「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

朝ドラ「らんまん」の余韻で、滝沢馬琴の生涯を少し知り、大きな刺激を受けました。

2023年10月09日 20時23分51秒 | テレビ番組
朝ドラ「らんまん」が終わって、次のドラマが始まっていますが、本日たまたま見た別のテレビ番組は、朝ドラ「らんまん」の余韻が見させてくれたものでした。
NHKのEテレチャンネルで「偉人の年収How much」という番組があります。夜7時30分からの番組で、普段はまったく見ない番組です。夕食時の時間で、家族と食卓を囲み談笑するかテレビを見るという時間帯です。

今夜は、談笑も一段落で、テレビのチャンネルをいろいろ回していても何も見るものがないという感じでEテレチャンネルを回したら「偉人の年収How much」で「江戸の作家 曲亭馬琴」を取り上げていたので見たといういきさつです。

曲亭馬琴というのは、確か滝沢馬琴のことだよなぁ、滝沢馬琴といえば「南総里見八犬伝」だよなぁ、「南総里見八犬伝」といえば朝ドラ「らんまん」のヒロイン、つまり万太郎の奥さんである寿恵子が夢中になって読んでいた、当時の人気小説だよなぁ、と頭の中でつながり「じぁ、見てみようか」ということになったのです。

当ブログでも、9月11日の書き込みで「寿恵子は「私の愛読書である滝沢馬琴先生の南総里見八犬伝は、全98巻、106冊の大著です。滝沢先生は、それをやり遂げたからこそ、皆が喜んで愛読しているのです。未完ではダメです! 必ずやり遂げてください。」と迫ったのです。」と書きました。

それを思い出したのです。「偉人の年収・・」は、その人が、人生の節目節目でどれぐらいの年収を得ていたかを推定するというバラエティ仕立ての番組ですが、私が驚いたのは滝沢馬琴の晩年の凄まじい創作にかける執念でした。

万太郎の奥さんの寿恵子さんは「南総里見八犬伝は、全98巻、106冊の大著」と言っていましたが、それは28年もの歳月をかけた作品であるばかりでなく、晩年、次第に目が悪くなり、ついには75歳で失明してしまったにもかかわらず、創作をあきらめずに取り組んだ末の作品だったのです。

失明してしまった滝沢馬琴が思いついたのは、早くに病死した息子の妻・お路(みち)に口述筆記してもらうことでした。とはいえ、小説家の紡ぎ出す文章表現を文字に起こす作業は、素人が簡単にできる作業ではないと思います。お路(みち)という人も馬琴本人も、かなり忍耐と寛容な気持ちがないと続かなかったと思いますが、馬琴は完結させたのです。

朝ドラの中では、万太郎の奥さん・寿恵子さんは、滝沢馬琴がそのような困難を乗り越えて完成させたのです、とは言っていませんでしたが「未完ではダメです! 必ずやり遂げてください。」と迫ったのは、滝沢馬琴が乗り越えた困難も、それを助けたお路(みち)という人の存在も知っていたからに違いなさそうです。

滝沢馬琴は、結局82歳まで創作活動を続けた人で、当時とすれば、かなりのご長寿です。現代なら100歳を超えてなお、ということだと思います。しかし、失明をして、歯も甘党だったせいで総入れ歯になるほどのハンディを負いながら、よくも長生きできたものだと感心してしまいます。

「らんまん」の主人公・槙野万太郎のモデルとなった牧野富太郎博士が図鑑を完成させたのは78歳になった時だそうです。何事かを成し遂げなければという目標と強い意思を持つことで、人は病魔も遠ざけ、強く長く生きることができるのではないかという希望を、この二人は感じさせてくれます。

当「夢追い人」も、何事かを成し遂げなければという作業の途中経過にあり、まだまだ先が見えて来ない段階です。マラソンの42.195kmのうち、5km地点ぐらいなのかも知れません。

それでも、先人たちの人生に刺激を受けながら日々こつこつと続けて行きます。朝ドラ「らんまん」の余韻で知った滝沢馬琴の生涯からも、大きな刺激を受けました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝ドラ「らんまん」のエンディングテーマは「継承・引き継ぐ」というものでした。

2023年09月30日 16時33分07秒 | テレビ番組
昨日、9月29日(金)、朝ドラ「らんまん」は最終回を迎えました。

今週初め、9月25日の書き込みでも、朝ドラ「らんまん」のシーンのことを取り上げました。主人公・槙野万太郎博士の死後、膨大な標本資料を博物館に寄贈するにあたり、整理分類が必要ということで、アルバイトを募集したところ藤平紀子という女性が訪ねてきた時のシーンです。

この時、藤平女史は、その整理分類の難しさに尻込みして一旦は槙野家を辞するのですが、家を出てから「この標本は、関東大震災の時も東京大空襲の時、あの地獄のような中で、博士はもちろんのこと、皆さんが必死に守り抜いてきたっていうことですよね。それは、必ず残して次の時代の人たちに引き継がなければならないという気持ちがあったからですよね。それを考えたら、私が標本を整理分類するということは、次の時代の人々に渡すお手伝いをするっていうことなんだ」と考え直して役目を引き受けるというシーンでした。

このように、最終週のいろいろなシーンは「継承・この先に引き継ぐ」というテーマに収れんされていたようです。脚本を書いた長田育恵氏は、インタビューで、その意図を話していらっしゃったそうです。

当「夢追い人」が、自己紹介欄で述べていること「1993年のJリーグスタートをもって萌芽した日本のサッカー文化を、克明に記録し続け100年先に繋ぎ伝えたいという夢を現実にしたいと思います。」
まさに「継承・この先に引き継ぐ」というミッションです。

これほど濃密に見た朝ドラは珍しいと思うほどの朝ドラ「らんまん」でしたが、最後も当「夢追い人」のミッションにぴったりシンクロするテーマで締めくくってくれました。いろいろな刺激と示唆もいただき、感謝の気持ちで最終回を見ました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝ドラ「らんまん」も最終週となりました。いろいろ示唆をもらいました。

2023年09月25日 09時57分59秒 | テレビ番組
前回の書き込みが9月11日、2週間前でした。当「夢追い人」が、朝ドラ「らんまん」から、いろいろな刺激を受けていることを書きました。
「らんまん」の主人公が、植物の収集と分類という作業によって、植物という存在の全体像を明らかにして、しかも、その植物が開発などのため消えてしまっても、次の世代の人々に記録として残すことに生涯を賭けた牧野富太郎博士の人生を描いたドラマです。
このドラマを毎日見ていけばいくほど、対象こそ違いますが同じように「収集と分類」そして「記録として残す」ことを生涯の役目として日々を過ごしている当「夢追い人」の手本になっているドラマだと思えてなりません。

今朝の放送で、昭和33年、牧野富太郎博士の死後、残された標本が東京都立大学に収蔵されることが決まり、収蔵前に学術資料としてキチンと整理分類し直す必要があるため、その役割を担う牧野博士の末娘の方が整理分類を手伝ったもらうアルバイトさんを募集したところ、藤平紀子という女性が応募してきます。その人が「ここに標本はどれぐらいあるのですか?」とたずねたところ「そうねぇ、40万点ぐらいかしら」と答えます。

たずねた藤平女史も驚いていましたが、当「夢追い人」も驚きました。当「夢追い人」は目下、映像資料のデータベース化を日々続けており、データベースに入力が必要なファイル数が1万を超えているところまでは確認できました。まだ未確認の映像関係ファイル数がおそらく1万近くとしても、映像関係が約2万ファイル、スポーツ紙関係も相当多いのですが、それでも1万ファイル、サッカー雑誌・書籍等はファイル数にすればおそらく5000ファイル、どう見積もっても4万ファイルに届かないと思います。

牧野博士の40万点がいかに膨大なものか・・・。確かに、かけた年数が牧野博士は60年いや70年ぐらいになるでしょう。それに比べたら当方はたかだか30年近く。牧野博士の、植物の収集分類一筋に賭けたエネルギーのいかに大きなことか、そしてその意思のいかに強いことか。「継続は力なり」と言うは易く行うは難しいものです。でも牧野博士という先人に少しでも学ぶことがあるとすれば「継続は力なり」と、あらためて我が身を励ますことだと感じました。

アルバイトの応募に来た藤平紀子さんは、一旦は「そんな重要なことをとても私には無理です」と断って槙野家を出たものの「この標本は、関東大震災の時も東京大空襲の時、あの地獄のような中で、博士はもちろんのこと、皆さんが必死に守り抜いてきたっていうことですよね。それは、必ず残して次の時代の人たちに引き継がなければならないという気持ちがあったからですよね。それを考えたら、私が標本を整理分類するということは、次の時代の人々に渡すお手伝いをするっていうことなんだ」と考え直し、牧野家に戻って「私も次の時代の人々に渡すお手伝いをさせてください」と申し出る場面がありました。

当「夢追い人」も、そのように言ってくださる方が現れるのを、ひたすら待ち続けて資料の整理分類、データベース化を進めています。これまでは「この資料を次の時代に残せればいいな」とか「残したい」といった願望、しかも緩やかな願望のレベルでしたが、そのような薄弱な思いだけでは、とても「私も次の時代の人々に渡すお手伝いをさせてください」と申し出る方など現れるはずがないわけで、次の時代まで残すことなど出来ないと感じました。

牧野博士のように「どんなに困難でも守り抜いて残す。そして次の時代の人に渡す」という強い意思が宿った資料・記録を残さなければならないと思いました。
当「夢追い人」に残された人生が果たして、あと何年あるか、神のみぞ知る、ですが、やり切った気持ちになるまではエネルギーを燃やし続けようと思います。

「やり切る]という強い意思を持ち続け作業に打ち込み続けなければ、決してその先が開けない。「これほどの記録なら絶対次の時代の人々に渡さなければ・・」と、自分以外の方からの共感を得られなければ、いくら自分の思いが強くても叶わぬ思いでしかない。
牧野博士の業績をドラマにした、今回の朝ドラから、このように多くの示唆をもらい自分のエネルギーに変えています。

最終回まであと4話、また書き込みたくなる刺激・示唆があるかどうか、楽しみです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ビートたけしのサッカー小僧」コーナーにすっかりハマりました

2022年06月09日 19時03分49秒 | テレビ番組
1993年秋から放送がスタートしたTBS系列の「スーパーサッカー」、最初の頃の企画に「ビートたけしのサッカー小僧」というコーナーがありました。
ちょうど、その時期の番組関係録画ビデオテープをデジタル変換して、HDDに取り込む作業の真っ最中です。

当「サッカー文化フォーラム」のwebサイト「サッカーの世界にようこそ」では、膨大な数の試合映像とともに、やはり膨大な数のテレビ番組などの映像記録を「データパビリオン」ということで、データ一覧表にして紹介していますが、そのうちから、これはと思う映像をYoutubeにアップして、データ表につけてある「サムネイル画像No」にリンクさせていますので、そのサムネイル画像Noにリンクマークがあるものは、クリックするとYoutube画像を見ることができます。
このブログページにあるブックマークに「サッカーの世界にようこそ」をリンクさせていますので、どうぞ、ご覧ください。

番組関係では、1993年以前のものについては、すでにYoutube画像へのリンクを終えていて、特にカズ・三浦知良選手のことを紹介している番組、例えばフジテレビの「笑っていいとも」のテレフォンショッキングに出演した時の映像などは、ずいぶんアクセス数が多く、やはり最近のカズ選手のことしか知らない世代の人や、若かりし頃、カズ選手を熱烈に応援していた人からの関心が、いまなお高いことを痛感しています。

いま作業しているのが1994年分の番組映像の処理で、まずHDDに記録されている個別番組内容にザッと目を通して、皆さんにもお伝えしたほうが良さそうな番組をチョイスします。
それをYoutubeに乗せられる長さの15分以内に、これはと思う部分だけ切り取り編集して素材づくりを終えます。

次に、その素材をYoutubeに乗せる作業を行ないます。その作業を通じて、著作権等の問題がある画像はチェックに引っかかり、そこを省いてもいいかどうか問われますので、引っかかるものは、当然のことながら削除してもらいます。

そうやってYoutubeに乗せたものを、今度は当方のwebサイトのデータ表にリンク処理をして、ようやく終了します。

一口に番組といっても1994年だけでも281本もの映像記録があります。その中にはドキュメンタリー仕立ての番組もあり、スーパーサッカーのような情報番組系のものもあり、あるいは、さきほどの「笑っていいとも」のような番組あり、さらには「キックオフ・マリノス」のようなチーム応援番組など、さまざまな番組でサッカーのことが話題になっています。

このうちスーパーサッカーのような番組は、ほぼ毎週定例放送ですから年間の番組数も50本ぐらいになります。
冒頭、紹介しました「ビートたけしのサッカー小僧」というコーナーは、放送開始から30数回続いたコーナーです。
始めの20数回は、ビートたけしさんとスポーツ系のノンフィクションものを得意とした山際淳司さん、そして進行役がTBSの渡辺真理さん、途中から山際さんに変わってサッカー評論家の金田喜稔さんが担当しました。

最近のビートたけしさんは、北野武さんのほうが通りがいい文化人ですが「サッカー小僧」をやっていた頃は、まさにギャグ、毒舌、下ネタ話、なんでもござれ「たけし全盛時代」のトークなので、山際さんとの三人の時は渡辺真理さんがもっぱら笑い転げ役、金田喜稔さんに変わってからは渡辺真理さんと金田さんの二人がコーナーのはじめから終わりまで爆笑オンパレードといった調子です。

番組をリアルタイムで見ていた頃は、あまりの言いたい放題、下品な話しぶりに少し辟易していましたが、いま、あらためて見直してみると、そのトークのテンポの速さ、切り返しの鋭さ、ギャグの面白さ等々、たけしさんの天才ぶりが浮き彫りになっていて、おそらく50年後、100年後でも面白いだろうと感じました。

このコーナーは、だいたい毎週15分程度、つまりスーパーサッカーの放送全体の約半分を占めていたコーナーです。最初の頃は「スーパースター列伝」シリーズで10週ちょっと続きました。そこからチョイスしたのは少ないのですが、次のシリーズは、サッカーに関する、さまざまな知識を取り上げるシリーズで、これが大変楽しく仕上がっており、ずいぶんチョイスしました。

このコーナーは、1994年夏、ちょうどアメリカW杯が終了した頃の時期に、ビートたけしさんがバイクを運転しての事故で入院してしまったため、9月一杯でコーナーが終了しています。
いま、素材映像をほぼ作り終わりましたので、まもなくYoutubeにアップしたいと思います。どうぞ、お楽しみに。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サッカー「スーパーサブ」の記録からトリビアの泉

2021年06月16日 18時29分36秒 | テレビ番組
いまNHK-BSで前園真聖さん中心の1時間番組「サッカーの園~究極のワンプレー~」という番組が放映されています。直近のテーマは「スーバーサブ」ということで、MCの前園さん、進行役の柴田英嗣さん、今回のゲストは名波浩さん、そして「スーパーサブ」といえば「オレでしょ」とばかり播戸竜二さんが絡んでの内容でした。

その中で、最近加わったらしい「クイズの園」というコーナーで面白いことがありました。面白いことというのは、あくまで当フォーラムにとっての面白いことですので、興味のない方にはどうでもいい話ですが、なかなか遭遇しない出来事でしたので、ご紹介しておきます。

そのクイズコーナーで「スーパーサブとして途中出場しながら最速でハットトリックを決めた選手は誰でしょう」という問題が出ました。実はゲストの播戸さんも途中出場でのハットトリック記録があるのですが、播戸さんの記録約14分間よりも短時間で決めた選手という問題でした。
進行役の柴田さんからは「ちなみに、その記録は2001年です」とヒントが出ました。

播戸さんはさすがです。「真中○○」と書いたまではよかったのですが、残念なことにお兄さんの「幹夫」と書いてしまいました。正解は弟の「靖夫」のほうでした。

話はそれで終わりではなく、私がいま毎日毎日続けている試合映像のHDD変換作業がちょうど2001年Jリーグで、今朝何気なく映像を見ていたら、なんと真中靖夫選手がヒーローインタビューを受けていました。ハイライト映像に切り替わったら、まさしくこの試合が、あのクイズ問題の試合そのものだったのです。こんなドンピシャな偶然はなかなかあるものではありません。

ちなみにですが「サッカーの園」では「2001年7月14日のレイソル戦」という紹介だけでしたが、この試合、2001Jリーグ前期14節柏vsC大阪戦ということで、鹿島からC大阪に移籍した真中選手の快挙だったわけです。

その2001Jリーグ前期14節柏vsC大阪戦、真中靖夫選手のヒーローインタビューですが、わずか7分での怒涛のハットトリックで、20年後にも破られていない記録として、クイズ問題に出るような快挙を達成した割には淡々としたものでした。鹿島時代には「お祭り男」を担当していた感じのノリのいい選手だと思っていましたので、意外に感じました。

この書き込みをするためにネット検索で出てきた「スピードハットトリック達成ランキング【Jリーグ】」というサイトによると「サッカーの園」ゲストの播戸竜二さんも、かなりレアな記録の持ち主で、途中出場でのハットトリックを2度、それも同じ2011年に達成している選手なのです。

「サッカーの園」では、そのことに触れてもらえずに終わっていましたが、一つは2011年8月20日の清水戦で14分で達成して、いまも2番目に短時間の記録となっているもの、もう一つは、その僅か3週間後の9月11日、広島戦で後半開始から途中出場、3点差をひっくり返して大逆転勝利につなげるハットトリックを達成しています。

播戸さん自身は、引き分けに終わった14分間でのハットトリックより、大逆転勝利に貢献した、この31分間でのハットトリックのほうが嬉しいと語っているそうで、まさに「スーパーサブ」そのものです。

最短記録保持者の真中靖夫選手、2度の達成記録保持者の播戸竜二選手、いずれもセレッソ大阪のユニフォームを着て達成しています。セレッソ大阪が、そういう空気感を持ったクラブなのかも知れません。

ついでながら播戸さんの記録は他にもあり、さきほどのクイズの第二問が「途中出場での年間最多ゴール記録を3人の選手が持っていますが、それを2度達成した選手は誰でしょうか?」という問題でした。その年間最多ゴール数は9ゴールだそうで、それを二度達成したのが名古屋時代の森山泰行選手、残りの二人は播戸竜二選手と清水の長谷川健太選手だそうです。

途中出場でハットトリック記録を2回持っていることに加え、途中出場での年間最多ゴールタイ記録も持っている播戸選手、「サッカーの園」のテーマ「スーパーサブ」を体現した選手としてゲストに招かれるにふさわしい記録の持ち主でした。

「お祭り男型のサッカーコメンテーター」として最近出番を増やしている播戸さんですが、今回は「お祭り男」として名波さんとの絡み合いのために呼ばれたのではなく、史上最高の「スーパーサブ」として呼ばれたと言っても褒めすぎではないと思いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長寿サッカー番組の相次ぐ終了は、次の20年の始まりでしょう。

2021年04月04日 15時24分24秒 | テレビ番組
TBSの長寿サッカー番組「スーパーサッカー」が2021年3月27日(日)深夜の放送をもって終了しました。最終回らしく1時間の特番になりました。放送開始がJリーグ元年の秋でしたから、まさにJリーグのこれまでと共に歩んできた番組と言えます。
制作元のTBSさんには、もちろんすべての回の番組が保存されていますから、いろいろと「思い出のシーン」を抜き出して紹介していましたが、当「サッカー文化フォーラム」にも、ほとんどの放送が保存されています。特に放送開始からの2年ぐらいは、サッカー番組の保存にあまり固執していなかったため、このあと全国の愛好者の皆さんのご協力(時に札幌で収録活動を続けてくださった方からは多大なご協力)を得て、ほとんどの回を保有しています。この番組の映像を辿っただけでも、大学卒論がいくつも書けるぐらいの資料だと思っています。

スーパーサッカーの放送終了に先立つこと半年前、2020年9月27日(日)深夜の放送をもってテレビ朝日の「やべっちFC」が終了しています。この番組は、2002年ワールドカップ日韓大会の年にスタートしたようですから、その後の日本代表の活躍とともに歩んできた番組と言えます。
二つの番組には、それぞれの番組カラーがあり「サッカーを愛する人たち」のハートを捉え続けてきましたから、相次いで終了したのは一つの時代の終わりなのかも知れません。

現在残っている定期放送のサッカー番組は、テレビ東京系の「FOOT×BRAIN」とNHK-BS1の「Jリーグタイム」だけだと思います。各クラブ毎の応援番組は各ホームタウン地域で放送されているしょうけれども。

Jリーグがスタートした時期は、日本でテレビメディアに継続的に載るプロスポーツといえば、プロ野球、大相撲、プロゴルフぐらいでしたが、その後、以前は大リーグと呼んでいたメジャーリーグ、プロテニスツァー、プロバスケットなどの人気が高まり、人々のプロスポーツに対する嗜好も多様化しましたから、プロスポーツとしてのサッカーがテレビを始めとしたメディアで一定のポジションを保ち続けるのが難しい時代に入っていった中で、これらの定期的なサッカー番組の存在が果たした役割はとても大きいと思います。

とはいえ、どんなことも永遠に続くことはないわけで、やはり「終わり」が来たというべきでしょう。
けれども、これによってサッカーが人々の中に占める意味合いが低下するわけではなく、むしろ、次の時代への衣替えだと思います。おそらく、また次の20年ぐらい続く長寿場組が、どこかの局で始まるに違いありません。
何といっても、時代は常に進化を続けています。サッカー界にも次から次へと新しい才能が生まれ育ち、世界に活躍の場をひろげ続けています。それら俊英たちで構成される日本代表が、世界の壁を一つひとつ乗り越えて新たな歴史を作っていくに違いありませんから、日本でサッカーを愛する人たちを、また新たな感動と興奮の高みに連れていってくれるでしょう。
そして、それを伝える新たなサッカー番組が生まれ続くに違いありません。

現在残っている「FOOT×BRAIN」と「Jリーグタイム」について言えば、決して同じ番組として継続してきたのではなく、何年か毎に「前番組の終了」と「新たな再出発」を繰り返してきた歴史があります。こうした変遷を辿るのもサッカーを愛する者の一つの愉しみです。機会を作って、その変遷を紹介したいと思います。

そして、また20年ぐらい経った頃、定期的なサッカー番組の歴史をひもとければと思います。

【ここからは、4月7日に加筆しました】
その「FOOT×BRAIN」は毎週土曜日に放送されていて、書き込みした4日(日)には録画が終わっていたのですが、内容を見ないでいました。昨日6日に、内容を観ましたら、ちょうど番組10周年記念だということで、日本サッカー協会の田嶋会長と、サッカージャーナリストの重鎮大住良之氏、それに名波浩氏が招かれ、勝村政信キャスターが2週連続の記念番組を放送していました。

制作のテレビ東京は、日本でいち早く「ダイヤモンドサッカー」というサッカーの定例番組を放送した草分け局というプライドがあります。やはり日本のサッカー文化を確かなものに、そして日本代表がワールドカップで優勝トロフィーを掲げるまで、という壮大な夢を求めて継続していきたいという気概にあふれた番組になっていました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テレビ東京「FOOT☓BRAIN」から見えた一筋の光

2020年01月26日 16時11分03秒 | テレビ番組
毎週土曜深夜放送のテレビ東京「FOOT☓BRAIN」の番組オープニングのナレーションは、長年聴いていても、どんな言葉だったか覚えていなかったのですが、1月に入ってから3週続いたテーマに、わかりやすい共通点を感じたので、ここで紹介しようと、録画チェックをしていたら、そのオープニングナレーションが、この3週の内容そのものだったことに気が付きました。

そのナレーションは「多彩なジャンルの知を愉しみながら、サッカーの可能性を広げるFOOT☓BRAIN」というものです。
短いナレーションですが、ここ3週のテーマは、まさしく、番組のコンセプトを体現した内容だと感じました。

ちなみに、その3週のテーマとゲストは、
1月11日(土) 「Jリーグを使おう J最年少 女性理事の思い」 ゲスト 米田恵美さん
1月18日(土) 「天皇杯優勝! ヴィッセルを変えたチーム作り」 ゲスト 福富信也さん
1月25日(土) 「Bリーグを変えた男から学ぶスポーツクラブのあり方」 ゲスト 島田慎二さん

この3週に共通しているのは、いずれもビジネス分野で確固たる仕事をしている新進気鋭の方を、サッカー界、バスケット界といったプロスポーツ界が、まさに「その英知」に白羽の矢を立てたところにあります。

そして、その方たちは、存分にその知恵をサッカー界、バスケット界で発揮しておられ、そのチーム・クラブやリーグそのものを、新たな高みに引き上げる仕事をされています。

もともと、「FOOT☓BRAIN」という番組の独自性というか、他のサッカー番組とは全くタイプの異なる番組づくりには敬意を表してきましたし、あまたあるプロスポーツのジャンルの中で、このような番組を持ち続けている「サッカーファミリー」は何と幸せなというか、むしろ何と贅沢なスポーツファミリーなんだろうと感じてきました。

加えて、今回の3週連続の放送を見ていると「これは完全にスポーツ界全体をリードできる価値のある番組で、単なるサッカー番組には終わらない番組」のように感じたのです。
願わくば、他のプロスポーツを楽しんでいる方にも伝わればと思います。

(次の2行は、翌1月27日に加筆した部分です)
いま、日本で「FOOT☓BRAIN」という番組を持ち得ているということは、それだけ日本のサッカー文化が進化・熟成していることの証しであり、きっと100年後に、日本のサッカー文化を振り返ってみた人たちは、「日本のサッカー文化は、芽生えてからわずか20年ぐらいの歴史で、日本のプロスポーツ界に大きな影響を及ぼす存在になっていたんだ。」と賛辞を贈るに違いないと思います。

ここまでは、今日の書き込みの、いわば前置きで、ブログタイトルにあるように、その3週連続の放送の中から「私自身が一筋の光を見た」ことについて、これから書きたいと思います。
それは、1月11日(土)放送で J最年少理事米田恵美さんが発案して進めている「Jリーグを使おう」 の取り組みです。

番組を見た私の理解は「2020年には全国56になるJリーグクラブ、それぞれに地元がありサポーターがいてスポンサー企業・団体がいる中で、スポンサー企業もサポーターも、Jクラブに資金やパワーを与えるだけでなく、むしろJクラブを使って、新たな効果や成果を生み出していってください。Jクラブの存在が持っているネームバリューや、選手たちのポテンシャルといったものを、うまく引き出して上手に活用してみてください」といった発想だと感じました。

米田さんは、このプロジェクトを推進していくのに大切なマインドが「LOVE&CRAZY」だと言います。地元愛、クラブ愛といった濃い愛情と、発想や議論、そしてイベントなどを自由に楽しむ、奇想天外と思える気持ちで楽しむ、その程よいミックスが必要というわけです。

また米田さんは、プロジェクトの裾野を広げていくのに、圧倒的に担い手が不足しているといいます。そこで立ち上げたのが「Jリーグラポ」東京・丸の内に集積している英知を借りて、逆参勤交代で(東京(江戸)の頭脳を地方(国許)に還流させて)担い手になってもらおうというわけです。

このあたりは、ハイクオリティを持つハイソサエティの皆さんの出番という感じです。

このように、米田さん自身が、全く新しい発想を、外部から何の予断を持たずに持ち込んで実現に取り組むスタイルを貫くことによって、プロジェクトを軌道に乗せていったように、その米田さんを、三顧の礼を尽くしてJリーグ理事というポストに予断を持たずに取り込んだ、村井チェアマンの感覚と目利き力にも脱帽です。

私が、これを見て「一筋の光を見た」と思ったのは、もしかすると、私がJリーグスタートして以来取り組んでいる「Jリーグがスタートしたことによって芽生えた日本のサッカー文化の進化と広がりの記録を100年先まで伝えたい」という希望、すなわちテレビ番組などの映像記録、雑誌・新聞などの活字記録をデジタル情報として保存・継承していく取り組みが日の目を見るかもしれないと感じたからです。

まだ30年に満たないJリーグでさえも、スタートしたころのことを知らない世代が増えている中、例えば1996年のアトランタ五輪に日本サッカーが28年ぶりに出場を果たした頃がどんなだったか、翌年の1997年にワールドカップ初出場を決めたアジア最終予選がどんなだったか、ありとあらゆる情報媒体を記録している当方のライブラリーを、できるだけ多くの人に愉しんでもらいたい、あるいはサッカー文化、スポーツ文化といった観点から研究テーマにしたいと考えている学生さんなどの研究者に、存分に活用してもらいたいと願っている私です。

もしかしたら「Jリーグを使ってください」プロジェクトに、私の取り組みをお伝えしたら、関心を持ってもらえるかもしれないと感じたのです。
番組の中で紹介された取り組みは、個別地域地域の独自の取り組みです。

私の一つの完成形は、全国のすべてのクラブ所在地に(2020年時点で56)に「サッカー文化ライブラリー」とでも名付けた、シアターライブラリーが誕生することです。もちろん各クラブの独自ライブラリーもここに集結しますが、当方が提供する「(仮)日本サッカー文化ライブラリー」もあって、誰もが、さきほど例に出したような歩みを生々しく追体験したり、あらゆる情報から研究資料を見つけたりすることができることで、価値あるライブラリーになると思うのです。

私が、自分の取り組み(収録・収集したものをデジダル記録化したライブラリー)を、できるだけ多くの皆さんが楽しんだり、利用して学んだりすることができるように、シアターライブラリーのような施設で公開したいという考えを、もう10年ぐらい前から、いろいろと動き回ってみたのですが、どれもモノにならずにここまで来ました。

最初の数年は、まだデジタル化自体が始まっていませんでしたので、ビデオテープなどのアナログ媒体のまま、その後、デジタル化作業を始めたものの、現在まで1998年分までのビデオテープのデジタル変換が進んだ程度で、雑誌・新聞媒体については手付かずで、なかなか説得力のないプランでした。

現在も、やっと雑誌・新聞媒体のデジタル化ガ始まったものの、ビデオテープのほうは、相変わらず1999年に入ったぐらいで、遅々として進んでいない状況です。まだまだ説得力のある提案ができないところですが、何とか、今回の「Jリーグを使おう」プロジェクトの目に留まるよう、できる限りの提案をしたいと思っています。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いまも変わらぬ「スパサカ」と「やべっち」の楽しさ

2016年08月16日 21時33分02秒 | テレビ番組
リオ五輪が始まってからは、テレビ各局も五輪放送が多く、ふだん見ている番組が流れてしまうことがあります。

1週間の中で定期的に見ている番組が4つとか5つしかないのに、それが流れると見る番組がなくなってしまいます。

そうした時、録りだめしていたサッカー関係の番組を見たくなります。TBS系列「スーパーサッカー」とテレ朝系列「やべっちFC」は、サッカー大好き人間にとって聖域のような番組です。

私はもう完全な「じいさん」なので、夜9時を過ぎると「寝なくちゃ」という意識が強くなり、2番組とも、もう何年も放送時間に起きていたことがありません。録画は続けているのですが、先ほど話したようにテレビを見る時間も減ってしまい、録画すらも見ないことが多くなっています。

そんなわけで、今回2番組をしばらくぶりで見ました。

番組内容もさることながら、何が嬉しいかといって、MCが加藤浩次さん、矢部浩之さん、どちらも大変な人気タレントだということです。加藤さんも矢部さんも年々仕事が多忙になっているはずです。普通、だんだんビックになっていけば、サッカー番組は卒業と言われてもやむを得ないかなと思うのですが、いまも続けておられる。それが嬉しいです。

「スーパーサッカー」は丸23年です。時間帯や曜日をいろいろ引っ越ししながらも、辞めないで続けてくれるTBSさん、もう、ありがたいとしかいいようがありません。ネットを見てみると2013年あたりには放送打ち切りの可能性があったとかで、加藤浩次さんの尽力で番組が守られたなどの話もみられます。

やはり加藤さん、矢部さんの「サッカー愛」は表彰ものですね。もっとも「Jリーグ・アウォーズ」などで表彰しますと言っても、お二人のことです。お笑いネタにしてしまって、マジメな表彰式にはならないでしょう。

「やべっち」のほうは、海外組の選手たちが、われもわれも「矢部さんと絡みたい」という雰囲気が伝わってきて、それだけで面白いです。

「スーパーサッカー」のほうも海外組中心にはなっているのでしょうが、Jリーグもキチンとフォローするなど伝統を守っている感じです。そのおかげでしょうか、カズ選手が実は8月7日のJ2第27節にゴールを決めていた事を知ることができました。

それこそオリンピック報道のあおりかもしれません。もう10日前のことなのに私は情報を知らずにいました。「スーパーサッカー」のおかげで得られた情報です。

10日も過ぎてしまいましたからスカパーの試合放送も終わってしまいました。あとは全試合リピート放送を待って、なんとか録画を残すしかありません。カズ選手のゴールは、もはやどれをとっても伝説的なゴールです。1試合たりとも録り逃したくない心境です。

久しぶりに2つのサッカー番組、変わらぬ楽しさを味わいました。このあと、いつかまた番組打ち切りの危機を迎えることがあるかもしれません。

それでも長く続いて欲しいと願わずにはいられません。当「サッカー文化フォーラム」も、いまはホームページ制作を中断していますが、いずれサッカー文化の進化・成長に欠かせないサッカー関連テレビの変遷を、詳細にわたり紹介することが大きな目標です。

今に続いている番組、NHK-BS「Jリーグタイム」、TBS「スーパーサッカー」、テレ朝「やべっちFC」、テレ東「FOOT×BRAIN」、日テレ「サッカーアース」、それぞれ番組名が変わったりキャスターもいろいろな人に変わったり20年以上の中で変化してきました。

それらを辿る中で「サッカー愛」に溢れたタレント、有名人のことにも触れていきます。サッカー愛に溢れた大物タレントの双璧といえば、明石家さんまさんと木梨憲武さんでしょう。加藤さんと矢部さんを加えると四天王といったところでしょうか。他にも大勢のタレント・有名人がいます。

各番組を盛り上げた女性陣も、いろいろな方々がいました。

それらの変遷をご紹介したいのです。いつ作業に取りかかれるか、まだ見当がつきませんが楽しみにしていてください。すごいお宝ページになりますので・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨夜のフジテレビ「栄光なき天才たち」はいい番組でしたね。

2016年08月14日 19時04分22秒 | テレビ番組

現在テレビでは、リオ五輪サッカー男子準々決勝ブラジルvsコロンビア戦の再放送らしき試合をやっています。

これまでゴールのなかったネイマールがFKを叩き込み、スタジアムが盛り上がっています。放送の途中で他会場の結果をアナウンサーが伝えて、ホンジュラスが韓国に勝ったという情報も知りました。

これで準決勝はブラジルvsホンジュラスになるのかなと思いながら書いています。

昨夜21時からフジテレビ系列で放送された「栄光なき天才たち~名も無きヒーローに学ぶ幸せの見つけ方~」を見ました。2時間10分もの時間枠で、3組の「光のあたった成功者」と「その成功者の陰に隠れてしまった名も無きヒーロー」を対比させた番組でした。

「光のあたった成功者」として中田英寿氏、故・スティープ・ジョブズ氏、羽生善治氏を取り上げ、彼ら以上の天才と言われたにもかかわらず、彼らのような成功者になれなかった「栄光なき天才たち」にスポットをあてているわけです。

番組の中で最初に取り上げられたのが中田英寿氏で、その陰に隠れてしまった「栄光なき天才」とは財前宣之氏だったのです。

中田英寿氏と財前宣之氏、2人の歩んだ道のりについて45分ぐらいにわたって描いていましたので、かなり濃密な内容でした。

番組のサブタイトルに「名も無きヒーローに学ぶ幸せの見つけ方」とあるように、栄光なき天才・財前宣之氏の歩みが挫折と屈辱に満ちたサッカー人生だったのではなく、彼なりの幸せな今につながっているという締め方になっています。

最初のほうで、1993年に日本で開催されたU-17世界選手権での日本代表が紹介されました。この大会で10番を背負って、見事チームを決勝トーナメントに導いたエースが財前宣之選手でした。

この大会に中田英寿選手も出場していましたので、彼のヒストリーが紹介される時は必ずこの大会のことも触れられますが、この時はまだチームへの貢献度が高い攻撃陣の1選手という程度で、圧倒的な主役は財前宣之選手だったのです。(8月15日追記)

私は、1976年生まれのこの世代に、なぜこうも日本代表の中核となるような逸材がキラ星のように多かったのか、これまで特に理由のようなものを考えたことはなかったのですが、今回番組を見て、一つの仮説のようなものに思い至りました。

中田英寿氏を筆頭に、宮本恒靖氏、故・松田直樹氏、戸田和幸氏ら、のちの2002年日韓W杯日本代表の前線から最後尾まで並んだ人材が、U-15代表チームから、ずっと切磋琢磨して、しかもほとんどがU-17、U-19、五輪代表として世界大会を経験しているわけですが、なぜ彼らは、育ったのかということです。

それは、若い時期、チームメイトに飛び抜けた天才をもっていた場合、周りが引っ張られるようにレベルをあげていくという仮説です。

この世代の「飛びぬけた天才」こそが財前宣之氏でした。番組で中田英寿氏も宮本恒靖氏も口を揃えて当時の財前について「彼は別格、彼が日本サッカーを引っ張っていく」と言っています。

この仮説は1979年組にも当てはまると思います。稲本潤一選手、高原直泰選手、遠藤保仁選手、中田浩二氏、小笠原満男選手、本山雅志氏・・・、まさにキラ星とはこの世代のことを呼ぶかのような逸材揃いです。(8月16日,「選手」「氏」を追記)

1999年ワールドユース選手権決勝に駒を進めるという金字塔を打ち立てた世代ですが、彼らの世代の「飛びぬけた天才」とは小野伸二選手です。彼らもまた小野伸二選手に引っ張られるようにレベルをあげていった例です。

番組の話しに戻りますが、財前宣之氏のサッカー人生も、中田英寿氏の近況も、あまり情報がなかったので、とても関心をもって見ました。

彼ら二人は、いみじくも同じイタリアの地で、その後のサッカー人生の分岐点となる体験をします。

1995年、ヴェルディ川崎のトップチームに昇格した財前選手は、イタリアセリエA・ラツィオに1年間サッカー留学という形で所属しますが、イタリア語をしゃべれないまま参加したことでコーチ陣とうまくコミュニケーションがとれず、ケガをしていてもムリを重ねてしまうという経験をしてしまうのです。

その結果招いたのが、選手生命にかかわるような大ケガでした。

一方の中田英寿選手、1995年にベルマーレ平塚に入団してから着々と実力をつけ、1997年に日本代表に招集されると、すぐチームの中核的存在になります。そして同年のフランスW杯アジア最終予選、いわゆる「ジョホールバルの歓喜」をもたらした試合ではピッチの絶対的王様として君臨し、文字通り日本のエースの座を不動のものにします。

明けて1998年、それこそ満を持してイタリアセリエA・ペルージャに移籍したわけです。財前宣之氏は、振り返りました。「自分は何の準備もせずにイタリアに渡ってしまった。ヒデは万全の準備をしてイタリアに渡った。ああいう人が成功するのかなと思った。ヒデは『準備の天才』だ」と。

もう一つ財前氏が悔やんだこと、それは長い時間をかけて治療とリハビリをすべき大ケガへの対応でした。完治しないままピッチに戻ってしまったのです。治療とリハビリのため1年以上にも及ぶブランクを作ることへの焦燥感は大変なものだと思います。

そこをどう乗り切るかで、その後の人生がかわってしまうのです。そういう場合、選手一人だけで乗り切れるものではありません。ドクターとの連携をもとに「安心して治療しろ」と言ってくれるチーム関係者からの支えなくして、とても完治までの期間を安心して過ごすことなどできません。

その意味で、財前選手は当時、所属していたチームに恵まれなかったと言わざるをえません。選手がケガをしたら、それは自己責任、チーム内には「誰かレギュラーがケガをしたら自分に出番が回ってくる」と常にチャンスをうかがっている選手が大勢います。ケガをした選手は顧みられないのです。(8月15日記述修正)

しかし全てのチームがそうかというと、決してそうではありません。むしろ「選手のケガはチームの損失であり、全力をあげてサポートしケアをする」そう考えているチームのほうが多数派ではなでしょうか。

現に彼は、後年、3度目の大ケガをした際に所属していたベガルタ仙台で、当時監督をしていた清水秀彦氏に「背番号10をあけていつまでも待つから」と言ってもらったおかげで、十分なリハビリと復帰へのプログラムをこなして見事復活しているのです。

財前選手にとって仙台が、かけがけのない地となったことは、現在の彼が物語っています。いま彼は、仙台の地に住み、自分の名前をスクール名にしたサッカー教室を主宰しているのです。(8月15日追記)

番組の最後のほうで、中田英寿氏が事あるごとに開催しているチャリティマッチを、2011年にタイで開いた時のことが紹介されています。この時、財前選手はタイのリーグでプレーしていたのです。すでに35歳近くになっていた財前をチャリティマッチに呼び、再会を果たしたわけです。

3度の大ケガに見舞われながらも35歳まで現役サッカー選手を続けられた財前選手、誰もが日本代表の絶対的エースとして今後も君臨し続けるだろうと思っていたのに29歳の若さであっさりとサッカー選手から身を引いてしまった中田英寿選手、番組のサブタイトルにある「名も無きヒーローに学ぶ幸せの見つけ方」の一つの答えでもあろうと思います。

中田英寿氏は引退を決めた動機について言いました。「誰かを目標に、うまくなろうとして自分を追い込んでいるうちは楽しかったが、自分がエースとして、チームを引っ張らなければならない立場になってしまったので、ちょっと狂ってしまったなぁ」と。

つまり、中田英寿選手の思いは「エースではあっても、チームを引っ張ったり、まとめたりすることまでは勘弁してほしいなぁ」ということではないかと思います。

中田英寿選手は、選手生活の中で過去一度だけ同じ立場にたったことがあります。それは山梨県・韮崎高校3年の時です。すでに1993年のU-17世界選手権代表であり、前年の高校選手権でも2年生ながら全国大会にその名を響かせていた中田選手です。

3年時はキャプテンとして山梨県予選に臨みましたが、韮崎高校は全国大会出場権を逃しています。

私は、これらのことを繋ぎ合わせて考えると、中田英寿選手はやはり「孤高の人」だと感じます。チームの輪の中心にいてリーダーシップを発揮して、周りの力も高めてしまう効果をもたらすタイプではないということです。

だからといって中田英寿選手の選手としての評価が、いささかも貶め(おとしめ)られるものではありません。人間には誰しもタイプというものがあり、得手不得手があるからです。

どういう集団でも、およそ集団というものは、その構成員によって、さまざまな様相を見せます。それがスポーツチームのような競技集団、勝負を決するための集団の場合は、指導者とチームリーダーによって、いかようにでも性格が変わってきます。

孤高のリーダーと、文字通りチームリーダーとではチームの性格がまるで違ってしまいます。孤高のリーダーを抱いたチームは、冷めた雰囲気のチームになり、文字通りチームリーダーを抱いたチームは、力のベクトルが同じ方向を向き、時として実力以上の力を発揮できることがあります。

したがって、チーム作りをする時は、エースが孤高の人である場合、その見極めなしにチームリーダーにしてしまうことは危険です。エースはエースなのですが、ほかに、チームの輪の中心にいるべき人物は誰なのか、誰をリーダーに据えればベクトルが同じ方向を向くのか、そうした洞察が求められると思います。

2006年ドイツW杯の日本代表では、キャプテンは宮本恒靖選手であり、彼は2004年のアジアカップでもキャプテンとしてレフェリーに掛け合いPK戦のエンドを変更させるなどの力を発揮していましたが、チームの輪の中心にいて鼓舞したり、実力以上のものを出させてしまうタイプではなかったと思います。

そういう意味では、つまるところ中田英寿選手の肩にチームの浮沈がかかってしまうという不幸な状況にしてしまった、チーム作りの失敗とみるべきだと思います。

私は中田英寿選手を、どこから見ても紛れもない成功者として見てきましたが、サッカー人生の集大成近くの段階で、大きな挫折に見舞われたのではないかと、ふっと感じました。

そういったことまで気づかせてくれたという意味でも、この番組はいい番組だったと思いますが、二つほど物足りない点を感じました。

一つは財前選手の生い立ちです。彼はお世辞にもサッカー先進地域とはいえない北海道室蘭の出身ですが、彼を彼たらしめたのは兄・恵一氏の存在だったろうと思います。財前恵一氏は室蘭大谷高校の選手としてチームを全国高校サッカー選手権でベスト4に導き、将来を嘱望されて日産自動車(のちの横浜マリノス)に入団しています。

弟・宣之少年にとっては、まさに憧れの兄であり、兄の背中を追ってサッカーボールに戯れ、テクニックに優れた選手になっていったことは想像に難くありません。その点にも触れて欲しかったと思います。

もう一つは、番組コメンテーターとして出演していた前園真聖氏に、もう少し中田選手のことを話すチャンスを与えて欲しかったことです。

放送では司会の「爆笑問題」田中さんが、「前園さんは財前選手のことはご存知ですよね」と振っていましたが「中田英寿選手とはどうだっんですか?」とは聞いてくれませんでした。

実は中田選手がまだJリーガーになりたての頃、前園氏がアトランタ五輪代表のキャプテンとして、まさにエースの座にあり、五輪代表に招集された中田選手にとっては、前園キャプテンのあとをついて歩く兄貴分と弟分という関係だったからです。

「日清ラ王」のCMに共演していた映像などを織り交ぜて紹介してくれればサイコーだったと思います。

番組は、冒頭でもご紹介しましたが、アップルコンピュータのスティーブ・ジョブズ氏、将棋の羽生善治氏にまつわる方の物語もあり、結局23時10分まで見てしまいました。それほど、いい番組でした。

いろいろな事を感じながら見たこともあり、書き込みもずいぶん長くなってしまいました。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

BS放送も見れるようになりましたぁ。

2016年04月17日 08時51分44秒 | テレビ番組

それがどうしたぁ、と言われそうなタイトルです。でも嬉しいですから書かずにはいられません。2週間前のスカパー再開に続きBS放送も再開です。

昨日夕方映りはじめ、さっそく土曜夜の7時といえばJリーグですが、昨日の予定カード、鳥栖vs神戸戦は、熊本県を中心とした地震災害の影響で中止になり、かわりの映像ということで1週間前に行われたブンデスリーガ29節シャルケvsドルトムント戦でした。

中止になった鳥栖・神戸関係の方には申し訳ありませんが、正直、香川真司選手が「芸術的」と称賛されたループシュートによるゴールを決めた場面を1分前からのシュチエーションも含めて見れたのは幸運でした。

香川選手のゴール前でのあのアイデアは、明らかにリラックスした精神状態で試合をしている証拠で、日本代表戦でのゴールからの「心のゆとり」を継続しています。

ここ2ケ月ほどBS放送をはじめサッカーシーンから遠ざかっていた私にとってスカパー、BSと映像が戻ってきたことで、やっと「「サッカー文化フォーラム&アーカイブス」夢追い人」としての日常に復帰した気分です。

あとは録画を再開して、いまはもうライブで見れない「Jリーグタイム」「マンフト」「欧州CLマガジン」といった夜遅い番組をリピートで見れるようにすることです。

そうすれば、いまネットだけに頼っているサッカー関連の情報把握も少しは「まし」になるでしょう。

1995年頃だったか、CS放送のCoca colaのCMで「寝てもサッカー、覚めてもサッカー、コカ・コーラぁ」というコピーがありました。あの頃は自分がまさにそういう状況でしたから自分のキャッチフレーズみたいに使ってました。

いまは20時半から21時頃には消灯して寝てしまう生活です。昨夜もシャルケvsドルトムント戦、香川選手の先制ゴールのあと同点にされたところで「ご就寝」でした。

それにしてもシャルケといえば内田篤人選手ですが、どうなんでしょうね。かくも長き離脱。今シーズンはもうないでしょうし、仮に復帰があるとしたらチームとしての完全消化試合でしょうね。

すると来季の内田選手は? という話になるでしょう。なにぶん日本でナンバーワンの人気を誇るウッチーです。まだまだ老けこむ歳ではありませんから雄姿を見たいものです。

応援しましょう。

では、また。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年末年始のスポーツバラエティ、ネイマール、メッシ、ロドリゲス

2015年01月04日 22時45分47秒 | テレビ番組
年末年始の特番には、スポーツバラエティ番組も多くサッカー選手も出演の機会が多い。
この年末年始、目立ったのは、ネイマール、メッシ、ハメス・ロドリゲスといった世界のサッカー界のスーパースターが登場したことだ。

大みそかに、紅白の裏番組でTBSの「KYOKUGEN」という番組で、ネイマールがBOX SHOOTという技に挑戦、元日にはメッシがTBSの「炎の体育会」という番組で、リフティングハイという技に挑戦した。
2日にはハメス・ロドリゲスがテレビ朝日の「とんねるずのスポーツ王は俺だ」という番組でPK対決をしたという。これは見ていない。

こうしたテレビのバラエティ番組企画にサッカー界のスーパースターが出演するということについて考えてみたい。

日本のテレビに、サッカー界のスーパースターが出演するというのは、今に始まったことではないし、昨年夏にもクリスティアーノ・ロナウドとネイマールがほとんど同時期にCMキャンペーンのため来日して、多忙な日程の中、いろいろな番組をはしご出演したことがある。

私が思うのは、日本の企業そしてテレビ局の、サッカー界のスーパースターに対する関心の高さ、そして彼らに支払うギャラと費用対効果の思い切りの良さについてだ。

言い換えれば、外国ではどうなのだろう、例えば海外のテレビ局も、似たようなスポーツバラエティ番組をいろいろと企画して、メッシ、ネイマール、そしてクリスティアーノ・ロナウドを出演させているのだろうか。

海外、特に欧州、南米あたりであれば、日本よりはるかに企画をたてやすいし、費用対効果も高いように思われる。日本でこれだけ呼んでいるとすれば欧州・南米ではもっと多く呼んでいるような気がする。実際はどうだろうか。

このことは、一種の調査研究対象にしたいテーマだ。日本は海外と比べて、こうした番組にこうしたスターを起用したがるのか、そうではなく、海外でも一般的な企画で、似たような番組が放送されているのか。

もし、日本で起用したがる傾向が強いようなら、それはなぜか? テレビ文化あるいはスポーツ文化(サッカー文化)の土壌に何か違いとか特異性があるのか、そういったことを明らかにしたい。

日本では、サッカーが一般化した1990年代半ばから、例えばTBS「筋肉番付キックターゲット」や日テレ「とんねるずの生ダラ・PK対決」のような、サッカー選手を出演させる企画の歴史があり、海外のスーパースター出演の歴史もある。

今回書いた思いは、結構以前から抱いていたもので、海外のいろいろな国での類似例を探したり、スポーツバラエティ番組へのサッカー選手の出演に対する、その国の視聴者の嗜好などを調べたいと思っていた。

「サッカー文化フォーラム」という取り組みを進めている当ブログならではの課題だと。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1998年6月6日「カズ無念の帰国」番組をあらためて見る

2014年12月29日 20時02分00秒 | テレビ番組
私が、長い年月、収録・収蔵を続けてきたサッカー情報のうち、試合映像・番組映像をビデオテープからパソコンを通じてHDDに取り込む作業を続けていることは、このブログでもたびたびご報告しているが、現在、その取り込み作業は1998年分を行なっている。

1998年はフランスW杯の年、日本が初めてワールドカップの舞台に立った年であり、4年後には日韓共催大会を控えた年ということで、マスコミの取り上げ方は、それこそ洪水のような量だ。

この年のビデオテープはなぜか、どれもこれもカビ発生だらけで1本1本修復しながらなので、なかなか取り込みが進まない。

そんな中、1998年6月6日にフジテレビ「土曜一番!花やしき」という番組が放送され「緊急特集!カズ無念の帰国」という映像の取り込み作業を行なった。そして、あらためて28分の番組を見た。

フランスから戻ったカズ選手と北澤豪選手の会見、カズ選手のここまでの軌跡、そしてコメンテーターによるカズ選手外しの是非論などが番組の内容だ。

16年前の衝撃的な出来事を報じた番組を見て、あらためて二つのことを思った。

一つは、カズ選手が、記者たちからの、いわば「悔しくはないのか」「怒りをぶつけたくはないのか」的な質問攻めに対して、終始一貫、泣き言一つ言わず「選手選びは監督の決めることでありそれについて自分が言うことはない」「ワールドカップへの夢はあきらめたわけではないし、これからもそれに向かってチャレンジしていく」と応じ、そして、あの名言である「魂は向こうにおいてきた」と語っているのである。

今にして思えば、彼は「今回がダメでも4年後がある」と気持ちを切り替えていたから、そう応じていたのではないたろうか。

なぜなら、いまなお現役のカズ選手、並みの選手なら「今回がラストチャンスだった。次回はもう代表に選ばれて日韓ワールドカップの舞台に立てるレベルにはないだろう」と考えそうなものだが、カズ選手にはそんな発想が露ほどもなかったのかも知れない。現役を続けている今のカズ選手を見ると、その時、決して強がりでもなんでもなく、ごく自然に「次をめざす」と切り替えたのではないかと思えてならない。

それにしても、こんなに潔い会見が出来る選手は滅多にいないと思う。カズ選手の「キング・カズ」たる所以を再認識した番組映像だ。

もう一つ、岡田監督のカズ外しの本質をどう捉えればいいのか?という点だ。番組でのジャーナリスト・二宮清純さんの発言が正鵠を射ていたように思う。

番組では、いろいろ人からいろいろな意見が出ていたが、二宮さんは「要するに誰を残して誰を外すか、それは監督の専権事項であり、周りが何を騒いでも始まらない、しかし、外し方の良しあしは問題にされる。外された3人のうちの市川大祐選手、彼が同じように外されても何も問題にはされない。しかし、カズは日本サッカーをこれまで牽引してきた功労者だ。それを外すには外し方というものがある。」と指摘した。

問題の核心は、岡田監督には監督の経験が全くないまま代表監督になってしまった人だから、重要な選手を外すということについても、当然全く経験がない、いわば無知、もっと言えば外し方について無能な監督だというところにあるというのが二宮さんの指摘なのだ。

経験があり、さらには有能な監督であればあるほど、礼を尽くす外し方に最大限配慮する、というわけだ。
納得のいく指摘である。

あれから16年、岡田監督は、この時の「カズ外し」について「外し方が未熟でカズに申し訳ないことをした」と総括しているだろうか?

実は、このカズ外しをした時、岡田監督がフランスで屋外での立ったまま行なった会見で「3人とも、そのままフランスに残すつもりだったが、カズ、北澤については私の見通しが甘かったようで、思った以上に動揺が激しく、チームに与える影響も考えて日本に戻すことにした」と説明した。

外し方を間違ったために、火に油を注ぐ結果を招いたということになる。
二宮氏は「見通しが甘かった」などということ自体が、監督として無能なのだと痛烈に批判していたが、外したことがいいのか悪いのかという問題ではなく、まともな監督ならば「外し方」を間違ったりしないのだということがポイントだったようだ。

私は、その後の資料を詳しく点検していないので、いまは評価できないが、岡田監督がこの時の「カズ外し」について「外し方が未熟でカズに申し訳ないことをした」と総括しているのであれば、すべて終わったことと思いたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前園さんの言うとおり♪♪~

2014年12月26日 21時50分51秒 | テレビ番組
前園真聖さん、そう、1996年のアトランタ五輪に日本代表を導いた歴史的主人公。
その前園さんが、飲酒がらみの不祥事で、テレビのスポーツキャスターの仕事をすべて棒に振ったのが1年ちょっと前。

その時、私は、2013年10月14日の書き込みで「前園さんに届け、この激励メッセージよ」というタイトルをつけ、前園さんの捲土重来をお待ちしてますよ、というメッセージを送った。

特に、テレビの仕事を再開できる時は、必ず「さんざんいじられますよ」と、以下のような予測を立てておいた。

「メディアに呼ばれるとしたら、最初は、さんざん、いじられるバラエティだと思えばいい。あなたが、これまであまり経験がない「バラエティ」というジャンルは、人生で失敗したひとをトコトン弄ぶことを、驚くほど得意にしているから、いまのうちから、さんざん弄ばれ、いじられた時の自分のリアクションやコメントを考えておくといい。そういったことは事務所仲間にもアドバイスしてくれる人がいるに違いない。」

案の定、前園さんは、お笑いの大御所への階段を着々と上っている松本人志さんの「ワイドナショー」という番組に使ってもらっていた。

この番組に前園さんが出ていることを知ったのは、2014年11月9日の朝刊テレビ欄の「ワイドナショー」のところに「前園指原滝行に独占密着」という項目を発見したからだ。

私自身、この新聞の項目だけでは、なんのことかチンプンカンプンだったし、この番組をご存じない方のために、見てわかったことをご報告すると、指原というのはAKB48で人気タレントだった指原莉乃さん、この人が滝に打たれる滝行に挑戦するということで前園さんがレポーターとして派遣された様子が放送されたということだった。

番組では、松本人志さんをはじめコメンテーターの人たちが「結局、指原がソフトバンクのCM撮影するのに、うちの番組がまんまと利用された」と息巻いていたが、前園さんも出演者たちから「そんなことのためにわざわざレポートに行ったの?」という具合に、さんざん、いじられるハメになった。

そういう中で前園さんは、テキトーなトークでかわすといった、お笑い芸人のようなリアクションは無理なので、ただジーッと、いじり言葉の連打を浴びっぱなし。

ただ、救いは、前園さんの目が、アトランタ五輪の頃と全く変わりない、ギラギラと見据えるような生きた目つきだったことだ。

前園さんは、卑屈にもならず、かといって反抗的でもなく、ただ、ただ無心に番組に取り組んでいたように見えた。

番組でも話題になっていたが、前園さんは少年サッカー教室などの仕事を順調にこなしているようで、スポーツキャスターへの復帰も近いように思った。

その番組を見ながら私は、何かで躓いたタレントがメディア復帰を望む場合には、その儀式として、どうしたってバラエティ番組でのいじられ経験が避けられないんだなと、あらためて、ため息まじりに感じた。

それから、前園さんの目を見ていて、もう一つ思ったのは「これから先、日本サッカーが新たな歴史を作っていくとしたら、この前園さんのような『強い意思』を宿した目つきを持った選手がいる時だろう」ということだ。

1996年3月、日本サッカーとして24年ぶりとなるアトランタ五輪出場を決めた試合、ヒーローインタビューで見せた前園選手の、あのキラキラとした目つきは忘れられない。この戦いを勝ち抜く、何としても勝ってみせるという、誰よりも強い気持ちを持って試合に臨んだ選手の顔はこういう顔なんだと、私たちに見せてくれた、あの顔。

あの時以来、私は、あのような強烈な意思を宿した目をした選手に、まだ出会っていない。この先、ますます厳しくなるであろうアジアでの戦い、その中で、逆にアジアの対戦相手の中に、かつての前園さんのような意思を宿した目を持つ選手が出現したら、日本は危ないと思う。

最後になるが、今回、タイトルを「前園さんの言うとおり♪♪~」とした理由を少し。

あのアトランタ五輪の活躍以降、当然のことながら前園さんのCM出演が急増したが、その中に、これほど主役らしいCMはないと思わせるCMがこれ。

マンダムのCMで、前園さんが、赤いオープンカーの助手席の彼女に向かって「オトコの髪はナチュラルが一番さ」と言うと、彼女が「なにゆってんの、あんたぁ」と素っ頓狂な声、すると前園さんの背後から数人の男女が突然「前園さんの言うとおり♪♪~」と2回連呼、そして締めは前園さんが渋い声で「言うとおり!」

バカバカしいほどベタなCMなのに「前園さんの言うとおり♪♪~」がインパクトの強いフレーズだったようで、多くの人たちの記憶に残っている。

私にとっても「応援歌」的なフレーズで、前園さんの話題の時は、これでいきたいと思っている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サッカー映像のHDD化作業、現在1998年分奮闘中です。

2014年12月15日 19時34分05秒 | テレビ番組
今年6月14日付けの当ブログ書き込みで「サッカー映像のHDD化作業を始めてから丸2年になりました」と報告しました。

それから半年です。はやり半年に1回ぐらいは経過報告をしたくなります。

前回の時は、1996年分をほぼ終えて1997年Jリーグの変換作業を始めています。と報告しました。それから半年です。

1997年分をすべて終了して、いよいよ1998年分に入っています。なぜ「いよいよ」かと言えば、サッカーに関心が深い方はお気づきのとおり、日本が初めてワールドカップに出場したフランス大会の年だからです。

実際に手を付け始めて、あらためて映像の多さがわかります。試合放送分はそれほど多いわけではありません。ワールドカップ本大会の試合数はたかだか64試合、ほかの試合もさほど増えているわけではありません。

何が増えたかといえば、それは番組系の映像です。もう年明けから特番、特番の連続です。ワールドカップの全試合放送を行なうNHKは特に3月あたりから毎週のように2時間、3時間の特別番組を流しているほか「趣味悠々」「クローズアップ現代」といった番組でも3回連続企画とか銘打ってサッカーをテーマにしています。

民放も負けてはいません。ワールドカップが近くなってきた4月あたりからはスポーツ系の番組だけでなく、ワイドショー、バラエティといった番組でもワールドカップを切り口にした番組が、それこそ、わんさかと流されています。

次の2002年日韓共催大会の年も相当なものだと思いますが、この1998年の映像の多さはハンパないです。おまけに、なぜかこの年のビデオテープは、これまでの年以上にカビの発生が多く、その修復の手間ひまも泣けてくるぐらいです。

実は1997年も、9月から11月まではワールドカップアジア最終予選のホーム&アウェー方式の長く厳しい、それこそ波乱万丈の3ケ月でしたから、テレビ番組の関心も日に日に盛り上がり、最後は日本中が歓喜に包まれた幸福なフィナーレでしたので、HDD化作業量も多かったのですが、久しぶりに感動の3ケ月を振り返りながらの作業でしたので、あまり苦労感がありませんでした。

しかし、1998年分の作業に関しては、いまのところ、あまり充実感、高揚感がありません。番組系では、もっぱらグループリーグ対戦国であるアルゼンチン、クロアチア、ジャマイカに絡む話題を中心とした内容であり、やや食傷気味になる感じです。

それでも、これを乗り越えないと、ひと山越えたとは言えません。この1998年分の映像変換作業を終え、その勢いで1999年、2000年分に進んでいきたいと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

W杯デイリー(民放版) 、そろそろ番組作りも大変みたい

2014年07月10日 12時52分37秒 | テレビ番組

ブラジルW杯の日本での放映体制は、NHKと民放のコンソーシアムによる全試合生放送なので、日本での盛り上がりという点では、スカパーだけの放映よりは、格段のアナウンス効果である。

これで日本代表が決勝トーナメントにでも進んでくれれば、日本中お祭り騒ぎ間違いなしだったと思う。

日本抜きの決勝トーナメントにはなったが、有力チームと意外なチームがとり混ざった組み合わせの連続で、特に準々決勝は感動の試合続きで、存分に楽しませてもらっている。

その楽しみをショーアップしてくれているのが、「W杯デイリーハイライト」の番組名で統一された民放各社の番組だ。

各局とも、平気でゴルデンタイムに2時間番組を編成しているが、日本代表が早々に敗退した今となっては、各局とも「あぢゃ~」という思いなのではないか。

準決勝第一試合ブラジルvsドイツ戦があった今日の担当は日テレさん。試合は1試合しかなかったのに夜7時から2時間番組を組んでくれている。

だが、朝刊の番組欄に載った番組内容予告を読んで、私は「あぢゃ~」と叫んでしまった。やるに事欠いて、こんな内容でやるのかよぉ、という感じだ。
一応、内容予告を転記しておく。

番組名 FIFAワールドカップデイリー「さんま手越のスゴイ人が選ぶスゴイ人」
・吉田沙保里厳選の肉体がスゴイ人
・園児100人が判定ご当地キャラ名シーン
・上島竜兵が選ぶリアクション1位は?
・IKKOの美女サポ格付け
・川口春奈も!
という具合だ。

メインキャスターの手越にさんまが絡めば、それはおもろいバラエティという予想がつく。しかし、園児、上島、IKKOと続くコーナー、内容の予測がしにくい。

といっても、今日は、ブラジル歴史的大敗というニュースバリューのある試合の日である。バラエティ色が薄まった番組に仕上がるのではないかと思っていたが、やはり、さんまはさんまだ。

新聞の番組欄を見た時ほどの「あぢゃ~」感はなかったが、やはり、準決勝という段階まで進んできた中での2時間番組作りは、相当大変だなぁ、と同情を覚えた。

ワールドサッカーの世界を、ますます日本で身近にしてもらえるというテレビ局の貢献に、当・サッカー文化フォーラムは感謝、感謝なのだが「あまり無理しなくてもいいですよ」という思いも芽生える。

番組では、岡崎慎二、長友佑都、香川真司らのエピソードや本田圭祐のブリーフ一丁姿も登場させ、これからも日本代表を見捨てていないよというメッセージは感じられたので、よしとするか、という感じだった。

さぁ、いよいよ決勝はドイツvsアルゼンチン、そしてもその前にブラジルvsオランダの3位決定戦。3決戦は、どういう試合になるのだろう。かつて1990年イタリアも、2006年ドイツも開催国として準決勝で敗れ3決戦に回った。そして両国とも意地をみせて3位は確保した。

今回、ブラジルは、そのようなモチベーションは保てるのだろうか。決勝もさることながら、そちらも気になる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする