「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

カズ選手が認めた天才・望月重良選手が健在だったなら。(その2)

2019年03月07日 19時53分46秒 | サッカー選手応援
TBS番組「消えた天才・サッカー選手編」の4人目から書き進めます。
④4回目にサッカー選手が取り上げられたのは、2018年11月14日放送でした。この時はロシアW杯戦士2人が「消えた天才」を紹介しています。

まず宇佐美貴史選手。彼自身が「ガンバ大阪が生んだ最高傑作」と称されたほどの天才でしたが、その彼をして「勝てなかった」と言わしめた選手は、ガンバジュニアユース当時の1年先輩、河本光喜善さんとのこと。中学2年でガンバジュニアユースの10番を背負いU-15日本代表では埼玉の天才・原口元気選手を控えに回していたほどの実力の持ち主だったようです。

その彼がユース年代に突然表舞台から姿を消したのです。その訳はユース年代になっても、ついつい自分だけでボールを持ちたがるクセが抜けず、球離れが悪く、たびたび監督やチームメートから指摘を受けているうちにサッカーが面白くなくなり、とうとう辞めてしまったからだそうです。

確かにユース年代ともなれば、独りよがりのプレーから脱却しチーム戦術を身につける時期ですが、彼の長所を活かしつつ育てる方法はなかっただろうかという気がしないでもありません。それこそ「たられば」論かもしれませんが・・・。

次に登場したW杯戦士は吉田麻也選手。早くから将来を嘱望されていたディフェンダーの彼でも「止められなかった」と言わしめるほどの天才選手とは、グランパスユース時代のチームメートで、一緒にトップチーム昇格を果たした新川織部選手とのこと。

グランパスユースの2年生ですでに10番を背負っていた新川選手か、なぜトップチーム昇格からまもなく消えてしまったのか。

トップチームの選手として3シーズン、出場試合はリーグ戦、カップ戦合わせてわずか4試合、戦力外通告を受けて引退した新川選手。未練の残るサッカー人生を吹っ切らせてくれた光景を、引退した2009年に見ることになったのです。

それは日本代表に選ばれた、かつてのチームメート本田圭佑選手の行動でした。平山相太選手のところでも本田圭佑選手でしたが、ここでもまた本田圭佑選手です。

その光景とは、今もよくテレビで流れる場面です。日本代表の国際親善試合での出来事、当時の絶対的10番、中村俊輔選手が蹴って当然のフリーキックの場面、代表に入りたての本田圭佑選手が「オレ蹴っていいっすか、オレ蹴りたいっす」と名乗りをあげたのです。

これをテレビで見ていた新川選手、「オレはこういう自己主張をしたことがない、この差がプロでやっていけるか、いけないかの差だ」と痛感したと言います。

宇佐美貴史選手が紹介した河本光善さんは、自己主張が過ぎて「独り善がり」になりプロになれなかった「天才」で、吉田麻也選手が紹介した新川織部さんは、自己主張が足りずにプロを去った「天才」というわけです。

⑤次の「消えた天才」は、スポーツ名門校特集ということで、2018年11月18日放送。サッカーの名門校・市立船橋の長い歴史のなかで歴代No.1ストライカーと認められながら、消えていった天才を紹介しています。

その選手とは、第73回全国高校サッカー選手権で得点王に輝き、決勝ではハットトリックを達成して市立船橋を優勝に導いた森崎嘉之選手です。前年度の72回大会で優勝した清水商の川口能活選手、準決勝で清水商に破れた鹿児島実の城彰二選手がJリーグ入りして人気を集めた次の選手権でした。

その彼も大きな注目を浴びてジェフ市原に入団します。1年先に入団していた城彰二選手が、森崎嘉之選手を見て「ずば抜けた天才、日本の宝だった」と番組のインタビューに答えていましたが、これは思い切り優等生的コメントで、かえって変な感じでしたね。
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カズ選手が認めた天才、望月重良選手が健在だったなら。(その1)

2019年03月01日 20時04分07秒 | サッカー選手応援
2月24日放送のTBS番組「消えた天才」では、カズ選手が紹介する形で、望月重良選手のことが取り上げられました。

さっそくネット版スポーツ誌「スポニチアネックス」が翌日、その内容を紹介してくれました。ありがたいことです。録画していたのですが、いつになったら見れるかわからない状態でしたから・・・。

この「消えた天才」という番組、これまでも多数のサッカー選手を取り上げてくれています。そのうちキチンと整理しておきたいと思っていましたので、いい機会ですから、拾い出しておきます。

①番組ホームページに記録されている「過去の放送内容」によりますと、最初の回が2017年8月27日放送で、この時はサッカー関係では前園真聖さん、現在サッカーコメンテーターとして一番人気の方と言えるでしょう。「その彼が出会った天才」いうことで、小学校から高校まで同じチームでプレーした天才を紹介しています。

その人は知る人ぞ知る遠藤保仁選手、遠藤彰弘選手両兄弟のお兄さんで、地元では遠藤三兄弟として知られていた長男の「遠藤拓哉さん」。弟の保仁選手も彰弘選手も「兄弟の中で一番うまい」と証言した拓哉さんはなぜJリーグを目指さなかったのかを本人に聞いています。

前園真聖選手や遠藤拓哉選手が高校を卒業した年は1992年3月、Jリーグ開幕を翌年に控えて、最初のタイトル戦となるナビスコカップが始まった年です。まだ何の結果も出ていないJリーグに身を投じるのは長男の自分の選ぶ道だろうかという迷いがまさって、結局、大学進学を選択、サッカーは趣味程度のものになったのだそうです。

弟たちは口を揃えて「プロを選択していれば上にいってた」と語る「消えた天才」の、これが①です。

②2018年7月8日放送「大迫や本田圭佑より半端ない歴代最高の天才」という触れ込みです。折しもロシアW杯での大迫勇也選手の活躍で、やたら「半端ない」というフレーズが使われた時の放送です。これはサッカーファンはよく知っている平山相太選手を紹介していました。

もともと福岡県出身の平山選手でしたが、中学時代に、高校サッカーの名門、長崎県立国見高校の小嶺忠敏監督の指導を受けたことから2001年に入学。小嶺監督から、同じ長身F Wとして活躍した同校の先輩・船越優蔵選手より上と評価され、高校2年、3年の高校選手権で連続得点王に輝き、選手権通算17ゴールという歴代1位の記録も達成した、まさに「怪物」だった選手です。

この平山選手を紹介したのは、高校の先輩でありJリーグ歴代最多ゴール記録を、今なお更新し続けている大久保嘉人選手なのですから、国見高校という学校は、まさに「怪物F W」が育つところといえます。

その平山相太選手、ユース世代の日本代表歴は当然、華々しいのですが、フル代表歴となると国際Aマッチ出場4試合という淋しさです。彼の同世代は、南アフリカ W杯、ロシアW杯と2度にわたって決勝トーナメント進出を果たした本田圭佑選手、岡崎慎司選手、長友佑都選手たちということですから、怪物・平山相太選手が順調に伸びていれば、という「たられば」の対象になる選手であることは間違いありません。
2018年7月という時期の放送で取り上げられたのも、そうした意味があってのことだと思います。

平山選手は2018年1月にベガルタ仙台で現役を引退したあと、指導者を目指して仙台大学に入学したそうです。国見高校を卒業したあとも多くのJクラブからの誘いを断り筑波大学に進学しています。筑波大学のほうはオランダリーグ挑戦のため休学、結局中退していますので、果たせなかった勉学の志に再挑戦というところでしょうか。

190cmの身長に足元の確かなテクニックを備えた将来性抜群の選手も結局のところ、プロ向きの性格ではなかったようです。それを象徴するようなエピソードが番組で紹介されました。

それは平山選手がオランダのクラブ「ヘラクレス」を2006年、唐突ともいえる形で解雇された2年後、今度は本田圭佑選手がオラン「V V Vフェンロ」に移籍します。その時の入団会見を見た平山選手は自分との違いをまざまざと感じたそうです。本田選手はいきなりオランダ語で「車のHONDAとは違うホンダです」とジョークを交えて挨拶したからです。

平山選手は言いました。「自分はオランダに行くことだけしか考えておらず、何の準備も心構えもなかった。彼は3歩先まで考えていたんですね」

平山選手とて聡明な人ですから「プロとして絶対成功するんだ」という気持ちがあれば何が何でも準備したことでしょう・・・。

③2018年10月21日放送「サッカーなでしこジャパン元代表・丸山桂里奈が衝撃を受けた天才ドリブラー」というタイトルで紹介されたのは、井坂美都さんという、なでしこジャパンで丸山桂里奈選手にスタメンを奪われた立場の選手でした。

埼玉県出身の彼女は、1994年浦和レッズレディースに入団、その年の日本女子サッカーリーグで新人賞を獲得、翌年には当時最強チームと謳われたプリマハムFCくの一に移籍、1997年には日本代表に初選出、1999年には日本女子サッカーリーグ最優秀選手賞と得点王のダブル受賞を果たし、澤穂希選手も一目置く日本のエース格に成長した選手です。

丸山桂里奈選手と日本代表を共にしたのが2002年10月のアジア大会、当時、日体大2年で代表初選出された丸山選手は、初戦、スタメンを外れた井坂選手を尻目に途中出場で代表デビューを果たします。二人の軌跡がここで交差したようです。

井坂選手は、第3戦からはスタメンに復帰したものの、最終第5戦、相手選手のチャージを受けて右膝靱帯断裂のいう大ケガを負ってしまい、丸山桂里奈選手に後を託してピッチを後にしたのです。

井坂選手は、ちょうど丸山桂里奈選手にポジションを明け渡す形で代表から消えたことから、しばらく屈折した気持ちで過ごしていたそうですが、2011年の女子W杯で、準々決勝ドイツ戦、延長後半に丸山桂里奈選手が決勝ゴールを叩き込み、優勝に大きく貢献した活躍を見て、ようやく気持ちが吹っ切れたそうです。

因縁に縁取られていたのですね。井坂選手は再度サッカーへの情熱を取り戻し、現在はクーパーコーチングスクールで子どもたちの指導にあたっているそうで、丸山桂里奈選手との16年ぶりの再会もとてもポジティブな再会だったようです。

そもそも「カズ選手が語る『消えた天才・望月重良選手』」の本題になかなか入らず、それまでに放送された「消えた天才・サッカー選手編」をひもといているうち、ずいぶん長くなりました。

ここらで一旦区切りにして、ここまでを(その1)とします。
ではまた、次回。






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