「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

2024年最初の話題は遠藤保仁選手、小野伸二選手、セルジオ越後氏

2024年01月11日 16時00分48秒 | サッカー選手応援
2024年1月1日、毎年恒例の天皇杯決勝にかわって今年は、日本代表国際親善試合、日本vsタイ戦が組まれました。

タイ代表監督は石井正忠氏で、日本代表のスカウティングを相当綿密にしていたと思いますが、日本は逆にスタメンに情報の少ない代表初出場選手をはじめ経験が浅い選手を多く起用して、経験豊富な伊東純也選手と田中碧選手にゲームコントロールを任せた布陣でした。

まだコンビネーションが不十分だったこともあり得点を奪うところまでは行きませんでしたが0-0でハームタイムを迎えると、後半頭から堂安律選手と中村敬斗選手を投入、すぐに効果が表れ後半5分田中碧選手がゴールを決め、試合のペースを掴みました。

その後も次々と選手を入れ替えながらゴールを重ね、終わってみれば後半だけで5得点、クリーンシートでの勝利となりました。

今回の相手国監督が日本人監督、次のアジアカップ初戦の相手、ベトナムの監督がトルシエ氏です。時の流れを感じるとともに、日本に立ち向かってくる相手国監督に、日本にゆかりのある方、つまりスカウティングをガチガチにしてくる監督が増えてきました。

タイとの試合が終わり監督インタビューも終わった頃の16時6分に、テレビ画面が突然「緊急地震速報」を報じ、能登半島地震が発生して、その4分後の16時10分に震度7の本震が襲い、サッカー中継は霧散してしまいました。

元日早々の災害で、あらためて地震が多発する国に住んでいる宿命を痛感しました。真冬の災害で救出活動が思うように進まず、未だに多くの方が安否不明になっているとのことです。少しでも捜索が進むことを願うばかりです。

避難所でご苦労されている多くの皆様にも心からお見舞い申し上げます。

さて、1月9日、ジュビロ磐田所属の遠藤保仁が現役引退を発表しました。43歳までレギュラー選手として活躍を続けた遠藤選手の引退で、いわゆる黄金世代の時代が終焉を迎えた感じです。稲本潤一と永井雄一郎選手が、地域リーグで現役を続けていますが、J3以上のカテゴリーからは消えたことになります。

遠藤保仁選手は、U-19世代からずっと代表メンバーに名を連ねていましたが、小野、高原、稲本らの中心選手から常に遅れをとっていましたが、2004年アジアカップでやっと本格的な活躍の機会を得た選手です。
その後は順調に代表レギュラーに定着するかと思われましたが、二列目でもボランチでも第一人者と言えない立ち位置のため、また控えの悲哀を味わい2006年ドイツW杯ではフィールドプレーヤーで唯一出場機会を得られないという屈辱も経験しています。

しかし遠藤選手という選手は、どんな時も喜怒哀楽が表に出ないタイプの選手で、黙々と自分のプレースタイルを貫くとともに足りない運動量の強化にも取り組み、2010年南アW杯アジア予選ではオシム氏の病気勇退を引き継いだ岡田武史監督をして「日本の心臓」と言わしめ、W杯本大会でも直接FKを決めるなどの活躍をしています。

翌2011年1月のアジアカップでもザッケローニ体制での初タイトルに貢献し、MVPを獲得した本田圭佑選手をして「個人的にはヤットさん(遠藤)だと思う。ああいう人がいなかったら勝負は紙一重だった」と言わしめる活躍でした。

すでに黄金世代の中では代表に名を連ねる選手がいなくなったこの時期、遠藤保仁選手はキャリアのピークを迎えた稀有な選手です。

日本代表キャップ数152試合、J1出場試合672試合は、当分破られそうもない不滅の記録ですし、特にJ1出場試合に限っては、J1で活躍すると海外に出ることが普通の時代になりましたから、おそらく何十年も残る記録になると思います。

イソップの寓話に「ウサギとカメ」の話がありますが、遠藤保仁選手と他の黄金世代の中心選手のことを思うと、この寓話を思い出します。
この寓話は、途中で油断して昼寝をしたウサギから「油断をしてはならない」という教訓をひいていますが、別の解釈として「ウサギがカメのことを見て油断したのに対し、カメはウサギには目もくれずゴールだけを目指してひたすら進んだ」という勝因についての教訓もあります。

遠藤選手もどちらかというとそのタイプで、早々と活躍する仲間に惑わされることなく、黙々と自分のスタイルを磨き上げ、自分なりの目指すべきゴールに向かって進んだ結果としての栄光ではないかと思います。

いずれにしても黄金世代の中心選手として不滅の立場を築いたことは間違いありません。

次に、時を同じくして総合スポーツ誌Numberが「Number PLUS 小野伸二のすべて」を発売しました。小野伸二選手は、この雑誌が特集を組んだ動機である「日本サッカーにおける最高のフットボウラーの一人」として、これからも称賛を受け続けるに違いありません。

それは、例えば日本代表としてW杯での勝利に中心的な役割を果たしたとか、浦和レッズで優勝に中心的な役割を果たしたといった類いの称賛ではないのですが、なぜか「日本サッカーにおける最高のフットボウラーの一人」という称賛に対しては、ほとんど異論がないという不思議な選手でもあります。

それが、どのような評価から導き出されているのか、あらためて、つぶさに見て、あらためてご紹介したいと思います。

そして最後ですが、1月8日にはテレビ番組にセルジオ越後氏が登場しました。BSトゥエルビ(BS12)というチャンネルで「鶴瓶ちゃんとサワコちゃん」という番組が放送されています。

笑福亭鶴瓶さんと阿川佐和子さんが司会を務める番組で「昭和の大先輩と語る」シリーズで、セルジオ越後氏の登場は昨年12月11日に放送された番組の再放送だったようです。

セルジオ越後氏が以前登場したトーク番組で、1999年10月11日に放送された「いつみても波瀾万丈」という番組を見たことがありますが、今回は、その時までのエピソードに加え、その後20年余の人生経験が加わった話でした。

その中で当・夢追い人が知らなかった話が、アイスホッケーチーム「日光アイスバックス」の再建に携わった話でした。
関わるようになったのが2006年からだそうですから、すでに17年間も携わっているそうです。

セルジオ越後さんは、78歳になられた今でこそサッカー解説の仕事はほとんどないと思いますが、ごく最近まで「日本サッカー界のご意見番」として、どんな勝利にも必ず注文をつける方でした。

当・夢追い人は、何も注文をつけず「よくやりました。立派です」だけで終わるコメントを待ち続けた一人ですが、よく考えてみると、それだと「セルジオ越後」氏ではなくなるということなんですね。「よくやりました。立派です」だけなら誰にでも言える話で、それで済むならこんな楽なことはない、というのがセルジオ越後氏の考え方だったと思います。

「鶴瓶ちゃんとサワコちゃん」でもこれまでの代表的な辛口コメントが幾つか紹介されました。
例えば。
・1年間に1試合ぐらいしか出場しない選手(=カズ(三浦知良)選手)とプロ契約を結んでいるのは、広告塔だからです。本人もそれを認めるべきです。
あるいは
・久保建英選手をスター扱いにしているけれど、バルセロナの下部組織育ちとかレアル・マドリーと契約したというブランドをありがたがって持ち上げているだけ、まだ何ものでもない選手にそんなに大騒ぎするのがおかしい。

といったようなコメントです。どちらも最近のものではなく何年か前のものですが、どちらも、なかなか一般のコメンテーターには言えないコメントです。

セルジオ越後氏が支援に入った日光アイスパックスでは、自ら広告塔を買って出て地元企業に対する出資に奔走する一方、選手をはじめクラブ関係者には「自分たちも進んで地域に認知してもらえるよう活動すること」を義務付けたそうです。

まさにJリーグのクラブが行っている取り組みを持ち込んだようです。
今回、番組を見ていて痛感したのは、セルジオ越後氏はビジネスマンとしても一流であることです。

その要因として、ご本人も強調しておられましたが「何が財産かといったら、それは人脈だと思いますね。長い間に培った人脈があるから仕事を頼まれます。人脈がなかったら、誰も頼みに来ませんし、自分が何かやりたいと言っても『あんた誰?』と言われるだけ、そんなの嫌です。」

「ある人から教えられたのですが、人に誰かを紹介するっていうことは、自分の財産をその人に分けることと同じなんだよ、と。それぐらいつながりの深い人脈がなかったら人は来ないし、仕事も来ないですよね」

日光アイスバックスに本格的に関わろうと思ったのは、地元のファンから「チームがなくなったらみんなに会えなくなるから、お願いします」と言われたことがキッカケだそうです。

つまり試合を見に行くアリーナに行けば、いつもの仲間に会える、チームが消滅すると会える場がなくなる。つまりチームとかクラブは、地域の人たちを結び付ける公共財だということを強く感じたからだそうです。

最初の3年間は累積赤字のため手弁当で立て直しに奔走して、代表取締役として現在に至っているようです。
2023年6月には「日本サッカー殿堂」入りも果たしたセルジオ越後氏、サッカー人としてもビジネスマンとしても成功者となった人だと認識しました。











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前回の書き込み「イニエスタが愛した神戸」であり「幸せな神戸サポーター」でもありました。を仕上げました。

2023年11月29日 21時52分53秒 | サッカー選手応援
前回11月14日に書き込んだ、「「イニエスタが愛した神戸」であり「幸せな神戸サポーター」でもありました。」を、本日、一部加筆、一部修正しながら仕上げましたのでお知らせします。
またお読みいただければと思います。
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「イニエスタが愛した神戸」であり「幸せな神戸サポーター」でもありました。

2023年11月14日 21時10分38秒 | サッカー選手応援
昨夜11月13日、NHK-BSで「イニエスタが愛した神戸」と題するドキュメンタリー番組が放送されました。
2018年に日本中はもとより世界中のサッカーファンを驚かせたバルセロナから神戸への移籍から丸5年間、途中、コロナ禍や自身のケガの影響など難しい状況の中でも、華麗なプレーでサッカーファンを魅了してきたイニエスタ選手。

今年7月1日の試合を最後に、神戸を去りました。
2022年シーズンの後半、そして今シーズン、出場機会が激減していたイニエスタ選手ですから、出場機会を求めての退団であることは明白でしたが、バルセロナを退団したときと同様、移籍先を決めないままの退団でした。

そこにはイニエスタ選手ならではの葛藤、苦悩があってのことだと、このドキュメンタリーは描いていました。
NHK大阪局の制作ですので、イニエスタ選手に寄り添い神戸に寄り添った作り方ではありますが、これまでの外国人選手とはずいぶんタイプの違う選手であること、それでいて、日本サッカー界がこれまで迎えた外国人選手の中でも、おそらくナンバーワンの実績とテクニックを持った選手であることを、伝えていたように思います。

当・夢追い人は、このドキュメンタリー番組のあらましも追いながら、私なりに、イニエスタ選手と神戸、イニエスタ選手と日本サッカー、スター選手とそのクラブサポーター、さらにはスター選手とホームタウン市民との幸福な関係について、感じたことを書き留めたいと思います。

【ここから先は、11月29日と11月30日に、部分的に加筆したり修正したりして、仕上げました】

イニエスタという選手は、有り余るサッカーの才能と、誰にも勝るサッカー選手としての栄光を手にしていながら、心の病にさえなりかねない繊細で、内向き志向の心優しいタイプのサッカー選手、という、およそスーパーなサッカー選手には似つかわしくないタイプの選手ではないのかと感じました。

それを確信させたのは、当・夢追い人の最も得意な「サッカーに関する映像の収録データ」にある、2014年8月24日に収録したWOWOWの番組「トップアスリートの肖像 アンドレス・イニエスタ、スペイン代表の頭脳と呼ばれる男」です。

この番組はスペインのカタルーニャテレビ局が2013年に制作した1時間番組で、地元局のインタビュアーがバケーション中のイニエスタの自宅をたずね、1晩泊めてもらいながらその妻子を含めたプライベートに密着したドキュメンタリー番組で、日本ではおそらくお目にかかれない作り方の番組でした。

さまざまなことを話題にしたインタビューの中から、イニエスタ選手の性格や人柄がよく出ている部分をご紹介しましょう。
子供という家族が増えて生活がどう変わったかを問われて、
「僕は頑固な人間なので、以前は家でも試合のことを思い出してビデオを何度も見直したり、ミスの原因を考えたりして長時間眠らないでいた。」奥さんが話を継いで「一晩中寝なかったこともあるのよ」
「でも、次の試合で200%の力を出して結果をだせばいいと、考えるようになった」

きみのオリジナルワインのラベルには「情熱は内に秘められている」と書かれているけど、それって君自身のことだよね? と問われて、
「そうだね、ワインが少し、人生が少し、スポーツ(サッカー)が少し、何でも少しづつ」
インタビュアーが、物静かに見えても内側を見たら・・・、と追い打ちをかけると、奥さんが「そうなの、何でも自分で仕切りたがるの、あれも、これも、何でも思い通りにしたがるの」と。

場所を公園に変えてインタビューは続きました。
インタビュアーが「アンドレス・イニエスタはサッカー選手には見えないサッカー選手です」というナレーションを挟んで「チームでタトゥーをしていない数少ない1人でしょう。彼の振る舞いが、あまりにも普通なので、かえって目に留まってしまいます」「常にありのままの自分を見せ、控え目で感受性の強い人です」

インタビュアーは、それを奥さんにぶつけてみました。「イニエスタは一般的なサッカー選手のイメージからかけ離れていると思いませんか?」「ええ、私もそう思います。私も普通の人間なので、似たもの同士、双子みたいだと思います。」

インタビュアーから「これまでのサッカー人生で泣くほどの辛いことはあったの?」と問われてイニエスタ選手は「2010年の4月にケガをした時は、これからどうなってしまうのかを考えて、ピッチを出るあたりから控室まで涙が止まらなかった」と話していました。

実は、前年の2009年7月、同じカタルーニャ地方のライバルチーム・エスパニョールのキャプテンをしていたダニエル・ハルケ選手が遠征先のイタリアで急性心筋梗塞のため26歳の若さで亡くなった出来事がありました。ダニエル・ハルケ選手とイニエスタ選手はU-16代表からU-20代表、そして五輪代表とずっとスペイン代表チームを共にしてきた親友でした。

この親友の死はイニエスタ選手に大きな精神的ダメージを与え、心の病で専門家の助けを借りなければならないほど追い込まれてしまったといいます。そして後に奥さんになるアンナさんや両親の支えで何とか持ちこたえていた時に追い打ちをかけたのが2010年4月のケガだったのです。

2010年4月と言えば南アW杯でスペインが悲願の初優勝を決める決勝戦で劇的な決勝ゴールを決めた、わずか3ケ月前の出来事です。いわば「絶望の淵から歓喜の生還」といった経験だったでしょう。イニエスタ選手が「幸いサッカーというスポーツは、時には何もないところからすべてが変わるからね」と言ったのは、その劇的な経験があったからでしょう。「あのゴールを決めた日から、いいほうに人生が変わった。幸運にも、その前の時期は過去のものになった。僕をより逞しく、さらに良くしてくれた」と振り返っています。

あの2010年南アW杯決勝で、もはや延長に入ろうかという時間帯、劇的なゴールを決めたイニエスタがチームメイトと歓喜を共にした後、一人ピッチの外に向かって走り出し、とった行動が、ユニフォームの下の肌着に書いてあった「ダニ・ハルケ、いつも僕たちと一緒だ」のメッセージを、天国のダニエル・ハルケ選手に捧げることでした。

そして、それはチームメイトの誰にも明かさずにとっておいた行動でした。イニエスタ選手は「君の死から始まった僕の精神的なダメージは4月のケガで絶望のどん底まで沈んだ。その僕がケガから回復して、こうして試合に出られた。もし運よくゴールを決めることができれば、そのゴールは、不運にもこの世を去った、天国の親友ダニ・ハルケに捧げたい」と心に秘めていたのでした。

ワールドカップ史上初めてのスペイン優勝に導いた歴史的ゴールを決めた「華々しい」選手、周囲は本人の気持ちとは無関係に、そのようにイニエスタ選手を描きました。むろんイニエスタ選手自身も誇らしくはあったものの、決して「華々しい」スター選手でありたいとは思っておらず、優勝への貢献と同様に親友ダニ・ハルケへの思いも大切にする選手だったのです。

まるで、そのまま映画にしてしまいたい出来事です。

そういうメンタリティの選手であるが故に、バルセロナという世界に冠たるクラブ愛を誇る街で、小さな時から育った選手にとって、クラブを愛し、そして、その街を愛するサポーターの前で「相手チームの一員として戦う選択肢はない」と考えるところもイニエスタ選手の真骨頂であり、それが日本を選ぶことにつながっていくメンタリティだったのだと思います。

おそらくイニエスタ選手は日本もタトゥーをしている人が少ない、自分と同じメンタリティの国かも知れないと考えたと思います。

バルセロナを去ることを発表したイニエスタ選手の情報を聞いて、神戸のクラブオーナーである楽天・三木谷会長は、すでにバルセロナとスポンサー契約を結んでいることから、間髪を入れずバルセロナに飛んで、イニエスタの自宅を訪問して直談判をしましたが、そのスピード感と行動力に、三木谷氏のビジネスマンとしての凄さを感じます。

しかも、ただ直談判をすればいいとは思っておらず、三木谷会長の最も得意なプレゼンという形でイニエスタ選手の心が確実に動くプロジェクトを仕立てて談判をしたと思います。もちろん、そこには三木谷会長の故郷である神戸が大震災を受けた地であり、震災が起きた、その日がクラブの本格的な始動の日であったというドラマ性に満ちた話を加えたでしょう。プレゼンの「つかみ」の話としては、もってこいの材料だったに違いないですから。

当然のように、クラブをJリーグチャンピオンチームに、そしてアジア王者のチームにして欲しいというのが、誘い文句ですが、それはどのクラブでも同じことであり、それを、さまざまな準備の上で進めていく「クラブのプロジェクト」としてプレゼンすることが勝敗の分かれ目になります。三木谷会長は、そういうプレゼンターとしては超一級の腕前です。

イニエスタ選手獲得にあたっては、アメリカ大陸、中東、そして東アジアのクラブが対抗馬として考えられたと思いますが、仮に他のクラブが金満にモノを言わせたとしても、三木谷会長のプレゼン力であれば勝負ありだったと思います。なぜならイニエスタ選手にとっては、金の多寡が重要なのではなく「なぜ自分が必要なのか」という理由のほうが重要だからです。

その意味で三木谷会長はイニエスタ選手が説得相手であったことは、大変幸運だったと思います。

そうして加入した神戸で、描いたシナリオ通り2020年1月1日、しかも完成したばかりの新国立競技場の最初のスポーツ公式戦、いわば「こけら落とし」の試合、王者・鹿島を相手にした天皇杯決勝を制して、悲願のクラブ初タイトルをもたらしたことでイニエスタ選手の神戸での成功物語は順調に軌道に乗り始めました。

そんな矢先、コロナ禍による中断、自身も十分な準備が出来ないまま参戦したACL2021の試合で、右足太ももを負傷、選手生命を危ぶまれるほどの重傷を負ってしまいました。まさに好事魔多し、です。

長く辛いリハビリの期間を通じて神戸の街の人たちとのふれあいが生じ、神戸の人々の温かさを身に沁みて、心優しいイニエスタ選手は耐え抜きました。そして家族とともに神戸にいることの幸せをかみしめたことでしょう。

しかし、クラブの成績が思わしくなくイニエスタ選手がピッチに復帰してもクラブを押し上げる力にはなりませんでした。次第にベンチを温める時間が多くなりJ2降格さえちらついてきた中、イニエスタ選手は「自分に何ができるのか」「自分は何をしなければならないのか」を必死に模索しました。

そして意を決して、ある試合の前にロッカールームに全員に集まってもらいゲキを飛ばしたのです。
いつもは穏やかなイニエスタ選手の強い言葉にチーム全員が目覚めました。その試合から5連勝、降格の危機を脱しました。

翌2022年、今度はチーム方針として、イニエスタ選手に頼らないチーム作りを始めたことから、イニエスタ選手の出番はますます減ってしまいました。この街でサッカーを続けたいけれど、それがままならない。まだ引退しようという気持ちにはなれない。どうすればいいか思い悩む日々が続きました。コロナ禍で長らくスペインに戻れないでいたイニエスタ選手。

Jリーグの中断期間を利用して、ひさびさに両親のもとに帰ったイニエスタ選手。ご両親はイニエスタ選手の出身地であるスペイン南部の農村・フエンテアルビージャ地方にあるイニエスタ選手の自宅から割と近いところに住んでおられる。もちろんバルセロナにも自身の居宅はあるが、フエンテアルビージャの自宅で生活することも多いようです。

先に紹介したスペイン・カタルーニャテレビ局のインタビューで「君はもうカタルーニャ人かな」と問われてイニエスタ選手は「僕はフエンテアルビージャ人であり、カタルーニャ人でもあり、スペイン人だ」と答えています。決して自分の故郷は失いたくない、とも答えています。

そんな、心の拠り所とも言える故郷に久しぶりに戻り、いま日本で自分が抱えている葛藤に、つい眠れない夜、両親の部屋をノックして、ここで寝てもいいかと言ったそうです。

若い頃は頑固なまでに突き詰めて考えてしまう性分で、つい朝まで寝ないでしまうことがあった自分も、百戦錬磨の試合経験を重ねていくうち、次第に気分転換が上手になっていたのですが、いま抱えている葛藤にうまく答えが出せないでいるうちに、久々に眠れない夜になり、両親の部屋をノックしたのです。

数々の栄光を手にしたイニエスタ選手でも、やはり自分が岐路に立たされてしまうと、葛藤に思い悩み、それを両親や妻と子供たちとの時間の中で癒し、心のバランスを保ち続けたのです。

なんという出来事でしょう。幸福な形でサッカー人生を締めくくりたいと希望に満ちてやってきた日本で、拠りによって「去るか留まるか」葛藤に苦しむことになろうとは。こんな歌詞の歌がありました。「何が悪いのか今もわからない、誰のせいなのか、今もわからない・・・涙で・・」

2023年、今シーズンこそはという思いで臨んだが、チーム作りは着々と進み、皮肉にもイニエスタ選手抜きで首位に立つほどになりました。まだまだ選手としてやれる、神戸で選手を続けたい、しかし現実はイニエスタ選手抜きのチームが強くなっている。イニエスタ選手に決断の時が迫ってきました。

そしてついに、イニエスタ選手は決断します。神戸を去ることを。
当・夢追い人は、三木谷会長が慰留したという話は寡聞にして知りません。イニエスタ選手の入団を成功させた時のような熱は、もはや三木谷会長にはなくなっていたようです。ビジネス的には、もう不要ということなのでしょう。

イニエスタ選手が「ホームタウン神戸になくてはならない選手」なのではなく、もしリーグ制覇、アジア制覇に役立ち、それが楽天グループのビジネスに還元されるうちは必要だが、それがなくなれば不要になる。それが三木谷会長のビジネスにおける鉄則のようです。

イニエスタ選手は、大好きな「神戸」なのに「神戸」を去らなければならない、「ホームタウン神戸」は自分を必要としていない。皮肉です。まるで映画のストーリーのようです。

退団表明から7月1日のラストマッチまでの日々、神戸に家族と暮らすイニエスタ選手は、あらためて自分を大切にしてくれたサポーターそして「ホームタウン神戸」の人たちの思いを感じながら過ごしました。一人の偉大な選手が異国の街に来て、そのクラブと街を愛し、またサポーターも市民も、その選手に心から敬意を持つ関係、ここまでの深いつながりは、おそらく初めてのことではないでしょうか。

よく鹿島に愛されたジーコが引き合いに出されますが、決定的に異なるのは、ジーコは鹿島に住んだわけではなかったということです。ジーコにとって「鹿島」は、あくまで仕事場であったという点です。

ただ、イニエスタ選手自身も「鹿島におけるジーコさんのようになりたかったが、自分はなれなかった」と述懐しています。つまり、決してジーコを手離さなかった鹿島のクラブ首脳陣と、イニエスタ選手をあっさり手離してしまう神戸の首脳陣との違いが、不幸な別れを生んでしまったのです。

それらも含めて、イニエスタ選手と神戸の関係性というのは、イニエスタ選手という選手が極めて日本人的な穏やかさ、心優しさを持った人であることから生まれた関係性なのかも知れませんが、そんな情緒的なことを思いやる神戸の首脳陣ではないという、ねじれた関係でもあったということです。

冒頭にも触れたように、神戸退団もバルセロナ退団の時と同じように行き先を決めないでのことだった。番組では7月に退団しているにもかかわらず、その後、イニエスタ選手がどうしているかについては触れませんでした。
ネットで調べてみると、中東UAEの中堅クラブ、エミレーツで、UAEリーグを戦っているという。ここも、そう簡単には神戸と相まみえる可能性が低いのかも知れません。

このほかネットには、イニエスタ選手の持つスポーツ・エンタメ会社と、つい最近、J3クラブのYS横浜と資本提携を結んだというニュースが載っていました。
日本とスペインとの懸け橋になりたいと願っていたイニエスタ選手が、神戸で叶わなかった思いを、よりによって、同じ港町のライバル都市・横浜で叶えようとしているのかも知れません。

今にして思えば、三木谷会長のプレゼンというのは、神戸という地域に根差したプロジェクトにイニエスタ選手が必要だったのではなく、三木谷会長の描いているビジネスプランの一つの駒としてイニエスタ選手が使えるというだけのことだったのです。イニエスタ選手は、自分が「『神戸』に必要とされている」と感じたでしょうから、三木谷会長は罪深いと思います。

イニエスタ選手には、ぜひ何らかの形で日本との関わりを持ち続け、ぜひ日本とスペインとの懸け橋になっていただきたいと
思います。

今回、イニエスタ選手の書き込みをしてみて、つくづく、この選手は映画かドラマにしたくなる人だと感じました。スペイン南部の農村からFCバルセロナの育成組織、ラ・マシアの一員に選ばれてから始まったサクセス・ストーリーだけの物語ではない、両親・妻子などとの愛情物語、ダニエル・ハルケ選手との友情物語、FCバルセロナ、スペイン代表を栄光に導く神ゴール、そして異国の地・神戸での希望と絶望の交錯、さまざまなファクターに満ちたストーリーを歩んだ選手でした。

スペインの映画人やドラマ人が手掛けなくても、日本人が手掛けるべきだと思いますし、当・夢追い人も脚本をモノにしたいものです。
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「ワールドカップをめぐる冒険」のことを9月29日「小野選手引退表明」の書き込みのあとに加筆しました。

2023年11月09日 22時54分36秒 | サッカー選手応援
フジテレビの番組で以前放送されていた、小野伸二選手、高原直泰選手、稲本潤一選手の3人を追ったドキュメンタリー番組「ワールドカップをめぐる冒険」のことを、9月29日の書き込み「小野伸二選手が引退を表明しましたね。「日本サッカー史上最高」と評する人たちが多い選手でした」の後ろに、加筆する形で書き込みました。
結構、記事1本分ぐらいの文量になりましたので、ぜひ、そちらにお立ち寄りいただき、お読みください。
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欧州組日本選手、トルシエ氏200人超説、杉山茂樹氏100人近く説、要は3桁の規模になってきたようです。

2023年10月18日 16時12分58秒 | サッカー選手応援
10月のインターナショナルマッチウィーク、カナダ、チュニジアを一蹴した形の日本代表に関連して、代表に招集されない選手も含めて欧州各国リーグでプレーしている日本人選手の数をあげていた二つの記事を目にしました。

一つは、現在ベトナム代表監督のトルシエ氏が中国紙のインタビューに応じた記事、もう一つは、昨日の書き込みに引用させていただいた杉山茂樹氏の記事です。トルシエ氏は200人超プレーしているという数字をあげ、杉山氏は100人に迫ろうとしているという数字をあげていました。

ここでは、どちらの数字が正しいのかを論ずるのではなく、結局のところ、いまや欧州でプレーする日本人選手は3桁を数える規模になってきたという点を述べたいと思います。

トルシエ氏、杉山氏がどういうシチュエーションであげたのか、その部分を引用してご紹介しておきます。
【トルシエ氏】
「私が日本代表を指揮していた時、欧州5大リーグでプレーしていたのは中田英寿(日韓W杯時はパルマ所属)のみだった。今の中国は欧州クラブでプレーする選手は何人いる? 一方で、私の知る限り欧州クラブでプレーする日本人選手は200人を超えている。今の日本がなぜドイツ、スペインを破ることができたのか。特に9月に敵地でドイツに4-1で快勝したのをみんな不思議に思うだろうが、私は理解できる。

【杉山茂樹氏】
(代表試合への)招集辞退は欧州では普通の出来事である。辞退を言い出しやすい環境が整っている。他方、日本代表史において代表招集を辞退した選手は何人もいない。この世界で40年以上ライターをしているが記憶にない。
(中略)代表サッカーとクラブサッカーは拮抗した関係になかった。元日本代表。この肩書きの有無で引退後の人生は大きく左右された。日本代表選手にはブランド価値があった。
欧州諸国は必ずしもそうではない。どちらかと言えばクラブチームありきだ。重視されるのは代表キャップ数よりCL出場回数になる。欧州組の数が100人に迫ろうとしている日本も、代表キャップ数という国内基準ではなく、CL出場回数という国際基準に、おのずと価値観は移行していくものと思われる。もうすでに代表選手というブランド価値は低下しはじめているように見える。最近の代表チームの成績とは裏腹に、だ。

トルシエ氏は「日本代表が強くなった理由」として欧州組の数が飛躍的に増えたことをあげ、杉山氏は「これだけ欧州組が増えれば、日本も選手のブランド価値が、代表キャップ数という国内基準ではなく、CL出場回数という国際基準に、次第に移っていくに違いない」という裏付けとして欧州組の増加をあげています。

杉山氏によれば「今回招集された選手のうち、欧州カップ戦(CL、EL)出場組は8人、欠席した4人を含めると計12人を数える。ここに来て大幅に数を増やしている。」とのことで、単に欧州でプレーしているだけにとどまらず、欧州でプレーする全世界のサッカー選手の大きな目標である「欧州カップ戦(CL、EL)出場」を果たしている日本人選手が、もはや1人、2人ではなく2桁規模になっていることも指摘しています。

つまり3桁もの日本人選手が欧州でプレーするようになると「欧州カップ戦(CL、EL)出場」組も、おのずと2桁規模になるというわけです。いかに欧州での日本人選手の価値が高まっているかということです。

もう一つ、欧州でプレーする日本人選手の増加は、今回急遽追加招集された奥抜侃二(かんじ)選手のようなケースも、これから普通になっていくことを示唆しています。当・夢追い人は、発表記事を読むまで奥抜侃二選手のことを知りませんでした。

10月12日のweb版スポルティーバが「三笘薫に替わって追加召集された『奥抜侃志』って何者だ?」と見出しを打ってくれましたので読みました。
J2の大宮で4シーズン半ほどプレーしていたようですが、なんとポーランドリーグのチーム(グールニク・ザブジェ)からオファーを受け2022年夏移籍した選手というのです。そこでのプレーが今度はブンデスリーガ二部、ニュルンベルクの目に留まり、今シーズン加入して早速結果も出していることで、今回、追加招集ということになったのだそうです。

この選手のキャリアが、いまや欧州でプレーすることの可能性の広がりを物語っているといえます。なにぶん出だしがポーランドリーグです。それでも欧州5大リーグのスカウトたちが欧州各国リーグの選手たちに常に目を光らせています。知名度の低い国のリーグであっても、欧州であればスカウトの目に留まりやすいということです。

もっとも、奥抜選手がいた大宮にポーランドからオファーが届いたというのですから、Jリーグでプレーする選手たちも世界各国のスカウトから見られている時代になったのかも知れません。

ともあれ奥抜選手は、J2大宮⇒ポーランドリーグ⇒ブンデスリーガ2部という経路でプレーを続け、今回、代表招集に至ったということで、これから、このようなキャリアでステップアップをしていく選手が珍しくなくなるのかも知れません。

今回、この書き込みをするため、ネット検索で情報確認をしていましたらウィキペディアに「ヨーロッパのサッカーリーグに所属する日本人選手一覧」という項目を見つけました。この項目の凄いところは、過去から現在までの欧州各国リーグ(プレミアリーグからサンマリノ、ジブラルタルといったところまですべて)の所属選手を網羅していることです。ぜひ一度ご覧になっては・・・・。トルシエ氏も、この項目を見ていたのかも・・。

「日本サッカーの裾野の広がり」という言い方をよくします。今回のような状況を呼ぶとすれば、さしづめ「欧州における日本サッカーの裾野の広がり」ということになるのでしょうか。なんのことやらよくわからない表現ですが、そう言わざるを得ないように思います。
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森保ジャパン、カナダに圧勝しましたが、久保建英選手は怖い表情でした。

2023年10月14日 18時45分12秒 | サッカー選手応援
昨日10月13日(金)、インターナショナルマッチデーで日本代表は新潟にカナダを迎えました。このあとのチュニジア戦と合わせ10月シリーズのテストマッチです。
私の関心は、9月のラ・リーガ月間MVPに選出された久保建英選手の起用法にありました。

三笘選手と鎌田大地選手、そして堂安選手が不在の中、久保選手は2試合ともスタメンだろうと踏んでいました。しかし、カナダ戦は出番がありませんでした。伊東純也選手を右サイドで使った上、終盤には左サイドに回して試合を終えたのと好対照でした。

トップ下には、フランスリーグ・モナコに移籍して調子を取り戻した南野拓実選手が、なんと8月のリーグ・アン月間MVPに選出されたという実績をひっさげて代表復帰、そのままスタメン起用されたのでした。

森保監督の「序列主義」がここまで岩盤だとは思いませんでした。
もっとも、識者の関心は、個々の選手が使われた使われなかったというところにあるのではなく、三笘、鎌田といった「替えの利かない選手」が不在の時に、代わりの選手がどれだけ穴を埋めるか、もっと言えば、どれだけ彼らに近いレベルで試合ができるかのほうが重要、といったところにありました。

その意味では、代わりに使われた中村敬斗選手や途中出場の旗手玲央選手たちが十分な働きをしたことを試合の成果と見る論調が多いようです。
サッカー専門誌「GOAL」のネット版は、森保ジャパンの現段階の全体的なチーム作りの意図を、次のように分析していました。

「2026年W杯に向けて続投するにあたり、世界の頂点を目標に掲げた森保監督にとって、こういったメンタルやその渇望を満たすための試行錯誤を求めることは、必要不可欠なプロセスなのだろう。カナダ戦後、5試合連続4得点以上という結果を受けて、会見で「コーチ陣が攻撃も守備もアグレッシブにチャレンジすることを選手たちに植え付けてくれて、かつシステムのかみ合わせも選手たちが前向きに力を発揮できるように伝えてくれている」と、チームとしての方針を明かしている。

 不思議なことに、ここ5試合では連続で先発して得点を記録した選手は、三笘と伊東、そして今回の田中と中村のみ。冒頭で触れた通り、その間に13名がスコアシートに名前を載せているが、うち9名がその前の試合でベンチ、または出場がなかった選手だ。招集されたすべての選手が厳しい競争に晒され、結果への渇望を強め、アピールを成功させる。そして、ベンチからそれを見守っていた選手たちもさらなる闘志を燃やす。第2次森保ジャパンでは、かつてない猛アピールのインフレーションが起きている。」

そうした状況にあることを久保建英選手も痛いほどわかっていて、9月のドイツ戦で途中出場から2アシストを記録したあと「当然(ベンチスタートで)悔しいという気持ちはあったし、日本代表がすごく良い試合をしていたので、『ここに俺がいたらもっと良い試合ができた』と思っていました。それは僕以外の誰しも思っていることだと思うので、そういった意味で出た時に結果で示すしかない」とキッパリ話していました。

そうはいっても、ラ・リーガ月間MVPという勲章をひっさげて参加した今回の代表戦、またもベンチスタートだった久保選手、心中は相当穏やかではなかったように思われる表情が中継カメラに捉えられていました。それは前半40分の相手オウンゴールによる2点目のシーンだったと思いますが、カメラがベンチの久保選手を写しました。味方の得点になりましたから、当然久保選手は拍手を送っていましたが、その表情はニコリともせず、いやむしろ怖いほど厳しい表情でした。

その気持ちがチュニジア戦にどう出るか、結果への渇望が吉と出るのか、空回りしてしまうのか。以前でしたら諸刃の剣のようなものでしたが、もはやそうではないレベルに達しているのではないかと思います。

チュニジア戦で、仮にヒーローインタビューに呼ばれる活躍をしたとしても、おそらくニコリともせず、また「意味で出た時に結果で示すしかない」とコメントするに違いありません。
いま久保建英選手は、そういう日本代表の序列争いの中で自分自身と戦っているのだと思います。
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久保建英選手、ラ・リーガ月間MVPの快挙、衝撃!!!!

2023年10月08日 20時40分07秒 | サッカー選手応援
10月6日、リーガ・エスパニョーラ(ラ・リーガ)が「9月の月間MVPにレアル・ソシエダの久保建英選手を選出した」と発表しました。何という快挙、何という衝撃でしょう。

レアル・マドリー、バルセロナの2強に代表される魅惑のスペインリーグに日本人が魅了されるようになってから約25年、城彰二選手が日本人として初めてリーガのピッチに立ってから22シーズン、その後も多くの日本人選手が挑戦し続けてきたラ・リーガ、イタリアリーグセリエAやブンデスリーガとは異なり、日本人選手がなかなか思うような活躍ができない場、それがラ・リーガでした。

その大きな要因とされたのが、言葉の壁をはじめとした文化の違いからくる「なじむ苦労」だと言われてきました。そうしたハンディキャップを少年の頃からのスペイン生活で払拭してきた久保建英選手が、とうとうラ・リーガを代表する選手に成長した証が、今回の受賞だと思います。

小柄な久保建英選手が、いかにテクニックに優れていても、なかなかラ・リーガを代表する選手という評価を得るのは難しいのではないかと一抹の懸念を抱いていましたが、いまや1対1で負けない力強さと判断のスピードを兼ね備え、単なるテクニシャンの域からチームの大黒柱に成長しました。

凄いことですね。単にラ・リーガでプレーしている選手というレベルから「ラ・リーガを代表する選手」と見られるんです。サッカーを愛する日本人にとって、そして海外でのプレーを目指して日々頑張っている日本人選手にとって、どれだけ夢のようなことで、どれだけ誇らしいことか。

このラ・リーガ月間MVPという表彰がいつから始まったのか知らなかったのですが、調べてみましたら2013-14シーズンから、ちょうど今シーズン10シーズン目になるようです。これまでの歴代受賞者を見ていくと、まさにワールドクラスの選手たちのオンパレードです。

その中で目を引くのは2019-2020シーズン以降、毎シーズン、レアル・ソシエダの選手が必ず一人は受賞していることです。レアル・マドリー、バルセロナ、アトレチコといった優勝を争う強豪チームの選手たちの受賞が多い中で、レアル・ソシエダの選手が入れ替わり受賞しているということは、レアル・ソシエダが安定したチーム力を誇っていることの証明でもあります。

久保建英選手が、まだシーズン序盤とはいえ上位につけるチームの中心選手として、少しでも安定したパフォーマンスを出し続けることを願ってやみませんし、どうかケガに見舞われないよう、神様には特段のお願いしたいと思います。

また一つ、日本サッカーは階段を上った気がいたしますが、そうなると自然と関心は、日本代表・森保監督の、いわゆる「序列の変更」があるかどうかに向かいます。森保監督は、風聞だけで動くことは決してせず、必ず実戦を見てからしか動きませんから、次の代表ゲームが楽しみです。

10月開催のテストマッチ2ゲームに招集されたメンバーで目を引くのは、鎌田大地選手と堂安律選手が外れていることです。二人とも「コンディション不良」というだけで、それ以上の詳細な事情はわかりませんが、そうなると久保建英選手が2試合ともベンチスタートという選択肢はなくなります。

初戦のカナダ戦はもちろんですが2戦目のチュニジア戦も相手の力を考えればスタメンのような感じです。9月シリーズ(ドイツ戦、トルコ戦)で強烈なインパクトを残した直後の2試合だけに、あまり凡庸な結果だと、かえって評価を下げかねない、やりにくい2試合です。

今後の序列変更にもかかわるという点で、久保建英選手にとっては大事な2試合と言えると思います。
頑張れ、久保建英選手!!!!
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小野伸二選手が引退を表明しましたね。「日本サッカー史上最高」と評する人たちが多い選手でした。

2023年09月29日 10時48分13秒 | サッカー選手応援
一昨日、1本のニュースが日本中を駆け巡りました。コンサドーレ札幌に所属している小野伸二選手が自らのサイトを通じて今シーズン限りでの引退を表明したというものでした。

「サッカーと出会い39年間もの間、僕の相棒として戦ってくれた“足”がそろそろ休ませてくれと言うので、今シーズンを最後に、プロサッカー選手としての歩みを止めることを決めました。」という、いかにも小野選手らしい言葉です。

ほぼ40年・・・。さもありなんですよね。

「長い間お疲れ様」の言葉に尽きると思います。
小野伸二選手は、日本のサッカーを愛する人たちの中で「日本サッカー史上最高の選手は誰か?」と問われた時「小野伸二!!」と迷いなく答える人が多い選手だったと思います。

彼が高校2年生の頃、まだ全国の舞台に登場していなかった当時「小野伸二という選手のプレーを見たことがあるか?」という会話がサッカー通のあいだで交わされたあたりから、表舞台への登場が待ち焦がれ、られていた選手でした。

ですから、当時の彼の試合の舞台であった静岡県の草薙球技場などて、彼のプレーを見たことがある人は、それだけで貴重な体験をした人として、鼻が高かったものです。

そして、彼がプロの舞台として浦和レッズを選択して、いよいよデビューというあたりになると、彼の一挙手一投足が注目を浴びましたが、それは早く彼のファンタスティックなプレーを見たいというサッカーファンの願望の表れでもありました。

そういう意味で、彼ほど、そのプレーが具体的に期待を集めた選手はいなかったように思います。プロ野球選手にしてもサッカー選手にしても、一挙手一投足が注目を浴びるほどの鳴り物入りでデビューした選手は多いのですが、ほとんどは将来性とかタレント的なスター性にスポットが当たっていました。
小野選手の場合は「すぐにでも試合を動かせるだけのプレーを見せてくれるかも知れない」「それがどんなプレーなのか、わくわくする」といった具体性を伴った期待感でした。

当「夢追い人」も、1998年3月、Jリーグ開幕直前のプレマッチ、大宮アルディージャ戦を見に行きました。いわゆるトップ下のポジションで堂々とプレーする小野選手、どこか歌手の森昌子さんのデビュー当時を思わせる可愛らしい顔立ちとのギャップが印象に残りました。

そのあとのJリーグデビュー、その年のフランスW杯デビュー、そして翌年の99年ワールドユース選手権準優勝と、まさに黄金世代のバンディエラ(旗頭)として、順風満帆でしたが、好事魔多し。

1999年7月5日、シドニー五輪アジア地区一次予選のフィリピン戦で、相手ディフェンダーからのタックルが左足を襲い、左膝靭帯断裂の重傷を負ってしまいました。小野選手自身がのちに「あれですべてが変わってしまった」と語っているように、それまで何の迷いもなく出来ていたプレーができなくなってしまったそうです。
そう、何の迷いもなく出来ていた時の小野選手のプレーは天才そのものだったのですが、本人も「あれっ、出来ないな」ということが増えて、徐々に見ている人も「天才というほどのプレーではないんじゃないの?」と感じることが増えてしまったように思います。

まさに「あのケガ、なかりせば・・・」です。
よく、ケガに見舞われる選手のことを「ガラスの選手」と評しますが、当「夢追い人」は「サッカー選手はガラスの舞台で舞う人たち」と評しています。実は彼らが表現者として舞っている舞台がガラスで出来ていて、いつ割れてしまうかわからない危険な舞台だと思うからです。

冒頭で「日本サッカー史上最高の選手は誰か?」と問われた時「小野伸二!!」と迷いなく答える人が多い選手、と書きましたが、そこには「あのケガ、なかりせば、間違いなく日本サッカー史上最高の選手になった選手」という叶わぬ願望も込められているはずです。

それでも、その後の小野伸二選手はフェイエノールトでのUEFAカップ制覇や、2002年日韓W杯での決勝T進出などに貢献して、日本のサッカー選手として十分成功した選手です。ですから、「あのケガ、なかりせば・・・」どれだけ凄い選手になったのか、想像が無限に膨らむ選手であることも確かなのです。

小野伸二選手が、多くの人たちから称賛される理由のもう一つの要因は、その人柄にあるといっていいでしょう。常にサッカーを愉しもうとする明るいふるまい、チームを組んだら、誰からともなく「チームの中心」と評価される様子は、裏表のない人柄から来るものでしょう。
コンサドーレ札幌が、とうにピークを過ぎたはずの小野伸二選手との契約を通算9年間も更新し続けたことが、それを物語っています。

彼ら黄金世代が世界を驚かせた1999年ワールドユース選手権以降、小野伸二選手、稲本潤一選手、高原直泰選手が、代わる代わる大会やリーグの主役の座をモノにしながら競い合う様(さま)は、まさに切磋琢磨の見本のような関係性でした。フジテレビは、そうした3人を「ワールドカップをめぐる冒険」と題した番組で毎年追い続けました。

2006年ドイツW杯には、この3人がどれだけ凄い選手になって日本代表を牽引してくれるか楽しみで楽しみで仕方がないところがありました。現実は、なかなか思い描いたようには運びませんでしたが、その中心に「小野伸二選手」という存在があればこその楽しみでした。

2006年以降の小野伸二選手の戦歴を見ていきますと、浦和、ボーフム、清水、ウェスタン・シドニー、札幌、琉球、札幌と来て今シーズンに至るわけですが、チーム戦術やケガの影響などによりシーズンを通してコンスタントに試合に出られた年が少ないようです。

それでも、やはり小野伸二選手がピッチに立てば、その日スタジアムに足を運んだサポーターが「今日は小野伸二選手のプレーを見た」「やっぱり、うまくて凄い選手だ」と満足したことと思います。

今シーズンの最終戦は12月3日、札幌ドームでの浦和戦だそうです。いまのところDAZNとNHK札幌ローカルだけの放送予定だそうですが、おそらくNHKか埼玉TVが急遽放映するに違いありません。

小野伸二選手の雄姿を名残惜しく記憶にとどめたいと思います。
「記録より記憶に残る選手」そのものですから。

【11.9追記】
フジテレビが「ワールドカップをめぐる冒険」と題した番組で毎年、小野伸二選手、高原直泰選手、稲本潤一選手の3人の活躍ぶりを追っていたことを紹介しましたが、2020年3月29日、同名の放送がありました。
サブタイトルには、彼ら3人の現在地を表す意味深なタイトルがついていました。
題して「ワールドカップをめぐる冒険~小野、高原、稲本~黄金世代に居場所はあるのか」

この放送では、小野選手はコンサドーレ札幌からJ2琉球FCに移籍、チームに合流したばかりの状況だがなかなか勝利に結びつかない日々、稲本選手はSC相模原所属、練習試合にはマイカーを運転して移動する日々、高原選手は沖縄で自分が立ち上げた沖縄SVの社長兼監督兼選手、三足の草鞋をこなす日々を紹介していました。

この「ワールドカップをめぐる冒険」は、2002年、日韓W杯イヤーの1月1日、元旦企画としてスタートしてから2007年まで毎年1回、正月番組として放送されてきました。その番組が、突然、13年の時を経て復活したのです。
どうやら、それは、フジテレビが、この企画のために取材を始めたのが1999年で、2019年はそれから20年、折しも彼らが40歳の節目を迎えたことで制作されたようです。

「不惑を迎えた今、彼らはいま、登った山をどう下りるか模索している。冒険はまだ終わっていない」ナレーションを担当したおなじみジョン・カビラ氏が彼らの心境を代弁していました。

「選手は誰もが心に冒険の地図を持っている。どこを旅の終わりとするか、それは自分次第だ」ジョン・カビラ氏は、番組の終わりに近くに、こう語っていました。

制作したフジテレビは、自身のサイトで「他のメディアには話さない本音をフジテレビは聞き出し、日本サッカーの成長の歴史的証人として記録に収めてきた。」と書いています。

まさに彼らは、日本サッカーの成長の歴史の体現者だと思います。
今回の番組でサブタイトルに「黄金世代に居場所はあるのか」とありましたが、40歳を迎えてなお現役を続けていること自体が「立派な居場所を持っている」ことであり、素晴らしいクラブハウスと待遇に恵まれたJ1クラブのようなところだけが居場所ではないことを、この番組がつくづく教えてくれています。

その3人が、今年8月、9月と相次いで選手として現役引退を発表したのです。黄金世代の一人である遠藤保仁選手など、まだ現役生活を続けている選手はいますが、この秋「黄金世代は終焉を迎えた」と言えるでしょう。

当・夢追い人のサッカーを愛する熱量も、1993年のJリーグスタートから熱量をあげていき、考えてみれば彼らが世界の舞台に躍り出た1999年あたりからは、ずっと高原状のピークを保っていたように思います。
それもそのはずです。2000年シドニー五輪ベスト8、2000年アジアカップ制覇、2001年コンフェデ準優勝、2002年W杯決勝トーナメント進出、2004年アジアカップ制覇と栄光を重ねてきたのですから。

しかしながら、2006年W杯で手痛い敗退を喫して、やや熱量が降下しました。それは紛れもない事実です。

ただ、日本サッカーの成長軌道は決して降下することなく、2010年W杯決勝トーナメント進出、2011年アジアカップ制覇、同年、女子W杯制覇、2012年ロンドン五輪、女子銀メダル、男子ベスト4、2014年U-17女子世界選手権制覇、2015年女子W杯準優勝と、留まることのない成果を積み上げています。

もはや、当・夢追い人のサッカーを愛する熱量は、揺るぎないものとなっています。
さる11月4日の書き込みで、2019年12月15日に放送された、テレビ東京の番組「その日、人生が変わった。サッカーがくれた未来」のことを書きましたが、まさに当・夢追い人は、黄金世代の中心である3人を描いた「ワールドカップをめぐる冒険」に出会って「人生が変わった。サッカーがくれた未来」といっていいかも知れません。

彼らは、これから、新たな人生を歩むことでしょう。そして折々、彼らのことはメディアが伝えてくれるはずです。3人ともサッカーに関わる人生を続けることでしょうから、これからも、この書き込みで、彼らのことを話題にしていきたいと思っています。
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岩渕真奈選手、長い間お疲れさまでした。

2023年09月03日 13時48分56秒 | サッカー選手応援
9月1日(金)、岩渕真奈選手の現役引退について報道がありました。
当ブログが選手個人を特定して応援することは、基本的にはしない方針ですが、例外が二人だけいました。岩渕真奈選手と京川舞選手です。二人は1993 年生まれ、つまりJリーグがスタートした年に生まれた「サッカーに愛された少女」なのです。

そのうちの一人、岩渕真奈選手が現役を引退することにしたそうです。
欧州クラブの移籍市場がクローズになりましたので、新たな契約をせずに、心の区切りがついたのでしょう。

岩渕選手がまだ日テレベレーザに所属していた頃、西が丘サッカー場に足を運びました。岩渕真奈選手のプレーを見に行ったというよりは完全に「追っかけ」の心境でした。試合終了後、サポーター席に挨拶に来た時は、かなり近くで見れますからデジカメで何枚も撮影しました。試合内容や岩渕選手のプレーのことは全然覚えていませんが、忘れられない思い出です。

それにしても2008年のU-17女子W杯でのデビューはセンセーショナルでした。「リトル・マナ」「マナドーナ」などの愛称をもらい、一躍世界の注目を集めました。それでもマナ選手は、気負うことなく、いつも明るい笑顔で、まさに著書のタイトルにあるように「明るく自分らしく」プレーしていたのが素晴らしいところでした。

なにせ2011年女子W杯で優勝した「なでしこジャパン」ですから、そのあとを引き継ぐ選手たちは、少々の成績では「○○には及びませんでした」という評価になり、その中心選手だった岩渕選手は、難しい数年間だったと思います。

しかも、たびたびケガに見舞われ、その心境たるや、いかばかりだったことでしょう。
それでも、岩渕真奈選手が私たちにくれた「夢」や「希望」は十分すぎるほど大きなものでした。
「リトル・マナ」と呼ばれたように、決して恵まれないサイズでしたが・・・。

8日(金)には記者会見するそうです。ライブがあれば見たいものです。録画がネットで流れるかも。
今後についても何か話すのでしょう。
セカンドキャリアも、ぜひ素晴らしいものになればと願ってやみません。

あらためて、岩渕真奈選手、長い間、本当にお疲れさまでした。
ありがとうございました。



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Jリーグスタート以降、日本サッカー30年の記録から(6) 21歳にして日本代表で「別格の存在」となった中田英寿選手、その「心・技・体」をあらためて記録に留めます(その2)

2023年01月22日 17時27分18秒 | サッカー選手応援
前回の(その1)では、21歳にして日本代表で「別格の存在」となった中田英寿選手の足どりを振り返っておきました。

2006年6月22日、ドルトムントのホームスタジアムでのブラジル戦の終了ホイッスルが鳴ると、ピッチ中央に仰向けに横たわり、まるで精も根も尽き果てたかのように選手生活に幕を閉じた、中田英寿選手。

1993年、16歳の時から日本代表のユニフォームを身にまとって国際舞台に立ち続け、弱冠21歳にして日本代表の「別格の存在」となって9年のも長きにわたって日本代表を牽引してきた中田英寿選手。

中田英寿選手は、何故、それほど若くして「別格の存在」となり得て、何故、9年のも長きにわたって牽引し続けてこれたのでしょうか?

そのことに思う時、中田英寿選手の「心・技・体」のすべてが、まさに当時の代表選手たちに比べて1歩も2歩も先を行く高いレベルにあったからではないかと感じました。

つまり中田英寿選手は、早くから自らの「心・技・体」を鍛錬し続け、20歳代になろうかという頃には、そのすべてを高いレベルまで鍛え上げたが故、若くして「別格の存在」となり得たのであり、その後も「心・技・体」の鍛錬を怠らなかったが故、長きにわたって日本代表を牽引できたのだと思うのです。

今回は「早くから「心・技・体」を鍛錬し続けた中田英寿選手」について記録に留めておきたいと思います。それが中田英寿選手のことを後世に語り伝える上で、欠かせないと確信しています。

まず、その「心(しん)」。
中田英寿選手はメンタル面で、当時の他の選手より抜きん出ている点がいくつかあります。

一つは平常心というか、どんなことにも動じない、感情の起伏の少ない、強い精神力です。前回も書きましたが「W杯なんて一つの大会に過ぎない」と捉えるマインド自体が驚異的です。サッカー選手なら最高峰の舞台でプレーすることは夢でありも目標であるのが一般的な捉え方ですが、中田英寿選手はそうではありません。

そもそも、中田英寿選手は「「サッカーは人生のすべて」といった考え方でサッカーをやっているわけではない」と常々話している選手です。

たまたま、今のこの時期、サッカーでさまざまな経験を積めるし、自分も成長できるからサッカーをやっているだけ、といったフラットな気持ちでサッカーを捉えている人です。

そのことは平常心として肩に力の入らない精神状態をもたらしますが、反面、こだわりのない淡白な気持ちにも陥りやすいものです。シドニー五輪のベスト4を賭けたアメリカ戦、日韓W杯のベスト8を賭けたトルコ戦、中田英寿選手も悔しかったには違いないでしょうけれど、他の選手ほど悔しい気持ちには見えませんでした。

かと言って、すべての場面で淡々と、淡白にプレーする選手かと言えば違います。ジョホールバルの奇跡を生んだ獅子奮迅のプレーぶり、衝撃的なデビューを飾ったセリエA開幕戦のユベントス戦のプレーぶり、2001年コンフェデ杯準決勝・土砂降りの豪州戦で見せた地を這うようなFK、さらにはASローマがシーズン制覇を決めたユベントス戦で途中出場ながら1ゴール1アシストをあげたプレーなど、ここ一番に持てる力を出し切る集中力も、どんなことにも動じない平常心と強い精神力の延長上にあるメンタルだと思います。

どんなことにも動じない平常心、強い精神力は、特に対外的な発信の場面でも顕著です。
中田英寿選手は、実はとてもフレンドリーな人だということを、少しでも接点のある人ならば口を揃えて言います。

そのフレンドリーさは、身近な人だけに示されるものではなく、一国の首相などを相手にした場合にも、動じない平常心と精神力に支えられて発揮されます。
セリエA・ペルージャでプレーしていた時、欧州歴訪中の小渕恵三首相がイタリアを訪問しました。

その時、小渕首相とイタリアの首相との昼食会に、イタリアで活躍する日本人として中田英寿選手が単独で招待されました。
普通であれば、一国の首脳の昼食会に単独で出席するなど、ビビる以外の何物でもない体験でしょうけれど、中田英寿選手はまったく違いました。

臆することなく堂々と二人の首脳との昼食会をこなしたのです。彼がいかに動じない平常心と精神力を持った人かを物語るエピソードです。

けれども、多くのメディアを通じて発信される自分のことや、日本代表に関する喧騒にも似た報道に対しては、常にクールにというか、フレンドリーさとは無縁の、時として冷淡と思えるほど起伏の少ない姿勢を貫きます。

その姿勢は、メディア側から見ると「この年代で、そういう態度をとり続けるのは考えられない」とばかり、時にはバッシングの対象にしたり、時には記事の中で皮肉たっぷりな見出しをつけたりしてきました。

例えば、こういうことがありました。中田英寿選手は「ピッチの上では対等」という考え方が特に強い選手で、日本代表での練習でも試合でも、必要なコミュニケーションをとる際「さん」づけなどの敬称をつけることは決してしません。

これは試合中の瞬時、瞬時の状況の中で必要なことを伝えるのに、いちいち長い名前を呼んだりしない、スポーツ競技なら常識でもあり、ピッチ上では「ヒデ !」「カズ !」「ナナ !」などと呼び合います。

ところがキャプテン・井原正巳選手は「イハラ」と呼ばれていたのでしょう。ある時、中田英寿選手が大声で「イハラーー!」と指示を出している姿と音声がテレビカメラに捉えられました。マスコミはすぐ飛びつきました。

決して否定的な論調ではないにしても「中田選手は井原正巳選手を堂々と呼び捨てにして指示していました」というコメントがつけば「へぇ~、中田選手は平気でそういう言葉遣いをする人間なんだ」という印象をもたれる可能性は十分あるわけです。

ですから、中田英寿選手の胸の内、心の内を知り得ない一般人の多くがメディアの論調を真に受けて中田英寿選手のイメージを抱いていました。
そのことで、中田英寿選手がずいぶん損をしたのではないかとも思いますが、中田英寿選手は、それに頓着することなく「どうせメディアが勝手に作っているだけだから」と受け流してきました。

20歳代前半の青年が、メディアという巨大な力に対しても、なんら怯むことなく、臆することなく堂々とした姿勢を取り続けていたというのは、驚異的であり、他の同世代の選手たちと比べて、はるかに抜きんでたマインド、精神力の持ち主だということを示しています。

しかし、それほどに強靭な精神力の持ち主の中田英寿選手も、全国紙のインタビュー記事が発端となって、いわゆる右翼団体からの執拗な糾弾行為にさらされたことがありました。当時、若干21歳の青年に対するものです。

彼がいかに強靭とはいえ、糾弾行為から身の安全を確保するために取らざるを得なかった日々は、どれほど恐怖だったことか。事情を知らないメディアなどは、いい加減なことを書きたてました。しかし、彼は医師の診断で「極度のストレスが原因」と言われるほどの症状を呈するほどに追い詰められていました。

この時、中田英寿選手はフランスW杯のため日本を離れることができたため、致命的なことにならずに済みましたが、これが日本から離れられない状況がもっと続いたならと考えると、暗澹たるものがあります。

この「どんなことにも動じない平常心、強い精神力」は「非常に明晰な頭脳」と合わせ持っている、中田英寿選手の「資質」にほかなりませんが、それは、日本代表チームの一員として他の選手たちと同じ目線に立とうとする場合、自分の精神的強さ、頭脳明晰さがあまりにも抜きん出ているが故に、かなり他の選手たちと相和するのが難しいというハンディを背負うことになります。

チームの中で若い方に属する20歳代半ばまでは、自分がマイペースで他の選手たちとつるむことがなくても、せいぜい「変わったヤツ」と見られるだけで、そのハンディはさほど表面化しませんでしたが、20歳代後半、特に自分が自他ともにチームリーダーとして見られる、2006年ドイツW杯に向けたチームの中では、その強い精神力が邪魔をして、チームメイトから反発を買うことになっていきます。

すべからく団体競技のチームは、いわゆる「チームとしてまとまり」「チーム全員がお互いに助け合って」勝利にまい進することが基本であり、強いチームというのは「まとまり」や「互いに助け合う」マインドが他のチームより勝っているのが普通です。

そんな中で、リーダー格の選手に対する他の選手の意識が違う方向を向いていれば、いわゆるベクトルが合わないわけで「まとまり」や「互いに助け合う」マインドが他のチームより勝るのは難しくなります。

中田英寿選手の「心」の部分で唯一、残念なのは、そのあまりに強い精神力、平常心に加え、人とつるむことを好まないマイペースな性格が、チームの他の選手たちを遠ざける結果となったことです。

中田英寿選手は平塚に入団した理由の一つに「タテ社会ではないみたいだから」というチーム内の風通しのよさをあげ「ピッチの上では皆、対等」という考え方を貫いてきました。しかし、年月を経て、自分がチームの中で先輩と呼ばれる立場になり、若い選手たちから「こうして欲しい」と要求されたり「自分たちはこう思う」と意見される立場になった時、自分が若い時に望んでいた「タテ社会ではない関係」とか「ピッチの上では対等」といった考え方で、後輩選手たちにも接したかどうか・・・。

逆に「ヒデさんはタテ社会の先輩」であり「ヒデさんの前では対等たり得ない」と思われるようなふるまいになっていなかったのかどうか、もし、そうだとしたら、若き日に先輩たちに対して行なっていたふるまいがブーメランのように自分に返ってきたのではないかとすら思ってしまいます。

それでも中田英寿選手は、彼なりに全力を尽くしています。2006年ドイツW杯の第一戦・豪州戦に逆転負けした後、次戦クロアチア戦を3日後に控えた夜、中田英寿選手は選手だけの夕食会を提案して実現させています。

日本代表の歴史には、選手だけのミーティングや食事会で徹底的に議論を戦わせたことがターニングポイントとなって、チームが劇的にまとまり快進撃を続けたケースが幾つかあります。

中田英寿選手もそうした「チームとしてのまとまり」を取り戻したい一心で提案して実現した夕食会だったに違いありません。
でも結局それは夕食会以上のものにはなりませんでした。中田英寿選手と他のすべての選手、その間に生じた溝は埋まることなく大会は終わりました。

ブラジル戦終了後、ピッチ中央に仰向けに横たわった中田英寿選手のもとに近づく選手が一人としていなかったという現実が、その溝の深さを物語っていました。

これは「ないものねだり」なのかも知れませんが、もし中田英寿選手が、その食事会で、自分の思いをすべてさらけ出し「まとまって戦いたい」「そのために自分がどうすればいいか教えて欲しい」といった趣旨のスピーチでもしていたらと思います。

中田英寿選手ではなく「中田英寿氏」となった今、聡明な氏のことですから、いろいろと思うところはあると思います。けれども、当時の自分の考え方やふるまいを、決して後悔することはないと思います。

中田英寿選手が自ら発信したインターネットでの記録は、「nakata.net」という書籍になっています。欧州のサッカーシーズンである秋から春まで毎にまとめられているのではないかと思いますが、05-06、すなわち現役生活最後となったシーズンの本を読んでみますと、2005年11月16日に国立競技場で行われたアンゴラとの試合について、とても興味深い記述があります。

少し引用します。「実は今回ほど、やっていて虚しさや寂しさを感じた試合も初めてだと思う。
特に、後半の途中、試合中なのにもかかわらず、まるで俺自身が第三者かのように試合を感じた瞬間があった。
その時、観客席をふっと見上げたら、両ゴール裏のサポーター席を除いた正面スタンドとバックスタンドは、まるで誰も試合を楽しんでいないかのように静けさが漂っていた。
そして、その視線をグラウンド上に落としてみた。そしたら案の定、ピッチの上にも同じような静けさが漂っていた。試合中にもかかわらず・・・・。
それを見た瞬間、恥ずかしながら俺はそのピッチ上の状況を打開する術が、思い浮かばなかったし、何のために試合をやっているのか混乱してしまった。そして、他の選手たちは一体どういう気持ちでやっているんだろうか、何を目的でサッカーをやっているんだろうか、と考えてしまった。
チームとしてこの試合で何をやりたいのか、それぞれ個人として何をやりたいのかが見えなかったんだよね。
〈中略〉
日本代表が今のレベルからもう一つ上のレベルに行くには、相手が強い時や跡が無いような厳しい状態の時に、出来るサッカーを常時やる "集中力と精神面の強さ"を手に入れるだけでいいと思う。
それは、本当に個人個人の気持ち次第。
味方に要求できる強さ、味方を信じて走れる強さ、味方を助ける声を出せる強さ、そんなちょっとした強さが今の日本代表に一番欠けている事だと思う。」

以上が引用部分ですが、この日の記述について編集者のコメントだと思いますが、「翌年7月3日のメールには『半年前に引退を決意した』と綴られているが、引退決意は実はこのころから徐々に本格的なものに固まりつつあったのかもしれない」というコメントがついています。

今回のテーマである「21歳にして日本代表の別格の存在となった中田英寿選手の「心・技・体」」のうち「心」の部分は、そのあまりに強靭な精神力、他を寄せ付けないマイペースな性格ゆえに、自分のサッカー人生の集大成にしたかった最後の大会にきて、チームメートの共感を得られないという破綻をきたしてしまいました。

引用した記述にもあるように、中田英寿選手が指摘している「日本代表に欠けている点」は、まさに「もっとも」なことです。ですから、何年経過しようが、後年の中田英寿氏は、何一つ悔いがないわけです。
当時も、このことに異論を挟む代表選手はいなかったと思います。
にもかかわらず、実際は、他の選手たちに、その思いは伝わりませんでした。
中田英寿選手も、さきに引用した日の最後にこう記述しています。

「ただ、これらはすべて他人が助けてくれる事ではなくて、自分で変えるしかないのだけれど・・。」

つまり、中田選手の思いが伝わらなくても、それは仕方のないこと、各自が自分で変えるしかないことなので、変わらなければ仕方のないこと、と思い定めていたようで、あとは自分が現役を辞めることしか選択の余地がないと心に決めたのだと思います。

さて、中田英寿選手の「心」の部分の大きな特徴として「どんなことにも動じない平常心、強い精神力」について述べてきましたが、もう一つの特徴は「非常に明晰な頭脳」です。その具体的な要素として「語学力」「研究心」「先見性」があげられます。

まず「語学力」。私たちが舌を巻いたのは、セリエA・ペルージャに移籍して現地で開いた最初の記者会見です。現地の記者から「何かイタリア語で一言」と問われ、即座に流暢なイタリア語で「もうお腹がすいたので勘弁してよ、パスタでも食べにいきたいな」と返したのです。

21歳のサッカー青年が、実は大変な勉強家で、イタリア語会見に耐えられるだけのボキャブラリーを習得していたことを、まざまざと知った場面でした。

「研究心」でも、数々のエピソードがあります。中学時代に中田英寿選手にサッカーを指導した方は、何かを教えた時、他の選手からはさほど質問が出なくとも中田英寿選手だけは、先生があきれるほど質問してきたといいます。自分が納得いくまで探求する、その姿勢も彼の持つ資質です。

その「自分が納得いくまで探求する」姿勢は、Jリーグ入りした時、そして欧州挑戦を決めた時のクラブ選びでも如何なく発揮されました。

山梨・韮崎高校からJリーグ入りする際、(その1)でもご紹介したとおり当時の12クラブ中、11クラブから誘いを受けるという高評価の中、横浜M、横浜F、ベルマーレ平塚の練習にそれぞれ参加しています。

中田英寿選手は、選ぶ基準を明確に持っていました。それは「自分が活きるポジションですぐ試合に出られる可能性があるクラプ」というものでした。その結果、平塚を選んだわけです。「タテ社会ではないみたいだから」つまり、先輩の言うこと、目上の人が言うことが絶対みたいなチームではなさそうというのも中田英寿選手の判断の決め手だったようです。

そして欧州挑戦を決めた時の選択基準もほぼ同じでした。当時、欧州のビッグクラブといわれるチームからのオファーも幾つかありました。

サッカー選手であればビッグクラブの一員になることは、W杯でプレーすることと同様、夢であり目標です。しかし、中田選手は「ビッグクラブの一員になっても、すぐ試合に出られなければ意味がない」という考えのもと、例え小さなクラブでも、自分をキチンと評価してくれて試合に出られる可能性の高いクラブ、ということでセリエAに昇格したばかりのペルージャを選んだのです。

このように、自分がキチンとして基準を持ち、それに合うクラブを納得いくまで調べて、確認して、その上で決めるという確固たる姿勢を、若くして貫いたことが、彼の成功の大きな要因だと思います。

選ぶクラブがビッグクラブで「常勝軍団」であることなど、彼にとっては不必要だったようですが、それは逆に、そういうクラブの一員が持つ「勝者のメンタリティ」を涵養する機会を得られなかったのではないかという、ある意味の「悲劇」でもあったのではないかと当ブログは指摘しておきたいと思います。

日本に来た大物外国人選手、あるいは指導者の中で、ジーコやドゥンガ、あるいはベンゲルといった人たちはサッカープレーヤーの持つべき大切なマインドに「勝者のメンタリティー」をあげています。

「勝者のメンタリティー」を分かりやすく言えば、それは「負け犬根性を持つな」「勝負には絶対勝つんだ」というマインドをチームを構成するすべての選手が共有していなければ、試合には勝てないんだ、ということのようです。

そして、「勝利」を重ね続けているビッグクラブ、常勝軍団と呼ばれるクラブには、長い間に培われてきた、その「勝者のメンタリティー」が備わっており、どのクラブも、そこを目指していくべきだ、ということのようです。

中田英寿選手が選んだクラブは、対照的に、まだ「勝者のメンタリティー」が備わっているとは言い難いクラブだったと思います。

そこで自分が常に試合に出続け、スキルと経験を積むことはできたと思いますが、チームがタイトルを取るとか、王者と呼ばれることはありませんでした。

「どんなことにも動じない、感情の起伏の少ない平常心」のところでも書きましたが、シドニー五輪のベスト4を賭けたアメリカ戦、日韓W杯のベスト8を賭けたトルコ戦、中田英寿選手も悔しかったには違いないでしょうけれど、他の選手ほど悔しい気持ちには見えなかったのは、この「勝者のメンタリティー」と無縁ではないのではないか、そう思えてならないのです。

中田英寿選手の持つメンタリティーの3つ目の要素「先見性」で特筆すべきは、当時のアスリートとして初めてといえる「インターネットを通じた独自の情報発信を始めた」という点です。

自分の公式サイトを開設して、情報発信するというスタイルはサッカー選手のみならず、当時の日本のスポーツ界を見渡しても最初の取り組みだったのです。

それは、メディアが自分のことを取り上げる時、まったく自分を理解していないかのような内容であることに愛想をつかし、メディアを頼った情報発信に見切りをつけて始めたことでもありますが、それを20歳代前半にして始めてしまう先見性は目をみはるばかりです。彼の不断の研究心がもたらしたものでもあります。

こうして自らが情報発信するようになってから、中田英寿選手のメディアへの露出、特にテレビ出演は明らかに変化しました。

まず、自らがプロデュースした番組を2000年7月からCS(スカイパーフェクTV!)チャンネルに開設しました。「nakata.net TV」と題して、月1回ペースで自身の近況報告やプライベートなことを発信するインタビュー、あるいは親しい人との対談などの内容で、さしずめ「元祖・個人チャンネル開局=ユーチューバー」といったところです。

ですから、地上波のテレビ出演の必要がなくなった形となり、地上波出演をほとんど受け付けない時期もありましたが、次第に信頼のおけるキャスター、例えばテレ朝・ニュースステーションの久米宏氏などの番組、あるいは作家の村上龍氏がインタビュアーを務めるような番組には、ある程度の間隔で定期的に出演するという向き合い方に変えていったようです。

それ以外の、いわゆるバラエティ番組やワイドショー系の番組には一切出ないという姿勢を貫いたようです。

「先見性」については、もう一つ特筆すべき点があります。
それは彼が「サッカー選手である自分という存在が、一つの知的財産である」という認識を持っていたという点です。

中田英寿選手があまりファンとの写真撮影やサインに応じないのは有名でしたが、これも彼が気難しいからとか、面倒くさがり屋からと言った理由ではなく、それらが安易に使用されたりすることを嫌ったからと言われています。

こうした「肖像権の無断使用」など、知的財産権を侵害する行為に対する高い防衛意識をもって、考えをはっきりと主張したことにより、他の多くの選手、他のスポーツのアスリートたちも、その重要性を認識するようになったという点でも、彼は先駆者であり「先見性」を持った選手だったのです。

次に「技(ぎ)」について見ていきたいと思います。
中田英寿選手が16歳でU-17世界選手権の舞台にたった当時、彼のピッチにおける主戦場は、サイドハーフというかウィングにあたるポジションでした。

そこで彼は、国際舞台でも十分通用するスピード(走力)を披露します。ドリブルやクロスの精度といった技の部分も、大会までの長期間にわたる合宿や自主練習でかなり向上しています。

次に彼は、ベルマーレ平塚で、いわゆるトップ下のポジションに求められるスキルを磨きます。広い視野を確保するための姿勢をとり、常に周りの状況を首を細かく振りながら確認するプレースタイル、そこで得た状況判断から繰り出されるスルーパス。

中田英寿選手の凄いところは、常に動きながらも、そうした周りの確認、状況判断を怠らずに続け、その精度をあげていこうとする向上心です。

中田英寿選手が繰り出すスルーパスは「キラーパス」と呼ばれます。平塚時代に出す彼のパスは、決してJリーグ仕様の、緩いものではなく、世界のトップリーグレベルの試合で求められる国際仕様の高速パスなのです。

それは、いずれ自分が海外でプレーした際に通用するパス精度を磨くという意味と、Jリーグや日本代表も、これぐらいの高速パスを普通に繰ることができなければ、国際舞台では通用しないというメッセージがこもったものでした。

スピードの遅い日本人選手の速度に合わせたパスを出すという選択はしませんので、その高速パスが、もし通れば、まさに相手を仕留めることができるキラーパスなのですが、受け手がなかなか追いついてくれない場面が出てきます。

それでも、受け手が誰であろうと「このパススピードが世界基準なんだから、受けてくれ」と言わんばかりのキラーバスが繰り出されます。

平塚でも日本代表でも、受け手の選手からは泣き言が出されましたが、その一貫したプレースタイルはペルージャ移籍以降の海外での経験に活きていきます。

このスルーバスについては、よく相手のスピードに合わせた、ほど良いパスを繰り出す選手と比較されることがあります。

代表的なのは小野伸二選手です。彼が繰り出すパスは、相手の欲しいところにピタリを収まることが多く、それは「エンジェルパス」とか「ベルベットパス」と評される、相手に優しいパスということだと思います。

どちらが良い悪いという見方はまったく無意味です。けれども、大きな違いが一つあります。パス一つでチームが盛り上がり、まとまって勝利を目指せる力を与えるのはどちらか、と言えば、これは小野伸二選手のパスだと思います。

「キラーパス」は相手を一発で仕留める効果も持ちますが、追いつけなかった味方の士気を削ぐリスクもはらみます。それは、チームのまとまり感、盛り上がり感の強さにも影響を与えます。

1999年ワールドユース選手権で、小野伸二選手が果たした役割は、まさに自分のバスで見方を盛り上げ、まとまって勝利を目指す力を与えたものだったと思います。

中田英寿選手の「キラーパス」を語る時、それが日本代表や所属クラブを国際基準に引き上げるためのメッセージを込めたパスではあったと思いますが、目の前の試合、目の前の大会を勝ち進む手段として、果たしてどうだったのでしょう。

特に2006年ドイツW杯の日本代表チームが、1戦毎にチームとしての「まとまり」を失っていったのではないかと思われる様子を見た時、イレブンの思いが「司令塔の中田英寿選手を中心に戦い抜くぞ」という結束力とは縁遠いものになっていたのではないでしょうか。その見方は穿ち過ぎでしょうか。

次に「プレースキック」に触れたいと思います。
中田英寿選手が「日本代表の別格の存在」になる1997年夏あたりまで、彼がプレースキックを任されることは、さほど多くなかったと思います。

けれども、日本代表でも、ペルージャでも、彼の存在が大きくなるにつれ、プレースキックを任される場面が増え、その経験をもとに精度も少しづつあげていきます。

のちに日本代表では中村俊輔選手と言う稀代のプレースキッカーが現れたことから、中田英寿選手はあっさりと、彼にその座を譲ります。

最後に「シュート」の技についても触れておきたいと思います。
中田英寿選手は、もともとFWポジションが長い選手ではありませんから、そのシュートが注目される機会は少なかったのですが「日本代表の別格の存在」になってからは、常に得点に絡むことが求められ、また海外でプレーを始めてからは、攻撃陣であれば点に絡まなければ失格とさえ評価される厳しい環境の中で、得点に対する意識を相当高めたようです。

ベルマーレ平塚でプロ選手としてのキャリアを始めた頃、同僚で大先輩のGK・小島伸幸選手が、中田英寿選手の練習における意識の高さに舌を巻いたそうです。

中田英寿選手が練習後、自主練習の形で誰もいないゴールマウスに向かってシュート練習をしていたそうです。ところが、ほとんど枠に飛ばないことから小島選手が「こいつ、へたくそだなぁ」とあきれていたそうです。すると中田英寿選手のシュート練習につきあっていたコーチも、小島選手と同じ思いで怒声を浴びせたそうです。

すると、中田英寿選手は「何言ってんですか、試合中はGKがいるんですよ、それを考えたらポストの内側20センチじゃなかったら決まるわけないでしょ」と言い返したそうです。

それを聴いた小島選手は「とことん、思い知らされましたよ、中田英寿ってのは、ホントに目標設定が高い男なんだなぁって」

そのような意識の高い練習の積み重ねの延長線上に、オーバーヘッドキックでゴールを決めて見せたり、強烈なミドルシュートでゴールを奪うなどの結果があり、まさに万能型のゴールゲッターに成長しています。

このように「ドリブル」「パス」「プレースキック」「シュート」のどれをとっても非常に高いレベルまで自分のスキルを磨き、上達していったのは、彼の「あくなき向上心」があったからだと思います。

16~17歳の頃は、走力と身体の強さだけが国際レベルでも通用する選手でしたが、その後の練習と研究で、「視野の広さと一瞬の状況判断」「ドリブル」「パス」「プレースキック」「シュート」どの技も国際レベルまで引き上げていったことがわかります。

チームの司令塔としての役割も、これらのスキルが高まるとともに強まったと言えます。まだ10代の頃、チームの司令塔は常に別の選手が務めていました。それが、21歳になる頃には、クラブでも日本代表でも、チームの司令塔と言えば彼のことを指すようになりました。

日本代表での中田英寿選手が、まさに司令塔としての地位を確立したことを示す象徴的な記事があります。2000年1月1日付のスポーツ紙各紙は、この年のスポーツの中心的なイベントであるシドニー五輪に関する特集を組みました。

その中で「スポーツ報知」紙は、サッカー五輪代表が中田英寿選手に率いられ32年ぶりのメダル獲得が期待できるとして「中田を感じる 中田で変わる 中田が勇気に」という見出しを打ちました。


彼が五輪代表の中心選手として、いかに圧倒的存在であるかをよく表現している見出しだと思います。
「司令塔」は、彼が飽くなき努力を積み重ねて自分の「技」を磨き、その結果に得たポジションです。

最後に「体(たい)」について見ていきます。
すでに書きましたが、1993年にU-17世界選手権に出場した日本代表は、その2年前から強化が始まっていますが、当時、中学2年生だった中田英寿選手は、関東選抜の一員に選ばれています。そこから日本代表候補の選考が行われたわけですが、当初、彼を送り出した指導者の方は、日本代表候補に残るのは難しいのではないかと感じていたそうです。

ところが、日本代表候補にピックアップされたので、指導者の方は理由をたずねたそうです。その答えは「確かに彼は技術的には不十分ですが、走力、敏捷性などのフィジカル面で秀でており国際試合で通用するだけの素質を持っていますので」というものでした。

当時まだ中学生でしたから体は細かったのですが、走るスピードと、身のこなしの素早いムチのような身体を持っていたようです。

その身体に、少しづつ筋肉をつけ、当たり負けしない体幹を鍛え、日本代表での国際試合でも、海外クラブでの試合でも、少々では倒れない強靭な身体を作っていったわけです。

中田英寿選手の「体(たい)」を語る上でもう一つ大切なことは、長期離脱を強いられるような大きなアクシデントに見舞われることがなかった点です。

それは持って生まれた骨格の強靭さと、選手生活の中での徹底した自己管理、ケアの賜物なのですが、実は食生活という点では、やや苦労したようです。

実は大変な野菜嫌いで通っていて、頑なに野菜を食べない理由としては、「野菜を食べて得られるものより嫌いなものを無理して食べるストレスの方が影響が大きい」と話してしたそうです。

身体づくりの上でハンディとなったことと言えばそれぐらいで、2004年春あたりまでは、海外クラブ在籍中も含めて、長期離脱せずに日本代表を支え続けた「体」は、驚異的ですらあります。

サッカー選手にケガはつきものと言われるほど、ケガのリスクを抱えながらプレーすることになるわけですが、中田英寿選手の凄いところは「技(ぎ)」のところでも触れましたが、常に相手の状況を把握し続けながらプレーすることで、後方からのタックルや激しい接触プレーなどの不測の事態になるべく巻き込まれないようにしてきたことです。

それも中田英寿選手を「日本代表の別格の存在」たらしめ、それを長きにわたり維持し続けられた大きな要因だと思います。

ケガには強い中田英寿選手も勝てないアクシデントはありました。それはサッカー選手の職業病とも言われている、通称・恥骨炎になったことです。
2003~2004年シーズン終盤、2004年春あたり、ボローニャ在籍当時に発症したそうですが、痛みをおしてシーズンを戦いボローニャの1部残留に貢献しました。

シーズン終了後のオフ、2ケ月間は治療に専念して2004~2005年シーズンはフィオレンティーナに移籍、新シーズン当初から復帰しましたが、オフのトレーニング不足がたたりパフォーマンスが上がらず、日本代表の招集も約1年間にわたり見送られました。

2005年3月、約1年ぶりに日本代表に召集されましたが、この日本代表での1年のブランクは、実は、中田英寿選手抜きで、ドイツW杯アジア予選を戦ってきた他の選手たちとの心理的な距離を広げてしまった不幸な1年間だったようです。

特に日本代表ジーコ監督が、あたかも中田英寿選手にポジションを用意してあげるかのような布陣をとったことが火に油を注ぐことになったようです。

恥骨炎が癒えてまもない中田英寿選手のパフォーマンスが、目に見えて低調なのを見た他の選手たちは、不満を募らせていき、以前のように別格の存在としては見ず、一人だけ浮いている存在として見る選手が増えてしまいました。

「中田英寿選手の「心・技・体」」の「心(しん)」の部分でも書きましたが、自分のサッカー人生の集大成にしたかった最後の大会、2006年ドイツW杯において、チームメートの共感を得られないという破綻をきたしてしまいましたが、その破綻を招くことになったのが、2004年春から2005年3月までの恥骨炎という「体」の異変による日本代表からの離脱でした。

ドイツW杯グループリーグ敗退を見届けて、あっけなく選手生活の幕を閉じた中田英寿選手ですが、「心・技・体」のすべてをハイレベルな状態に鍛え上げ、維持し続けて10歳代後半から20歳代の長きにわたり疾走し続けたことを思えば、完全燃焼して精魂尽き果ててしまっても、何ら不思議ではないことなのかも知れません。

しかし、最後の最後は、不幸な終わり方だったなぁと思います。ドルトムントの空を見上げて「これが最後の試合だ」と中田英寿選手が思っていたことを、チームメートの誰一人知らずにいたのですから。

選手時代の中田英寿選手は、一般受けするようなリップサービスや愛想のいいふるまいなどを意識的に避けてきたようにも思います。

本来はとてもフレンドリーなオープンな人柄でも、メディアからの自己防衛本能や、平静で動じない性格もあって、一般のサッカーファンから見た場合、例えばカズ選手やゴン・中山雅史選手などに対して抱く選手像とは対極にあるタイプの選手に映ったことでしょう。

それでも「何もそこまでしなくても」と思うようなエピソードもあります。
1997年11月、マレーシア・ジョホールバルの奇跡を起こした試合後、ピッチ上ではお祭り騒ぎのようにしてイレブンが集合写真やTVカメラ撮影に応じていますが、なぜか中田英寿選手だけは、写真やTVカメラに映りこもうとせず、ひたすら最後方をウロウロしているように見える姿が残っています。

まさに「何もそこまでしなくても」と思うような行動ですが、一種の照れ隠しだったのかも知れません。この試合のヒーローが中田英寿選手であることは誰の目にも明らかなのですが、それ故、彼は「そんなに自分をクローズアップしないでください」という気持ちになっていたのではないかと思います。

一方で、自分が得点を決めた時はなおのこと、味方の得点や勝利の瞬間にもクールに、控えめにしか喜びを表さない中田英寿選手にも、長い選手生活の中で、こんなに喜びを爆発させたことがあるんだ、という場面のスポーツ紙の記事もあります。

2002年W杯のグループリーグ第2戦、ロシアとの試合でゴールを決めた稲本選手を祝福するため、多くの選手が飛びつくようにして輪を作りましたが、その輪に中田英寿選手も喜びを爆発させながら、少し遅れ気味ではありますが、飛びついた場面です。

このような表情の中田英寿選手は本当に珍しく、普段はどう考えても控えめにしか喜びを表に出さない選手ですが、この場面を見ると、中田英寿選手も「喜びを爆発させることがある」普通の選手だとわかって、グンと親しみが増します。

今後、サッカー日本代表の中心となるような選手で、中田英寿選手のようなタイプの選手が、また現れるだろうかと自問した場合、なかなか現れる予感がしないタイプであるように思います。
おそらく、この時代だからこそ出現したカリスマではないかと思います。

理由は二つ、この1993年から2006年までの時代が日本サッカーが国際舞台に駆け上がる時代であり、中田英寿選手はまさに、その時代と歩調を合わせて成長した選手だからというのが一つ。

もう一つは、一般のサッカーファンに伝わる中田英寿選手のイメージがメディアを通すことによって少し歪められることがあり、それを嫌った中田英寿選手が、いち早く自らの手で情報発信するというアスリートとしては初めての取り組みをした選手であること、です。

これは、まさに時代的な背景が生んだ選手ということであり、今後の日本代表選手には、むしろ生まれにくい選手だからかも知れません。

しかし、中田英寿選手ほど若くして、しかも長期にわたり「日本代表における別格の存在」であったことは、Jリーグ以降の日本サッカーの30年における輝かしい偉業であることも事実です。

中田英寿選手が世界最高峰と言われるイタリアリーグで、堂々たるプレーを見せ続け、その割には大言壮語を吐くでもなく、終始、謙虚にふるまい続けたことにより、日本人プレーヤーに対する世界の評価を格段にあげてくれて、その後の多くの日本人選手の海外挑戦の道を拓いた功績は、称賛して余りあります。

この神秘的なカリスマのことは、これからも長きにわたって、いろいろな角度、切り口から語られていくと思いますし、すでに選手生活を終えて久しい中田英寿氏が、それら一つ一つに反応することは、これからもないと思います。

なぜなら中田英寿氏自身が、若い頃よく「「サッカーは人生のすべて」といった考え方でサッカーをやっているわけではない」と話していたものの、やはり14年間のサッカー人生から得たものも大きく、現在は「FIFA親善大使」を務めるほど、世界のサッカー界から見ても著名な存在になったことからも窺えるように、いろいろな角度、切り口から語られるだけの価値のある存在になっているからです。

当ブログも含めて私たちが意を用いなければならないのは、中田英寿選手を語る場合、それが例えば間違っても「名誉棄損」にあたるようなこととか「肖像権の無断使用」にあたるようなことなどについては、細心の注意を払わなければならないということです。すなわち「安易な考え方で」中田英寿選手を語ってはならないという「戒め」を持ち続ける必要があります。

中田英寿選手を近くで長い間ウォッチし続け、濃密なコミュニケーションをとり続けたことで、中田英寿選手も信頼を寄せ心を開いてきたジャーナリストが何人かいます。

もっと中田英寿選手に迫りたいと思えば、そうしたジャーナリストが残したテキスト、著作を丹念にひも解くのがいいのではないかと思います。

ただ、通算14年間という時間軸全体を通して「別格の存在となった日本代表」中田英寿選手を語っているのは、おそらく、当ブログの今回の2回シリーズしかないと思いますし、その核心部分が非常に高いレベルに鍛え上げられた「心・技・体」の部分であることに切り込んでいるテキストも、今回の2回シリーズしかないと思います。

それは、今回のシリーズが「Jリーグがスタートして以降の日本サッカー30年の記録から」というテーマであり、後世に残す記録としての価値を最重要視しているからに他なりません。

何十年後かに、この記録を読んだ方が、1993年のJリーグ草創期から進化・発展を遂げた2006年までの間「日本代表の別格の存在」であった中田英寿選手のことを伝える内容として、もっとも適切ではないかと思っています。

ご愛読、ありがとうございました。

【本稿は、1月22日(日)17時から書き始めていますが、最初の仕上がりは1月23日(月)21時過ぎです】
【1月24日(火)には、テレビ出演の件やジョホールバルでの集合写真の件などのところを一部加筆しています。】
【1月25日(水)には、ASローマでのリーグ制覇を決めた試合のところや、その後の日本人選手の海外挑戦の道を拓いた部分などを加筆しています】
【1月28日(土)には、「心」の部分にドイツW杯での夕食会の部分や、「体」の部分の恥骨炎の部分などを加筆しています】
【1月29日(日)には、「心」の部分の最後のところに、nakata.net書籍版からの引用など、「技」の部分のところに平塚時代のシュート練習のエピソードなどを加筆しています】
【2月2日(木)には、nakata.netTVのことなどを加筆しています】
【2月4日(土)には、「技」の部分に2000年1月1日付スポーツ報知特集記事のことを加筆しました】
【3月28日(火)には、2002年W杯のロシア戦で見せた、喜びを爆発させた中田選手の表情を捉えた記事などのことを加筆しています】
【6月28日(水)には、「体」の部分で野菜嫌いについて紹介して、発疹のため記者会見に少し色の入ったメガネをかけてきた話を記述しましたが、発疹は別の理由であることが判明しましたので削除しました。合わせて「心」の部分で、強靭な彼でも心折れかねない糾弾行為を受けた経験のことを追加しました。】
【加筆前にお読みになった方は、再度、完成稿をお読みいだたければと思います】


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Jリーグスタート以降、日本サッカー30年の記録から(6) 21歳にして日本代表で「別格の存在」となった中田英寿選手、その「心・技・体」をあらためて記録に留めます(その1)

2023年01月20日 12時47分12秒 | サッカー選手応援
日本サッカー30年の記録をひもとく時、1993年から2006年までの14年間、すなわち30年の前半分の期間、日本のサッカーを牽引してきた中田英寿選手の存在がいかに大きかったかを、2回シリーズで記録に留めておきたいと思います。

2006年夏、ドイツW杯のグループリーグ最終戦を終えたピッチ上に、仰向けに横たわり静かに自分の選手生活の最後をかみしめていたであろう中田英寿選手の姿は「伝説のシーン」として長く語り継がれるに違いありません。

あれから16年、すでに中田英寿選手の足どりを知らない世代も増えて来ましたので、(その1)では、本題に入る前に、その足どりを振り返っておきます。「中田選手の足どりなんて、人に教えるぐらい知ってるよ」という方も、何か新しい発見があるかも知れせんので、一通りお読みください。

・中田英寿選手が多くのサッカーファンの前で、そのプレーを披露したのは1993年8~9月、日本で開催されたU-17世界選手権の舞台です。

ご存じのとおり1993年は、まさにJリーグがスタートした年でしたが、同じ年に、中田英寿選手は、松田直樹選手、宮本恒靖選手、財前宣之選手、船越優蔵選手たちとともに国見高校の監督をされていたU-17日本代表・小嶺忠敏監督に率いられ、日本で開催された世界選手権にホスト国として参加したのです。

このチームは、将来のW杯日本招致を見据えてグループリーグ突破を目標にして強化が進められ、前大会優勝国のガーナをはじめ、イタリア、メキシコの入った厳しいグループを、見事勝ち抜きました。

このチームでは財前宣之選手が10番を背負った大黒柱でしたが、中田英寿選手も主力のサイドハーフで獅子奮迅の活躍を見せました。

特に第3戦のメキシコ戦の前半、右サイドを50mほど疾走、最後にもう一段加速して倒れ込みながら中央にクロスを送り、船越選手の先制ゴールをお膳立てしたプレーは圧巻でした。
代表でのキャリアの最初の頃は、サイドを駆け上がってクロスを供給するプレースタイルだったようでした。

・1995年、Jリーグをめざす高卒新人の最大の目玉として12クラブ中、11クラブから誘いを受けるという高評価の中、中田英寿選手は、自ら幾つかのチームの練習に参加した上で、ベルマーレ平塚を選択、入団しました。

・1995年、もう一つ上のカテゴリーの、いわゆる「ワールドユース選手権」にも主力として出場します。この大会では2トップのすぐ後ろに位置して攻撃陣の一角を担い2得点をあげ、グループリーグ突破に貢献しています。

・1996年、アトランタ五輪サッカーのメンバーとして、松田直樹選手と共にチーム最年少19歳で出場しています。

ご存じのとおり、この大会、初戦のブラジル戦に勝利して「マイアミの奇跡」と呼ばれることになりましたが、中田英寿選手自身は、チーム戦術が守備をガッチリ固める戦いに終始したことから「もっとDF陣が押し上げてくれないと勝てない」と不満を漏らしたこともあって、第3戦のハンガリー戦ではスタメンを外され、不完全燃焼となった大会でした。

・1996年、ベルマーレ平塚では得点能力の高いベッチーニョ選手をFWに据え、中田英寿選手をトップ下に置く布陣を採用、これ以降、中田英寿選手はトップ下を不動のポジションとして進化していきます。

・1997年5月、日韓共催W杯記念試合として東京・国立競技場で開催された韓国戦にフル代表として初招集されると、いきなりスタメン、トップ下を任され正確なスルーパスを連発、すぐにチームメイトの信頼を勝ち得て、多くのチャンスメイクに絡みました。

翌日のスポーツニッポン紙には「加茂監督は普通のオッサン、W杯は国際大会の一つと言い切る強心臓、(中略) 98フランスW杯出場を何気なくやって、2002年でも主役の座を手にしそうな背番号8」と、輝かしい未来を予見するような記事が載っています。

・そして同年9月からのフランスW杯アジア最終予選、期間中に加茂監督が更迭され岡田コーチが昇格するというショックに見舞われながら、ギリギリのところで第三代表決定戦のイラン戦に臨むところまで来ました。

中田英寿選手はこの時、弱冠21歳。すでに日本代表の中でも「別格の存在」といっていい程の存在感を示しています。

このイラン戦を戦いながら中田英寿選手の脳裏には、高校2年に出場した全国高校サッカー選手権時に提出したアンケートに「日本は98年フランスW杯に出場できると思う」と答え、その理由として「自分が出るから」と書いたことがよぎったのではないでしょうか。

「いまこそ、自分の力で初めてのW杯出場権を獲得する」「自分はそうやって道を切り拓いてきたし、アンケートに書いたことは絶対に実現する」という気持ちが、あのイラン戦での、これでもかこれでもかというチャンスメイクを生み出したように思います。

あのイラン戦でのプレーは、かつてアトランタ五輪アジア最終予選の準決勝サウジアラビア戦で前園真聖選手が見せた、ここ一番の鬼気迫るプレーに匹敵する中田英寿選手の渾身のプレーだったと思います。

その結果、中山雅史選手の先制ゴール、城彰二選手の同点ゴール、そして岡野雅行選手の劇的なVゴールを引き出し、彼が高校時代に自らに課した約束を見事に果たしたのです。

中田英寿選手自身も「「ジョホールバルの歓喜」として語られている、あの試合の結果があったことで、国内外からの注目度が一気に高まり、同年12月に開催された「フランスW杯組み合わせ抽選会記念試合 世界選抜対欧州選抜」にも選抜され、その後、日本代表の不動の司令塔として、また自ら海外でプレーすることになるキャリアのターニングポイントになった」と語っているようです。

・1998年6月、フランスW杯に初出場、3戦全敗でグループリーグ敗退した日本代表にあって、一人、中田英寿選手は世界と伍して戦える逸材として高い評価を得ました。

・98-99シーズンの戦力強化を図る海外クラブの中で中田選手獲得に名乗りをあげたクラブは12にのぼったそうです。ここでも95年にベルマーレ平塚を選んだように、彼の深謀遠慮が発揮されます。加入後、すぐにレンタルに出されてしまいそうなクラブを避け、チーム作りで自分が活きるクラブを探し、1998年7月、セリエAに昇格したペルージャに移籍しました。

・同年9月、開幕戦で王者ユベントス相手にいきなり2ゴールを奪うという驚異的なパフォーマンスでデビューを飾りました。

・以降、2000年シドニー五輪サッカー、2002年日韓W杯そして2006年ドイツW杯に至るまで、文字通り日本代表の大黒柱として欠かせない存在であり続け、また、その期待を背負い続けてきました。

・2002年日韓W杯は、自国開催でありグループリーグ突破が至上命題とされた大会です。トルシエ監督が4年かけて作ったチームの大黒柱は中田英寿選手であり、プレー面でもチームワーク形成の面でも中田英寿選手の双肩にかかる期待は相当なものでした。

 その期待を背負いながら中田英寿選手は見事にそれに応え、グループリーグを首位で突破するという日本サッカー史に刻まれる偉業を成し遂げたチームの、紛れもないリーダーでした。
 こうして自分に寄せられた日本代表としての期待に一つひとつ応えながら、代表でのプレーを終えると自分の所属するヨーロッパのクラブへと淡々と帰るサッカー人生を続けてきました。

・この間、所属クラブがペルージャからASローマ、パルマ、ボローニャ(レンタル)、フィオレンティーナ、ボルトン(プレミアリーグ)と変わっています。

ペルージャでの成功の高揚感を知る者にとっては、ローマでのスクデット獲得などの栄光はあったものの、中田英寿選手が、それぞれのクラブでの、さまざまなチーム事情も絡んで、なかなか大黒柱として完全燃焼できる機会を得られなかった印象があります。

ポジション的にも、本来のトップ下のポジションでプレーできたかというと、必ずしもそうではなく、ボランチやサイドハーフなど、監督の方針やチーム事情に左右されたポジションを黙々とこなしていた印象です。

代表での立場も、2002年まではトルシエ監督の強い意向のためクラブとの兼ね合いに苦労する状況が続き、ジーコ監督になってからは、チームの中で図抜けた存在であることがチームメイトとの間に微妙な隔たりを生み、必ずしも幸福な代表人生とはいえなかった印象があります。

そうしたクラプでの状況や代表での立場が、徐々に中田英寿選手から「純粋にサッカーに情熱を傾ける」マインドを削いでいったことは想像に難くありません。

・そして2006年、すでに前年11月にドイツW杯を最後に引退の意向を固めていた中田英寿選手の最後の舞台ドイツW杯、6月22日のドルトムントのホームスタジアムで行われた第3戦ブラジル戦、1分1敗で後のない日本代表は玉田圭司のゴールで先制しますが、結局1-4でグループリーグ敗退が決まってしまいます。

試合が終わって選手たちがロッカーに引き上げる中、中田英寿選手がセンターサークルで仰向けになりドルトムントの空を仰ぐシーンが、彼のピッチでの最後の姿になりました。

ブラジル戦から10日後、2006年7月3日、彼の公式HPで現役引退が発表されました。

・その後の彼の多彩な活動は、多くの人が知るところですが、やはり日本代表の別格の存在として駆け抜けた14年間は「日本サッカー30年の記録」において、とりわけ「中田英寿選手の心・技・体」について、あらためて記録に留めたい14年間であります。

次回(その2)において、詳細に記録していきたいと思います。
どうぞ、お楽しみに。


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日本サッカーの進化を実感させる2つのニュース、JFA宮本専務理事誕生と、JPFAアワードの新設

2023年01月19日 15時02分05秒 | サッカー選手応援
17日、18日とたて続けに、日本サッカーの進化を実感させる2つのニュースが飛び込んできました。
一つは、日本サッカー協会の専務理事に宮本恒靖氏が就任したというニュースです。宮本氏は選手時代から文武両道を地で行く頭脳明晰な方で、現役引退後、FIFAが運営する大学院で学んだという日本が誇る人材です。

1年前にJFA理事に選任され、国際委員長と会長補佐を兼務されていたそうですから、まさにエリート街道まっしぐらといった状況です。

FIFAのインファンティーノ会長などは、いわゆる「サッカー村」の人ではなく、テクノクラート、つまりエリート官僚のような立場で、FIFAの運営を通じて頭角を現した人です。

ますます複雑・多様化する国際社会におけるサッカーの世界の中で、それに的確に対応して日本サッカーの国際的プレゼンスをあげていくには「サッカー村」の年功序列や、なんとか閥の力関係で上層部の人選をしていたのでは、立ち行かなくなります。

当ブログが「日本サッカー30年の記録から(5)岡田武史監督突然の表舞台登場の遠因? ネルシーニョ氏代表監督要請破棄事件とは」で指摘した、JFA幹部の当事者能力のなさなどは、まさに前時代的な組織の象徴のような出来事でした。

Jリーグ(社団法人日本プロサッカーリーグ)が、村井チェアマンのもとで、高い経営能力を発揮して、そのあとを野々村チェアマンという、これまた潜在能力の高い経営者的チェアマンを招いたことで、JFAより経営的な面でかなり先を行っていた感じですが、宮本専務理事の誕生は、JFAもいよいよ経営能力重視の上層部人選に舵を切っていくのでしょうか?

その意味では、今度は田嶋会長の「引き際」そして誰を後任に据えるのかが見ものとなったとも言えます。

もう一つ、JPFAアワードの新設もかなり画期的なニュースでした。JPFA(日本プロサッカー選手会)は、1996年の設立以来すでに四半世紀を数える歴史を持っていますが、2022年に初めて海外で活躍する選手が吉田麻也新会長をはじめ役員に就任するという転換期を迎えました。

まさに日本のプロサッカー選手ではあるものの、海外で活躍する選手がこれだけ増えている中の、自然な成り行きということでしょう。

吉田麻也会長も、代表キャプテンをはじめクラブでの安定的な活躍のためには、普通に考えると、こうした、いわば「頼まれ仕事」は少しでも減らしたいところかも知れませんが、そこが吉田麻也選手の凄いところです。

ただ「頼まれてやる」だけではなく「やるからには」時代に即した新機軸を打ち出したい。今回の「アワード」は、これまで「選手の支援」「チャリティ活動」といった範囲に留まっていた活動から一歩大きく踏み出したといっていいと思います。

特に、Jリーグの選手のみを対象とした「Jリーグアウォード」は、海外に出た選手が顕彰の対象から外れるという意味で、今日的ではなくなってきたと言えます。

また「Jリーグアウォード」は外国籍選手がMVPを獲得することが多かったことからも、日本人ナンバーワン選手は誰かという関心をそいでいたことになります。

今回の「JPFAアワード」は、その二つの空白を埋めるという意味でも、実に画期的な顕彰制度です。当「サッカー文化フォーラム」は、JFA「サッカーの殿堂」では評価されないけれど決して忘れてはならない、いわばサッカーファミリーの空白を埋める形で顕彰する制度の創設を目指しています。

そういう夢と目標を持っている当フォーラムにとって、こういう空白を埋めることを狙いとした顕彰制度は「快挙」と叫びたいぐらいのニュースです。

現在は、女子のプロサッカー選手まではカバーされていないと思いますので、早く何らかの形で組織化されることを願っています。

また「JPFAアワード」では、顕彰を象徴するようなトロフィーはまだないようです。アカデミー賞を象徴するトロフィー・オスカー像やバロンドールを象徴するボール型のトロフィーのような象徴的なトロフィーを用意して、日本人サッカー選手なら誰もが目指すアワードになればいいなと願います。

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JリーグMVPは横浜M・岩田智輝選手とのこと、恥ずかしながら予備知識ゼロでした

2022年11月08日 13時59分35秒 | サッカー選手応援
JリーグMVPに横浜M・岩田智輝選手が選出されたそうです。横浜Mの選手で知っている選手と言えば、キャプテン・喜田選手、ベテラン水沼宏太選手、2019年のMVP・仲川輝人選手、仙台⇒ロシア⇒横浜Mと移籍した西村拓真選手ぐらいしか名前が言えないレベルでしたので、恥ずかしながら岩田智輝選手については予備知識ゼロでした。

もはやMVPですから、多くの方がご存じだと思いますので、来歴を申し上げたりはしませんが、DFならセンターバックもボランチもサイドバックもこなせるという選手ですし、25歳という年齢からしても、このあとの日本代表でのプレーが楽しみです。

とかくMVPというと最前線の選手あるいは司令塔的な選手の受賞が多いわけですが、後方の選手の受賞は闘莉王選手以来だそうで、素晴らしいことです。
おめでとうございます。

(岩田選手、お名前がすんなり出てくるまで、しばらくかかりそうです)

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中村俊輔選手引退のニュースに思う

2022年10月20日 17時35分23秒 | サッカー選手応援
中村俊輔選手が引退するというニュースが、ネット、新聞、テレビ等で一斉に、しかも大きく報じられました。一人の日本人サッカー選手引退のニュースが、これほど大きく取り上げられたのは、いつ以来だろうと思いました。

中村俊輔選手より先輩の、1996年アトランタ五輪メンバー組、1998年フランスW杯メンバー組そして2002年日韓W杯メンバー組、さらには中村選手より後輩にあたる2006年ドイツW杯メンバー組、さらには中村選手の最後のW杯となった2010年南アW杯メンバー組、いずれも多くの選手たちが引退してきた中で、中村俊輔選手と同等以上の引退ニュースのインパクトがあったのは、中田英寿選手以来ではないか思います。

中山雅史選手、井原正巳選手、秋田豊選手、名波浩選手、前園真聖選手、城彰二選手、川口能活選手、宮本恒靖選手、柳沢敦選手ら、多くのビッグネームも引退の時を迎えましたが、やはり中村俊輔選手の引退ニュースは、そうした選手をはるかに凌ぐ大きなインパクトを感じざるを得ません。

実は、当プログが2012年に書き込みを開始した当時、中村俊輔選手は海外から横浜Mに戻ってチームの大黒柱として活躍していたのですが、すでに、この時期、日本代表組の主力が本田圭佑選手、香川真司選手、長友佑都選手といった海外で輝いている選手たちの時代に入っていたこともあって、中村俊輔選手について取り上げることが、極端と言っていいほど少なかったと思います。

自分自身の記憶の中でも「ほとんど取り上げなかった」という点が鮮明に残っているほどです。

今回、中村俊輔選手の引退について報じた、いろいろな記事を読んで特に感じたことは、中村俊輔選手が「選手という個の部分では不世出のファンタジスタ」と表現するにふさわしい、多くのサッカーファンを魅了する選手でしたが、日本代表と横浜Mという「チームの一員という部分では、悲運続きの涙のヒーロー」という選手生活だったことがわかります。

当プログでは、日本代表と横浜Mという「チームの一員という部分」で輝けなかった選手という結果だけが印象に残っている面がありますが、それは、例えば2002年W杯代表の落選、2006年W杯のグループステージ敗退、2010年W杯直前での控えに回った出来事など、いずれにおいても直前にパフォーマンスを落としてしまったりという「悲運に見舞われた点」をあまり理解していなかったように思います。

今回の一連のニュースで特に印象に残ったのは、2013年、横浜Mで自分として初めてのJ1制覇に迫ったにも関わらず、終盤に胆嚢炎を発症してチームも急失速。最終節で敗れて優勝を逃し時のことです。

中村俊輔選手は人目もはばからず号泣し、そして「どうして俺はこうなるんだろうね」と絞り出すように呟いたそうです。
まさに「悲運ここに極まれり」といった出来事です。

それでも「選手という個の部分では不世出のファンタジスタ」であることを見事に証明したのが、J1における唯一の「MVP2回の受賞者」という勲章であり、スコットランドリーグでも「MVP受賞」という実績です。国内外合わせて3度のMVP受賞歴は、中村俊輔選手の能力の高さを、これでもかと見せつけている偉業です。

そして数々のフリーキックによる名場面も勲章です。06-07シーズンの欧州CL、セルティックの10番としてマンチェスターUを相手に決めてみせた2本のフリーキックは、当「サッカー文化フォーラム」サイトが取り上げる「伝説のあの場面」にランクインされる、まさに「殿堂入り」クラスの名場面と言えます。

中村俊輔選手が、小さい頃から努力に努力を重ねて、ここまでの地位と実績を築き上げたことは、すでに、多くの書籍、雑誌特集などで紹介されていますので、ことさら、ここでは触れませんが、日本のサッカー少年の相当多くが「中村俊輔選手のようにフリーキックがうまくなりたい」と憧れていることを思うと、中村俊輔選手の小さな頃からの努力の日々のことが、もっと少年たちにも伝わり、少しでも近づく努力をして欲しいと願ってやみません。

それを考えると、むしろ、これから先、当ブログも少年たちに向かって、中村俊輔選手の小さい頃からの努力の日々のことを伝える使命があるように思います。

おそらく中村俊輔選手の引退試合が、何らかの形で行われるに違いありません。願わくばグラスゴー・セルチックやレッジーナからも参加選手がいるようなゲームになればと思いますが、それは無理というものでしょうか?
それにしても引退試合、楽しみです。
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久保建英選手、小柄なのは変わりませんが強く、速くなりましたねぇ。

2022年09月20日 18時38分36秒 | サッカー選手応援
8月末にWOWOWに加入しましたので、スペインリーグもヨーロッパリーグも見れる状態です。月額2500円を毎月というのは少しキツいので、今月一杯で、また契約休止するつもりですけれど。

ヨーロッパで活躍する日本人選手の中で、久保建英選手の活躍が群を抜いている感じがしました。
ヨーロッパリーグのアウェーでのマンU戦、直近のスペインリーグ・エスパニョール戦、サイどを駆け上がるスピードの速いこと、速いこと。止められずに推進するので余計に感じるのかも知れませんが、止められない強さも備わったように思います。

明らかに今シーズンの久保選手は、昨シーズン以前の久保選手と全く異なるスケールアップを感じます。スタメンで出て終盤までピッチに立ち続けていることも、それを証明しています。

そこで思うのは、このままカタールW杯まで調子を維持してくれれば、本番でのプレーが楽しみです。
小柄なのは変わりませんが、もともと技術的にはハイレベルな選手ですから、それに速さと強さが加われば、よくサッカー解説者が言う「早くて強くてうまい」三拍子そろった選手、世界の舞台で十分通じる選手に成長してきた感を強く持ちました。

あとは、久保選手の孤軍奮闘に終わるのではなく、ほかの誰かがうまく絡む形になればと願うばかりです。その「ほかの誰か」がいまのところ見えない状態です。
欧州チャンピオンズリーグやヨーロッパリーグで戦う日本選手が増えてきましたが、これからは出場したというだけでなく、久保選手のように試合を動かせる選手が一人でも二人でも出てくることが待ち望まれます。

これも、カタールW杯開幕まであと2ケ月、楽しみにしていきたいところです。
こう書いてきますと、WOWOWの今月末契約休止は早すぎる感じがしてきました。

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