動き回って、城の同点弾をアシストし、延長に入っても、これでもかこれでもかというほど動き回って岡野にパスを供給し、最後は「オレが決めるしかないのか~~~~」といわんばかりのシュートを放ち岡野のゴールに結び付けた。

これで、文句なしにピッチの王様は交代したのだ。

ところが中田英寿から中村俊輔への移行は、ドイツW杯のグループリーグ敗退が決まったピッチ上に仰向けとなってしまい、そのまま唐突な引退を発表した、中田英寿の燃え尽き引退によってもたらされた。中村俊輔は自らの力を誇示することなくピッチの王様の座を得てしまったのだ。

これが次の悲哀を生む伏線になったとも言える。

ちょうど、サッカーマガジン誌の最新号(No1459)での連載記事「日本代表裏戦記」が、フリーキックを巡る中村俊輔に対する本田圭祐の挑発事件というのが紹介されている。東京スポーツの三浦憲太郎氏の執筆だ。

時は2009年9月の国際親善マッチ・オランダ戦のピッチ上、後半から出場した本田圭祐がFKのキッカーを志願した時に生じたやりとりが、一つの事件だったと紹介している。

この時は、最終的に本田圭祐が降りて中村俊輔がFKを蹴りゴールには結びつかなかったが、当時の本田圭祐への取材から、オレが蹴ると5回ぐらい言ったこと、さらに後日「俊輔さん、最近FK決めていないでしょう」と言い放っていたことが判明したという。

記事では、これを機に、ポジションを争う二人の関係にヒビが入り、次第に中村俊輔は精彩を欠くようになって、結果的には南アフリカW杯で本田がスタメン抜擢、中村俊輔はベンチ、と結んでいる。いわば完全にピッチの王様の座が交代したわけだ。

この本田からの挑発をバネにできなかった中村俊輔の弱さは、まさに自らが力でその座を奪った経験のなさから来ているといえる。本田はまさに自らの力を誇示する形でその座を奪い、王様となったのだ。

これで中田英寿と本田圭祐が、自らの力で王様の座を勝ち取ったカリスマだということがわかったが、私は中田英寿に、いま一つギラギラ感が足りなかった試合を指摘せざるを得ない。それはもあたかも「自分はジョホールバルですべてのエネルギーを出し尽くした。あとは残っていなかった。歴史は一つ作るだけでも大変なことなのだ」とでもいうかのような、淡泊ぶりだった。それは2002年W杯決勝トーナメント1回戦のトルコ戦。

あの試合、トルシエ監督の戦意のなさという、日本代表における彼の監督歴のすべてを台無しにするような問題があったが、ピッチの上での中田英寿の淡泊さは意外と語られていない。

あの頃、中田英寿は26歳、まさにマラドーナやジダンがW杯を制した時と同じ年代、もっとも選手として充実してるはずの年代だ。ジョホールバルのような気持ちになれなかったのか、聞いてみたい。あるいはそれを問うたジャーナリストがすでにいたのかも知れないし、2002年当時は読んだのかもしれないが、だとすれば再度確認してみたい。

そして本田圭祐、彼はブラジルW杯の時28歳、少し歳は多くなったが、それでもまだ全盛期といっていい。彼が本当に歴史を作る試合を持てれば、明らかに中田英寿を凌駕したと言われるかも知れない。

まもなく、その出場権を賭けたオーストラリア戦が来るが、それもまた決してゆるがせにはできない関門だ。みんなで力を合わせて勝ち取った上でのブラジルの舞台ということだが。

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本田圭祐と中田英寿、私論

2013年05月29日 21時11分57秒 | インポート

本田圭祐と中田英寿、これは最新号のスポーツ誌「Number」(829号)の企画記事のタイトルだ。

筆者は金子達仁氏、いまやサッカージャーナリストの重鎮的存在といったら怒られるだろうか。

確かに、日本代表における存在感は比肩するものがあり、それぞれの代表時期の、他のどの選手も一目、二目おくカリスマ的存在だ。

企画ものとして、よくありがちな「どちらが上なのか」という問いは、いつの時代も読者の興味をそそる。私も、この二人の比較ならワクワクする。

金子さんは、彼の豊富な取材情報と核心をつく洞察力でテキストを仕上げておられた。

私は、1993年以降の日本サッカーにおいて、誰が真に画期的な仕事を成したか、という観点で見た場合、1997年のジョホールバルがまず頭に浮かぶ。あの試合、中田英寿は「何がなんでもこの試合は勝つし、勝てるはずである」という信念の塊と化して試合をしていたことが、何年たっても手にとるようにわかる。

その意味で、中田英寿は、紛れもなく真に画期的な仕事をした選手だ。

では、今回、比べられる本田圭祐は、真に画期的な仕事を成し遂げただろうか? おそらくあげられる試合が、2010年南アフリカW杯における決勝トーナメント進出の立役者としての仕事だろう。カメルーン戦における松井大輔のクロスに合わせたゴール、デンマーク戦におけるブレ玉FKによる先制点、これだけでも、この大会の立役者にふさわしい活躍といえるだろう。

ただ、この大会、結局はR-16でパラグアイの壁を突破できなかったことを思えば、画期的な仕事をしたとまでは思えない印象だったことも確かだ。つまり本田圭祐の時代、単にW杯突破だけでは話題にも上らないうえ、本大会でグループリーグを突破してすら、評価が得られない面がある。

現実には、私たちは、W杯に4回も連続して出場権を獲得した偉業が、どれほど大変なことかよく知っている。「W杯には、もう出て当然」なんて軽はずみに言えないことをよくわかっている。

ただ、歴史的な評価というものは、より進化した姿について下されるのも事実で、1997年に史上初めてW杯出場権を勝ち取った試合を支配した中田英寿の偉業と、2010年に自国開催ではないW杯でグループリーグを突破したチームを支配した本田圭祐の偉業を、同様の評価、あるいは本田のほうがより高いレベルに達したものとして評価する気持ちにはなれない。

私の中では、1993年以降、真に画期的な仕事をしたサッカー選手は二人だ。一人はジョホールバルの中田英寿、もう一人はアトランタ五輪最終予選のサウジ戦をモノにした前園真聖。

アトランタ五輪出場、ある意味、フル代表よりワンランク下のカテゴリーということになるが、日本における五輪出場の意味合い、そしてメキシコ五輪以来28年ぶりの出場というのは、もはやカテゴリーを超えた意味を持つ。

その出場権を賭けた試合における前園真聖の戦いは、まさに「何がなんでもこの試合は勝つし、自分の手で決めてやる」という決意を、そのままパフォーマンスに現わして、まさに画期的な仕事をした選手だ。

私は、あの試合における、前園選手のキラキラした目の輝きを今も忘れない。あの目の輝きは、完全に動物的な目だったと思う。狙った獲物は絶対に逃さない、そのためには自分の全神経を集中して戦いに臨む、そういう本当の戦士の目だ。もし、前園選手に「もう一度、あのような目つきになれますか」と聞いても、おそらく「難しい」と答えるのではないだろうか。

彼が、あの試合において、そのような集中力を持って戦ってくれたことで、日本は新たな扉を開いた。それ以後、五輪代表権も連続して獲得しているが、その扉を開いたのだ。

中田英寿と前園真聖、この二人に本田圭祐は比肩するのか、私の中では、そういうことになってしまう。

幸いなことに、本田圭祐にはまだ未来がある。日本サッカーにおける画期的な偉業を成し遂げる試合を得る可能性がある。彼にはそういう期待をかけられる。それもまたサッカーを愛する一人として、たまらない喜びだ。

さらには、かれに続くカリスマ候補生としての香川真司への期待も、しばらく持ち続けられそうだ。日本サッカーの幸福な20年に身をおける喜び、何物にも代えがたい喜びだ。

突然、話が変わると思われるかも知れないが、今日見た1994年ブラジル全国選手権グループリーグのパルメイラスvsパラナ戦にも、日本サッカーはつくづく恵まれたのだなぁ、と思わせられる。

この試合、パルメイラスのスタメンには、ジーニョ、サンパイオ、エバイール、エジムンド、ロベルト・カルノス、リバウドが名前を連ねている。

このうち、ジーニョ、サンパイオ、エバイールの3人は同年のアメリカW杯優勝メンバーであり翌1995年からJリーグ・横浜フリューゲルスに所属している。エジムンドもヴェルディに所属歴がある。そしてロベルト・カルロス、リバウドは、のちにW杯優勝を果たすブラジル代表メンバーでありインテル、レアル・マドリー、バルセロナといった世界的ビッククラブで成功した選手たちだ。来日した助っ人外国人と言われる人たちが、いかにハイレベルな人たちだったか、Jリーグが、その後の日本人選手たちのレベルを引き上げる場になったことか。

それがジーニョ、サンパイオ、エバイールをチームメイトに持った横浜フリューゲルス・前園真聖の偉業に、そして前園の偉業を五輪チームの弟分として目の当たりにした中田英寿の偉業に引き継がれている。

日本サッカーにおけるJリーグ20年というのは、本当に幸福な歴史だと思わされる。

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HDD化作業、900本達成です。年間1000本が目前です。

2013年05月21日 15時52分38秒 | インポート

今年1月に、録画サッカービデオのHDD化作業が500本に到達しましたと報告してから、毎月100本上乗せするたびに報告して、いよいよ900本を超えました。これで昨年6月14日から開始して、1年間で1000本のビデオテープをHDDに変換する作業が完了するめどがついてきました。

言い換えれば1000本のビデオテープを廃棄したということです。1000本廃棄して、どれほどスペースが空いたかというと、さほど空いていません。

実はビデオテープの分量というのを、私は保管している紙袋の数で計っています。紙袋というのはビックカメラという家電量販店の袋で、長年緑地に横文字で細かく電気メーカーの名前が印刷されている袋でした。

それの大きめのものには、実はVHSテープが24本入ります。それを引越しなどで使用するダンボールに詰めると、4袋でダンボール1個になります。つまりダンボール1個96本、約100本です。したがって、これまで廃棄できたのはダンボール10個分だけということになります。

昨年夏に保管先の倉庫を引き払ってきた時、ダンボール箱は150個ぐらいありました。そのうち約4割がサッカーマガジン、サッカーダイジェストなどの雑誌、スポーツ紙など紙類が入っていましたから、ビデオテープの箱が90個から100個程度だろうとみています。そのうちの10個減ったという段階です。いまのペースでいけば、あと8~9年かかるという計算です。

果たして元気で続けられるでしょうか。いや、どこかの段階では、どなたかに引き継ぐようにならざるを得ないでしょう。

そのためにも、HDD化した映像をテータベース資料とリンクさせて、さらにネットに乗せられるようにして、どなたでも、このサッカー映像アーカイブスにアクセスできるようにしようと思います。

そもそも、映像関係だけHDD化すればそれで終わりではなく、雑誌資料もスポーツ紙資料もHDD化して、そのすべてをリンクさせて、たとえば、1997年の「ジョホールバルの歓喜」の時、どのような映像が流れ、雑誌・書籍にはどのような記事が載り、スポーツ紙ではどのように報じられたか、サッカーにおける一つの出来事を、よく言う横串にして総覧できるようにしたいのです。

そうすれば、我が「サッカー文化フォーラム」も、どこに出しても誇れる資料館を有することになると思うのです。

一応、あと5年程度のうちには、いろいろなことを進めて、形にしていきたいと思っています。さまざまな形で参加・ご協力いただけるとありがたいと思います。ご連絡をお待ちしています。

さて、ここまでの作業で、一つ区切りがついたのは、1993年と1994年のJリーグ、つまりスタートして1年目と2年目のJリーグの試合映像を、ほぼHDD化完了したということです。

ほぼ完了と言いましたが、なにせビックカメラの紙袋に保管してあったテープです。何度か引越ししましたから、その途中でポロリとこぼれて、別な紙袋に収まったり、ダンボールに収納するのに区切りをつけるため、一部を別のダンボールに移したのだと思います。

今回、確認しましたら1993年シーズンでは前期、後期合わせてリーグ戦180試合のうち前期3試合分だけがまだHDDに変換されていませんでした。1994年についても同じく3試合、内訳は前期2試合、後期1試合ですが、リーグ戦全264試合のうち3試合が未変換です。

以前、ご紹介したかどうか忘れましたが、1993年と1994年シーズンは、当時のCS放送チャンネルだった「スポーツ・アイ」が全試合放送をしてくれたおかげで、ことらも全試合収録にチャレンジ、リピート放送もしてくれたにもかかわらず、なんやかやで録り損ねた試合もありましたが、ほとんどの試合を収録することができました。20年を経た今、こうしてHDD化できるのも、そのおかげといっても過言でありません。

さらに、録り損ねた何試合かをどうしたかというと、それがまた素晴らしい取り組みがあって、レントラックジャパンという会社が、全試合ビデオテープ販売という画期的なことをしてくれたのでした。ですから、どうしても足りない試合はそれを入手してあるわけです。

いま考えてみてどうでしょう。いまのご時世、成り立つ企画でしょうか?

私は、二度とあり得ないと思われる二つの企画にうまく乗れたと自負しています。それもそれも、先に報告した残り6試合分が出てきて完全にHDD化できた段階で言えることだと思いますが・・・・。

いよいよ本日からは1995年Jリーグ分のHDD化をスタートさせています。

1995年から数年間は、スポーツ・アイさんも3~4試合分しか放送しなくなりましたから全試合入手は風前の灯になりました。

それでも「埼玉テレビ」「神奈川テレビ」「千葉テレビ」といった、いわゆるUHF局が全部見られるようにしたほか、特に静岡、名古屋、大阪、福岡などに住んでおられるサッカーファンの皆さんにご協力いただき、地方限定の放送分をできるだけ入手しました。もちろんNHK-BSも毎節1試合は放送しますが、ほとんどは他の方法で収録・入手した試合と重複していました。

果たして全試合の何割HDD化できるか、です。95年シーズンは毎節7試合ありました。おそらく平均して6試合、ですから比率にして85%といったところではないでしょうか。1996年、1997年と進む毎に比率は少しづつ下がっていったと思います。そして、また全試合放送が復活したのは何年でしたか、1998年でしたか1999年でしたか、いずれかのシーズンだと思います。

ところで1993年のJリーグが全180試合、1994年のJリーグが全264試合といいましたから、合計444試合、そのうち6試合が未変換ですが、それにチャンピオンシップやその年のナビスコ杯、天皇杯、さらにはJFLも加えると、ほぼ500試合ぐらい、900本のうち約500本を占めているということになります。

残り400本が過去のワールドカップ、これも試合数の多いのが1982年スペイン大会からですが、1986年、1990年とほぼ終わっていますし、1992年頃から増えたサッカーを話題としたニュース、情報番組も含まれています。1994年あたりからは、NHK-BSの「Jリーグダイジェスト」、TBSの「スーパーサッカー」、テレビ朝日の「Jリーグ・A・GOGO」といったサッカー専門情報番組も登場していますから番組タイトル数は1000タイトルを超えていることは間違いありません。

そして、それらの数は1996年のアトランタ五輪出場、1997年の「ジョホールバルの歓喜」、1998年のワールドカップ初出場と、時が進むにつれ激増していきます。果たしてどれだけの規模になるやらです。

いずれ全容が明らかになるのは、HDD化が進んでからになります。というわけで経過報告でした。次回は1000本達成の時ご報告させてください。

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日本サッカー界は誤審根絶で世界をリードすべきだ。

2013年05月14日 21時46分02秒 | インポート

Jリーグ20周年を記念してアニバーサリーマッチが企画された。なかなか洒落た企画だ。Jリーグ誕生記念マッチがヴェルディ川崎vs横浜マリノスで、当時、自他ともに、それこそ誰もが認めるカードだった。

記念すべきJリーグ初ゴールが期待された人気選手の誰でもなく、無名のオランダ人・マイヤー選手だった。これだけが、記念マッチで唯一予定調和を破った出来事だったと思うのは私だけだろうか。いずれにしてもご愛嬌だった・・・・・。

今回のカードは浦和レッズvs鹿島アントラーズ、なぜこのカードか、ヴェルディvsマリノス戦に比べれば、多少説明が欲しいと思うカードではあったが、説明を聞けば頷けるカードといえる。

20年を経た今、あの2チーム、横浜マリノスは強さこそ保ってJ1を戦っているが、ヴェルディ川崎はチーム名も東京ヴェルディと、念願の「東京」という名を冠することはできたものの、J2から這い上がれずにいる。

20年後にJリーグを代表するクラブとなったのは、Jリーグ草創期にお荷物と言われたほど弱小だったチームを変わらず応援し続けた熱狂的サポーターに支えられた浦和レッズ、Jリーグ初年度のチャンピオンシップで、ジーコがボールにつばを吐きかけるほど怒り心頭に発した判定の数々もあって、あたかも奪われてしまったかのような初代チャンピオンの座、その屈辱にもめげず、というか、むしろそれをバネにして、その後、国内三大タイトル16冠という圧倒的な成績を残している鹿島アントラーズ。

両チームは地域に根ざしたクラブというJリーグの理念を体現しているという意味でも代表的なクラブだ。

そのチームの対戦を「アニバーサリーマッチ」としたまではよかったが、試合において誤審が発生した。そして、それを日本サッカー協会が認めたことで、誤審は歴史的事実となってしまった。

さて、ここからが今日の本題となる。ここでは、アニバーサリーマッチが誤審でケチがついたとか、審判のレベルを云々するのではなく、いよいよもって誤審根絶は日本サッカー界の至上命題になったということを指摘したい。

もともと、誤審問題は日本だけではなく世界的な問題だ。これまでもワールドカップをはじめさまざまなレベルで発生し、さまざまな明暗を引き起こしてきた。

世界のサッカー基準を統括するFIFAも、いろいろな改革を検討してはいるが、そもそもが純粋にサッカーの誤審問題根絶に取り組んでいるかどうか、という組織である。また、誤審で分け隔てられる栄光と挫折の多寡より、人間という生身のジャッジがかかわるという、フットボール競技の根源的な部分を失うことのほうを問題にしているフシもある。

しかし、かといって手をこまねいて見ている必要はまったくない。日本という国、あるいはJFAという日本におけるサッカーの世界は、まだワールドカップで優勝を争うほどのレベルにまで達しているわけではないが、少なくともフェアプレーの面では世界トップクラスのレベルにある。

したがって、誤審根絶を日本が世界に先駆けて取り組むのは、なんらおかしいことではなく、むしろ、日本方式が世界標準に取り入れられるような道をめざすべきなのだ。

私は、ここで一つの例えを出したい。いま国際政治の中で世界をリードするアメリカに次いで中国の存在感が高まっており、あらたな二大超大国の時代になるのではないかと言われている。

その中で、中国からさまざまな圧力や理不尽な態度を突き付けられる日本の、今後の国際社会での行き方について、普遍的価値観の部分で共鳴できない国とは一線を画す、けれども普遍的価値観を共有する国々とは、より結びつきを強固にしていく、そういう行き方が日本の進むべき道であり、その行き方を愚直に国際社会に訴えていくことが国益であるという考え方がある。

普遍的価値観とは、自由主義、民主主義、基本的人権といった面である。ある国が、その部分を基本的に保障していないならば、基本的、最終的に国際社会から受け入れられるのは難しい、そういう考え方である。

私は、サッカーにおける誤審根絶への取り組みについても、決してサッカー大国と言われる欧米の言いなりの中で済ます必要はないと思っている。日本が普遍的価値観を大切にする国として誇っていいように、フェアプレーの大国を誇りに堂々と、日本発の誤審根絶を実践すべきだと思う。

この主張は、私が、JFAには、そのような実行能力があると考えているから成り立つ主張である。もし、実はJFAにも、FIFAやUEFAの小型版のような、誤審根絶に真剣に取り組めない事情というか、根本的な問題があるのだとしたら何をかいわんやである。

なにせ、ハイテク機器を駆使して判定するシステムは、陸上、水泳などの競技はもとよりフェンシングなどの競技を観ても驚くほどの方法が導入されているのだ。どうみても合理的、論理的な手法のうち一つか二つ導入しただけでも、おそらく飛躍的に誤審は減少するだろう。

このブログは火付け役になって議論が始まり、実践に移されることを願ってやまない。

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