「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

W杯日本代表バッシングから、いくつか真摯に考えるべきこと

2014年06月28日 19時58分35秒 | FIFA、サッカー協会

25日朝に、日本がコロンビア戦に完敗してから、26日発売の新聞系の紙面は、代表バッシング一色だった。特に「日刊ゲンダイ」の舌鋒が鋭く、見出しは「日本サッカー絶滅」、実に6ページ以上をサッカー関連に割いている。驚きでもあり感謝もしている。

27日のスポーツ紙系は、次の代表世代に焦点をあてており、今朝28日のスポーツ紙系は、一面トップにサッカーを持ってきたところは一つもなく、土曜恒例とも言ってよい、競馬予想である。つまり潮はすっかり引き、平常に戻った。

私たちサッカーに高い関心を寄せている者たちは、一連のバッシングから何をすくい取って今後に生かさなければならないか、そこにエネルギーを費やすべきである。

さきにあげた「日刊ゲンダイ」が項目としてあげている、いくつかの点を中心に、キーワードで真摯に考えるべきことを指摘したい。

①「Jリーグは恐らく解体」

プロサッカーの世界は、毎日のように試合を行なうプロ野球の世界と異なり、1週間にせいぜい2試合が限度だ。

そのためチーム経営の源泉となる入場料収入は、1試合あたりの観客数を増やすことに力点が置かれる。地域密着の考え方でチーム数を増やし続け、J1は18チーム、J2は22チーム、J3は12チーム、合計52チームとなった。50以上のプロサッカーチームが存在する日本の状況が健全なのかどうか、賛否が分かれるところだ。

プロ野球は12チーム、独立リーグの2地域10チームを合わせても合計22チームだ。プロスポーツの楽しみに恵まれない地域にとって、サッカーも野球もプロチームの存在はかけがえのないものであり、Jリーグの基本的な考えもそこにある。

しかし、事業経営の観点からは、Jリーグ、特にJ2、J3の多くが危うい基盤のままで、それこそ1年毎に収支見通しに四苦八苦している「その日暮らし」では、とても長期的な経営安定は望めない。

膨らみ続けたチーム数が、経営悪化のため撤退続出となった時の社会的イメージダウンというリスクに、日本サッカー協会もJリーグも正面から向き合っていないと言われて久しい。その理由として、それらの組織に安住する「サッカー貴族」「サッカー官僚」といった、既得権益者たちが、自分たちの身を切ることに消極的だからという点も、批判の対象となっている。

バブルがはじけた時の怖さをうすうす感じていても、誰も早めに手を打とうとしなかった、日本のバブル崩壊前夜と同じことが、プロサッカーの世界にもヒタヒタと迫っている。

「Jリーグ解体」という見出しはおどろおどろしいが、自らが縮小均衡に向かってナタを振るわない限り、社会が衝撃を受けるチーム消滅というニュースが増える可能性があると覚悟すべきだ。

「子供たちはサッカーを捨て野球に」

この話は、ここ15年ぐらい前から話題になっている。

プロ野球が、日本は「野球」、アメリカは「ベースボール」と言われ、ある意味、別世界のプロスポーツとして進化してきた歴史が、ここにきて、日本のプロ野球がメジャーリーグへのステップという意味合いに変化してきたことで、新たなステージに入ったと言える。

それは、子供たちの眼からみると、先にサッカーの世界が、Jリーグをステップに欧州のビッククラブへの移籍、さらにはW杯での活躍という広がりを持っていたことと、野球も似たような環境になってきたという見え方になるかも知れない。

ダルビッシュ、田中将大、大谷翔平、藤浪晋太郎、いずれも身体能力が欧米人と遜色がないという点で、少年期に可能性に満ちた人材が野球に相当流れていることは確かだ。サッカーにおいては特にディフェンス陣の人材不足が深刻で、世界の舞台で欧米・アフリカの屈強な選手たちと渡り合える選手が育たなければ、将来に亘って世界で勝てない状態が続く可能性がある。

まぁ、それほど悲観したものではなく、サッカー好きになってくれた身体能力の高い少年たちを、いかにうまく育てるかということのほうを大事にすべきだと思う。

「百年やっても日本人はサッカーに向かない」

これはもう、自暴自棄的な言い方だが、実は「W杯で上位に行けなければ日本人はサッカーに向かない」ということならば、今大会4チームで1勝もできなかったアジア勢全体に言うべきだろう。

サッカーが日本人に向いているかどうかを、お行儀の良さとか、なりふり構わず相手をねじ伏せるメンタリティが足りない部分に求める向きもあるが、それをもってサッカーに向いていないとするには無理がある。

サッカーというスポーツについて、よく言われるのは、その国や民族の特性を反映するということだ。つまりその民族の歴史的・文化的な背景、特徴がサッカースタイルに現れるという。

欧米・アフリカ系の選手に比べて小柄だが俊敏で連携プレーが得意な日本人は、パスサッカー、つまりスペイン代表やバルセロナが志向しているパスサッカーこそが日本のスタイルだという意見が、今大会前までに大勢を占めるまでになってきた。

「百年たっても日本にふさわしいサッカースタイルは確立できない」という意見ならば、どういう内容なのか読んでみたくもなるが「百年やってもサッカーは向かない」という見方は違っていると思う。

「FWを発掘せよ」

これも、いわゆる「決定力不足」というキーワードとともに長らく語られる言葉である。ただ、これまでは「FWが育たない」とか「ストライカー不在」という言われ方が普通だった。そんな中で「FWを発掘せよ」という言い方は、異彩を放っている。眼からうろこ、という感がする。

サッカーがうまくなるために、子供たちはボールを止める、パスをする。ドリブルするといった技術を高めることにエネルギーを注ぐ。おのずと、そういう点に優れた子供が天才と呼ばれ、少年サッカーにおいては、その技術によって多く点も取れる。

しかし、世界のサッカーを見据えた場合、強引にシュートを打つ、その選手が足の振りが鋭くムチのような強さを持っているとか、あるいは足首から下が実に柔らかくシュートミスが少ない蹴り方ができるとか、そうでなければ、胸回りに近いぐらいの太ももを持っていて、ミドルレンジからなのに弾丸のようなシュートを正確にゴールの枠内に飛ばすことができるとか、まさに「生まれながらのFW」という選手が少ないのだ。

現在の日本代表が、試合の中でペナルティエリアのすぐ外からシュートを打っても、余りに弱弱しく、キーパーに処理されてしまうのを見るたびに、太ももが細いよなぁとか、足の振りが弱いよなぁとか、キーパーの正面にしか行かないよなぁ、と思ってしまう。

シュートレンジに入ったら、少々角度がなくとも、少々フリーなところに他の選手がいようとも「オレがストライカーだ」と言ってシュートを打つ選手が、ノーステップなのに鋭い振りで繰り出すかか、柔らかい足首で絶妙のコースに流し込むか、はたまた丸太棒のような太ももでズドンと行ってくれるか、いずれかの足を持っていてくれることが必要なのだ。

それは、ある意味「発掘作業」なのかも知れない。日本全体として、中学・高校・クラブのコーチたちが、中央トレセンの指導者と連携して発掘作業をしなければ、そもそも「FWらしいFW」は不在のままとなる。釜本選手のようなFWはもう現れないのか、ではなく、必ずいるはずの選手を見つけられないでいるといったほうが当たっているのではないか。

さきに、欧米・アフリカの屈強な選手たちと渡り合えるディフェンス陣は、サッカー好きになってくれた身体能力の高い少年たちを、いかにうまく育てるかということが大事と書いたが、それこそ、ディフェンダーは愚直に、責任を持ってリスクに対処することが資質、ということからすれば日本人が基礎的に優位性のあるポジションであり、あとは身体能力の高い選手を大切にDFとして育てることが課題になる。

ところがFWは、そうはいかない。まずは発掘が必要なのだ。固有の能力、固有のメンタリティを持った、ある意味、特殊な子を探さなければならない。

スーパーなFWが、いかに特殊な人間であるか、今大会、ウルグアイのルイス・スアレスが、余すところなく示してくれた。彼は、畏れ多くも13-14シーズン、プレミアリーグ得点王だ。その彼が「噛みつき癖発覚」のため大会を去った。世界最高峰のFWとは、実は狂気と隣り合わせなのだ。

別に、日本で、狂気な人間を探せと言っているのではない。絶対的なストライカーを求める時、それぐらいの目線を持たないと、とても発掘できないと言いたいのだ。

2022年ワールドカップに、世界に恐れられるストライカーが日本代表として出現し、彼が徹底マークを振り切って得点を重ねる夢を持とう。今大会のネイマール、メッシ、ミュラー、ロッペン、皆、徹底マークされても点を取り続けている。いずれ日本代表にも出現することを信じよう。

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本田圭祐選手、長友佑都選手、私(たち)は、ただ、ただ感謝しているから。

2014年06月26日 15時32分55秒 | FIFA、サッカー協会

W杯ブラジル大会、まだまだグループリーグの途中だが、日本では終戦だ。これでメディアも潮が引くように静かになるだろうし、監督・選手たたきが中心となるだろう。

監督については、2つ前の書き込み、6月22日の「ザッケローニ監督への批判がいよいよ表面化してきました」のところで、言い尽しているので、何も書くことはない。

選手たちは、さぞ悔しいに違いない。

本田圭祐選手は、とにかく目標は優勝と広言してきたから、グループリーグ敗退という結果は、どれほどの悔しさか、心中察するに余りある。

本田選手は、つらくとも結果に対する批判の嵐は覚悟しているとコメントしている。

長友選手は、悔しさが募って記者会見中にこらえきれず涙した。この心境も察するに余りある。

けれども、私(たち)は、声を大にして言いたい。あなた方には十分、可能性を感じることができたし、優勝と広言することも、勝負に向かう人間が、自信なさそうではダメなのであり、仮にベスト8やベスト4を狙うには優勝を目指す気持ちと鍛錬がなければ資格がないという世界であることを、私たちは十二分に知っているから、と。

決して、ただの放言で優勝と口にしているのではなく、高い目標に挑戦する気概がなければ、世界の勝負に打って出ることなどできないということを。

前回大会で、岡田監督がベスト4を目指すと選手たちを鼓舞してグループリーグを突破できたのと、まったく同じ気概なのだ。

そして、本田選手は、周りも自らも、このチームの中心となっていく中で、すべての責任を引き受ける気持ちで「目標は優勝」という方向性を示し、チームを鼓舞し続けてきたということも、私(たち)は、よくよく分かっている。

長友選手が、そんな本田選手の気持ちに沿うように優勝と言い続けてきた気持ちもよく分かっている。

長友選手は「監督に勝たせたかった」という気持ちも涙のわけの一つだったと記事にありました。私のように「この監督は戦争指揮能力の点で劣る監督なのでは・・・」などと疑いを持たず、ひたすら信頼関係に結ばれた監督に勝利をプレゼントしたかったのですね。まっすぐな日本人だなぁ、とあらためて感じる。

大会前、私は、監督がアジアを勝ち抜ける監督ではあっても、世界の勝負に勝てる監督としては力不足ではないかと不安をぬぐいきれませんでしたが、なにせ、ミランの本田、インテルの長友、マンUの香川、シャルケの内田、欧州日本人得点記録更新の岡崎、これだけのタレントが揃っているのに信じないのはおかしいと、自分を戒めながら応援しようと、気持ちを新たにしたことを思いだす。

とにかく、これまでの日本代表との比較では、まぎれもなく史上最高のタレント集団になったことは間違いのない事実だったから、大いに希望を抱きながら大会を迎えたのだ。

だから、声を大にして言いたい。本田圭祐選手、長友佑都選手、私(たち)は、ただ、ただ、あなた方に感謝しています。どうか、そういう日本人も多いということを感じてください。そして、いままで以上にサッカーを通じて成長していってください。私(たち)は、心から、それを願っています。と。

私なりに、大会の結果を振り返れば、幾つか指摘しておきたいことがある。

まず長友選手、岡崎選手という攻撃の主力二人が疲労困憊だった。欧州リーグの過酷な日程の中でフルパワーで活躍し続けてきた二人、本来なら2週間以上のオフをとって代表に合流させるべき疲労状態だったが、即合流して、しかも、本大会までに一度身体を追い込むというメニューを課せられて大会を迎えた。これは完全にコンディショニングの失敗だ。

なかなか出場機会に恵まれなかった選手は、いわば、使い減りしていない状態なので、少々の追い込みはどうということなかったかも知れないが、この二人は完全に、ヘロヘロになって大会に入る形になった。それでも、この二人は言い訳もしないし、グチもこぼさないから、気付かない人たちも多いと思うが、チームスタッフたちは気づいているはずだ。それでも回復させるコンディショニングを取り入れなかったのだから、責任がある。

特にブラジルの試合地という過酷な条件があった中でのコンディション作りは、代表選手たちの大会前の疲労度をにらみながら、細心の注意が必要だったが失敗した。このこともしっかり検証されなければならないと思う。

次に香川選手、彼はドルトムント時代の香川選手ではなくなっていた。マンUに移ってからの試合勘不足のため、本来の「若武者のような切れ込み」「とにかくゴールに向かう積極姿勢」までドルトムントにおいてきてしまった。今大会の香川は、前回大会の中村俊輔選手と同じ状況だったのだ。岡田監督なら、そこは見切っただろう。ザッケローニにはそういう洞察力がないのだ。

本田選手は、孤軍奮闘だった。とにかく有言実行、前からプレスをかけ続ける姿勢には頭がさがった。いかんせん、本田とともに攻撃を形作る香川、岡崎、長友、この3人の状態が悪いため、イメージしたコンビネーションが作れる状態でなかったことが気の毒だ。

あとは守りの問題、結局、日本らしい攻撃サッカーで世界を驚かせたいとザッケローニが幾ら言っても、守備の整備をおろそかにしてW杯に勝とうという、その姿勢がそもそも間違っている。日本の守備陣のレベルは、個々の力量から言えば世界ランクの下のほうなのだから、攻撃と守備のバランスのとれたチームというのは、現状の守備陣では無理な話なのだ。

日本代表決定前夜にも、闘莉王は入れるべきだとか、いろいろ候補選手の名があがったが、そもそも4年間、守備陣を育てたり強化するという発想がなかったのだから、話にならない。

よく、岡田監督の時は守備重視が過ぎて、あの成績が限界と言われたが、少なくとも、今回、あの守備レベルより落ちたことが問題なのであり、攻撃も重視するけれど守備をどう整備するかは、世界を戦う指揮官の当然のテーマなのだ。

最後に繰り返して同じことを言いたい。本田圭祐選手、長友佑都選手、私(たち)は、ただ、ただ、あなた方に感謝しています。どうか、そういう日本人も多いということを感じてください。そして、いままで以上にサッカーを通じて成長していってください。私(たち)は、心から、それを願っています。

何度も、私(たち)と、(たち)で書いたのは、私の書き込みではあっても、多くの日本人の人たちも共感してくださることを信じて疑わない気持ちを込めるためです。(たち)の人々が何千人、いや何万人も何十万人もいるはずだと信じているのです。きっと間違っていないはずです。ただ、確かめたわけではないので、「私たち」と書かずに私(たち)と書いたのです。

今大会、少なくとも日本国内での興奮の潮が引くような、この時期に、どうしても書いておきたかったことです。

W杯ブラジル大会は、これから決勝トーナメントに入っていきます。日本国内の興奮の潮が引いても、私たち「世界のサッカーファン」の興奮のボルテージは、上がることはあっても下がることはありません。

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日本のサッカー文化を100年先に繋ぎ伝えたいのです

2014年06月22日 23時33分56秒 | サッカー文化

あらためて書きますが、私は「サッカー文化フォーラム&アーカイブス」の夢追い人です。それは、1993年のJリーグスタートをもって萌芽した日本のサッカー文化を、克明に記録し続け100年先に繋ぎ伝えたいという夢を現実にするため日夜作業を続けている人なのです。

6月14日付のこの欄では、収録した映像記録をデジタル変換してHDDに取り込み、変換を終えた古いビデオテープを廃棄して倉庫代わりにしている部屋のスペースを空けるという作業を始めて2年になりますというレポートをしました。こうした作業をこれからも延々と続けていくことによって「日本のサッカー文化」を記録・保存・継承できると信じているのです。

1993年を起点として、すでに21年が過ぎました。日本のサッカー文化は裾野も大きく広がり、深みもずいぶん増して、すっかり社会に根付いていると思います。

それを顕著に感じるのが、ちょうどいま、ブラジルワールドカップに対する日本での関心度合です。

今回でワールドカップ5回連続出場となる日本、日本の社会全体が「ワールドカップは地球規模の一大イベントであり、その大会で日本がどこまでやれるか期待もできる」という雰囲気です。テレビ・新聞などのメディアのみならず、社会のあちこちでワールドカップサッカーと日本代表の活躍に一喜一憂していることが伝わってきます。

日本代表に海外クラブで活躍している選手が多く、実力も高まったのではないかという期待が膨らんだことも大きいと思いますが、やはり20年以上にわたるサッカー文化の浸透の結果と言っていいのではないでしょうか。

1998年の日本初出場の時、まだワールドカップサッカーに対する認知度は低く、物珍しさ的な見られ方でした。メディアは4年後に日韓共催でやる大会だと必死にアピールしていました。

2002年には、自国開催でもあり高揚感も含めた喧騒が日本中を包みました。そして2006年、2010年を経て、いまは選手たちは自信に溢れた表情で大会に臨み、応援する日本の社会の中で、サッカーは一つのスポーツという狭い存在ではなくなってきました。

このような変化は、それを克明に伝え記録されてきた各種メディア、すなわちテレビ、書籍・雑誌、新聞等に保存されています。

当・サッカー文化フォーラムは、それらの各種メディアに記録された一つひとつの動き・変化をサッカー文化事象として連綿と蓄積し続けて、それを100年先に繋ぎ伝えていくことを目指しています。

そして、いま、このブログを読んでくださっている方に、呼びかけたいことは、この100年先に繋ぎ伝える作業において、私は第一走者となっているに過ぎず、それはあと数年、長くとも10年が精一杯だということです。これまでの21年と合わせて、せいぜい30年です。残りの70年に向けて、当然、第二走者にバトンタッチが必要なのです。

そのバトンタッチは、私が再起不能になったりしてからでは元も子もありません。まだ続けている今のうちに第二走者になっていただく方、それが個人の方か団体かは問いません。第二走者になっていただく方に手をあげていただきたいのです。

サッカー文化の継承です。サッカーに関する映像・活字情報の収集継続と保存です。サッカー情報のアーカイブ事業の継承です。

どうぞ、よろしくお願いします。お読みになった方で、自分には無理だけど、あの人に相談してみようとか、あの人に情報提供してみようと思い当たるようでしたら、ぜひ、それをお願いします。

ご連絡をお待ちしております。

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ザッケローニ監督への批判がいよいよ表面化してきました

2014年06月22日 22時35分32秒 | FIFA、サッカー協会

日本時間20日朝のギリシャ戦を終えて、スポーツ紙の論調は、21日は各選手について触れたものが多かったのですが、22日は各社一斉にザッケローニ監督批判一色でした。

まだグループリーグ敗退が決まったわけではないにしても、第3戦のコロンビア戦は、他チームの結果にもよる非常に厳しい条件で戦うことになったのですから、当然といえば当然です。

実は、私は18日おそくとも19日には「ザッケローニの戦争指揮能力の低さを選手がカバーするしかない」というタイトルで、本欄に書き込みたかったのですが、仕事が詰まってしまい書けませんでした。

このあと、その原稿を紹介しますが、その原稿の中に「私が2年前に指摘したザッケローニの戦争指揮能力の低さが、致命的な形で露呈した」というくだりがあります。

そこで、はじめに、2年前に指摘したことを再録する形で紹介します。2012年6月3日に「鳥栖、ユン・ジョンファン監督にみる「監督力」」という書き込みをしています。

この中で、サッカーチーム監督に求められる能力・資質として、

①選手の適性を発掘・察知する能力と、布陣として適性に配置する能力

②対戦チームのスカウティング能力・戦術構築能力

③勝つチームにまとめるモチベート能力

④試合において瞬時の判断・決断を下せる采配能力

⑤対外的に適切な情報発信を行なうスポークスマン能力

の5つをあげています。

このうち、④の項目においてザッケローニ監督について次のように指摘していますので、④項をそのまま再録します。

④試合において瞬時の判断・決断を下せる采配能力

①から③までは深みのある人間性、あるいは知性、カリスマ性といった面で監督を見たが、試合は戦場そのものだ。瞬時の判断・決断の失敗はそのままチームの敗戦に直結する。

戦場での瞬時の判断・決断力は、ある意味動物的な、本能的な部分が持つ能力ともいえる。直感とか、勘といった言葉で語られることもある。ただ、直感とか勘も、チームとして集めた情報を総合的に分析して導かれた方向性があるから判断を間違わないのであり、戦局全体を冷静に見極めていればこそ下せる決断であろう。

最近まで総理の座にあった、どこぞの国の総理のように、瑣末な事に血道をあげて「ソーリのリーダーシップだ」などとわめいているようでは、もし戦場なら何万もの将兵をいたずらに死なせてしまうだろうし、サッカーの試合なら絶対勝てない監督となる。

サッカーチームの監督は、試合に選手を送り出してしまえば、使えるのは交代カードを最適に切ることぐらいだが、実は、このカードの切り方一つで、試合の流れをガラリを変えることができる。

この「選手交代」で凄味を感じたのが日韓ワールドカップで韓国のヒディング監督が見せた采配だ。決勝トーナメント1回戦、イタリアとの試合で見せたFWカードの連続投入、三人目のFW投入の時はディフェンスの要、というよりチームの要であるホン・ミョンポ(洪明甫)を下げての交代である。守備のバランスが大きく崩れることは間違いない、しかし、そんなことを言っても点をとらなければ勝てない、それがわかっていても、なかなか采配でそこまで大胆にやれる監督は少ない。

当ブログは、現在の日本代表監督、ザッケローニさんについて、この部分にやや不安を抱いている。日韓ワールドカップの時の日本代表・トルシエ監督もそうだった。決勝トーナメント1回戦のトルコ戦、戦い方のアプローチも誤りスタメンの選び方を失敗したほかに、選手交代のカードの切り方もまったくダメだった。

結局トルシエさんは育成向きの監督であり戦場を指揮する監督の器ではなかったことが明らかになった。同じ頃、ヒディング監督がああいう采配をしただけに、余計トルシエさんの非力ぶりが際立ったものだ。

ザッケローニ監督にもレギュラー選手を固定しがちな采配が見られる。「戦局が優勢な時にはいじらない」というのがサッカーにおける選手交代の鉄則といわれている。言い換えれば監督としての腕のみせどころは、戦局が危うい時、このままでは負けてしまいそうな時である。

これまでのザッケローニさんは、負けていてもズルズルと決断ができず、残り少なくなってから投入しても、あまりにも遅きに失しているといったケースが散見された。まだ、失敗が許される試合だったから大きな問題になっていないが、いよいよという場面、ここで失敗したらアウトという場面での判断力・決断力には不安が残ったままだ。

以上が、ちょうど2年前に指摘した点だ。

そして、失敗が許されない大会、失敗したらアウトという今大会、私がコートジボワール戦のあとギリシャ戦を前に書き込みを予定していた内容を紹介したい。

予定タイトル「ザッケローニの戦争指揮能力の低さを選手がカバーするしかない」

いよいよ明日ギリシャ戦である。

コートジボワール戦は、私が2年前に指摘したザッケローニの戦争指揮能力の低さが、致命的な形で露呈した。

いざ戦いが始まったら、わずか90分の中で、スタメンに送り込んだ選手の出来不出来を見極め、相手との関係で修正が必要な点を的確に把握する、そして対策をタイムリーに打ち出し目指す結果を得る。指揮官の最後の仕事の部分でザッケローニは不安な監督だ。

手を打つべきタイミングが遅れては元も子もない。

コートジボワール戦において、とるべき対策の第一は、後半開始から、遅くとも後半10分までの間に香川をベンチに下げることにあった。

長友も決して良くなかったが、攻めを期待するのは無理としても守りのことがある。酒井宏樹を長友のサイドで十分使えるのであれば変えたいところだったが、それは私にはわからない。

しかし、香川だけは全く生きておらず、そればかりかボールを失ない相手の攻めを始めさせるミスも多かった。長谷部に代えて遠藤保仁を入れたが、そうではなく香川のポジションに遠藤を入れて遠藤-長谷部-長友という布陣で左サイドを強化すべきだった。

とはいえ、そんなことを言ってもはじまらない。ギリシャ戦もワントップを誰にするかぐらいの違いで、あとはほぼ同じ布陣だろう。

もうザッケローニの采配など必要ないぐらいに選手がやるしかないのだ。スタメンに送り込んだ選手たちが思うように機能せず、何か手を打たなければならない局面を迎えても、ザッケローニには私たちが願うような采配が期待できないと思わなければならない。

まぁ、昨年のコンフェデレーションズカップでは、第一戦のブラジルに完敗したあと、第二戦のイタリア戦で見違えるような試合をした。気持ちの切り替えもできるという。私は選手を信じ応援し、選手たちとともに、そして日本全体のサポーターとともに勝利の喜びを分かち合いたい。    【以上】

以上のように書こうと思っていたが書けないうちに、20日のギリシャ戦を迎えてしまった。

結果、負けはしなかったが勝てなかった。相手が10人になって、ただでさえ堅い守りで定評のあるギリシャが完全に守りに入った試合ではあるが、ここでも、やはりザッケローニの限界が出てしまった。

すでに2年前に指摘した「レギュラーを固定しがちな采配」が極端な形で現れた。カードを1枚余してもサブの選手を使わなかったのだ。つまり彼の頭の中には、「23人連れてきてはいるが、基本的には13~14人しか使う気がない」ということだったのだ。さらにスタメンから香川を外しても、後半、香川を入れる、つまりレギュラー至上主義だ。第一戦を見て、今大会、香川は使えないという「見切り」が彼の選択肢にないのだ。

香川をまた入れたこと、齋藤学を使わずに試合を終えたこと、これでザッケローニはグループリーグを勝ちあがれる力量のない監督ということがはっきりした。

仮にグループリーグを突破できたとしても、それは彼の功績ではなく、誰か救世主となる選手が出現して、さらに他チームの結果にも恵まれるという幸運によるものだ。

いま、これだけは書いておき、コロンビア戦を待ちたい。

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サッカー映像のHDD化作業を始めて丸2年になります

2014年06月14日 21時29分51秒 | サッカー文化

2年前の今日、6月14日から始めたサッカー映像のデジタル変換、HDDへの取り込み作業が、丸2年になります。

最初の1年は、VTRテープを何本変換したか、本数で進み具合をレポートしていました。1年間でちょうど1000本変換を達成したというレポートを書いたのが、昨年6月7日でした。

その後は本数カウントをしておらず、何年度まで進んだかで進み具合を把握しています。

サッカー映像が急増したのは1993年のJリーグスタートの年です。それ以前はサッカー映像といっても、ワールドカップがあった年に多少まとまった映像があったぐらいです。Jリーグスタートの前年、最初の公式戦であるナビスコカップがあったり、日本代表が初優勝を果たしたアジアカップもあったわけですが、それでも試合映像、番組映像とも1993年以降の量と比べれば、天と地ほどの差です。

さて、丸2年で何年まで進んだかというと、1996年分をほぼ終えたところまで来ました。1996年分の主な映像は、Jリーグ、ナビスコカップ、アトランタ五輪サッカー、96欧州選手権などです。この年は番組関連の映像も多く、実は番組関連の10月~12月あたりをまだ残している状態です。

Jリーグについては1997年シーズンの変換作業に入っています。

ここまで進んできて、いろいろなレポートができます。まずHDDの容量が3TB、4TB時代に入ったということです。始めた当初は2TBまでがコスト的に精一杯でしたが、半年前ぐらいから3TBを主体にしています。120分VTRに収録した試合映像は、デジタル変換すると平均的に6~7GBのメモリーが必要です。

2TBというと、自己消費メモリーを差し引いて約1.8TB、つまり1800GB容量ですが、3TBになると自己消費を差し引き2700GB使えます。約900GBの差ということは120分VTRの試合映像で約140本程度多く取り込めます。

年々映像量が増えていますので、1993年から1996年Jリーグまでは2TBのHDD一個に各年ごと格納していたのですが、1997年Jリーグは3TBで格納を始めています。この1個で十分間に合うとは思いますが、結果はいずれまたレポートしたいと思います。

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