「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

「男女揃って五輪2大会連続決勝トーナメント進出は、唯一日本だけ」という真実。全世界に誇れる、そして日本中に知って欲しい真実。

2024年08月11日 12時59分14秒 | サッカー日本代表
8月11日(日・祝)の今日、パリ五輪も最終盤のようです。サッカー競技は男女とも終わり、男子はスペイン、女子はアメリカが金メダルを獲得したとのことです。

日本五輪代表は、グループリーグ突破後の第一戦となった準々決勝で、男女とも金メダルをとった国に行く手を阻まれた形となりました。

いつも思うのですが、勝ち上がるための組み合わせの妙は、一つでも上に行くのに欠かせないファクターです。どの段階であれ、いずれは倒さなければならない相手だと思えば、準々決勝で当たったからと言って残念に思う必要はないという話がよく出ますが、気持ちとしては複雑です。

男子の場合、オーバーエイジを使わない戦力で、どの程度やれるのか期待半分不安半分の評価を、見事なまでに覆す3連勝で堂々たる1位通過、その結果として準々決勝はC組2位と対戦というわけですが、よもやスペインが来るとは・・・、です。

それでもエースストライカーの細谷真大選手が放った振り向きざまのゴールは、VAR判定で取り消されたとはいえ、よくやったと思うゴールでした。こうした不運も勝敗の行方を左右したと思いますから、結果だけ見れば完敗のようですが紙一重のように思います。

我らが辛口評論家のセルジオ越後氏にすれば「大きな壁があったね。細谷の1ミリで悔しいと思うなら、その考えは根本的に間違っている。スペインとは1メートル以上の実力差があった。(中略)悔しいけれど、完敗だ。」という総括になってしまいますが、当フォーラムは、そう言って選手たちを迎えようという気にはなりません。

「よくやったですね、お疲れさま。悔しい気持ちを今後の糧にして飛躍してください。」という言葉で迎えたいと思います。

今回指揮をとった大岩剛監督、五輪カテゴリーとはいえ国民の注目度の高い代表監督を引き受けたご本人にも、その力量を信じて託した協会にも、拍手を送りたいと思います。大岩監督がこれからどのようなキャリアを歩むのかわかりませんが、今回の経験は大きな財産になったと思いますし、それが生きるキャリアを歩んで欲しいものです。

一方の「なでしこジャパン」、こちらも準々決勝は結果的に金メダル獲得のアメリカでした。この試合を見ていて、東京五輪サッカー・男子準決勝の日本vsスペイン戦を思い出しました。スペイン戦は延長後半でのマルコ・アセンシオ選手の1発でしたが、「なでしこジャパン」は延長前半終了間際のトリニティー・ロドマン選手の1発でした。
どちらも選手の位置、ゴールの角度・コースがそっくりだと感じたのです。

「なでしこジャパン」の場合は、力のある選手が大会前から離脱して、大会に入っても清水梨沙選手が離脱するなど、ベストメンバーで試合させてあげたかったという思いを強く持ちました。
それでもグループリーグ第2戦のブラジル戦で、劇的な逆転ゴールを決めた谷川萌々子選手やDFの古賀塔子選手など、次々と高い能力を持った選手たちが堂々とピッチで躍動している姿は、本当に素晴らしいと思います。

2011年W杯優勝の時もそうでしたが、やはりベストメンバーが揃い、試合が進むごとに代わって入った選手も活躍するといった、すべての条件が整わないとメダルに届かないのが最高峰の戦いのようです。

「なでしこジャパン」には、次のW杯、次の五輪で、また、そのような条件が揃うことを期待したいと思います。
キャプテンの熊谷紗希選手の、代表での去就はどうなるのでしょうか。精神的支柱という言葉が
よく似合うキャプテンでしたから、次を担う人材のことが気になりますが、おそらく清水梨沙選手が引き継ぐのではないかと想像しています。

「なでしこジャパン」の皆さんも、男子と同様、「よくやったですね、お疲れさま。悔しい気持ちを今後の糧にして飛躍してください。」という言葉で迎えたいと思います。

これはもう何度も書いていることですが、つくづく私たち日本のサッカーファンは幸せです。男女とも五輪出場を果たし、男女とも決勝トーナメントに進出する国は、今回の場合日本のほか3ケ国(スペイン、フランス、アメリカ)しかありません。

前回東京大会の時は、男女とも決勝トーナメントに進出した国は日本とブラジルしかありませんでしたから、2大会連続で男女とも決勝トーナメントに進出した国は、世界広しといえども、私たちの日本しか成し得ていない快挙なのです。

驚きですよね、全世界に誇れる快挙ですし、日本中の皆さんに知って欲しい真実です。ですから私たち日本のサッカーファンは幸せなはずです。世界一幸せなサッカーファンです。





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2011年の川澄選手ロングシュートを思い出させる谷川萌々子選手のゴール!!

2024年07月30日 16時56分03秒 | サッカー・ユース年代、女子
2024年パリ五輪サッカーのことを書きたいです。
男子は「強さ」、女子は「あきらめない気持ち」を思い起こさせる活躍です。
男子についてはネットに論評が氾濫していますので、女子について書きたいと思います。

つい先日、NHK-TVの「プロジェクトX」が特別制作した「女子サッカー不屈のバトンリレー なでしこの花咲く日まで」を放送しました。

いまは録画をしていないため初回放送と1週間後の再放送をメモをとりながら見ました。
女子サッカー黎明期のレジェンドの一人、本田美登里さんと、ご存じバロンドール選手の澤穂希さんがスタジオ出演しながら、本田美登里さんが小学生の頃から、澤さんが2011年女子W杯で世界制覇するまでの苦難の30年間を辿った番組です。

そして日本時間7月29日早朝におこなれたパリ五輪サッカー女子、グループリーグ2戦ブラジル戦です。

3組12チーム(12ケ国)しか参加しないグループリーグ、そのうち4チーム(4ケ国)だけを振るい落とす戦いですが、かなり過酷です。日本の入ったグループは昨年の女子W杯優勝国スペイン、日本と世界ランキングがほぼ互角のブラジル、そしてナイジェリア代表、ランキング的には劣るものの異次元の身体能力を持つ侮れない国です。

初戦スペイン戦を落としました。そしてブラジル戦です。もう後がないと思わなければならない戦いでした。
結果はご存じのとおりでしたが、なでしこジャパンが1点のビハインドから同点、逆転に持ち込んだのは90分+アディショナルタイム8分の中でした。

よくぞ逆転勝ちしたものだと思います。
まさに「プロジェクトX」が番組を通して伝えてくれた「なでしこ」たちの「決してあきらめない気持ち」「このままでは終わらないぞという気持ち」が、この試合にも現れたと感じました。

早朝の生放送は、とても見れる年代ではなくなりました。夜9時台には寝床に入り、朝7時台には寝床から出るという基本パターンの生活は、もはや崩せません。崩してしまうと必ず副作用に見舞われる年代になりました。

それでも幸いなことにサッカー競技に関しては少し時間を短縮するものの再放送してくれていますので楽しめます。

なでしこジャパンの2つのゴールは、2011年女子W杯優勝時を思い出させるものがありました。

まず、同点に持ち込むPKを蹴ったのはキャプテン・熊谷紗希選手、2011年W杯優勝がTVで語られる時、必ずPK戦で優勝キッカーとなった熊谷選手のシーンが出てきます。

今回のPKの時、日本の多くのファンは、あの時と同じ角度・方向に蹴るのではと見守ったようです。結果は冷静にキーパーの動きを見極めて逆サイドに確実に流し込んだキックでした。あれから10数年を重ねた熊谷選手のキャリアが導き出したキックだったのです。

次に逆転ゴールとなった谷川萌々子選手のスーパーミドルロビングシュート、これを見た瞬間、2011年W杯準決勝で初スタメンを果たした川澄奈穂美選手が放ったスーパーミドルロビングシュートを思い出しました。

川澄選手のゴールはスウェーデンを3-1と突き放すゴールで、角度も距離も今回とは少し違ってはいましたが、意表をついて放たれ、見事にゴールに吸い込まれたという点で、今回の谷川萌々子選手のゴールも、まったく同じことが起きたと感じました。

川澄選手のゴールが長く記憶に刻まれているのは「あそこで、そういうシュートをよく打てるものだ」という衝撃と感嘆の気持ちからであり、今回の谷川選手のゴールもそうなのです。

2011年女子W杯と重なる2つのゴールは、今回のパリ五輪サッカーにおける「なでしこジャパン」の行く末を予感させるものだと書いておきます。

2012年ロンドン五輪、2020年東京五輪に続き男女ともグループリーグを突破してくれると、サッカーファンのみならず日本中がサッカー競技の行方に関心を深めてくれることになり、五輪の楽しみ方が濃密でしあわせなものになります。

ありがたいことです。ガンバレ日本サッカー・男子、女子!!!



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当フォーラム保存の映像・活字情報記録を引き継いでくださる方、ご連絡ください。

2024年06月26日 20時34分34秒 | サッカー文化
前回の書き込みが3月28日でしたが、同じタイトルで、あらためて呼びかけさせていただきます。
よろしくお願いいたします。

・当「サッカー文化フォーラム」夢追い人が、30数年前に見た夢は、次のようなものでした。

・1993年にJリーグがスタートすることになり、日本にも「サッカー文化」という新たな文化が育っていくのではないかという期待が湧きました。
このスタートの段階に、誰もやらない何かに挑戦して、やり遂げたいという夢をみたのです。

・Jリーグのスタートによって「サッカー文化」が芽生え、日々成長・進化して発展していくとすれば、その一部始終を「記録として残す」ことに取り組もう、その記録は後年、必ず日の目を見るに違いないと考えました。

・やるからには「徹底的に」と考え、最初は「Jリーグの全試合録画・保存」「サッカー専門誌のバックナンバー購入・保存」「スポーツ紙の購入・保存」という3分野の記録保存から始まりました。

・次第に「サッカー関連の番組映像の録画・保存」「ワールドカップなど関心の高い大会の録画・保存」「サッカー関連書籍の購入・保存」「日本代表の活躍など特集冊子の入手・保存」など「サッカーに関すること全般の記録収集・保存」に広がりました。

・10年、20年と、その記録・保存を続けていくうちに、特にアナログ時代の(映像も紙媒体も)記録は、保存の重要性が増していることを実感しました。

・ですから、録画作業も、活字媒体の点検も、文字どおり来る日も来る日も続けました。試合だけでなく番組系も含めた国内で放送されている、あらゆるサッカー関連の映像録画から、サッカー関連の紙媒体の文字情報まで、およそサッカー情報と思われるものを全て網羅的に収集・保存する作業は、日本広しといえども誰も手掛けていないと考えながら、自分だけは続けるんだと言い聞かせて続けました。

・一方で、当初はすべてアナログ資料でしたから、保存しているダンボール箱の数が増えるだけで、デジタル化により減量を図らないと記録・保存の継続性も危うくなりました。

・そこで、ここ10年間は、ビデオ映像とスポーツ紙のデジタル変換化に集中しました。サッカー専門誌のデジタル化は、まだ準備作業段階です。

・Jリーグスタートから30年が経過した最近は、新規の記録・保存を自分がしなくても、ネット上で入手できる時代になったと実感しており、2023年1月上旬以降、映像記録を終了しました。

・ビデオテープの画像は1TB~4TBのHDD20台ほどに収まっています。
このアナログ時代の映像というのは、特に保存価値が高いということを、年々時間が経つにつれ感じています。

・画像のHDDへの取り込み作業は、ビデオテープからの変換作業だけでなく、スカパー録画映像やブルーレイレコーダー録画映像など、チューナー付きHDDに紐づいてしまっている画像を、パソコン再生可能画像に変換してHDDに収め直すという形でも行っています。紐づいたままでは共有できないからです。

・こうしたHDDへの変換作業と並行して、個別のテープ内容を「ファイルメーカー」というデータベースソフトに入力する作業も行っています。その個別データベースによって、全体数量がいくらになっているのかカウントできます。

データの内訳は、
①Jリーグ関係(三大タイトル、ACL、日本リーグ時代含む)が3679タイトル(2024年6月現在)
②Jリーグを除く国内チーム試合関係(男女日本代表、男女五輪代表、アンダーカテゴリー代表、大学、高校、中学、小学生各全国大会等)が1323タイトル(2024年6月現在)
③海外チーム試合関係(W杯、各大陸別大会、海外クラブ関係等)が2146タイトル(2024年6月現在)
④サッカー番組関係(スーパーサッカー、やべっちFC、FOOT×BRAIN等の定期番組、各クラブ応援番組、サッカー特集番組、ドキュメンタリー番組のうちサッカーがテーマのもの、スポーツ番組のうちサッカー関連部分、バラエティ番組でサッカー選手やサッカーがテーマのもの等)が5385タイトル(2024年6月現在)
⑤合計12,533タイトル(2024年6月現在)です。

またスポーツ新聞をスキャナーでPDFに保存する作業も進めています。1990年頃から収集を始め2020年頃まで続けてから、A3版スキャナーでPDFに変換する作業を開始、2012年まで完了しました。A3版1枚のカラー画像は約1.6MB程度の容量ですが、取り込み済の容量が32.3GBですので、A3版にして20000枚ほど取り込んでいます。

サッカー専門誌はスキャナー取り込みの前処理として、綴じ込んでいるホチキスを外して残したいページだけを選び出す作業を進めており、サッカーマガジン、サッカーダイジェスト、ストライカーの3誌からの選び出し作業を完了しました。最近、スキャナーでPDFに保存する作業も始まりました。

スポーツ紙とサッカー専門誌を合わせて、現在まで取り込んだ量は、A3版1枚のカラー画像が約1.6MB程度の容量、取り込み済の容量が32.3GBですので、A3版にして約20000枚ほど取り込んだ計算になります。

おそらく最終的には50000枚ぐらいにはなると思います。

ほかにサッカーai誌や、W杯特集冊子、Jリーグイヤーブック、そしてハードカバーの書籍類が現品のまま保存されています。これらはスキャナー取り込みをせずに現品のままにしておこうと考えています。

したがって最盛期には小さな賃貸住宅1戸分一杯の荷物だった物量も、現在は4畳半1部屋においてあるスチール製書架(幅90cm高さ180cm奥行25cm)6台に、すべて収納できる量まで減りました。


・以上のように、1993年のJリーグスタートをもって萌芽した、日本のサッカー文化が成長・進化・発展してきた歳月を、克明に、かつ網羅的に記録し続け、保存するという30年以上前に描いた夢は終わりに近づいていると思います。

・これまで記録・保存してきた資料は「日本のサッカー文化遺産」と言えるのではないかと思います。この資料を引き継いで継承していただき、100年先まで繋ぎ伝えていこうという志をもった方を探したいと考えるようになりました。

・ぜひ、このHDDに収めてある情報資産と現品資産を保管・管理・活用していただきながら、100年後まで継承して引き継いでいって欲しいのです。引き継いでいただける方が見つかり、引き継ぎができたところで、当「夢追い人」の役割を終わらせていただきます。

当然のことながら、引き継いでいただける方には、無償でお譲りします。引き継いでいただいた方は、時には自由に閲覧していただき、時には自由に有効活用していただいて構いません。

もし、そういう方に引き継げなければ、この4畳半のサッカー情報資産は、私の死亡によって資産として残らず、単なる廃棄物になってしまいます。
そうはしたくないのです。

この「サッカー文化フォーラム」夢追い人が見た夢を、引き継いで継承していただきたく、志をもった方が声をかけてくださるのをお待ちしています。

何かお考え、心当たり、あるいはお問い合わせでも構いません。何かある方は、ぜひご連絡ください。
お待ちしております。

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当フォーラム保存の映像・活字情報記録を引き継いでくださる方、ご連絡ください。

2024年03月28日 13時26分40秒 | サッカー文化
昨年放送されたNHKの朝ドラ「らんまん」の主人公のモデルになった植物学者の牧野富太郎博士の業績が、とにかく、こつこつと収集・保存・分類するという作業がベースになっていたということで、私自身と重なるように感じ、欠かさずドラマを見ました。
そして昨年3月末に迎えたエンディングテーマは「継承・引き継ぐ」というものでした。

当「夢追い人」が、自己紹介欄で述べていること「1993年のJリーグスタートをもって萌芽した日本のサッカー文化を、克明に記録し続け100年先に繋ぎ伝えたいという夢を現実にしたいと思います。」
まさに「継承・この先に引き継ぐ」というミッションです。

私の取り組みは、Jリーグがスタートした1993年から、まずJリーグ全試合の録画保存作業を本格的に始めたことが契機となっています。

この、日本におけるプロサッカーリーグの誕生であるJリーグのスタートによって、文字通り、日本にも「サッカー文化」という新たな文化が芽を吹き始めました。それがどのように育ち、成長・進化・発展していくのか、克明に記録に留め、後年、それをつぶさにひも解くことにより、さまざまな調査・研究が可能になるはずだという、確信めいた思いが動機になったのです。

そこで当「夢追い人」は、日本(東京キー局)で放送されたサッカーの試合のすべてを網羅的に録画すること、サッカー関連番組も定期・不定期を問わず可能な限り録画すること、地上波放送もBS放送も、CS放送もすべて録画し続けることにしました。

またスポーツ新聞は、毎日欠かさずチェックして1面を飾っている新聞はすべて購入し続けることにしました。

さらにサッカー専門誌は、サッカーマガジン、サッカーダイジェスト、ストライカーの3紙を定期購入することにしました。

そのほか、総合スポーツ誌と言われる「Number」誌もサッカー特集になっていれば全て購入することにしました。

それを、来る日も来る日も続けました。試合だけでなく番組系も含めた国内で放送されている、あらゆるサッカー関連の映像録画から、サッカー関連の紙媒体の文字情報まで、およそサッカー情報と思われるものを全て網羅的に収集・保存する作業は、日本広しといえども誰も手掛けていないと考えながら、自分だけは続けるんだと言い聞かせながら続けました。

録画作業は最初の12年間ぐらいは、いわゆるビデオテープ録画、次にDVDディスクに録画、2016年頃からはHDDへの録画になりました。

このブログの書き込みは2012年から始めましたが、その年の6月からはビデオテープをデジタル変換してHDDに残す作業を開始しました。変換作業は2023年夏にすべて終了しました。
ビデオテープの画像は1TB~4TBのHDD20台ほどに収まっています。
このアナログ時代の映像というのは、特に保存価値が高いということを、年々時間が経つにつれ感じています。

昨今はYouTubeの普及により、アナログ時代のサッカー関係画像もずいぶん見られますが、それはごく一部でしかありません。

また、画像のHDDへの取り込み作業は、スカパー録画映像やブルーレイレコーダー録画映像など、チューナーに紐づいてしまっている画像を、パソコン再生可能画像に変換してHDDに収め直すという形でも行っています。これも、紐づいたままでは共有できないからです。

こうしたHDDへの変換作業と並行して、個別のテープ内容を「ファイルメーカー」というデータベースソフトに入力する作業も行っています。そのデータが全体の数量をカウントしてくれているので、それをお知らせします。

データの内訳は、
①Jリーグ関係(三大タイトル、ACL、日本リーグ時代含む)が3668タイトル(2024年3月現在)
②Jリーグを除く国内チーム試合関係(男女日本代表、男女五輪代表、アンダーカテゴリー代表、大学、高校、中学、小学生各全国大会等)が1138タイトル(2024年3月現在)
③海外チーム試合関係(W杯、各大陸別大会、海外クラブ関係等)が2076タイトル
④サッカー番組関係(スーパーサッカー、やべっちFC、FOOT×BRAIN等の定期番組、各クラブ応援番組、サッカー特集番組、ドキュメンタリー番組のうちサッカーがテーマのもの、スポーツ番組のうちサッカー関連部分、バラエティ番組でサッカー選手やサッカーがテーマのもの等)が5281タイトル(2024年3月現在)
⑤合計12,163タイトルです。

またスポーツ新聞をスキャナーでPDFに保存する作業も進めています。1990年頃から収集を始め2020年頃まで続けてから、A3版スキャナーでPDFに変換する作業を開始、2012年まで完了しました。A3版の画像は約1.6MB程度の容量ですが、取り込み済の容量が24.8GBですので、A3版にして1万5500枚ほど取り込んでいます。

サッカー専門誌はスキャナー取り込みの前処理として、綴じ込んでいるホチキスを外して残したいページだけを選び出す作業を進めており、サッカーマガジン、サッカーダイジェスト、ストライカーの3誌からの選び出し作業を完了しました。ほかにサッカーai誌や、W杯特集冊子、Jリーグイヤーブック、そしてハードカバーの書籍類がまだ現品のまま保存されています。

したがって最盛期には小さな賃貸住宅1戸分一杯の荷物だった物量も、現在は4畳半1部屋においてあるスチール製書架(幅90cm高さ180cm奥行25cm)6台に、すべて収納できる量まで減りました。

そこで、当フォーラム保存の映像・活字情報記録を引き継いでくださる方を本格的に探したいと考えている次第です。

期間にして30年分の保存の映像・活字情報記録をHDDに収めてある情報と書籍類の資産です。Jリーグがスタートしてから、日本のサッカー文化がどのように成長・進化して、大きな社会現象になっていったか、つぶさに記録されている「日本のサッカー文化遺産」です。

ぜひ100年後まで継承して引き継いでいって欲しいのです。当「夢追い人」の役割は、次の20年あるいは30年ぐらい、このHDDに収めてある情報資産を保管・管理していただける方に引き継ぐところで終了したいと考えています。

当然のことながら、引き継いでいただける方には、無償でお譲りします。引き継いでいただいた方は、時には自由に閲覧していただき、時には自由に有効活用していただいて構いません。

もし、そういう方に引き継げなければ、この4畳半のサッカー情報資産は、私の死亡によって資産として残らず、単なる廃棄物になってしまいます。
そうはしたくないのです。

何かお考え、心当たり、あるいはお問い合わせでも構いません。何かある方は、ぜひご連絡ください。
お待ちしております。


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2024年最初の話題は遠藤保仁選手、小野伸二選手、セルジオ越後氏

2024年01月11日 16時00分48秒 | サッカー選手応援
2024年1月1日、毎年恒例の天皇杯決勝にかわって今年は、日本代表国際親善試合、日本vsタイ戦が組まれました。

タイ代表監督は石井正忠氏で、日本代表のスカウティングを相当綿密にしていたと思いますが、日本は逆にスタメンに情報の少ない代表初出場選手をはじめ経験が浅い選手を多く起用して、経験豊富な伊東純也選手と田中碧選手にゲームコントロールを任せた布陣でした。

まだコンビネーションが不十分だったこともあり得点を奪うところまでは行きませんでしたが0-0でハームタイムを迎えると、後半頭から堂安律選手と中村敬斗選手を投入、すぐに効果が表れ後半5分田中碧選手がゴールを決め、試合のペースを掴みました。

その後も次々と選手を入れ替えながらゴールを重ね、終わってみれば後半だけで5得点、クリーンシートでの勝利となりました。

今回の相手国監督が日本人監督、次のアジアカップ初戦の相手、ベトナムの監督がトルシエ氏です。時の流れを感じるとともに、日本に立ち向かってくる相手国監督に、日本にゆかりのある方、つまりスカウティングをガチガチにしてくる監督が増えてきました。

タイとの試合が終わり監督インタビューも終わった頃の16時6分に、テレビ画面が突然「緊急地震速報」を報じ、能登半島地震が発生して、その4分後の16時10分に震度7の本震が襲い、サッカー中継は霧散してしまいました。

元日早々の災害で、あらためて地震が多発する国に住んでいる宿命を痛感しました。真冬の災害で救出活動が思うように進まず、未だに多くの方が安否不明になっているとのことです。少しでも捜索が進むことを願うばかりです。

避難所でご苦労されている多くの皆様にも心からお見舞い申し上げます。

さて、1月9日、ジュビロ磐田所属の遠藤保仁が現役引退を発表しました。43歳までレギュラー選手として活躍を続けた遠藤選手の引退で、いわゆる黄金世代の時代が終焉を迎えた感じです。稲本潤一と永井雄一郎選手が、地域リーグで現役を続けていますが、J3以上のカテゴリーからは消えたことになります。

遠藤保仁選手は、U-19世代からずっと代表メンバーに名を連ねていましたが、小野、高原、稲本らの中心選手から常に遅れをとっていましたが、2004年アジアカップでやっと本格的な活躍の機会を得た選手です。
その後は順調に代表レギュラーに定着するかと思われましたが、二列目でもボランチでも第一人者と言えない立ち位置のため、また控えの悲哀を味わい2006年ドイツW杯ではフィールドプレーヤーで唯一出場機会を得られないという屈辱も経験しています。

しかし遠藤選手という選手は、どんな時も喜怒哀楽が表に出ないタイプの選手で、黙々と自分のプレースタイルを貫くとともに足りない運動量の強化にも取り組み、2010年南アW杯アジア予選ではオシム氏の病気勇退を引き継いだ岡田武史監督をして「日本の心臓」と言わしめ、W杯本大会でも直接FKを決めるなどの活躍をしています。

翌2011年1月のアジアカップでもザッケローニ体制での初タイトルに貢献し、MVPを獲得した本田圭佑選手をして「個人的にはヤットさん(遠藤)だと思う。ああいう人がいなかったら勝負は紙一重だった」と言わしめる活躍でした。

すでに黄金世代の中では代表に名を連ねる選手がいなくなったこの時期、遠藤保仁選手はキャリアのピークを迎えた稀有な選手です。

日本代表キャップ数152試合、J1出場試合672試合は、当分破られそうもない不滅の記録ですし、特にJ1出場試合に限っては、J1で活躍すると海外に出ることが普通の時代になりましたから、おそらく何十年も残る記録になると思います。

イソップの寓話に「ウサギとカメ」の話がありますが、遠藤保仁選手と他の黄金世代の中心選手のことを思うと、この寓話を思い出します。
この寓話は、途中で油断して昼寝をしたウサギから「油断をしてはならない」という教訓をひいていますが、別の解釈として「ウサギがカメのことを見て油断したのに対し、カメはウサギには目もくれずゴールだけを目指してひたすら進んだ」という勝因についての教訓もあります。

遠藤選手もどちらかというとそのタイプで、早々と活躍する仲間に惑わされることなく、黙々と自分のスタイルを磨き上げ、自分なりの目指すべきゴールに向かって進んだ結果としての栄光ではないかと思います。

いずれにしても黄金世代の中心選手として不滅の立場を築いたことは間違いありません。

次に、時を同じくして総合スポーツ誌Numberが「Number PLUS 小野伸二のすべて」を発売しました。小野伸二選手は、この雑誌が特集を組んだ動機である「日本サッカーにおける最高のフットボウラーの一人」として、これからも称賛を受け続けるに違いありません。

それは、例えば日本代表としてW杯での勝利に中心的な役割を果たしたとか、浦和レッズで優勝に中心的な役割を果たしたといった類いの称賛ではないのですが、なぜか「日本サッカーにおける最高のフットボウラーの一人」という称賛に対しては、ほとんど異論がないという不思議な選手でもあります。

それが、どのような評価から導き出されているのか、あらためて、つぶさに見て、あらためてご紹介したいと思います。

そして最後ですが、1月8日にはテレビ番組にセルジオ越後氏が登場しました。BSトゥエルビ(BS12)というチャンネルで「鶴瓶ちゃんとサワコちゃん」という番組が放送されています。

笑福亭鶴瓶さんと阿川佐和子さんが司会を務める番組で「昭和の大先輩と語る」シリーズで、セルジオ越後氏の登場は昨年12月11日に放送された番組の再放送だったようです。

セルジオ越後氏が以前登場したトーク番組で、1999年10月11日に放送された「いつみても波瀾万丈」という番組を見たことがありますが、今回は、その時までのエピソードに加え、その後20年余の人生経験が加わった話でした。

その中で当・夢追い人が知らなかった話が、アイスホッケーチーム「日光アイスバックス」の再建に携わった話でした。
関わるようになったのが2006年からだそうですから、すでに17年間も携わっているそうです。

セルジオ越後さんは、78歳になられた今でこそサッカー解説の仕事はほとんどないと思いますが、ごく最近まで「日本サッカー界のご意見番」として、どんな勝利にも必ず注文をつける方でした。

当・夢追い人は、何も注文をつけず「よくやりました。立派です」だけで終わるコメントを待ち続けた一人ですが、よく考えてみると、それだと「セルジオ越後」氏ではなくなるということなんですね。「よくやりました。立派です」だけなら誰にでも言える話で、それで済むならこんな楽なことはない、というのがセルジオ越後氏の考え方だったと思います。

「鶴瓶ちゃんとサワコちゃん」でもこれまでの代表的な辛口コメントが幾つか紹介されました。
例えば。
・1年間に1試合ぐらいしか出場しない選手(=カズ(三浦知良)選手)とプロ契約を結んでいるのは、広告塔だからです。本人もそれを認めるべきです。
あるいは
・久保建英選手をスター扱いにしているけれど、バルセロナの下部組織育ちとかレアル・マドリーと契約したというブランドをありがたがって持ち上げているだけ、まだ何ものでもない選手にそんなに大騒ぎするのがおかしい。

といったようなコメントです。どちらも最近のものではなく何年か前のものですが、どちらも、なかなか一般のコメンテーターには言えないコメントです。

セルジオ越後氏が支援に入った日光アイスパックスでは、自ら広告塔を買って出て地元企業に対する出資に奔走する一方、選手をはじめクラブ関係者には「自分たちも進んで地域に認知してもらえるよう活動すること」を義務付けたそうです。

まさにJリーグのクラブが行っている取り組みを持ち込んだようです。
今回、番組を見ていて痛感したのは、セルジオ越後氏はビジネスマンとしても一流であることです。

その要因として、ご本人も強調しておられましたが「何が財産かといったら、それは人脈だと思いますね。長い間に培った人脈があるから仕事を頼まれます。人脈がなかったら、誰も頼みに来ませんし、自分が何かやりたいと言っても『あんた誰?』と言われるだけ、そんなの嫌です。」

「ある人から教えられたのですが、人に誰かを紹介するっていうことは、自分の財産をその人に分けることと同じなんだよ、と。それぐらいつながりの深い人脈がなかったら人は来ないし、仕事も来ないですよね」

日光アイスバックスに本格的に関わろうと思ったのは、地元のファンから「チームがなくなったらみんなに会えなくなるから、お願いします」と言われたことがキッカケだそうです。

つまり試合を見に行くアリーナに行けば、いつもの仲間に会える、チームが消滅すると会える場がなくなる。つまりチームとかクラブは、地域の人たちを結び付ける公共財だということを強く感じたからだそうです。

最初の3年間は累積赤字のため手弁当で立て直しに奔走して、代表取締役として現在に至っているようです。
2023年6月には「日本サッカー殿堂」入りも果たしたセルジオ越後氏、サッカー人としてもビジネスマンとしても成功者となった人だと認識しました。











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2024年は、次のW杯への道筋が決まる年、応援しましょう。

2023年12月31日 22時21分33秒 | サッカー日本代表
2023年もあと1時間半を残すところです。今年も1年間、ご愛読いただき、ありがとうございました。
来たる2024年は、まずアジアカップがありますが、そのあとは2026年W杯に向けたアジア予選が最後まで続き、本大会に向けた道筋が決まる年です。

応援しましょう。そして大いに語り合いましょう。
それでは、来年もよろしくお願いいたします。
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Jリーグ60クラブ時代、各クラブは何を目指して20年、30年やっていくのか?

2023年12月17日 16時53分15秒 | Jリーグ・三大タイトル
2023年の日本のサッカーシーンも終わり、年明け1月1日に行われる日本代表のテストマッチ・タイ戦を待っているところです。

2023年シーズンのJリーグ3大タイトルは、リーグが神戸、ルヴァンを福岡、天皇杯を川崎Fが分け合うという、近年にない顔ぶれとなりました。

30年の歩みを重ねたJリーグも、最初の10年、次の10年、そして直近の10年と、少しづつリーグの「顔」が変わっていることを感じます。

またカテゴリーも、J1、J2、J3と増えて、クラブ数もいつの間にか60クラブになりました。Jリーグの野々村チェアマンによると、これからも入りたいと思っているクラブが20~40もあるといいますから驚きです。

世界各国リーグのほとんどが、一つのカテゴリーのクラブ数を20以内にしていますから、増えていくたびカテゴリーがJ4、J5と増えていくことになると思います。日本のプロサッカーが4部リーグにもなるなんて、ちょっと想像を超えた増え具合です。

野々村チェアマンは「これ、すごいと思うんですよ。ある意味、大成功です。」と地域の盛り上がりを評価していますが、当・夢追い人は、地域の盛り上がりが20年、30年と長続きするのかどうか、よく確かめたい気持ちになっています。

どこの地域も、地元にプロサッカークラブを立ち上げようという時期は、数年間は大きな熱量をもって支援し、応援し、支えようという機運が続きます。

問題は、そのあとです。クラブが何を目指し、地域が何を目指すのか、そこがしっかりしていないと決して長続きはしないと思います。

プロスポーツという産業は、勝ち負けによってクラブの収益も、地域の関心度も大きく変動する難しい産業です。

けれども「だから仕方がない」「負けが込めば落ちるしかない」というところで思考を止めているとクラブの持続的、長期的存続も危うくなるというわけです。

Jリーグがこれほど多くのクラブの参入を可能にしたのは、プロ野球のような「興行主義」「12球団維持」というビジネスモデルを採用せず「地域密着主義」「カテゴリー数増加によるクラブ数拡大」というビジネスモデルを採用したからです。

30年前のこの選択は、日本において新たなプロスポーツが根付くためには、どのようなモデルがいいのか、という手探りの中で、プロサッカー先進国である欧州各国リーグのあり方をモデルにしようという思いが原点となっています。

そこには「地方の小さな都市にも歴史あるプロサッカークラブが根付いていて、そのクラブは地域みんなの宝物、いわば地域の公共財になっている。それこそが日本が目指すべき姿」という強い信念がありました。

30年後の現在、日本の社会におけるプロサッカークラブを取り巻く環境は、いろいろな意味で大きく変わってきました。

その変化の主なものとして、
一つは、日本の社会全体が少子高齢化、地方の衰退の進行など、いろいろな社会課題を抱える社会になっていること。

二つ目には、人々の興味、関心、嗜好といったものが、氾濫する情報の中で、ますます多様化、細分化、個人化していること。

三つ目は、プロスポーツビジネスが、社会において一定のマーケットをとれる状況とみて、バスケットボール、バレーボール、ラグビーなどが次々とプロリーグを立ち上げ、いわば競合他社が一気に増えてきていること。
があげられます。

こうした環境変化の中で、プロサッカークラブ経営を、これまでと同じ考え方、同じビジネスモデルだけでやっていこうとすると、他のプロスポーツとの競合の中で相対的に埋没してしまったり、地域が抱える社会課題に対応できず、地域から評価されないクラブに陥ってしまう可能性が出てきているわけです。

その一方、プロサッカークラブの経営にとって、厳しいことばかりではなく、うまく取り込んでいければ、持続的なクラブ経営が見通せる材料も出てきています。

例えば、少子高齢化の状況は、いわば元気な高齢者が年々拡大再生産されていることになり、健康志向、スポーツ志向の高まりも留まるところを知らない状況を作り出しています。

また、サッカーの世界は、ワールドワイドな世界で、小さな町のクラブに超有名なサッカー選手を呼ぶことも可能なことから、それが、その町と選手の出身国との交流のキッカケを作ることがあるとともに、アジアの国々が日本のJリーグに強い憧れや目標意識をもっている状況もあります。

さらには、近年のさまざまな情報通信技術やテクノロジーの進歩によって、これまでとはまったく違ったツールを経営に取り込むことが可能になり、それをクラブ経営の新たな武器にできるといった状況になっています。

Jリーグ30年を経て勢揃いした60のクラブには、60の経営があります。中にはメガクラブ、ビッグクラブと言われて、クラブの年間予算が100億円超ものクラブもあれば、年間予算僅か数億円といったミニクラブもあります。

では、数億円のミニクラブが将来のないお寒いクラブなのかと言えば、断じてそうではないところがプロサッカークラブ経営の魅力でもあり、資金豊富なクラブといえども、20年先、30年先まで安泰なのかと言えば、断じてそうではないところがプロサッカークラブ経営の難しさだと思います。

そのような中、60ものプロサッカークラブに共通して言える「心しておかなければならないこと」を述べてみたいと思います。

まずプロサッカークラブの経営を、持続的、発展的な軌道に乗せ続けるために何が必要かという点です。それは、先に申し上げたような「社会におけるプロサッカークラブを取り巻く環境変化」を的確に捉えて、それをクラブ経営の変革・革新につなげるクラブとしての「自己革新力」が必須であるということです。

クラブの中には経営母体となる親会社があって、クラブ経営者は親会社から来るといったタイプのクラブもあることでしょう。また別のクラブは地域の中小の熱心なスポンサー企業に支えられて、その関係者がクラブ経営を担っているというケースもあるでしょう。

大切なのは、どこから来た経営者なのかではなく、クラブとして「自己革新力」がある経営ができるかどうかなのです。

その意味で、プロスポーツ業界が、ここ10年ぐらいの間に劇的に変化したと思うのは、トップリーダーが次々と若返っていることで、なぜ若返っているかというと、カテゴリーが上位になればなるほど「自己革新力」のある経営をやっていかないと、次代に生き残れないという強い危機感をもっているからだと思います。

そのいい例がJリーグチェアマンです。前任の村井満チェアマンは8年間の在任中、革新的な経営でJリーグの財政基盤を確固たるものにした、いわば中興の祖とも言うべき功労者の方ですが、その村井チェアマンが、2022年、後任に野々村芳和氏を迎えて勇退しました。

同じようにBリーグ(ジャパン・プロバスケットボールリーグ)チェアマンも、Jリーグ創設の経験を活かしてBリーグ創設に尽力した川淵三郎氏の後任として活躍した大河チェアマンが、在任4年の2020年、後任に島田慎二氏を迎えています。

新チェアマンに共通しているのは、スポーツクラブ経営者として確固たる実績を残し、かつ年齢的にも若く革新的な考えと行動力を備えている、まさに「自己革新力」を持ったリーダーであることです。

さらに、今回、日本サッカー協会が、新会長に46歳の宮本恒靖氏を迎える予定になっています。この人選も、日本サッカー協会が、これからの時代を乗り切っていくため必要な能力と行動力、決断力を備えた人物でなければならないという強い危機感から出た人選であるように感じました。

このように、プロスポーツ業界は「現状維持は退歩を意味する」という厳しい考え方で新陳代謝を繰り返していく業界です。
60クラブの経営者の皆さんも、同じ認識を共有されているとは思いますが、認識が認識だけに終わることのないよう、行動で自己革新を図っていただきたいものです。

さて、チェアマンの交代で話題にしたBリーグですが、そのビジョンも革新的なもので、Jリーグ各クラブがむしろお手本にすべきではないかと思うほどの内容ですので、ぜひご紹介したいと思います。

Bリーグが現在進めているプロジェクトは「B・革新2026」と名付けられたプロジェクトで、2026年から新しいBリーグとしてのレギュレーションをスタートさせる内容となっています。

その考え方や方向性を列挙して見ると、プロスポーツとしては先輩のはずのJリーグが、うっかりしていると置いていかれそうな内容です。

何より刺激的なのが「Jリーグのビジネスモデルからの脱却」です。Bリーグもまずは「地域密着」型をビジネスモデルとしてスタートしたと言います。それを次に「地域愛着型」そして「地域創生型」ビジネスモデルにステップアップさせていくというのです。

以下、島田慎二チェアマンが、これからの地域経済をつくるための祭典「POTLUCK FES’23 -Autumn-」のオープニングセッション「地域密着から地域愛着、そして地域創生へ。Bリーグの「ココロ、たぎる」挑戦。」で講演され、また会場からの質疑応答に応えられた内容を、記事にまとめられたwebメディア「LOCAL LETTER」サイトの河瀬 佳代子氏のレポートから多くを引用してご紹介します。

島田慎二チェアマンによれば「地域で商いをする以上は地域密着が当たり前で、そこから地元の評価が上がって価値も上がり、外部から人を吸引できるレベルにいく状態が地域愛着です。」とのこと、その上で「バスケとその舞台であるアリーナを通して地域を盛り上げ、地域活性化と地域創生に寄与していくレベルを目指すのです」というわけです。

そのために2026年からどういうBリーグにしていくか。
まず、勝敗による昇格降格制は廃止します。一定の事業規模に達したクラブから順にカテゴリー分けをします。

「B.LEAGUE PREMIER(プレミア)」は世界で通用する日本代表の強化、地域活性化のシンボリックな存在になっていくクラブです。
「B.LEAGUE PREMIER(プレミア)」の基準は、平均の入場者数4000人、売上高が12億円、基準を満たすアリーナを保有しているかの3つです。

お客様や事業規模も増やし、我々が目指しているような世界観のアリーナが準備できない場合は、どんなに勝利してもトップカテゴリーには行けません。

次のカテゴリーの「B.LEAGUE ONE(ワン)」は全国の一番クラブ数が多いディビジョンで、一番下の「B.LEAGUE NEXT」は新しいクラブに登竜門として来てもらう役割になります。

事業規模がトップカテゴリーの基準を満たせば、「B.LEAGUE PREMIER(プレミア)」所属のクラブは増える一方ですし、基準を満たすクラブが現れなければ、いつまでも増えません。そこが勝敗あきりではないことの特徴です。

勝敗による昇格降格がなければ、クラブは選手の給料を上げるために稼ぐのではなく、地域のために稼いだ結果、投資できる範囲内で選手に投資する考え方に変えることができます。それが本来のビジネスの在り方であり、そのように変えるべきというのが「B.革新」の本筋です。

まずクラブが地域にとって「勝てなくても存在価値のあるクラブ」になり、地域がクラブ事業に投資ができる仕組みにすることでスポンサー・自治体・商店街等、地域のステークホルダーとの結びつきを強化し、チームの勝敗に依存しないビジネスモデルに転換して息長く繁栄する状況に変えることを目指すのです。

その促進により地域が活性化し、チームの存在価値がさらに上がる。チーム人気が上がると収入も増え、資金が選手に回り始めます。

そのような「B.革新」を成功させるために重要なのは「経営力・社会性・日本代表の強化」です。

「経営力」なくして地域を盛り上げていく活力はないため、クラブの経営力がまずは大切になります。経験ある経営者が地域内にいらっしゃっることに越したことはないですが、外部から呼ぶとなると報酬が高くなります。「資金がないので呼べない→呼べないからクラブが稼げない→稼げないから経営がきつい」というループがずっとありました。

今、Bリーグの成長に期待してくださる経営者が増えM&Aが多く起きています。そのため大企業の資金力を持ってして、いい人材を確保できています。我々が経営者を育成するのは簡単なことではありませんが、Bリーグの可能性を標榜することでM&Aを通じて経営者を変えていくのがトレンドかと思います。

また、スポンサーもいつまでも応援してくれる甘い時代ではないため、地域に必要とされるリーグになるために「社会性」は必須です。
これまでのスポーツ界の経営においてはどこかで無理をしたり、巨額のマネーが入ってこないと成り立たなくなることが通例でしたが、そうではなく身の丈に合った経営にしたいと考えていました。地域経済に負荷がかかりすぎる、極端な値段にしないと観客が会場に来れない、地元がスポンサードしても価値を見いだせないなど、相手にされない構造になってしまうと厳しいです。その点バスケットボールはある程度成長性を保ちながらも地域で支えられるスポーツコンテンツという意味で、ジャストフィットするサイズです。

一方で、地域密着から地域愛着、そして地域創生というと全てを地域で完結するように聞こえてしまうかもしれません。そういうクラブもたくさんあります。現行のB1・B2・B3では下のカテゴリーであればあるほどその要素が強く、上に行くほど地域だけで支えるのみならず外からの投資が起こって動いています。それなりの事業規模でないと戦えないのが実情です。

改革後の最上位カテゴリーになる「B.LEAGUE PREMIER」は、現行のB1よりもさらに一段上のグローバルなスケールのクラブを作り、選手を輩出していきます。資金面では地域だけで完結できなくなってきますので、ナショナルクライアントからの資金、さらに海外からの投資も呼び込んでいきます。

これから、多くの地域が、通年で応援するようなスポーツ好きな人たちを、幾つかのプロスポーツチームが互いに取り合っていく時代になります。

「スポーツ渋滞」といって1つの地域に支えるべきスポーツが多すぎてしまうと、地域で支えることが困難になります。1つの地域にプロスポーツチームがいくつも固まることが本当に必要なのか、考える時期に来ていると思います。

その意味で我々はコンパクトである程度のメジャーであること、競技者人口も若くビジネスの体現を明確に示していて、このスポーツ渋滞の中で勝ち抜くために手を打っています。

規模が大きい所が勝つわけではなく、要はクラブの存在価値です。そこを見誤らないようにしないといけない。野球とサッカーが強くて次をバスケットボールが追いかけているね、という序列にとらわれすぎることがないようにしたい。街おこしのやり方はいくらでもあります。

以上が、webメディア「LOCAL LETTER」サイトの河瀬 佳代子氏のレポートによる、Bリーグ・島田慎二チェアマンのプロジェクトです。
このプロジェクトには、もっと踏み込んだ「Bリーグが目指す5つのコミュニティ」といったプログラムもあります。

60のJリーグクラブは、当然「B・革新」のプログラムを勉強していることと思います。いいところはどんどんパクって欲しいと思います。各種目同士が競争し合う関係になっていく時代ですから・・・。

最後にサッカー界から出されている提言で、印象に残ったものを一つ。さる2021年2月6日放送のテレビ東京「FOOT×BRAIN」に当時「日本サッカー協会・欧州駐在強化担当部長」という肩書で出演された元日本代表、ジュビロ磐田の黄金期メンバーの藤田俊哉氏の提言です。

欧州では、サッカースタジアムの中に立派なラウンジがあり、地域の経済人、ビジネスマンが商談・接待などに普通に利用しています。試合観戦という楽しみとビジネスを結びつけ、食事をとりながらミーティングしているのです。

ここからは当・夢追い人が付け加える提案ですが、日本のスタジアムにもそういうところが出てきましたが、まだこれからです。地域経済のためにも、スタジアム内に商談用ラウンジを併設する動きが加速していけばと思います。

これまでスタジアムにあるラウンジというと、VIPルームのような個室程度のスペースが主流ですが、もっと広い数人程度が会食できるルームを2~3室、現在のスタジアムにも増設できるような建築基準法上の工夫も含めた対応策が欲しいと思います。

建築上の制約を取り除いた上で、すべてのクラブがホームスタジアムに必ず数人程度が会食できるラウンジを2~3室設置することを義務付けるよう進めて欲しいと思います。

仮に公営のスタジアムでも、例えば県の三役さん、部長さんがミーティングの場を設けるニーズがあってもおかしくないと思います。要はビジネス的な使い方を欧州では普通にやっているというわけです。

【ここからの部分は2024年1月16日に加筆しました】
さる2015年5月15日に放送されたテレビ東京のサッカー番組「FOOT×BRAIN」に、当時、川崎Fのプロモーション部長をされていた天野春果部長が招かれ、ホームスタジアムの等々力競技場の改修計画で実現した、さまざまなプランを紹介していました。

川崎市という公営のスタジアム、等々力緑地公園という都市公園法の規制を受けるところに立地している制約、さらには一般的な制約である建築基準法上の制約に縛られながら「じゃあ、あきらめるしかない」というスタンスではなく「その制約の中でできる最大限のことをやる」というスタンスで行った改修計画で「スカイテラス」という部屋は、まさに商談が可能なラウンジといったコンセプトのようです。

また「ファミリーシート」といって、ちょうどお花見の時に敷く大家族用のシートの大きさぐらいの席を作り、観戦に集中できない乳幼児連れのご家族の利便を図る席も作ったようです。

天野部長という方は、川崎Fが地域密着のお手本クラブと評されるぐらいになった、さまざまな仕掛けを打ち出した原動力となった方で、昨年12月22日に開催された今季限りでの退職をねぎらうかわさきFM主催のトークイベント「アマトーーク FINAL」には、天野氏の貢献を知る850人の参加者が集ったそうです。

他のクラブから見れば「ああいう人がいたから出来たこと」という見方もあると思いますし、また、我がスタジアムもとっくにそうしています、というクラブも多いかも知れません。とはいえ全部で60にも増えたクラブです。まだまだだと思い書き足しました。

では、また。














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20世紀末、世界のサッカーと日本サッカーのことを4時間にわたってノンストップで放送した番組を覚えていますか?

2023年12月11日 16時49分53秒 | サッカー文化
当「サッカー文化フォーラム」が、これまで30年にわたり収録してきたテレビ放送の試合・番組映像、サッカー専門誌、スポーツ紙、総合スポーツ誌などの記録を、一つひとつデータベースに集約していることは、何度かご紹介してきました。

特にテレビ放送の試合・番組映像内容は、その内容を再生して確認しないと、どんな内容だったのか伝えられないので、なるべく詳細にデータベース化しています。

日々その作業を続けている中で、試合映像でもない番組で、堂々4時間もの、しかもCMが入らない、いわばノーカット版とも言える番組の内容をデータベースに記録しましたので、空前絶後とも言える番組の内容を、当・夢追い人の書き込みでもご紹介したいと思います。

放送時期は1999年12月27日、この時期は1900年代最後の年ということで、この100年間はどのような時代だったかという、歴史的視点で制作された番組がいくつかあります。
今回ご紹介するのは、NHK-BSで制作された「スポーツの世紀」というドキュメンタリーシリーズの「サッカー編」とも言うべき放送でした。
正式な番組名は「スポーツの世紀『サッカーは海を越えて・蹴球100年浪漫』」というものです。

当時はビデオテープ録画の時代でしたから、4時間もの番組を標準モード録画で1度に収録することができず、区切りのことも考えて2時間毎に分けて収録しました。
そのためテープ2本に収められています。

内容が1930年に始まったワールドカップ大会、1936年に日本がベルリン五輪で起こした奇跡などから始まる長い歴史をひもとく内容ですので、放送時間経過とともに、どのような内容だったかを振り返ってみます。

【1999年12月27日放送NHK-BS「スポーツの世紀『サッカーは海を越えて・蹴球100年浪漫』」】
【1本目、2H01'01】
・番組進行・NHK山本浩アナウンサー
・オープニングナレーション 俳優・岡田真澄さん
・6分後、ワールドカップ物語Ⅰ、1930年第1回ウルグアイ大会から1954年スイス大会まで
(ナレーター・真中了さん)
・15分後、日本サッカーⅠ、1936年ベルリン五輪の奇跡
・33分後、日本サッカーⅡ、戦後ゼロからの出発
・49分後、ワールドカップ物語Ⅱ、1958年スウェーデン大会から1970年メキシコ大会まで
・66分後、日本サッカーⅢ、黄金時代到来の予感、デッドマール・クラマーの指導、1964年東京五輪
・1時間17分後、日本サッカーⅣ、メキシコの青い空、1968年メキシコ五輪銅メダル
・1時間38分後、ワールドカップ物語Ⅲ、1974年西ドイツ大会から1982年スペイン大会まで
・1時間55分後、日本サッカーⅤ、はるかなる玄界灘、サッカー低迷の時期

【2本目、1H59'54】
・1本目から続き、1986年W杯アジア東地区予選で敗退(1985年10月)
・2時間13分後、ワールドカップ物語Ⅳ、1986年メキシコ大会、1990年イタリア大会
・2時間27分後、日本サッカーⅥ、プロ化への道、1986年木村和司、奥寺康彦2選手ライセンスプレーヤー(プロ契約)誕生、1991年Jリーグ設立発表
(川淵チェアマンゲスト出演)、カズ帰国、ジーコ鹿島入団、日本代表ダイナスティカップ優勝、1992年アジアカップ優勝、サッカー人気急上昇、1993年5月Jリーグスタート
・2時間40分後、日本サッカーⅦ、ドーハの試練
(井原正巳選手ゲスト出演)、1993年秋、1994年W杯アジア最終予選4戦目で韓国に勝利した日本が最終戦、イラクに勝利すれば、悲願のワールドカップ初出場が決まるという試合、2-1でリードして迎えた後半ロスタイム(アディショナルタイム)、17秒後に悲劇。
ゲスト出演の井原選手をはじめ日本イレブンに起きた誤算が生んだ同点弾、一つはこれまでロスタイムをとった試合がなかったのにロスタイムに入ってからも試合が続いたという誤算、もう一つは、イラクが得たコーナーキックで思いがけないショートコーナーからのクロスが入ったという誤算、日本の選手たちは、まさかロスタイムにショートコーナーを入れるなんて、という気持ちになったが、イラクの選手はロスタイムに入ったという認識がなかったためショートコーナーを選択して、それがかえって意表を突く形となった。

・2時間53分後、ワールドカップ物語Ⅴ、1994年アメリカ大会
(ナレーター・岡田真澄さん)、マラドーナ、ドービング違反で大会追放、大会後、コロンビア・エスコバル選手が敗退の責任者とみなされ射殺、イタリアの苦しい戦いを何度も救ったバッジョの活躍、そのバッジョも決勝戦のPK戦、最後のキッカーとして登場したが外してしまい優勝は逃した。ブラジルが4度目の優勝
・3時間00分後、日本サッカーⅧ、マイアミの熱い夏
1996年3月、アトランタ五輪アジア最終予選を勝ち抜き、28年ぶりの出場権を獲得、本大会初戦はフロリダ州マイアミでブラジルと対戦
(アトランタ五輪代表・西野監督がゲスト出演)、守備を固めワンチャンスを狙う戦術がはまり、見事に1-0で勝利「マイアミの奇跡」と報じられた。第3戦目もハンガリーに勝利、2勝をあげたものの、得失点差でグループリーグ突破を逃した。西野監督にはハンガリー戦をどう戦うか葛藤があったが、同時に、世界と互角に渡り合った経験が財産として残った。

・3時間21分後、日本サッカーⅨ、98年フランスW杯、苦闘の270分
1997年秋、フランスW杯アジア最終予選、第3戦ホームでの韓国戦に逆転負け、続くアウェーのカザフスタンと引き分けたことから、日本サッカー協会は急遽、加茂監督を更迭、岡田コーチを昇格させる背水の陣を敷いた。続く5戦目、6戦目とも勝てず引き分けたが、7戦目アウェーの韓国戦で勝利、他国が勝ち点を伸ばせなかったこともあり2位、プレーオフ出場権圏内に浮上した。そして最終戦ホームのカザフスタン戦に快勝した日本はマレーシア・ジョホールバルでの第三代表決定戦に臨み、延長Vゴール方式の綱渡りの試合を、延長後半13分、中田英寿が打ったシュートのこぼれ球に反応した岡野雅行がスライディングでゴールに流し込み、遂にワールドカップ初挑戦から43年目、10回目のチャレンジで悲願の切符を手にした。
そして本大会、アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカと対戦した日本は、わずか1得点3戦全敗で初挑戦を終えた。44年目にして立った初舞台は苦闘の270分間となったが、未来につながる初舞台として記憶される。

・3時間40分後、ワールドカップ物語Ⅵ、フランスはジダン、ブラジルはロナウドらの活躍で勝ち上がった。準々決勝アルゼンチンvsイングランド戦、準決勝ブラジルvsオランダ戦などの見ごたえある試合、新興国クロアチアの快進撃などの話題の中、フランスvsブラジルの決勝となり、ジダンの2ゴールなどでフランスが快勝、開催国としてワールドカップ初優勝を果たした。
・3時間55分後、エピローグ
世紀末の1999年、日本はワールドユース選手権で準優勝、シドニー五輪予選も圧倒的な力で突破、2000年シドニー五輪、2002年日韓W杯と続き、日本代表の活躍に大いなる期待をもって1900年代の幕を閉じることとなった。【完】

どうです。壮大なオデッセィですね。そして、それからさらに23年、日本サッカー協会は100周年を超え、天皇杯サッカーも103回まで数える年、日本サッカーは「ワールドカップ優勝をめざす」と夢物語ではなく語れるところまで来ました。

欧州ではクラブレベルでのチャンピオンズリーグ、国別レベルでのネーションズリーグが巨大ビジネス化して、ワールドカップ大会の意味合いも変容しつつあります。

この先の「サッカーの世界」がどのようなものになるか、ちょうどワールドカップ100年になる2030年あたりに、1999年から2030年までの日本サッカーの成長・進化・発展の歴史を追加してみたいものです。

それまで元気で頑張ります。
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ザッケローニがいた国立競技場、天皇杯決勝、3日前内部見学しましたので臨場感がありました。

2023年12月09日 18時30分30秒 | Jリーグ・三大タイトル
本日12月9日、第103回天皇杯サッカー決勝が6万人以上の観衆を集めて国立競技場で行われました。今日の書き込みは試合内容ではなく、3日前に国立競技場を内部見学した関係で、それにまつわるお話です。

やはり実際、競技場に行ったばかりでしたので、テレビ画像を見ていても臨場感を味わうことができて、これまでとは違うテレビ観戦になりました。

あのピッチというのは、外から国立競技場に入った時、エレベーターで地下2階に降りて、あのピッチになっていたのです。

つまり地下2階分、掘り下げてピッチを設けたことがわかりました。選手たちがピッチに出る前に最後のミーティングや気持ちを高める輪を作ったであろうロッカールームにも入りましたので、今日の選手たちの動きがイメージできました。

そして何より、選手たちがピッチに出る直前のスペースに、あのザッケローニ元監督が腕組みをして柱にもたれかかって選手たちを見送っただろうと思うと、貴重な内部見学でした。



ところで、なぜ、あの場所にザッケローニ元監督なのでしょうか? ここにザッケローニ元監督がいるとすれば、他の場所にはジーコ元監督やトルシエ元監督もいるのだろうか?

そう思いながら内部見学を終えましたが、他にいる形跡はありませんでした。どうやらザッケローニ元監督だけのようなのです。

となると、なぜザッケローニ元監督だけが・・・・。

当・夢追い人なりに調べてみましたら、どうやら、前の国立競技場で最後の国際試合となったのが2014年3月6日に行われた日本代表vsニュージーランド代表の試合のようで、ザッケローニ元監督が「もう、この国立競技場とはお別れなのであれば、最後の試合はぜひ日本代表の試合にしたい」と、たっての願いで実現したらしいのです。

日本代表の試合を旧・国立の最後の舞台にしてくれた、いわば旧・国立を愛してくれたザッケローニ元監督の思いを記憶に留めようと作られた像のようです。

今日の決勝を戦ったイレブンだけでなく、日本代表の試合をはじめ多くのサッカーの試合でピッチに向かう選手たちを、ザッケローニ元監督の像は慈愛の眼差しで送り出しているということを知りました。

さて、今日の天皇杯決勝、川崎Fvs柏戦、テレビ観戦していて柏の若さの勢いというのを感じて見ていました。

結果、PK戦にもつれ込んで二転三転、10人目のキッカーで決着しましたが、何が勝負を分けたのか分からないほど拮抗した試合でした。

優勝した川崎Fはこれで、Jリーグ三大タイトルを7年間で7個目、7年間で無冠だったのは2022年の一度だけという記録でした。

まだまだ鹿島の実績には遠く及ばないものの、2021年シーズンまでのメンバーが少なくなり、新しい戦力を底上げや、ケガ人の穴埋めなど、難しいやりくりの中で獲得したタイトルには価値があると思います。

そう言えば、今日の試合、途中投入した小林悠選手を延長後半に下げる采配をした鬼木監督。小林選手は相当悔しかったに違いありません。

普通であれば、家長選手を下げるのではと思いそうですが、例え運動量が落ちてもワンプレーで勝負を決めることができる家長選手は、鬼木監督にとっては外せない選手であり、あらゆる手を尽くして勝ち切るという信念の采配だったと思います。勝負は結果責任。負ければ不協和音の元になりかねない采配でしたが吉と出ました。

おそらく鬼木監督のことですから小林悠選手には、十分なケアを施すことでしょう。

一方の柏はFWの細谷真大選手のように、勢いのある選手が多く、今回タイトルには手が届かなかったものの、いずれタイトルを手にする日が近いように感じたのは、当・夢追い人だけでしょうか。






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JFA宮本新会長の時代と、J60クラブの時代

2023年12月07日 11時11分56秒 | FIFA、サッカー協会
このほどJFA・日本サッカー協会の新しい会長に宮本恒靖氏(46歳)が就任する見通しとなったことが報じられました。

日本サッカー協会会長といいますと、Jリーグスタート以降、1990年代前半から長沼健会長、岡野俊一郎会長、川淵三郎会長、犬飼基昭会長、小倉純二会長、大仁邦彌会長、田島幸三会長と受け継がれてきました。

この歴史をみますと、犬飼会長を除けば、いわば日本サッカー界における論功行賞的人選、あるいはスポーツ界特有の縦の人間関係で決まってきたと感じざるを得ません。

言い換えれば、その時代に日本サッカー協会のリーダーがどういう力量を備えていなければならないかとか、その時代の課題がどんなもので、リーダーがそれに対応できるのかどうか、といった視点を抜きに、次は誰にしようか、といった内輪の互選で決めていく時代ではなかったかと思っています。

その中で「犬飼会長を除けば」と申し上げましたのは、犬飼会長だけは外部から落下傘のように協会に招かれた方でした。もちろん、外部といっても、まったくの外部ではなく浦和レッズでのクラブ経営の手腕を買われ、Jリーグ専務理事を2年務めた後、会長に就任された方です。

この人選には、前任の川淵会長の「これだけ社会的影響力が大きくなったJFA組織は、経営者的感覚を備えた人でないと、率いていけない」という強い信念のもと、犬飼氏に白羽の矢を立てた大胆な決断が働いたものと解釈しています。

しかしながら、川淵会長が協会内に隠然たる影響力と人脈を築いている状況ならば、それを後ろ盾に犬飼会長も長期的視点で協会経営に当たれたと思いますが、いかんせん、犬飼新会長を支えるはずの幹部たちにしてみれば、あたかも霞が関中央官庁のトップ人事のように「次はあの人、そのあとはこの人と描いていたシナリオを崩された突発人事」のようだったのではないでしょうか。

犬飼会長の2年間は、周りが面従腹背、思うような協会経営ができなかったことでしょう。2年後の役員改選で、どのようなシナリオが描かれ犬飼会長が辞任することになったのか、当「サッカー文化フォーラム」は、いまからでも、詳らかにしなければならないテーマに据えています。会長交代に暗躍した人もいたに違いありませんので。

ある意味、犬飼会長が2年だけで辞任されたことで、会長人事は、元通りの「禅譲路線」に戻ったことが、そのあとの会長選びに現れていると思います。

それから10数年、このたび、田島会長は3期6年をもって勇退することを決意されました。現在66歳だそうです、当・夢追い人は、もう少し在任されるのではないかと思っていましたが、何が勇退を決意させる要因だったのか、ご本人の言葉を待ちたいと思います。

そして、後任に白羽の矢を立てたのが宮本恒靖氏というわけです。
もちろん、田島会長の独断で決められる時代ではありませんから周到に手続きを踏んで、また宮本氏にも助走期間にあたる日本サッカー協会の理事、専務理事の経験を踏んでもらってのことですが、犬飼会長就任時のインパクトをはるかに上回る人選だと思います。

今回の次期会長人選には、いくつかの特徴があると思います。
一つは、犬飼会長選出時と同様、協会内で昇進してこられた方ではなく、ある意味落下傘的な方であることです。
これが、犬飼会長が味わわれたご苦労と同じ状況を生まないのかどうか、少し見ていく必要があると思います。

次に、宮本氏には、協会内で長くテクノクラートとして経験を積んだわけでもなく、犬飼会長のように企業経営者として卓抜した手腕を認められての選任でもないという特徴があります。

特に今の協会というのは、例えば日本代表のマッチメイクや各種大会参加でも巨額の資金を必要とする、いわば「カネをどうやって捻出するか」といった経営手腕が非常に重要な任務になっていることを考えると、宮本新会長の手腕が心配になるというより、一般的に言われる経営経験とか、協会運営経験などまったく無用の、新しい取り組みで「稼げる協会」にしてくれるかも知れないと期待したくなります。

3つ目の特徴は、若く、高い識見を持ち、しかも国際人であるという宮本氏のキャリアです。
これからの時代、年齢は組織のリーダーには関係ないかもしれません。特に世界規模のスポーツであるサッカービジネスの世界ではなおさらです。国際サッカー連盟(FIFA)の現会長であるインファイティノ氏も宮本氏と同じ46歳で就任しています。

現会長の田島氏も、筑波大学大学院を修了され助教授も経験された見識を持っておられる方ですが、宮本氏もガンバ大阪選手の傍ら同志社大学を卒業され、選手として現役引退すると、今度はただの大学院ではなく、国際サッカー連盟(FIFA)がスイスで運営する「FIFAマスター」(「スポーツに関する組織論、歴史・哲学、法律についての国際修士」の大学院コース)に入り見識を高められています。

加えて英語力はビジネスレベルで、2004年のアジアカップ準々決勝のヨルダン戦のPK戦では、主審に「これはフェアじゃない。ピッチ状態がよいほうでやるべきだ」と通訳なしでPKの位置変更を申し入れ、前代未聞のPK戦途中でのサイド位置を実現させるという、日本サッカー史に残る離れ業をやってのけた実力の持ち主です。

何といっても「FIFAマスター」研修の1年半で築いた人脈は、これからの会長としての活動に大きな力になるであろう国際人であり、単に日本の会長にとどまらず、アジアそしてFIFAの舞台に飛躍できる期待を抱かせる方です。

4つ目の特徴は、JFA内部のテクノクラートから協会幹部を窺うほどの野心的な人材が少ないのではないかということです。今回、宮本氏とともに会長選に立候補の意思を示した方が、現在、 Jリーグチェアマン室特命担当オフィサーの鈴木徳昭氏という方だそうです。

鈴木徳昭氏といえば、ご存じの方はご存じかと思いますが、オフト監督当時、通訳として日本代表の活動に活躍された方です。
その後の、その語学力を買われFIFA派遣当時は、2002年日韓W杯招致活動に尽力され、AFC・アジアサッカー連盟にも派遣され、近年は2020東京五輪招致委員会の戦略広報部長として活躍されたそうです。

JFAのテクノクラートとしてはピカ一のキャリアと語学力、国際人脈を持った方ですから、その点では宮本氏と勝るとも劣らないキャリアと言えます。

したがって、会長選に立候補されるのも頷ける方です。最終的には立候補を断念されるそうですが、願わくば、この豊富なキャリア、人脈、語学力を生かして宮本会長と二人三脚で活躍していただきたいものです。

宮本新会長が、鈴木徳昭氏を副会長に起用するのでは、と考えるのは、当・夢追い人だけでしょうか?

さきほど「JFA内部のテクノクラートから協会幹部を窺うほどの野心的な人材が少ないのではないか」と申し上げたのは、以前のように協会内部の人材について話題になることが少なくなり情報として持ち合わせていないだけのことで、鈴木氏のような有能な人材が数多くいらっしゃるのかも知れません。

それにしても昨年2022年、Jリーグ村井チェアマンの後任として、コンサドーレ札幌社長の野村芳和氏が選任された時もインパクトがありましたが、今回もそれ以上のインパクトです。

つくづく思うのは、従来の序列型人事にとらわれず、誰に託すべきなのか、という組織が直面する「使命」や「課題」から逆算して相応しい人物を選ぼうとする考え方がサッカー界に定着しつつあるのではないかということです。

以前あったように、2年やそこらで、時計の針を元に戻すような力学が働くことがないことを願いつつ、新会長就任の暁には、心から拍手を送りたいと思います。

今回の書き込みに「JFA宮本新会長の時代と、J60クラブの時代」というタイトルを付けましたが「J60クラブの時代」のほうは、次の書き込みに譲りたいと思います。

お楽しみに。





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