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「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

釜本邦茂さんご逝去、ご冥福をお祈り申しあげます。

2025年08月13日 17時24分19秒 | サッカー日本代表
釜本邦茂さんがご逝去されたとの報に接しました。81歳とのこと、いまは「まだお若いのに」と言える時代です。
ネットでご病気のことを読みました。数年前に喉頭がんの治療を続けておられ、昨年、誤嚥性肺炎で入院されたことがあるとのこと、呼吸器をつけてのご療養中のところ、6月に再入院されておられたとのことです。ご冥福をお祈り申しあげます。

本日13日告別式だったそうです。それはもう盛大だったことでしょう。日本サッカー最高のストライカーでしたから。引退試合であのキング・ペレに担がれて場内を一周したなんて、考えられないですね。

釜本さんが引退されたのが1984年、それから41年、いまだに釜本邦茂選手に匹敵すると言われる選手は出ていません。いかに凄い選手かということです。この先も匹敵するのではと呼ばれる選手が出てくるのかどうか・・・。
もう一つは、釜本邦茂選手が全盛期が別の時代だったら、ということも思わずにはいられません。例えば2002年日韓大会の日本代表に釜本選手がFWとして加わっていたら・・・。
あるいは2024年カタールW杯の日本代表に釜本選手がFWとして加わっていたら・・・。
考えてみるだけでワクワクする「if(もしも)」です。

このあと何年か後に「とうとう現れたな、釜本邦茂選手に匹敵する、もしかしたら超えるかも知れない選手だ」と言える日が来るのを楽しみに待つしかないですね。

なにしろ、いま日本のスポーツ界は「大谷翔平選手」という、日本はもとよりメジャーリーグでもナンバーワンといっていい、スーパーの上に「超」がつくようなスターを擁して、現在進行形で、その活躍に酔いしれている時代です。
大谷翔平の次の時代で構いませんので、どうぞ、次は「釜本邦茂選手に匹敵する、もしかしたら超えるかも知れない選手だ」と言われる選手によって、日本がワールドカップの歴史を変えて欲しいものです。

釜本邦茂さんの偉大さを噛みしめつつ、次に期待しましょう。

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webサイト「サッカーの世界へようこそ」伝説の1998年仕上げに奮闘中です

2025年06月29日 18時41分20秒 | サッカー文化
当プログの愛読者の皆様は、webサイト「サッカーの世界へようこそ」(左サイドバー・ブックマークよりアクセス)のほうへお立ち寄りいただいたことがありましょうか?

お立ち寄りいただいたことがある方はお気づきと思いますが、「ようこそ サッカーの世界へ」は4つのパビリオンから成る、web上のテーマパークですが、その中の「ヒストリーパビリオン」の制作に全力を集中しているところです。

「ヒストリーパビリオン」は「伝説のあの年」シリーズや、「伝説のあの試合」シリーズなどで構成していきますが、そのうち「伝説のあの年」シリーズを制作中です。このシリーズは、1986年を起点の年にして書き進めていますが1997年までをアップして、現在1998年を制作中です。

ご存じのとおり1998年という年は、日本サッカーが初めてワールドカップという世界の舞台に立った年ということで、「伝説のあの年」シリーズの中でも、もっとも伝説的な年の一つです。
ですから、この年は書き残すべきことも膨大な量に上り、この年を書き始めてからすでに2ケ月半になりますが、まだまだ先が続く作業です。

ただ、やはりこの年は「伝説のあの年」にふさわしい「事実は小説より奇なり」を地で行くドラマチックな展開の連続の年です。
日本サッカーが初めて世界の舞台に出るということが、いかに並大抵のことではない出来事だったか、世界最高峰の舞台「ワールドカップ」が、いかに凄い舞台だったのかを、思い知らされた年だったのです。

その後、日本サッカーは「ワールドカップ」に出続けています。近年は、出ることは当たり前、決勝トーナメント進出すら当然視される時代ですが、それが1998年と2002年の2度のワールドカップ体験をくぐり抜けたからこそ積み上げられている歴史であることを、おそらく、この「伝説のあの年1998年」をお読みいただくと実感していただけると思います。

「そんな能書きを言っている暇があったら、さっさと仕上げろ!」というお叱りの声が聞こえてきそうですが、さきほども申し上げたように、あと数日で仕上げられるシロモノではありません。どうか、お待ちいただきますようお伝えするのも、今回の書き込みの目的です。
よろしくお願いいたします。

ちなみに「伝説のあの年」シリーズは、1986年から今書き上げようとしている1998年までを「前編」としてひとまとめにしようと考えています。
そして1999年から2002年までの4年間を「後編」としてまとめ、あわせて17年間で一区切りにしようと考えています。
その後の2003年以降については「ヒストリーパビリオン」の「伝説のあの試合」シリーズなど別のテーマの書き込みをある程度済ませてから再開したいと考えています。

1999年から2002年までの「後編」のほうは、一つの目標として、2026年北中米ワールドカップが開催されるまでには校了したいと考えていますが、あまり期限を区切って終わらせようとすると、内容がいろいろ抜けてしまった不十分なものになる危険性もあることから、こだわらないようにしますが、頑張りたいとは思います。

そのようなわけで現在「伝説の1998年」仕上げに奮闘中であることをご報告して、今回の書き込みを終わらせていただきます。

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サッカー日本代表ユニフォームの色の話

2025年06月21日 15時35分08秒 | サッカー日本代表
6月20日(金)夜にNHK総合「チコちゃんに叱られる」で「サッカー日本代表のユニフォームはなぜ青い」がテーマになりました。わかっていながら見逃し、21日(土)朝の再放送も見逃しましたが、NHK+で配信されましたので見ました。

その理由を説明する専門家として登場したのは後藤健生さんでした。
日本の代表チーム(この時はまだ選抜代表ではなく、国内予選の優勝チームだったため東京高等師範(現・筑波大))が初めて国際試合を行なった時はエビ茶のユニフォーム(東京高等師範のユニフォーム)だったそうです。
サッカー日本代表が初めて選抜形式をとった1930年、当時、国内最強チームと言われていた東京帝国大(現・東大)メンバーに何人か全国から追加する形の代表を結成、ユニフォームは東京帝国大の青いユニフォームを使用、胸に日の丸(当時は旭日旗タイプ)を付けて大会に臨んだところ、見事優勝、1936年には初めての五輪出場となったベルリン五輪に参加、強豪スウェーデンを破り初出場にしてベスト8進出を果たしました。

そのため青いユニフォームはゲンがいいということになり定着、白を基調とした時期もあったものの、襟や袖などを青色にして引き継がれました。
1988年に、突如、赤の日本代表ユニフォームが登場、しかしW杯アジア予選を一次予選で敗退するなど日本代表は低迷、ファンからも不評だったことから1992年オフトジャパン時に再び青に戻したところ、その年のアジアカップに初優勝するなどゲンのいい色ということで、その後は「サムライブルー」と呼ばれる青を基調としたユニフォームのモデルチェンジを繰り返し現在に至っています。

しかし後藤健生さんは、現在の色がネイビーブルー(濃紺)寄りに変化していることにちょっと不満があるとのことで、イタリアのアズーリ(青を意味するアズーロの複数形)、フランスのレ・ブルー(青の複数形)のような決まった青ではないことから、もっと明るいブルーを使って決まった色にして欲しいという希望をもっているようです。

確かに、模様の部分をモデルチェンジするのはいいとしても、色は固定、明るい空色系にするか濃い目の色にするかは協会の考え方でいいと思いますが、大事なのは、世界のどの国も使用していない色を決めて、それを「サムライブルー」と呼ぶ時期に来ていると思います。
これまでのユニフォームはスポーツメーカーの提案主導で作られてきたのでしょうけれど、モデルチェンジしていい部分をきちんと限定して、固定色が引き継がれるような強豪国らしいものにしていきたいと感じました。
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5月11日の鹿島vs川崎F戦をテレビで観ました。かつての鹿島vs磐田戦を観ているような錯覚にとらわれました。

2025年05月12日 11時52分31秒 | Jリーグ・三大タイトル
昨日5月11日の鹿島vs川崎F戦をテレビで観ました。NHKが総合テレビでやってくれたのですが、そのためかキックオフが午後1時だったのが少し残念でした。やはりもう少し遅い時間にさせて欲しかったです。

ただ試合は、激しいチェックと、それをかいくぐる技術の応酬で、見ごたえのある内容でした。鹿島の6連勝は、往年の鹿島の強さを取り戻したかのような「終わってみれば鹿島が勝っている」といった具合で、また鹿島の時代が戻ってきたことを感じさせます。

それにしても鬼木監督は素晴らしい監督だと思います。いい素材さえ集まれば、それを適材適所、試合中の交代も含めて、最適解で試合ができる、まさに勝負師としての優れた適性を感じました。

それは川崎Fの長谷部茂利監督にも言えることです。惜しくも準優勝に終わったとはいえACLEで強豪をなぎ倒した試合ぶりは、長谷部監督の采配を抜きにしてできなかったことでしょう。福岡でクラブ初タイトルを獲得した力量は十分評価されていましたから、川崎Fに招かれたのも自然のなりゆきだと感じました。

川崎はまだ下位に沈んでいますが、ACLEも終わり選手のコンディションが戻れば試合数も平均消化チームより3試合少ないですから十分上位に浮上できそうです。ただ選手層が鹿島と比べて少し劣るように感じますので、そこを、今回ACLEで得た賞金で補強できれば、2023年で途絶えたタイトルを再び積み上げられそうです。

そう考えながら試合を見ていて、もはや30年近く前、1997年から2002年まで6年にわたりに両雄として覇を競い合った鹿島・磐田2強時代を思い浮かべました。川崎Fのチームカラーも当時の磐田のようで思わず錯覚というかデジャブ(既視感)を覚えました。

それは新たな期待につながるデジャブ(既視感)です。2021年頃の川崎Fの圧倒的強さが影をひそめたあと、横浜Mが来るのか神戸が来るのかいった時期でしたが、なんと横浜M が最下位に沈み神戸もいま一つ。そんな中での鹿島vs川崎F戦は、日本中のサッカーファンの期待を物語る試合になりました。
何でも国立競技場での歴代入場者数で、あの1993年の歴史的開幕試合、ヴ川崎vs横浜M戦に次ぐ第2位の記録を出したことが、それを証明しています。

季節はまさに1993年5月15日のJリーグ開幕日近く。毎年、この季節はJリーグの季節ということで数日前にもNHKの朝の番組で「私とJリーグ」という視聴者の思い出を紹介するコーナーが、おそらく月から木ぐらいまでだったと思いますが、やっていました。たまたま見た日は、ジェフ千葉のスタジアムDJの方の思い出を紹介する日で、2008年Jリーグ最終節だったと思いますが、千葉がJ2降格絶対絶命の危機を迎えた試合のことを振り返っていました。

この試合はF東京を相手にホームスタジアム・フクダ電子アリーナ(サッカーファンなら「フクアリ」と言えば済む場所)で行われた試合です。
この最終節、千葉が勝つことは当然の条件で、その上、降格争いにある他の2チームが負けないと、千葉の降格が決まってしまうという状況でした。
試合は、千葉が2点をリードされて迎えた後半、4点をあげる大逆転で勝利した上、他会場の2チームも負けたという情報がスタジアムに伝わり、スタジアムはもはや狂喜乱舞の世界、ドラマは何年経っても色褪せないものだなぁと思いながら目頭が熱くなりました。

話を元に戻しますが、鬼木監督率いる鹿島、長谷部監督率いる川崎F、ぜひ、かつての鹿島・磐田両雄時代のように、数年にわたり激闘を繰り返す好敵手になって欲しいと願うのは私だけでしょうか。
そう感じた昨日の試合でした。

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JFA(日本サッカー協会)は、Jリーグと合体もしくは共催の「アウォード」をスタートさせてください。

2025年04月20日 16時21分58秒 | FIFA、サッカー協会
日本サッカー界の七不思議と言ってもいいかも知れません。世界レベル(FIFA)でもアジアレベル(AFC)でもアワード(表彰セレモニー)があるのに、日本(JFA)にはありません。日本にあるのは「日本プロサッカー選手会アワード」 と「Jリーグアウォーズ」です。

「Jリーグアウォーズ」だけでは海外で活躍する選手たちの顕彰の場がなくなったので「日本プロサッカー選手会」が自発的にカバーし始めたことはご存じのとおりです。

「Jリーグアウォーズ」が歴史もイベントとしてのインパクトも大きいものがありますから、それと別建てで「JFAアワード」を始めるのではなく、合体もしくは共同開催のような形でスタートさせればいいと思います。もちろん「日本プロサッカー選手会」のアワードにオフィシャルの権威をつけてあげるためにも継承する意味合いにしていただければと思います。

JFAの組織には「殿堂・表彰委員会」という委員会組織があります。しかし「アワード」のようなイベントを準備するには事務方での業務が不可欠です。
まぁ内部的なことを外の者が言っても仕方ありませんが、口ばしを挟んでみると、おそらく「コミュニケーション部」の担当だと思いますが、一般の組織ですとセレモニー的なことは「総務部」が担当するのが普通です。

JFAには「コーポレートサポート部」があり総務的なことは、この部が担当しているようですが、まずJFA内部で「アワード」を創設するかどうかという起案が、どこかの部門が受け皿となってなされて欲しいものです。
そもそも「アワード」の創設に関してJFAがどういう見解を持っているのか、情報に接したことがないので、そこから発信してもらえるとありがたいです。
JFAさん(のどなたに向かって言っていいのかわかりませんが)、よろしくお願いいたします。

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南葛FC、オーナー、GM、プロモ部長、風間監督、きれいなタテの絆を感じるクラブ

2025年03月19日 17時27分23秒 | Jリーグ・三大タイトル
サッカーダイジェストwebが、南葛FCの取り組みを定点観測的にフォローしていて、web記事を何本か読みました。
「キャプテン翼」の原作者である高橋オーナー、クラブ経営を担う岩本GM、クラブの中間管理職といえる天野プロモ部長、そして現場を指揮する風間八宏監督、このきれいなタテの絆は相当のインパクトがあります。

「ボールはともだち」を基本コンセプトとするクラブ作りは、まさに風間八宏監督が川崎Fで撒いた種を、南葛FCでも撒き、岩本GM、天野プロモ部長がクラブ基盤を揺るぎないものに仕上げるという取り組みは、日本はもとより世界を見渡しても、なかなか見当たらないクラブができそうで「果たしてどんなクラブになるのだろう」というワクワク感に満ちています。

ここ最近、V・ファーレン長崎のホームスタジアム「長崎スタジアムシティ」が、まさに「サッカースタジアム」と「一つのまち」がセットになった形でオープンしたニュースを目にして、日本にも、とうとう夢空間スタジアムの時代がきたと感じましたが、南葛FCのホームスタジアムは、さらにその上をいくのではないかという期待が湧きます。

南葛FCは、まだJ5相当のカテゴリーだそうですから、J2ぐらいまで強化していくのは並大抵のことではありませんが、FC今治も四国リーグからスタートしてJ2まで昇ってきました。10年スパンで考えれば十分可能な期間だと思います。

長崎、今治、南葛、個性あふれるクラブ、スタジアムが増えていく楽しみは、Jリーグが新しい時代に入ってきたことを感じさせます。
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大谷翔平選手一人で野球人気を牽引、しばらくサッカーはかなわない時期が続くと思います。

2025年03月19日 17時00分14秒 | サッカー選手応援
昨年も大谷翔平選手、ドジャース、メジャーリーグの人気は凄まじかったですが、今年に入っても勢いはとどまるところを知らない人気です。

メジャーリーグの開幕戦を東京ドームで行なうということでチケット入手に何十万人が応募するというのですから脱帽です。

もちろん山本投手などの同僚や対戦相手の日本人選手など、大谷翔平選手一人ではなく相乗人気もありますが、大谷翔平選手のスーパー性は比類ないレベルですから、大谷翔平選手が一人で野球人気を牽引しているといっていいでしょう。

案の定、最近発表された「なりたい大人」のランキングで「野球選手」が久しぶりに「サッカー選手」を上回ったというニュースがありました。

となると、ここしばらくは「野球の時代」ということになり「サッカーに対する関心の後退」は避けられません。そして、その次に来るのが「サッカー少年の減少」ということになり、それが何年か後に「日本代表のレベル低下」につながることは間違いありません。

6歳ぐらいの少年から12歳ぐらいまでの層のサッカー離れが何年続くでしょう。仮に5年ぐらいは続くとみた場合、あと15年後ぐらいから10年間、ですから2040年頃から2050年頃までは日本代表のレベル低下が現実になると思われます。

この頃というのは、日本がW杯で優勝を達成しようと目標にしている時期と重なります。ですから、なるべくサッカーをして欲しい身体能力の高い少年、センスに溢れている少年を囲い込む努力をしないとダメになることを意味しています。

多くの少年が野球に流れるのはやむを得ないことです。それだけ大谷翔平選手が偉大だからです。けれども、その中にあってもサッカーに取り組んでくれる少年を確保する努力を惜しまないようにしたいものです。

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「夕刊フジ」休刊特別インタビューに森保監督、ドーハの悲劇の頃を語る

2025年02月13日 15時13分20秒 | サッカー日本代表
一昨日、2月11日の産経新聞「スポーツ交差点・森保監督の『同心円増』(執筆・別府育郎氏)」という記事を読みました。

タブロイド版の夕刊紙として長らくビジネスマンの電車の友だった「夕刊フジ」が1月末をもって休刊になったそうで、その特別号インタビューに日本代表・森保監督をお願いして、執筆の方も同席した時の、いわば傍聴記のような内容でした。

記事のタイトルになっている「同心円増」という言葉は森保監督の造語だそうで「同心円を増やし、大きく広げていく様をイメージ」したそうです。そして「W杯で優勝したいと本気で思っています。日本のために勝ちたい。世界一になることで日本人が日本を誇りに思える。それをサッカーでやっていきたいという思いです。」と付け加えたそうです。

もう一度書きますが「世界一になることで日本人が日本を誇りに思える。それをサッカーでやっていきたい。」
この気持ちというのは、単なる夢でないことはもちろん、目標ですらもないと感じました。これは「決意」あるいは「強い意思」といったほうがいい思いだと感じました。

日本代表チームが次のW杯に出場する頃には、優勝を狙える戦力が整い、ベストコンディションを整え、戦術的な勝利の方程式も仕上がり優勝できるし、優勝するのだ、という強い意思を感じます。

4年に一度のW杯に、上記の3条件(戦力、コンディション、方程式)がピークに来て、しかも「運」という4つ目の要素が加わらなければ優勝できない、W杯がそういう大会であることは、サッカーを愛する人であればよく知っていることし、誰よりも一番よく知っているのは森保監督自身ではないかと思います。

それでもなお「W杯で優勝したいと本気で思っています」と言い切るのは、サッカー日本代表監督という立場が、単なる1スポーツの監督とはわけが違っていて、とてつもない重大な立場であり、もはやベスト8を突破すれば成功などという、エクスキューズするような気持ち引き受けるのは許されないと覚悟しているからだと感じました。

東京五輪2020ではベスト4に終わり、カタールW杯ではドイツ、スペインを撃破して決勝トーナメントに進んだとはいえ、その先に進めなかった、それでも監督続投を許されている自分に対して強い縛りをかけているのだと感じました。

日本のサッカーファンは、その自分を厳しく律している姿を是として監督をお願いしているとも言えます。

森保監督のことで話が長くなりましたが、今日の書き込みの本題は、この「スポーツ交差点」の記事に2つの発見があったことをお知らせすることです。

それは、いまサッカー文化フォーラムのwebサイト「ようこそ サッカーの世界へ」の中で「ヒストリーパビリオン」のパートの「伝説の年○○年」シリーズを書き続けている内容に関しての発見でした。

一つは「夕刊フジ」紙が1993年10月30日付(実際の販売日は10月29日夕刊)で、W杯アジア最終予選、日本vsイラク戦の結末を「ドーハの悲劇」という大見出しを打って報じた記事のことです。
これが当時の紙面ですので付けておきます。


この見出しが、おそらく、その後もこの試合を「ドーハの悲劇」という代名詞で呼ぶことになった記事だろうと、思ってはいたものの、それを確かめられず「おそらく」と但し書きを付けざるを得なかったのですが、今回、「スポーツ交差点」で「これ(ドーハの悲劇の見出し)が、あの試合の代名詞となり」と書いてありました。
これで、「おそらく」の但し書きをつけなくてもいいことになったのです。

もう一つは、1992年のところで「アジアカップ初制覇」のことを書いていますが、その中で「5月代表初招集の森保一選手、わずか半年で不動のメンバーに」というタイトルをつけて、森保一選手のことを紹介しました。

森保選手が当時のオフト監督に、まだ森保選手が高校を出たばかりの無名の選手だった頃に見出され、その当時の所属チーム・マツダのレギュラーに抜擢、その後、サンフレッチェ広島のプロ選手になる道を拓いてくれた恩師であり、さらに日本代表にも召集してくれた経緯があるわけですが、オフト監督が森保選手のどんなところを評価して抜擢したのか、具体的なことまではわからないでいました。

それが「スポーツ交差点」に、オフト監督が「お前は足は遅いが、考えるスピードは速い」と評価したと書いてあったのです。サッカー選手にとって「判断の速さ」があるというのは何ものにも増してアドバンテージです。その部分を読んで、これも謎が解けた感じがしました。

この話は、1992年のことですから、もはや33年前のことですが、何年たっても埋められないピースはあるもので、こうして少しでもピースが埋まっていくのは「サッカー文化フォーラム夢追い人」冥利に尽きるというものです。






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「日本サッカーのいま」に対する感度が徐々に低くなっている自分がいます。

2025年01月16日 12時56分10秒 | サッカー選手応援
お正月恒例の男女高校サッカーも終わり、地上波テレビでのサッカー試合がほとんどない時期に来ています。長年サッカーを愛し続けている身にとっては、毎年この時期(1月中旬から2月中旬ぐらいまで)というのは、なんとなく空白を感じる時期で、ちょうど1年で一番寒い時期と重なっていることから、心にもすきま風が吹いているような気持ちになります。

けれども、今年は少し気分が違っています。あれ、なぜだろうと考えてしまいました。どうやら自分は「日本サッカーのいま」に対する感度が徐々に低くなってきていることに気づきました。
そういえば毎年お正月3ケ日のいずれかに放送されるNHK-BSの日本代表監督へのインタビュー放送も、今年は番組表では確認していましたが、放送は見ないでしまいました。

なんとしても見ておかなくちゃ、という気持ちが薄れている証拠です。
何年か前までは、あれほど「日本サッカーのいま」を可能な限り掴んでおき、いろいろな作業の糧にするという気持ちでいた自分が、いまはもういなくなっています。

「日本サッカー」に対する愛情も熱意も冷めたとは全く思っていないのですが、それを裏付ける吸収作業が追い付かなければ、何を言っても言い訳になってしまいます。
これが「老化」というものなのでしょう。

そもそも夜10時以降の放送は見れなくなった生活をしていますから、ほとんどのサッカー情報がその時間以降に流れていることを考えれば、何も吸収していないと同じです。
わずかにNHKがネット配信で再放送をしてくれるのを日中見るのと、ネット配信のニュース等を読む程度です。

ですから、いまのJリーグの各チームの主力選手がどういう選手でとか、海外サッカーの強豪チームではどういう選手が活躍しているのか、といった、以前なら頭に浮かぶ情報が何もなくなりました。致し方ないことで「日本サッカーのいま」とか「世界のサッカーのいま」について語ることはできません。

さりとて、この書き込みで「昔話」をしようとも考えていませんから、ここへの書き込みがおのずと減っているという次第です。

以前にもお伝えしましたが、いまは当「サッカー文化フォーラム」のwebサイトである「ようこそ サッカーの世界へ」にコンテンツを書き込む作業だけに集中しています。作業はほぼ毎日のようにやっていますが、かといって、そう簡単には目に見えるほど変化はありません。

いま書き込んでいるのは「ヒストリーパビリオン」の「伝説のあの年」の部分です。いま「伝説のあの年 1996年」のページを作っています。1996年1年分の出来事を克明に記録するという作業ですので、まず記録としての正確さを期する確認作業が大変です。それからその出来事の背景や影響などを考察する作業も大変です。また1996年の作業をやっているうち、前の年やその前の年の内容を補足したり、つまり2~3年づつ行ったり来たりしながら作業していますので、これも結構手戻り的です。

そういう風にしながら少しづつ進んでいます。昨年の8月からずっと続けていますので、半年になります。いまのところ「伝説のあの年」は2002年までを予定していますので、さらにあと半年はかかると思います。それでも、ほぼ毎日作業を続けられそうなモチベーションなので、あまり苦には感じません。
もし2002年まで終えたら書籍化を目指そうと思っています。

どこかの編集者の方から連絡がこないかなと夢を見ながら続ける作業もいいものです。
「日本サッカーのいま」に対する感度こそ低下していますが日本サッカーに対する愛は、いささかも低下していないと自分で口を尖らせているといった近況です。

今年になって初めての書き込みでした。次の書き込みがいつになるかお約束できないのですが、もし、気づいてくださいましたら、ぜひお読みいただければと思います。
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日本サッカー協会75年史と百年史を読み比べてみました。

2024年12月26日 13時16分17秒 | FIFA、サッカー協会
現在進めている、当「サッカー文化フォーラム」のサイト「ようこそ サッカーの世界へ」⇒「ヒストリーパビリオン」⇒「伝説のあの年」シリーズは、「伝説のあの年1986年」から始まり「次の伝説までのあいだに何が1987~1991年」そして「伝説のあの年1992年」「伝説のあの年1993年」「伝説のあの年1994年」「次の伝説までのあいだに何が1995年」と書き進めてきました。

ちょうど10年分を書き込んだことになりますので、そこそこの分量になります。ぜひ、通してお読みいただければと思います。
このあと、少なくとも2002年までは書き進めるつもりです。ただ、ここから先、1996年から先は1年分だけでも1993年の時と同じぐらいの分量になるはずですし、それを、あと7年分書き進めなければならず、そう簡単なことではありません。

ここまでの作業で一つ新しいことを加えたくなりました。それは、どうしても簡単な動画でお伝えしたいということです。
一例をあげると、こういう記述部分がありました。1994年の中で「ストイコビッチ選手、雨中の試合でエンターティナーとスーパープレーを同時に披露」という小見出しをつけたところです。これは、ストイコビッチ選手が水たまりで水泳ぎのようなポーズをしたプレーと、リフティングしながら30mぐらいを全力疾走したプレーが同じ試合であったという記録です。

それを、文字でいろいろと表現していますが、こんなものは動画を見てもらえば一目瞭然です。動画にすると水泳ぎの部分は5秒ぐらい、リフティングの部分もせいぜい10秒ぐらいです。それぐらいの動画ですと、あまり重くなりませんので、動画をつけることにしました。

動画を作成するのも手間がかかりますので、ある程度まとまった作業が必要になりますが、これが出来れば格段に楽しい「ヒストリーパビリオン」になると、いまからワクワクしています。

話が脇道にそれましたが、いろいろな事柄の書き込み作業の中で、「ところで、この部分は「日本サッカー協会百年史」ではどう記録されているのか」と確認したくなりました。
「日本サッカー協会百年史」は25000円もする高価な書物ですから、当「サッカー文化フォーラム」のような、収益基盤のないところでは備え付けられません。

日本サッカー協会には閲覧可能な資料室のようなところがなさそうですので(もし閲覧可能な仕組みになっているようでしたら、どなたか、ぜひお知らせいただければと思います)、国立国会図書館に出向いて閲覧しました。

日本サッカー協会のホームページによると752ページにもなる大著ですので、読み応えがあります。今回の閲覧では、とりあえず1986年前後から1995年前後まで約10年分を読んでみましたら、それなりに新しいことがわかり、やはり読んでみないとわからないものだと、つくづく感じました。

その「百年史」には、1996年がちょうど創立75周年で盛大に記念式典も行ない「75年史」も刊行したとありましたので、今度は75年史も読みたくなりました。国立国会図書館では見当たりませんでしたので、帰宅してからネットで調べましたら中古品が販売に出ていましたので、購入しました。

こちらも430ページの大著です。読み比べてみてわかったのは、内容構成が微妙に違う点でした。どうしてだろうと考えてみたら、編集メンバー、販売元とも違っていて、おそらく、それが影響しているためだと感じました。

「75年史」は販売元がベースボール・マガジン社、執筆メンバーにはサッカーマガジン、サッカーダイジェストの編集メンバー、あるいは新聞記者さんが多く名を連ねています。
一方「百年史」のほうは、販売元が出版文化社という会社で、執筆陣も多様な方々で構成されています。やはり「Jリーグ」スタートによって、日本サッカー協会が関わるべき内容が飛躍的に広がったことがよくわかります。

「75年史」の刊行直前には、2002年W杯の日韓共催が決まったばかりですので、まずそのテーマから入っています。内容構成の違う点をここでは細かくご紹介しませんが、一つ感じたのは、やはり日本サッカー協会の公式記録ですから、なかなかネガディブなこと、例えば当サイトの「伝説のあの年」でたびたび指摘している「あの時の協会の判断はそれでよかったのか」といったスタンスの記述がまったくといっていいほどありません。

そういう意味では「75年史」「百年史」は、あくまで歴史の表側だけを見る書物で、歴史の裏側までは見えません。「サッカー文化フォーラム」が目指しているのは、歴史の表も裏も全部見せます、ということです。そうでなければ意味がありません。

ただ、その期間を1986年から2002年程度までに限定せざるを得ません。1986年より以前は「75年史」「百年史」の内容で十分であり、2003年以降はネット等の普及で、当方にしかない資料・記録という希少性がなくなっているためです。

引き続き1996年から先の書き込みを進め、合間合間にショート動画を差し込んでいきますので、ぜひ楽しみにしていただければと思います。
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