「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

2024年は、次のW杯への道筋が決まる年、応援しましょう。

2023年12月31日 22時21分33秒 | サッカー日本代表
2023年もあと1時間半を残すところです。今年も1年間、ご愛読いただき、ありがとうございました。
来たる2024年は、まずアジアカップがありますが、そのあとは2026年W杯に向けたアジア予選が最後まで続き、本大会に向けた道筋が決まる年です。

応援しましょう。そして大いに語り合いましょう。
それでは、来年もよろしくお願いいたします。
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海外組の代表ゲーム参加の過密スケジュールを問題視しないメディアを杉山茂樹氏が一喝。

2023年10月17日 19時21分40秒 | サッカー日本代表
今朝のYahooニュースに「強行軍を見て見ぬ振り。久保建英に「キツい」と言わせ、驚くように報じてみせたメディアの罪」と題する杉山茂樹氏の論考が掲載されました。
今回の10月シリーズ2試合に招集された久保建英選手の直前の欧州でのスケジュールを紹介して「キツいに決まっている」とした上で、そうした海外組の苦境についての森保監督の問題意識の低さを「筆者はやるせなさというか、情けなさを覚えずにはいられない。」と嘆いていました。

そして返す刀で「なにより選手に言わせるなと言いたい。」「メディアは自らそこに踏み込まず、なんというか見て見ぬ振りをしてきた。日本代表のホーム戦に出場する大変さ、キツさについて選手に代わって代弁することを避けてきた。」「事態を察し、選手が口にする前に問題点を浮き彫りにする。これがメディア本来の姿勢であるにもかかわらず、だ。」と、メディアの怠慢に一喝を食らわせています。

そして「日本代表が日本のサッカー産業の中心になってきた時代から、そろそろ日本もクラブがサッカー産業の中心になっていかなければならない」と提言しています。つまり、これまでは日本のサッカー選手のブランド価値が「どれだけ日本代表として活躍してきたか」というところにあったが、いま欧州では「欧州チャンピオンズリーグにどけだけ出たか」のほうが選手としてのブランド価値になっているように、日本の選手も「どれだけ欧州チャンピオンズリーグに出場できたか」に軸足を移すべき時代になったのではないか、というわけです。

したがって「サッカー産業もそれに伴い日本代表中心主義から欧州へ重心をじわりと傾けていかなければならない時期に来ている。バランスの問題になるが、8対2ぐらいだった概念を6対4ぐらいに改める必要性を感じる。欧州組の招集も毎回ベストメンバーではなく、欧州カップの戦に出場選手している選手は、ローテーションしながら2回に1回とか、休める環境を設ける規定作りが必要になる。」と締めくくっています。

そのとおりです。森保監督は「W杯で優勝をめざす」という目標に向かって突き進み、何が何でも代表優先から頭を切り替えられないように見えます。その結果として、今回の中村敬斗選手のように代表での負傷のためクラブでのレギュラーを失うリスクが増し、結果的に日本代表の総合力「Σ: シグマ」増大につながらない悪循環を断ち切らなければならないと思います。

当「夢追い人」は、日本代表戦を国内で開催する場合の興行面のトライアングルが、選手を縛っていると考えています。つまり、スポンサーとして莫大な資金を出す企業(冠企業とテレビスポンサー企業)、視聴率等おいしいコンテンツであるテレビメディア、そして、興行主として潤うJFA(日本サッカー協会)です。
このトライアングルを形成するキーマンたちは、まだまだ「日本代表として誇り、名誉、責任」といった観念論で、疲れている選手に対して「奮い立て」と考えていると思います。

このトライアングルは、お互いに、いわば「そんたく」し合って、なかなかお互いにとって都合の悪いことには目をつぶることが多いように思います。メディアがいくら報道の自由と言っても結局は広告主としての企業に依存していることは確かです。選手たちを置き去りにしてカルテルを結んでいると言われても仕方ない関係性にあるのです。

日本国内で代表戦があるたびに、過酷な移動を強いられる負担を、キチンと問題視すべきは、JFA(日本サッカー協会)であることが本筋であり、協会がメディアを巻き込んで杉山氏が提案したような方向に持っていくべきだと考えています。そもそもJFAが拠って立つ基盤は「選手というかけがえのない資産の存在」です。その協会が「国内開催の代表戦のために選手に犠牲を強いている」と後ろ指をさされているのは本末転倒です。
協会には猛省を促したいと思いますし、ぜひ改善して欲しいと思います。

ベストメンバーを組めない試合で、どう残りの選手たちを伸ばし、全体の底上げを図るかも、代表強化の大切なポイントなはずです。
1年の中で、本当に大切な試合、大切な大会を極力絞り込んで、そこではベストメンバーを少し長い期間拘束してチームの練度を上げていくにしても、それ以外の期間は選手のコンディション維持、移動による疲労回避に充ててあげるといったメリハリをつけることのほうが絶対いいはずです。
森保監督には、そうすることが、最終的には本番のW杯での長丁場を乗り切るコンディション維持にもつながり、目標としている「新しい景色を見る」という結果にも繋がるのだという信念を持って欲しいと思います。

杉山氏はもう一つ、代表選手に対する金銭面の待遇改善にも言及しています。「2024年まで計8年の就任期間中に推定10数億円を手にする森保監督と比較すれば、選手が手にする報酬は雀の涙だ。社長とアルバイトの関係と言っても言い過ぎではない。日本のサッカー産業が代表チーム中心に成り立っているとすれば、事実上、名誉のためだけに参加している選手たちの待遇は、直ちに改められるべきである。でなければ辻褄は合わない。」と、森保監督を引き合いに出して主張しています。

この書き込みでは、杉山氏の論考の多くを引用させていただきましたが、同感してのことですのでご容赦いだたければと思います。
一つ前の書き込みで「カナダ戦で久保建英選手の出番はありませんでした」「久保選手は怖い顔をしていました」と書きましたが、久保選手の直近のスケジュールを考えればカナダ戦は回避して当たり前でした。

ところで、いまチュニジアとの試合を見ながら書き込んでいますが、伊東純也選手が今回も右サイドでスタメン、後半、放送席では選手交代の対象として「伊東純也選手がイエローをもらっていますから、伊東純也選手ですかね」と予想しましたが、結果は別の選手がアウトでした。思わず解説の松井大輔さんが「伊東純也選手ではなかったんですねぇ」とコメントしました。

そして5分後、伊東純也選手がゴールを決めるのですから、森保監督はますます自信を深めていることでしょう。とにかく使いたい選手はとことん使う監督です。その分、疲労の蓄積だとか、それによるケガのリスク増加などといったことは、とことん考えていないかも知れません。
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日本代表がまたドイツを破った。日本が強いのかドイツが弱いのか・・・。

2023年09月11日 12時17分50秒 | サッカー日本代表
9月9日(土)、日本時間10日未明、ドイツで行われたテストマッチ ドイツvs日本戦、テレビ中継はなかったようなので10日(日)にネット検索で試合結果を知りました。なんとアウェーにもかかわらず4-1と快勝したそうです。

この結果をどう見るべきなのか、正直、すぐには思い浮かびませんでした。こんな経験、30年以上の日本代表応援経験で、 おそらく初めてでしょう。

日本がそれほど強くなったのか、ドイツがあまりにも弱くなったのか。
4点とった攻撃、1点に抑えた守り、仮にドイツが相当レベルダウンしていることを差し引いても、日本の力が相当上がっていることは間違いないでしょう。

ネットでは二人の選手にスポットがあたっていました。
一人は、MOMに押すサイトもあるDF冨安健洋選手、この選手の能力がこれからピークに向かっていくと、日本代表はしばらく「守り」という部分で相当自信を持つように思います。今回のスタメンで、中盤の底からDFラインにかけて、遠藤航選手、守田英正選手、伊藤洋樹選手、冨安健洋選手、板倉滉選手、菅原由勢選手の布陣は、これまで最強の布陣といえると思いますし、冨安健洋選手がゲーム全体をマネジメントしながら統率するという点で、かなり信頼度の高い「守り」が計算できると思います。

このまま、またW杯が来て欲しいところですね。

そして、もう一人は、スタメン落ちで後半残り15分からの出場でありながら、2アシストの活躍をした久保建英選手、ネットには「コンディションは僕史上、過去最高」「さすがに僕は100%(先発で)出ると思っていた。正直がっかりした」というコメントが飛び交い、すわ監督・チーム批判か? と思わせるような雰囲気でしたが、無理もないところです。スペインリーグでは開幕から4試合連続でMOMに選ばれ、自他ともに「きれっきれ」と認める状態だったようですから。

しかし、これについて元日本代表の武田修宏氏は「その理由は森保一監督の「チーム序列」にある」と指摘しています。森保監督の序列主義は、以前から知られていたスタイルで、少し調子がよさそうだからといって、簡単には変えないスタイルです。
もし、これでドイツに惨敗していたら「久保をスタメンで使わないからだ」と批判を浴びると思いますが、森保監督としては、決めた序列の選手に大きなアクシデントやコンディション不良がなく、いわば代える理由がなければ、そのまま使ったということであり、スタメンの選手もそれに応えたということになります。

ですから、武田修宏氏が指摘するように、久保建英選手もスタメンを張った三苫選手、鎌田大地選手、伊東純也選手の中に割って入り、序列を変えるだけのパフォーマンスを見せ続ける必要があるということでしょう。
久保選手もそれをわかっていますから、次を見据えて頑張ると思いますが「調子は水もの」で、いつまでも持続できるものではありませんので、まぁ、できるだけ長く持続して欲しいと願うばかりです。

今回は、久保選手だけではなく堂安律選手や田中碧選手も控えですし、ワントップのスタメンが上田綺世選手、浅野琢磨選手は控えといった具合に、誰がスタメンでも控えでも結果を出せそうな選手がズラリと揃っているという点では、強いチームらしくなってきたことは確かです。

ただ今回の久保選手の一件で痛感したのは、欧州にもスカウティング担当のコーチを専従で配置すべきではないかという点です。現在、森保監督、名波コーチ、前田コーチが分担して代表メンバーの状況をチェックしていると思いますが、欧州で活躍している選手の状況はどうしても把握が不十分になっているはずです。
欧州駐在の協会スタッフは、代表選手のスカウティングが主たる仕事ではないと思いますので、もう一人、専任のコーチを常駐で配置して欲しいところです。
今回の一件で、検討が加速することを願っています。
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21年目にして初めて通して観たDVD「六月の勝利の歌を忘れない」

2023年08月04日 18時03分40秒 | サッカー日本代表
当「サッカー文化フォーラム」がこれまで収録したサッカー関係の試合映像、テレビ番組映像等の映像記録の整理も最終段階に来ました。2003年終わりぐらいまではVTRによる収録で、ほぼHDDへの変換収蔵を終えました。その後の分は多くがDVD収録とスカパーチューナーに紐づけられたHDDへの収録です。

ここに来て、DVD収録とスカパーチューナーに紐づけられたHDD収録の分を再生点検して、意外なことが判明しました。それはDVD収録分の多くが再生不調になっていることです。
理由をいろいろと調べていますが決定的なことがわからず立ち往生状態です。DVDへの収録は2004年から本格的に始めており2015年あたりまで続けました。最終的にこの期間の映像をどの程度、HDDに収蔵し直せるか未知数ですが、かなりの量のDVDが死蔵品になる可能性が出てきました。

そんな中、DVDの中で市販品の未開封品が何枚か出てきました。
その中の一つがタイトルでご紹介した「六月の勝利の歌を忘れない」という2枚組のDVDです。いきなり名前だけ聞いて即答できる方は、かなりの「サッカー通」といっていいでしょう。
「21年目にして初めて通して観た・・」というところで、今年から引き算して「あぁ~ 2002年W杯の記録映画だな」と思い当たった方、正解です。
当「サッカー文化フォーラム」も、これまで持っていた知識は「岩井俊二監督による2002年W杯日本代表の戦いを記録したドキュメンタリー映画」という程度でした。果たして、どんな内容の映画なのか、さっぱりわからずに、21年目にして初めて2巻を通して観た次第です。

いい機会ですので、以前観たことがある方にも、まだ観たことがない方にも、内容をご紹介したいと思います。
この記録映画のタイトルがどうして「六月の勝利の歌を忘れない」という名前になったのか、どなたが付けたのかネットで検索したらすぐ出てきました。
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Jリーグスタート以降、日本サッカー30年の記録「トルシエ監督時代のこと」まもなく取りかかれそうです。

2023年07月03日 11時49分14秒 | サッカー日本代表
「Jリーグスタート以降、日本サッカー30年の記録から、次の予定はトルシエ監督時代のことです」という告知をしたのは、2月16日のことです。もはや4ケ月半が過ぎました。
「トルシエ監督時代のこと」についての下調べは、ほとんど終わりました。問題は、トルシエ監督の時代をどう総括すればいいのか、なかなか軸足が定まっていなかったことです。

当初、この時代の4年間を検証したいと考えたのは、次のような理由からです。
ハンス・オフト監督以降の日本代表監督の中では、途中交代せずに本大会まで務め、グループリーグを突破した監督が二人しかいないという、その一人がトルシエ監督ということになります。

就任以降、途中交代せずに本大会まで指揮をとった監督としては、ジーコ監督もザッケローニ監督もいますが、残念ながらグループリーグ突破は果たせておりません。

そのトルシエ監督時代の4年間が「Jリーグスタート以降、日本サッカー30年」の中で、どういう意味を持つのか、どのように位置づけられるのか、どのように評価されるべきなのか、正直なところ、あまり総括されていないように思います。

その「あまり総括されていない」という点についても、実は、いろいろな意見がごちゃまぜ、わかりやすく言うと、評価が真っ二つに分かれていて、総括しきれていなかったのかも知れないという気もします。
今回、そこに切り込んで、ズバリ、明快な答えを提示したいと思っています。

ということで、威勢よく準備にとりかかり5月末ぐらいには、ほぼ調べものは終わりました。
ところが、調べれば調べるほど迷宮にさ迷い込むような感覚を覚えるようになったのです。

こういうケースは珍しいと思います。日本サッカー史上に燦然と輝く結果は出したのに、評価が真っ二つになっているのです。しかも、快挙を達成したにも関わらず「もっとやれただろうに」と悔いを残す結果でもあるわけです。

では、トルシエ監督でなくても、あれぐらいの結果は出せたのだろうかと考えれば、必ずしもそうではないかも知れない。
なぜ、こんな歴史になってしまったのか、明快な答えはどこにあるのか。

ここ1ケ月ぐらいは、頭の中を空っぽにしたり、調べた内容を反芻してみたりの繰り返しでした。
でも、ようやく出口が見えてきました。

「トルシエ監督時代の4年間」とは、どうやら「日本サッカー界全体として、当時、得られる最大限のところまで到達できた4年間であり、それ以上の高みには、トルシエ監督自身が挑もうという気がさらさらなかった。そういう人に監督を任せたのは日本サッカー界そのものであり、それが世界の中での日本サッカー界のレベルというか、その程度の成熟度合しか持ち合わせていな時代の出来事だった」というところに落ち着きそうです。

歴史が必ずしも思い通りにいかないのは、トルシエ監督時代の代表チームは、昇り竜のような勢いのあるチームで、次のW杯・ドイツ大会にはピークを迎えるだろうと期待されながら、現実にはジーコ監督のもとで1勝もできずに終わったことです。

では、トルシエ時代のチームをスムーズにドイツ大会で成果に結びつけられなかったのはジーコ監督の責任かと言えば、必ずしもそうではありません。判ってきたのは、トルシエ時代のチームに、トルシエ監督自身が、成長曲線に乗るようなメンタリティを植え付けたかどうか疑問が残るからです。

トルシエ監督からジーコ監督へのバトンタッチ、これもまた当時の日本サッカー界のレベルがそうさせたとしか言いようのない無定見なバトンタッチです。無定見どころか、あらゆる面で前監督と真逆のタイプの監督を据えたのです。

日本サッカーの継続性、連続性など全く眼中にないバトンタッチです。交代の直後は、トルシエ氏もジーコ監督も、それぞれ相手に対するリスペクトで、なんの引っ掛かりもないようなバトンタッチでしたが、選手たちはいい迷惑だったに違いありません。

同じことはトルシエ監督を選んだ時にも言えます。岡田監督が苦労に苦労を重ねてフランスW杯仕様のチームを作り上げたにも関わらず、何の継続性、連続性も考慮せず、いきなりトルシエ監督です。

読者の皆さんもお気づきかと思いますが、当時の日本サッカー界とはこの程度のレベルだったのです。トルシエ監督を選んだ時、口では「現在、世界の最先端ほ行くフランスサッカー界でコーチング理論を学んだ有能な監督にきてもらった」と言いながら、日本サッカーの継続性、連続性とは何の接点もない人を選び、ジーコ監督を選んだ時、口では「日本人の気持ちを知り尽くしているジーコ監督なら必ずや、よりよい成果をあげてくれると確信している」と言いながら、前任者とは真逆のタイプの人を選ぶという、極めて恣意的なやり方をしていた時代だったのです。

結局のところは、代表監督を選ぶのは日本サッカー協会であり、その人事を牛耳るのは協会内での力学で上層部にいる幹部たちです。当時は当時で、難しい条件の中、いろいろな考え方で代表監督を選んできたのでしょうけれど、もう少し客観的、論理的であったらと思います。

代表監督人選というのは、世界中にいる代表監督候補者の中から、タイミング的なもの、条件面、欧米からの地理的条件や日本の文化社会の特殊性など、いろいろな要素が絡み合って、なかなか思うように行かない面もあります。2002年W杯でヒディングを監督に迎えることができた韓国のような幸運に恵まれることも必要かも知れません。

ただ日本は、ジーコのあとを託したオシム監督が病に倒れた危機を岡田監督が救ったり、2018年W杯の直前になってハリルホジッチ監督を更迭せざるを得ない危機を西野監督が救ったり、W杯連続出場を途切らせることなく、そしてグループリーグ突破が可能な国として歴史を積み上げられたのは、幸運だったとも言えます。

1993年のJリーグ開幕の年、残念ながらオフト監督率いる日本代表が、あと一歩のところでW杯出場を逃したものの、4年後の1997年、苦しみぬいた末、W杯初出場を果たし、予選免除の2002年は一気に本大会で2勝をあげ、右肩上がりで成長を遂げてきました。

その流れを作ったという意味でトルシエ監督の功績は揺るぎないものですし、トルシエ監督誕生の不透明さや、その人間性から来る毀誉褒貶の激しさ、各方面との摩擦が絶えない監督ではあったものの、それらも含めて、当時の日本サッカー界全体のレベルというか、世界における日本サッカーの位置づけを反映していると思えば、吹っ切れる明快さです。

今回、あらためて思ったのは、トルシエ監督が残した財産をジーコ監督が引き継いで2006年を戦った後、中心選手だった中田英寿選手の引退をはじめ、小野伸二選手、高原直泰選手、稲本潤一選手といった選手たちの、いわば一つの時代が終わっていることです。

ジーコ監督のあとを引き継いだオシム監督は、いろいろな面で日本サッカーを再構築しようとした監督でしたから、2006年までと、それ以降に一つの断層ができたように思います。
そこで、1993年から2006年W杯までの時代を、当フォーラムでは「Jリーグスタート以降、日本サッカー30年の前半史」と名付けることとして、主として、この時代の歴史を克明に記録していくこことしたいと思います。

したがって2006年W杯以降の時代、つまり「Jリーグスタート以降、日本サッカー30年の後半史」については、当フォーラムの志を引き継いでくれる「どなたか」に託すこととしたいと思います。

「トルシエ監督時代のこと」の執筆にまもなく取りかかれそうだということをお伝えして、また「Jリーグスタート以降、日本サッカー30年の記録」については、1993年から2006年W杯までの時代、すなわち「Jリーグスタート以降、2006年W杯までの日本サッカー30年(前半史)」に絞ることをお伝えして、次回に譲りたいと思います。
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Jリーグスタート以降、日本サッカー30年の記録から、次の予定になかなか着手できません。

2023年03月24日 11時54分33秒 | サッカー日本代表
前回2月16日に、次回書き込みの予定をお知らせしてから、早いもので1ケ月以上になりました。その間、次回テーマである「トルシエ監督時代のこと」について、俯瞰的、網羅的に記録を残したいと思いつつ、丹念に4年間の足跡を辿っています。

とりわけスポーツ新聞の1998年以降の日々の記事を点検しており、いま2002年の記事を点検中です。この作業は点検と、スキャンしてデジタル保存する作業の同時進行ですので、実はなかなか進まないのが実情です。

2002年の記事点検を終えるのが、おそらく4月後半になると思います。なにしろ2002年は日韓W杯の年ですから、記事の量が膨大です。年別で記事量を比較すると、おそらく30年間の中で最大の年だろうと思います。

ですから、スポーツ新聞のサッカー関連記事をスキャンしてデジタル保存する作業の中で、最大の山場
と考えて、自らを鼓舞して作業しています。

そのような訳ですので、トルシエ監督時代のことを書き込む作業は、そのあと、おそらく5月になりそうです。

ところで、この1ケ月間の中で、もう一つ、手こずった作業がありました。
それは、HDDに保存したサッカーの試合等の映像を、ブルーレイのDVDに書き込んで、ブルーレイプレーヤーでテレビで再生させるという作業です。

これまで、HDDに保存していた動画をDVDに書き込み、そのままテレビに接続したDVDプレーヤーで再生できると考えていたのですが、実はテレビ再生させるにはHDDに保存してあるフォーマットを変換作業しないとテレビでの再生ができないということがわかりました。

このフォーマット変換の作業というのが難題でした。1試合2時間程度、5GBから7GB程度の容量で保存してある動画ですが、ブレーレイ用DVDに変換すると、容量が30GBぐらいに膨らんでしまい、それが収まるDVDを用意するのに、まず手こずり、次に変換ソフトを購入してインストール・セットアップするのに手こずり、最後は変換作業にかかる時間に手こずりました。

結局、容量が30GBぐらいになるデータをDVDに書き込むには4時間とか5時間ぐらいかかり、途中で書き込みがストップしてしまい、やり直すことも何回かあって、大変な労力を要する作業でした。

それでも、なんとか未経験の作業をやり遂げましたので、これからは、手際よくできると思うと報われたような気がします。

記録データをデジタル保存していく中では、こうした新しい加工スキルも身に着ける必要があり、それを嫌がっていては時代に取り残されることを意味します。

これからも自分を鼓舞して、未経験のスキルを身に着けていこうと思います。

ここ2週間ほど、日本列島はWBC(ワールドベースボールクラシック)一色でした。しかも、侍ジャパンが優勝という、最高のエンディングでしたから、誰もがハッピーになれた期間でした。

これまでサッカーW杯が、日本列島を一色に染めるイベントでしたが、明らかにそれに勝るとも劣らないイベントになるようです。まさにサッカー同様、海外組であるメジャーリーガーがチームをけん引する、頼もしい構図でした。

森保ジャパンも次のW杯に向けて、今夜の試合(ウルグアイ戦)から始動します。これまでの成績を上回る新しい景色を日本のサッカーファンに見せて欲しいものです。
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Jリーグスタート以降、日本サッカー30年の記録から、次の予定はトルシエ監督時代のことです。

2023年02月16日 16時16分23秒 | サッカー日本代表
前回の書き込みが1月22日でしたから、まもなく1ケ月になります。
あまり間をおかずに書き込み続けたいのですが、前回の「中田英寿選手の『心技体』」のように、トータルの記録を俯瞰的、網羅的に残したいと思うと、下準備が大切になります。

いま、次のテーマについて、下調べの真っ最中です。
準備しているのは「トルシエ監督時代のこと」です。

昨年のカタールW杯の指揮を執った森保監督が、日本人監督として初めて、就任以降、交代せずにW杯本大会まで務め、しかもグループリーグを突破した監督になりましたが、実は、外国人監督ながら、就任以降、交代せずにW杯本大会まで務め、グループリーグを突破した外国人監督がフィリップ・トルシエ監督です。

したがって、ハンス・オフト監督以降の日本代表監督の中では、途中交代せずに本大会まで務め、グループリーグを突破した監督が二人しかいないという、その一人がトルシエ監督ということになります。

就任以降、途中交代せずに本大会まで指揮をとった監督としては、ジーコ監督もザッケローニ監督もいますが、残念ながらグループリーグ突破は果たせておりません。

そのトルシエ監督時代の4年間が「Jリーグスタート以降、日本サッカー30年」の中で、どういう意味を持つのか、どのように位置づけられるのか、どのように評価されるべきなのか、正直なところ、あまり総括されていないように思います。

その「あまり総括されていない」という点についても、実は、いろいろな意見がごちゃまぜ、わかりやすく言うと、評価が真っ二つに分かれていて、総括しきれていなかったのかも知れないという気もします。

今回、そこに切り込んで、ズバリ、明快な答えを提示したいと思っています。
下準備を始めて、かれこれ1ケ月近くになりますので、ずいぶん見えてきましたが、おそらく今月中には書き始められないと思います。

もう少しお待ちいただきたいという意味も込めて、予告させていただきました。
お楽しみに。
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Jリーグスタート以降、日本サッカー30年の記録から(5)岡田武史監督突然の表舞台登場の遠因? ネルシーニョ氏代表監督要請破棄事件とは

2023年01月11日 17時40分01秒 | サッカー日本代表
日本サッカー30年の記録から、ある大きな出来事の真相を探っていくと、それに関連して、新たな疑問や闇の部分が浮かび上がってきます。

カズ選手がフランスW杯代表から土壇場で落選した時の衝撃を、当時の少し時間を巻き戻して、つぶさに検証してみると、ずいぶん違った真相が見えてきました。

すると、その落選劇のもう一人の当事者である岡田監督という人は、前年、突然、代表監督の座に押し上げられ、表舞台に登場した人ですが、では、なぜ表舞台に登場する立ち位置にいたのか、これもまた、当時の時間を巻き戻して、つぶさに確認してみると、サッカーの神様に導かれたとしか、いいようのない「代表監督としての決断力や戦略的資質」とは全く別の理由から、加茂監督のコーチに選任されていたことがわかりました。

そうした、流れから新たに浮かんできたのが、1995年11月に起きた、日本サッカー協会の加茂監督続投決定に至る、各方面を巻き込んだドタバタ劇でした。

1994年12月、ファルカン日本代表監督の解任を受けて、日本代表監督に就任した加茂監督は、フランスW杯出場権獲得のミッションを視野に入れながらも1年契約(95年11月30日まで)で、仕事ぶりを見て契約を更新するという状況でした。

仕事ぶりを評価するのは、日本サッカー協会の「強化委員会」というチームで、当時、現役を引退したばかりの加藤久氏が委員長に抜擢されていました。

加藤氏率いる強化委員会は、加茂監督の仕事ぶりをいろいろな角度から分析した結果「加茂監督の戦術と采配には、相手に応じ対応するという柔軟さと臨機応変さに欠けていて、特に加茂氏が採用しているゾーンプレスの戦術は、相手チームに研究された攻撃をされると対応できない弱さがある」と結論付け、第一候補にベンゲル氏、第二候補にネルシーニョ氏、第三候補にオフト氏を推薦しました。

加茂氏は、それら3人の候補がすべてダメだった場合、やむなく続投という位置づけだったのです。
それが1995年10月30日に行われた日本サッカー協会幹部会(長沼会長、岡野副会長、川淵副会長ほか2名の5名)で審議され、各氏に意向を打診して決めようということになりました。

長沼会長は加茂氏に電話を入れたところ、加茂氏は「自分の優先順位が低いことから続投の芽はないと判断して横浜Fにお世話になることに決めています。あとは契約を残すばかりです」と回答がありました。

川淵副会長がベンゲル氏と監督を務めるグランパス、そしてオフト氏と監督を務めるジュビロに電話を入れたところ、いずれも固辞の姿勢でした。

第二候補のネルシーニョ氏と所属のヴェルディは、すでに強化委員会レベルで打診した際に好感触を得ていたことから、候補者をネルシーニョ氏一本に絞り、条件面の詰めに入りました。それを任された加藤委員長がネルシーニョ氏側と条件面の交渉を行ない、11月18日に幹部会に報告されたネルシーニョ氏側の希望額は、協会が出せる限度額と1億円ほどの開きがありました。

翌11月19日、加藤委員長は再びネルシーニョ氏と接触して、条件のすり合わせを行なった結果、協会の提示額とほぼ一致させる条件を加藤委員長に伝えました。

同じ日、幹部会は、1億円もの開きがあるネルシーニョ氏の希望条件は受け入れ困難との観測を抱き「やはり加茂続投で行くしかない」と、加藤委員長の報告持ち帰りを待たずに、すでに横浜Fとの契約寸前まで行っている加茂氏に翻意を促すことに決めたのでした。

加藤氏が11月19日夜遅く「ネルシーニョ氏が協会条件を受諾意向」を長沼会長に報告したものの、それは「時すでに遅し」の徒労でした。

協会は11月20日、川淵副会長が電話で加茂氏に続投意思を確認しましたが、加茂氏は固辞します。しかし11月21日、幹部の話し合いであらためて加茂氏への要請を確認、当日、長沼会長が自ら加茂氏に面会して続投を要請しました。

そこでも一旦は固辞しますが、それは契約寸前までいっている横浜Fに詫びを入れてキャンセルを了承していただかないことには受けられないからです。

その時の様子を加茂監督は自身の著書「モダンサッカーへの挑戦」(1997年3月講談社文庫版)の中で、こう記しています。

「契約書にサインするばかりになったとき、日本サッカー協会のほうが大きく揺らぎ、急転して私と再契約する方向に傾いたのだ。」

「もちろん、そんなことができるはずはない。横浜フリューゲルスに合わせる顔もないではないか」

「だが、日本リーグの全日空時代から部長としてサッカー部のめんどうを見、このころには、フリューゲルスの顧問になっておられた長谷川章さんがこう言ってくれた。」

「フリューゲルスでやらなければならない君の気持ちはわかった。しかし自分の思いどおりにやりなさい」

「長谷川さんは、理不尽な話をすべて飲み込み、私に日本代表監督を続けることを勧めてくれたのだ。この言葉がなければ、私は協会の要請を受けることはできなかっただろう。この恩に報いるためにも、何が何でも最後の結果をださなければと思っている。」

こうしたいきさつがあって、加茂監督は続投要請を受け入れました。しかし、奇妙なことに協会は、ネルシーニョ氏に「条件交渉断念、要請撤回」を伝える作業を怠ってしまいました。ヴェルディの森下社長に「加茂監督続投」の結論が知らされたのは、11月22日の午前、まもなく始まる記者会見の直前でした。

そのようにして、11月22日昼過ぎの記者会見で「加茂監督続投」が発表されたのです。
ネルシーニョ氏の「腐ったミカン」発言は、その日の夜、浦和レッズとの試合後の会見で飛び出しました。長沼氏、川淵氏の名をあげ「噓つきで腐っている。みかんの箱の中に何個か腐ったミカンが混じっているようなものだ」と非難したのです。

ヴェルディの森下社長は「ネルシーニョ監督のプライドを傷つけ、加茂監督の仕事をやりにくくして、一体何のためにこんなことをしたのか」と語ったそうです。

続投が決まった加茂監督も「自分は被害者だとは思わないが、決定に対しては疑問がある」と漏らしています。

この経緯について、週刊「サッカーマガジン」誌は、この11月22日発売の号(No.533,95.12.6)で「最終予選までネルシーニョ全権監督、本日正式発表へ」という特集を組んでいます。同誌も見事にハシゴを外されたクチでした。同特集の末尾には「次号からは『ネルシーニョ代表の青写真』を連載する」と予告も打ちましたが、掲載されることはありませんでした。

「サッカーマガジン」誌にしてみれば、当日発売の最新号に打った自信の記事を手にしながら、それが誤報だと知らされる会見を目の前で見せられる思いは、いかばかりだったでしょう。

ちなみに、当時、発売日が同日だった週刊「サッカーダイジェスト」誌は「ネルシーニョ監督、本日正式発表へ」といった類の記事は掲載しませんでしたが、これは、むしろサッカー協会への食い込み度が、「サッカーマガジン」誌のほうが圧倒的に強かった違いによるものではないかと推測しています。

「サッカーダイジェスト」誌は、当時、伝統的に海外サッカーを手厚く報じるタイプでしたから。

「サッカーマガジン」誌は、次号、11月29日発売号で「混迷の11月22日『フランスへの男を選ぶ』急転までの全真実」と題して、4ページの徹底リポートを掲載、協会の意思決定プロレスを痛烈に批判しました。

当ブログも、大部分をこの記事に依拠して書き込んでいます。
こうしてみると、おわかりのとおり、当時の日本サッカー協会の上層部がいかに代表監督人選を私物化していたか、ということです。

当時の登場人物や団体の立場、役割などをもう一度、簡略化してご紹介しましょう。

長沼会長、岡野副会長、 この方たちは、もともとが日本人監督派、加茂続投派だったが、報告書にもとづく監督選任を無視できず、最初は沈黙していたが。ネルシーニョで決まりかけた最後になって、加茂続投を持ち出し、結局ネルシーニョに仁義もきらずに押し切った。

川淵副会長、 この方もどちらかと言えば、加茂続投派だったが、自分が統括する強化委員会の報告書を無視できない立場でもあり態度が迷走。最後は続投を認める側に加担したことからネルシーニョから「嘘つき」といわれる羽目になった。

加茂監督、 強化委員会報告書で自分の評価がかなり低いことを知り、川淵氏に辞意を伝達して、横浜フリューゲルスへの復帰をコーチ陣とセットで準備、ほぼ契約直前までいっていたが、長沼会長の直談判を受け「続けるべきか、固辞すべきか」ハムレット状態に。しかし横浜フリューゲルスの恩人に背中を押されて、どうにか続投を受諾するという苦渋の選択でした。

ネルシーニョ氏、協会から代表監督就任要請を受け、条件交渉に入った。代表監督は光栄であるものの条件面では希望額を提示、それが協会限度額と開きが大きいと知り譲歩したが、当初希望額が協会側に伝わったことで、ネルシーニョ断念の口実を作ってしまった。しかし、交渉継続中のまま「加茂監督続投」を発表され突然ハシゴを外されてしまった形になり「協会に腐ったミカンがある」と激怒した。

強化委員会(加藤久委員長)、加茂監督の1年間の仕事の評価についての結論として、先に3人の外国人監督との交渉を優先すべきという報告書を協会幹部に提出、後任選びに駆り出され、ネルシーニョ氏やヴェルディとの折衝役として舞台に上げられながら、最後にハシゴを外され、報告書も反故にされ面子を失った。

加茂氏との契約寸前までいった横浜フリューゲルスも監督人選をイチからやり直さざるを得なくなり、ネルシーニョを代表監督に送り出そうとしていたヴェルディも面子を失ってしまいました。

日本サッカー協会の一握りの幹部が、どれほど多くの人たちを振り回したのかを顧みることなく下した決定が「ネルーシニョ氏代表監督要請破棄」というドタバタ劇の顛末でした。

この一連の稚拙な組織の意思決定プロセスの反省が、このあとの教訓になったことは言うまでもありません。なにしろ代表監督選考の「諮問機関」にあたる「強化委員会」の報告書は、この当時は建前だけの紙きれに過ぎない扱いをされていたのです。

一応、組織的な意思決定の手続きを踏んでいるように見せかけて、その実、自分たちが恣意的に物事を決めてしまうという、協会を私物化したやり方が、まだ、この頃はまかり通っていたということです。

ただ、強化委員会報告書が問題提起した加茂監督の問題点は、2年後、アジア最終予選という真剣勝負の場で現実のものとなってしまいました。その結果、あの1997年10月、カザフスタンの地で長沼会長が発表した「加茂監督を解任して岡田コーチを昇格」という、まさに瀬戸際での発表となったわけです。

もし1995年11月の時点で、ネルシーニョ監督になっていたら・・・、というタラレバの話をしたいところですが、その可能性はなかったと見るべきでしょう。当時、協会幹部に加茂監督解任の選択はなかったのです。ネルシーニョへの要請という動きは、協会幹部が手続きを踏んだフリをするという、ハタ迷惑な態度をとったことによって生じた副産物であり、ネルシーニョ監督誕生はあり得ない話だったと言えます。

もし加茂監督が続投要請を固辞し続けたら・・・、というタラレバもありますが、それも「ない」と思います。加茂監督の著書から紹介した部分に「長谷川さんは、理不尽な話をすべて飲み込み、私に日本代表監督を続けることを勧めてくれたのだ。この言葉がなければ、私は協会の要請を受けることはできなかっただろう。」というくだりがありますが、長谷川さんという方にしても、日本代表監督と横浜フリューゲルスの監督を考えた場合、そう応じるしかないのではないでしょうか。

それが仮にベンゲル氏であったとしても、同じだったことでしょう。仮にベンゲル氏が前向きだったとしても、協会幹部はなんらかの理由をつけてベンゲル監督誕生を阻止したことでしょう。横浜フリーゲルスに合わせる顔がないぐらいに困ってしまった加茂監督の胸中などお構いなしに、加茂続投を強行した協会幹部ですから。

ということは、歴史の針は刻々と、加茂監督のもとアジア最終予選の土壇場まで、出場権獲得が風前の灯となるまで、引っ張られていくことに向かっていたということになります。

「ネルーシニョ氏代表監督要請破棄」事件は、協会一握り幹部による「多くの関係者振り回し事件」でしかなかった、ということがわかりました。

ヴェルディの森下社長ですが、この事件で「ネルシーニョ氏は協会からプライドを傷つけられ」とコメント、さらに2年半後の1998年6月、カズ落選発表では「岡田監督からプライドを傷つけられ」とコメントする役回りとなりました。ヴェルディがそういう立場になってしまったのも、何かの因縁なのかも知れません。

また一つ、30年の記録を紐解く中で、真相を知りました。
ありがとうございました。

【文中、週刊「サッカーマガジン」誌の「ネルシーニョ全権監督、本日正式発表へ」の特集関連のところを、本日1月12日、一部加筆しました。】


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Jリーグスタート以降、日本サッカー30年間の記録から(3) カズ選手「フランスW杯代表落選の衝撃」前夜の様子から見えてくるもの

2023年01月09日 08時04分02秒 | サッカー日本代表
【このタイトルは、2023-01-04 に投稿した内容を「お題投稿、募集中」向けに再投稿したものです】

1998年6月2日、フランスW杯開幕まで1週間、初戦のアルゼンチン戦まで、あと10日ちょっとしかない時期に、キャンプ地であるスイス・ニヨンで、日本代表・岡田監督は屋外で記者会見を開き、手短に「外れるのはカズ、三浦カズ、北沢、市川の3人」と発表しました。

記者団からは軽いどよめきが出ましたが、それが国内外に打電されるや否や、衝撃のニュースとして、瞬く間に日本中を駆け巡りました。

ふだんは日本代表選考のニュースが、報道・放送の中心ではないテレビのワイドショー番組や週刊誌系のメディアが連日のように大々的に報じましたので、増幅につぐ増幅で、大騒ぎになりました。

あれから24年、カズ選手はいまだに現役選手を続けています。カズ選手が心底サッカー小僧で、自分の引き際だとか、有終の美といったことには頓着していないかのような若々しさでサッカーを続けていることは紛れもない事実です。

けれども、一方で私は「日本代表としてワールドカップに出たい」という唯一無二の目標を永遠に失ってしまったカズ選手が「サッカー選手として出口を見つけられずに彷徨い歩き続けているのではないだろうか」という思いもぬぐい切れないでいます。

当時、決断した岡田監督に対しては「もっと違った選択があったのではないか」という指摘がずいぶん浴びせられました。曰く「カズ選手を外さなければならない必然性より、カズ選手を残しておく必然性のほうが大きかったのではないか」たとえ100歩ゆずって「カズ選手を外さなければならないとしても、もう少し本人のプライドを尊重するやり方があったのではないか」等々。

いま、あらためて当時のスポーツ紙記事をつぶさに読み直してみると、発表後の衝撃の記事もさることながら、直前、1~2週間ぐらいの日本代表の動向からは、ある意味、カズ選手の落選はむしろ当然の流れであり、岡田監督も「カズはもうダメだな」と思いつつ劇的なコンディションの戻りに一縷の望みを託して引っ張った結果の6月2日発表だったように感じました。

一旦スイスに連れていってからの3名切りということもあって、余計「かわいそう」ムードをかきたてた事件でした。

現地スイスでの発表前夜にあたる6月2日付けの毎日新聞朝刊は、一面に「カズ、北沢は落選濃厚」の見出しを打って見通しを報じました。

それを読むと、直前の国内でのキリンカップ2試合そしてスイスでのテストマッチ・メキシコ戦、いずれもカズ選手と北沢選手は出番なし、カズ選手は昨年9月のアジア最終予選初戦ウズベキスタン戦以来得点がなく、足を痛めるなど本番で力を発揮できないと判断された。とあります。

キャンプ地・スイスに出発する前から、カズ選手は構想外になっていたことを示しています。そのキリンカップの期間中、スポーツ紙一面にカズ選手が「落選3人も、先発11人も早く決めて」と訴えているという記事が躍りました。

文字どおり日本代表の中で一目も二目もおかれているカズ選手ですから、記者に話したことが記事になっても監督批判とは受け取られませんが、他の選手にはマネのできないことです。
しかし、一方では他の選手が黙々とポジション獲得のために汗を流している中、カズ選手は「気が気でない、心ここにあらず」といった心境だったのではないでしょうか?

「どうも自分の立場があやしい、先発はおろか最終メンバーにすら残れないのではないか、いや、そんな筈はない、自分が落ちる筈がない、でも、試合に出してもらえていない、途中交代でさえもチャンスがなくなっている」

そう考えた時に思わず「なんとかしてくれ」という気持ちが出たのではないでしょうか。

6月2日の落選発表を受けて、もっとも辛辣な言葉を浴びせたのが、カズ選手が所属するヴ川崎のニカノール監督でした。少し長くなりますが、当時のスポーツ紙記事を転載します。6月5日付けの東スポ紙です。東スポ紙は夕刊紙ですので、発売は6月4日夕刊ということになります。ちなみに記事は一面ではなく中面です。

見出しは「岡田は嘘つきで汚い男だ」「ニカノール監督カズ落としに激怒」
本文はこうです。「2人(カズと北沢)を外したのは計画的で、実に汚いやり方だ。最初から22人に選ぶつもりがないのに、カズと北沢を25人に入れたのは、2人の名前がなければマスコミが騒ぐ、だから、もう遅いという、ギリギリのタイミングで2人を切ったんだ」と言って声を震わせた。

怒りの収まらないニカノール監督はさらに、こう続けた。「キリン杯でカズ以外のFWは全員使った。森島をトップで使ってもカズは使わなかった。中盤も北沢以外は全員使っている。2人を外すことはスイスに行く前から決まっていたんだ。切るんなら、そこでハッキリ言うべきだった。監督は間違ったことを言うこともある。しかし、絶対ウソをつくべきではない。ウソをつく人間を私は許せない」と岡田監督をコキ下ろした。

という内容です。
スイスに行く前から切ることを決めていて、それを隠して連れて行ったことが「ウソつき」ということになるのかどうか、首をひねるところもありますが、同じ監督目線のニカノール監督にすれば、もう岡田監督のハラは完全に読めたのでしょう。

そして、最初に25人にして、そこにカズ選手と北沢選手を入れたのは「2人の名前がなければマスコミが騒ぐ」と考えた。これも「監督ならば、そう考えても不思議ではない」という監督目線の発言でしょう。

では、どうすべきだったか、です。
日本を離れる前に22人を発表して、そこでどれだけマスコミが騒ごうと、毅然としているべきだったのでしょうか。それにも異論が出そうです。
残された短い時間の中でチームを固めなければならない時に、世間の大騒ぎにどう向き合えばいいのか? と。

そもそも、どんなに戦術的にもコンディション的にも合わなくとも、カリスマ・カズは22人の中に残すべきだったのでしょうか?

それにも異論が出そうです。22人のうち一人たりとも使えない選手を残して、使える選手を外すわけにはいかない。それが選考の王道だ、と。

こうして、カズ選手「フランスW杯代表落選の衝撃」前夜の様子を伝えるスポーツ紙の報道をつぶさに点検していくと、どうみてもカズ選手が選考に残る可能性がないことが明白になった中での6月2日の会見だったようです。

まさにニカノール監督が喝破したように「もう遅いという、ギリギリのタイミングで2人を切った」ことによって、衝撃の度合いが最小限に抑えられたのかも知れません。
それでも国内ではワイドショーも週刊誌も、ハちの巣をつついたような騒ぎで取り上げたのですが、代表選手たちは海外にいて、直接、その喧騒にさらされることはなかったのです。

日本サッカー史に残る大事件でもあった出来事でしたが、代表選手たちが直接巻き込まれることがない形で済んだのは不幸中の幸いだったのかも知れません。

この事件は、私もずっと、わだかまりが残っていた問題でした。
私の考え方は「22人にカズ選手を残して何の問題もないのではないか」という点と、「ドーハの悲劇」の戦友である柱谷哲二選手が「よくも二人のプライドをズタズタにしてくれた」と取材マイクの前で語った言葉に「確かにそうなんだよなぁ」とシンパシーを感じた点です。

一つ目のわだかまりに関して、岡田監督は、25人を発表した時に、清水エスパルスの伊東輝悦選手を選出しています。当の伊東選手が「友達から『どっきりカメラ』じゃないかと言われました」と語っていたように、いわばサプライズの追加招集のような選出でした。

この「友達から『どっきりカメラ』じゃないかと言われました」というコメントは、当時のテレビ番組のことをご存じの方であればピンと来るのですが、日本テレビ系列で放送された「どっきりカメラ」という番組名からきています。

この「どっきりカメラ」、全国各地でロケを行ない、仕掛人がターゲットを騙す様子を隠しカメラで撮影して視聴者に見せ、ターゲットが驚いたところで「どっきりカメラ NTV」と書かれたプラカードを持って登場して丸く収める、という番組でした。つまり伊東輝悦選手も、よほどサプライズだったようで「騙された」のかと思ったというわけです。

今にして思えば、ここに一つのカギがあるように思います。

伊東選手は所属の清水では、本来、攻撃的MFのポジションが中心でしたが、この時期はチーム事情もあって、中盤の守備的なポジションで活躍していました。本大会グループリーグ3試合を通過するには、どうしても守備にウエイトを置かなければならない。守りの面で計算できる選手を分厚くすることにしたい。当時のスポーツ紙の報道では「25番目の男」という見出しももらっていましたが、岡田監督をはじめ首脳陣の間では、最終的に残す選手という考えだったと見ていいと思います。

そう方針が決まった時、FW陣で一番序列の低い選手は切らなければならない。伊東選手を招集した時点で、すでにFWの序列最下位はカズ選手、結局、最後までそれは変わらなかったわけで、それはハタ目にも明らかだったのでしょう。

ですから「22人にカズ選手を残して何の問題もないのではないか」という私の考えは「W杯で戦うチームの戦い方」を度外視したものでしかないということになります。
私自身が納得せざるを得ないことだと思い至っております。

もう一つの「よくも二人のプライドをズタズタにしてくれた」という点に対するシンパシー。これも、ニカノール監督が、いみじくも説明してくれたように「二人のプライドがズタズタになる度合が一番小さくて済むタイミングがあのタイミングだった」と考えるべきなのかも知れません。

国内発表で25人ではなく、いきなり22人にした場合のセンセーショナルなインパクトを考えると、本人たちのズタズタ感の実相より、マスメディア等、外部からの増幅圧力が働いたズタズタ感のほうが、数倍大きく報じられ、収拾がつかなかったかも知れないということを感じます。

このように「カズ選手落選」事件に関して残っていた、私自身のわだかまりも、今回の再点検によって消えつつあります。
やはり、当時はシンパシーだとか感情面に左右された判断があり、その残滓が「わだかまり」として長く心に残っていたようです。

また一つ、30年の記録をひもとく中で、問題が解決したような気持ちになりました。
ありがとうございました。

【文中、伊東輝悦選手がサプライズの追加招集となった部分のところを、本日1月12日、一部加筆しました。】
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Jリーグスタート以降、日本サッカー30年の記録から(4)岡田武史監督は、そもそもなぜ、日本代表コーチだったのでしょう

2023年01月08日 17時38分05秒 | サッカー日本代表
前回の「日本サッカー30年の記録から(3)」では、カズ選手フランスW杯代表落選前夜の様子から、落選の経緯などを探ってみました。

カズ選手落選のこともさることながら、前年のフランスW杯アジア最終予選のさなかに緊急避難的に誕生し、その延長線上でカズ選手を外した岡田武史監督についても、その後の見事な監督人生を思うにつけ、はっきりしておきたい点がありました。

そもそも、岡田監督がなぜ加茂監督のもと日本代表コーチとして就任することになったのか、加茂監督はなぜ岡田武史氏をコーチに選んだのか、どうしても明らかにしておきたくなりました。

1997年10月、加茂監督のもとでフランスW杯アジア最終予選を戦う日本代表の戦績が思わしくなく、このままでは出場権獲得が危ういとばかり、日本サッカー協会がカザフスタンのホテルで開いた記者会見について、サッカージャーナリストの杉山茂樹さんが「平成サッカー史を変えた怒涛の1週間。代表監督解任から謎の同点弾まで」というレポートの中で、加茂監督の更迭と後任・岡田武史氏が発表された時の状況をこう書いています。(原文のURLは下記のとおりです)
https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jfootball/2019/04/28/post_49/

「発表したのは確か長沼健サッカー協会会長(当時)だったと記憶するが、加茂監督を解任すると発し、「次の監督は」と続いた瞬間も、その人物が、傍らに座る岡田武史さん(当時ヘッドコーチ)だと思った人はいなかった。「岡田」と言われて、報道陣は一様にエッと驚嘆することになった。」

「それでもなお、岡田さんは一時の暫定監督だろうと勝手に推測していた。帰国後、ジーコなど、
それなりの人と折衝するのだろうと。」

(中略)

「そうしたなかで「岡田」の名前を聞かされた選手たちは、彼らも一様に「エッ」と仰け反ったそ
うだ。というのも、当時の岡田さんはそれほど監督にはほど遠い雰囲気の持ち主だったからだ。い
かにも監督然とした加茂監督とのパイプ役として、選手たちから親しまれていた。」

こうしてみると、加茂監督を更迭した日本サッカー協会にしても、監督としての適性云々の話ではなく、1週間も空かないうちに次々と試合が続く最終予選の中で、新たな監督選任などできるはずがなく、内部昇格しか選択肢がない中『監督にはほど遠い雰囲気の持ち主だった岡田さん』を据えたということが見えてきます。

杉山茂樹さんのレポートには、監督になるや否や、岡田さんが別人格になったかのように一変したことも紹介されており、その後の岡田監督が歩んだ道を思うと、この決断が日本サッカーの歴史を作ったとも言えるのですが、私には「では、なぜ岡田さんが日本代表コーチとして、この加茂監督更迭のあとを引き継ぐ立場に就くことになったのか、そもそも、なぜ加茂監督は岡田さんをコーチに選んだのか」について、ぜひ知っておきたいと思うようになりました。

加茂監督が岡田武史氏をコーチに選任した時のことについて、加茂氏が自身の著書「モダンサッカーへの挑戦」(1997年3月講談社文庫版)の著者あとがきの中でこう書いておられます。

「日本代表の仕事で忘れてならないのが、スタッフの優秀さとチームワークだ。(中略)私がまず選任したのは岡田武史コーチだった。若く、単独チームを率いてJリーグなどのクラブで監督をした経験はないが、非常にクレバーで、人間的にも素晴らしい。ある時期まで、私は選手と個人的に深く関わらないようにしてきた。次々と選手を入れ替えなければならない時期に、情が移ってはいけないからだ。その分、岡田コーチには、細かくフォローしてもらわなければならなかった」

これを読むと、まさに岡田さんは加茂監督に「選手との間に立って役割を果たしてもらうコーチとしての適性」を評価して選任したことがわかります。

決して、監督としての決断力や戦略家の適性を見て選任したのではないようです。その人が、まさに「瓢箪から出た駒」のように監督に就任して、就任するや否や、監督としての決断や戦略を次々に打ち出していったのですから、わからないものです。

加茂さん更迭を受けて就任した岡田監督の初戦となったアウェー・ウズベキスタン戦、実は負けてしまえばフランスW杯出場権は消滅する、という崖っぷちの試合でした。その試合、0-1とリードされたままロスタイムに入ろうかという時間帯に、最後尾から蹴りこんだ井原選手のロングボールがゴール前20~25mのあたりで相手DFと競り合った呂比須ワグナー選手の頭をかすめて、ゴール方向に転がったのです。

このシーンについて、さきほどご紹介した杉山茂樹さんのレポートにはこのように記されています。
「呂比須がヘディングした場所からゴールまでの距離は20m?25mあった。三浦知良がそのボール
を追いかけたものの、追いつかず、GKは楽々キャッチするものと思われた。」

「そんなボールをウズベキスタンのGKがなぜ後逸することになったのか。井原が最後尾から蹴っ
たボールがほぼ直接、ゴールに吸い込まれることになったのか。」

「GKがカズの動きに幻惑され、ボールから目を離したとしか言いようがないが、数ある観戦歴の
なかでも、このゴールほど、不可解でミステリアスなものは珍しい。日本サッカー史に重大な影響
を与えたゴールがこの有様では、大真面目にサッカーを論じることがバカバカしくなるほどだ。だ
が、それがサッカーの持つ恐ろしい魅力でもある。"事実は小説よりも奇なり"を地で行くゴールとはこのことだ。」

「タラレバ話をしたくなる。あのゴールが決まっていなければ。普通にGKがキャッチしていれば......。」

「岡田さんのその後の人生は、この運によって支えられているといっても言い過ぎではない。」

杉山さんが「このゴールほど、不可解でミステリアスなものは珍しい。」と指摘した、このゴール、それはサッカーの神様が岡田さんに与えた恩寵かも知れません。

すなわち「加茂監督の下で、監督を全力で支え、そして図らずも突然押し上げられた監督の仕事を従容として引き受け、別人格になったかのように監督の仕事に向き合ったこの岡田という人、監督を続けてみなさい」という具合にサッカーの神様が思われたのではないでしょうか?

それを杉山茂樹さんは「岡田さんのその後の人生は、この運によって支えられている」と評したのだと思いますが、訳のない運ではなく、サッカーの神様が「岡田武史、汝であれば監督という仕事にも全身全霊で向き合える、続けよ」と、神様だけができる「未来を見通せる力」で与えた「運」といってもいいのかも知れません。

また一つ、30年の記録をひもとく中で、私の中に残っていたナゾが解けた気分です。
ありがとうございました。

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Jリーグスタート以降、日本サッカー30年間の記録から(3) カズ選手「フランスW杯代表落選の衝撃」前夜の様子から見えてくるもの

2023年01月04日 17時02分29秒 | サッカー日本代表
1998年6月2日、フランスW杯開幕まで1週間、初戦のアルゼンチン戦まで、あと10日ちょっとしかない時期に、キャンプ地であるスイス・ニヨンで、日本代表・岡田監督は屋外で記者会見を開き、手短に「外れるのはカズ、三浦カズ、北沢、市川の3人」と発表しました。

記者団からは軽いどよめきが出ましたが、それが国内外に打電されるや否や、衝撃のニュースとして、瞬く間に日本中を駆け巡りました。

ふだんは日本代表選考のニュースが、報道・放送の中心ではないテレビのワイドショー番組や週刊誌系のメディアが連日のように大々的に報じましたので、増幅につぐ増幅で、大騒ぎになりました。

あれから24年、カズ選手はいまだに現役選手を続けています。カズ選手が心底サッカー小僧で、自分の引き際だとか、有終の美といったことには頓着していないかのような若々しさでサッカーを続けていることは紛れもない事実です。

けれども、一方で私は「日本代表としてワールドカップに出たい」という唯一無二の目標を永遠に失ってしまったカズ選手が「サッカー選手として出口を見つけられずに彷徨い歩き続けているのではないだろうか」という思いもぬぐい切れないでいます。

当時、決断した岡田監督に対しては「もっと違った選択があったのではないか」という指摘がずいぶん浴びせられました。曰く「カズ選手を外さなければならない必然性より、カズ選手を残しておく必然性のほうが大きかったのではないか」たとえ100歩ゆずって「カズ選手を外さなければならないとしても、もう少し本人のプライドを尊重するやり方があったのではないか」等々。

いま、あらためて当時のスポーツ紙記事をつぶさに読み直してみると、発表後の衝撃の記事もさることながら、直前、1~2週間ぐらいの日本代表の動向からは、ある意味、カズ選手の落選はむしろ当然の流れであり、岡田監督も「カズはもうダメだな」と思いつつ劇的なコンディションの戻りに一縷の望みを託して引っ張った結果の6月2日発表だったように感じました。

一旦スイスに連れていってからの3名切りということもあって、余計「かわいそう」ムードをかきたてた事件でした。

現地スイスでの発表前夜にあたる6月2日付けの毎日新聞朝刊は、一面に「カズ、北沢は落選濃厚」の見出しを打って見通しを報じました。

それを読むと、直前の国内でのキリンカップ2試合そしてスイスでのテストマッチ・メキシコ戦、いずれもカズ選手と北沢選手は出番なし、カズ選手は昨年9月のアジア最終予選初戦ウズベキスタン戦以来得点がなく、足を痛めるなど本番で力を発揮できないと判断された。とあります。

キャンプ地・スイスに出発する前から、カズ選手は構想外になっていたことを示しています。そのキリンカップの期間中、スポーツ紙一面にカズ選手が「落選3人も、先発11人も早く決めて」と訴えているという記事が躍りました。

文字どおり日本代表の中で一目も二目もおかれているカズ選手ですから、記者に話したことが記事になっても監督批判とは受け取られませんが、他の選手にはマネのできないことです。
しかし、一方では他の選手が黙々とポジション獲得のために汗を流している中、カズ選手は「気が気でない、心ここにあらず」といった心境だったのではないでしょうか?

「どうも自分の立場があやしい、先発はおろか最終メンバーにすら残れないのではないか、いや、そんな筈はない、自分が落ちる筈がない、でも、試合に出してもらえていない、途中交代でさえもチャンスがなくなっている」

そう考えた時に思わず「なんとかしてくれ」という気持ちが出たのではないでしょうか。

6月2日の落選発表を受けて、もっとも辛辣な言葉を浴びせたのが、カズ選手が所属するヴ川崎のニカノール監督でした。少し長くなりますが、当時のスポーツ紙記事を転載します。6月5日付けの東スポ紙です。東スポ紙は夕刊紙ですので、発売は6月4日夕刊ということになります。ちなみに記事は一面ではなく中面です。

見出しは「岡田は嘘つきで汚い男だ」「ニカノール監督カズ落としに激怒」
本文はこうです。「2人(カズと北沢)を外したのは計画的で、実に汚いやり方だ。最初から22人に選ぶつもりがないのに、カズと北沢を25人に入れたのは、2人の名前がなければマスコミが騒ぐ、だから、もう遅いという、ギリギリのタイミングで2人を切ったんだ」と言って声を震わせた。

怒りの収まらないニカノール監督はさらに、こう続けた。「キリン杯でカズ以外のFWは全員使った。森島をトップで使ってもカズは使わなかった。中盤も北沢以外は全員使っている。2人を外すことはスイスに行く前から決まっていたんだ。切るんなら、そこでハッキリ言うべきだった。監督は間違ったことを言うこともある。しかし、絶対ウソをつくべきではない。ウソをつく人間を私は許せない」と岡田監督をコキ下ろした。

という内容です。
スイスに行く前から切ることを決めていて、それを隠して連れて行ったことが「ウソつき」ということになるのかどうか、首をひねるところもありますが、同じ監督目線のニカノール監督にすれば、もう岡田監督のハラは完全に読めたのでしょう。

そして、最初に25人にして、そこにカズ選手と北沢選手を入れたのは「2人の名前がなければマスコミが騒ぐ」と考えた。これも「監督ならば、そう考えても不思議ではない」という監督目線の発言でしょう。

では、どうすべきだったか、です。
日本を離れる前に22人を発表して、そこでどれだけマスコミが騒ごうと、毅然としているべきだったのでしょうか。それにも異論が出そうです。
残された短い時間の中でチームを固めなければならない時に、世間の大騒ぎにどう向き合えばいいのか? と。

そもそも、どんなに戦術的にもコンディション的にも合わなくとも、カリスマ・カズは22人の中に残すべきだったのでしょうか?

それにも異論が出そうです。22人のうち一人たりとも使えない選手を残して、使える選手を外すわけにはいかない。それが選考の王道だ、と。

こうして、カズ選手「フランスW杯代表落選の衝撃」前夜の様子を伝えるスポーツ紙の報道をつぶさに点検していくと、どうみてもカズ選手が選考に残る可能性がないことが明白になった中での6月2日の会見だったようです。

まさにニカノール監督が喝破したように「もう遅いという、ギリギリのタイミングで2人を切った」ことによって、衝撃の度合いが最小限に抑えられたのかも知れません。
それでも国内ではワイドショーも週刊誌も、ハちの巣をつついたような騒ぎで取り上げたのですが、代表選手たちは海外にいて、直接、その喧騒にさらされることはなかったのです。

日本サッカー史に残る大事件でもあった出来事でしたが、代表選手たちが直接巻き込まれることがない形で済んだのは不幸中の幸いだったのかも知れません。

この事件は、私もずっと、わだかまりが残っていた問題でした。
私の考え方は「22人にカズ選手を残して何の問題もないのではないか」という点と、「ドーハの悲劇」の戦友である柱谷哲二選手が「よくも二人のプライドをズタズタにしてくれた」と取材マイクの前で語った言葉に「確かにそうなんだよなぁ」とシンパシーを感じた点です。

一つ目のわだかまりに関して、岡田監督は、25人を発表した時に、清水エスパルスの伊東輝悦選手を選出しています。当の伊東選手が「どっきりかと思いました」と語っていたように、いわば追加招集のような選出でした。
今にして思えば、ここに一つのカギがあるように思います。

伊東選手は中盤のやや守備的なポジションで活躍している選手でした。本大会グループリーグ3試合を通過するには、どうしても守備にウエイトを置かなければならない。守りの面で計算できる選手を分厚くすることにしたい。

そう方針が決まった時、FW陣で一番序列の低い選手は切らなければならない。伊東選手を招集した時点で、すでにFWの序列最下位はカズ選手、結局、最後までそれは変わらなかったわけで、それはハタ目にも明らかだったのでしょう。

ですから「22人にカズ選手を残して何の問題もないのではないか」という私の考えは「W杯で戦うチームの戦い方」を度外視したものでしかないということになります。
私自身が納得せざるを得ないことだと思い至っております。

もう一つの「よくも二人のプライドをズタズタにしてくれた」という点に対するシンパシー。これも、ニカノール監督が、いみじくも説明してくれたように「二人のプライドがズタズタになる度合が一番小さくて済むタイミングがあのタイミングだった」と考えるべきなのかも知れません。

国内発表で25人ではなく、いきなり22人にした場合のセンセーショナルなインパクトを考えると、本人たちのズタズタ感の実相より、マスメディア等、外部からの増幅圧力が働いたズタズタ感のほうが、数倍大きく報じられ、収拾がつかなかったかも知れないということを感じます。

このように「カズ選手落選」事件に関して残っていた、私自身のわだかまりも、今回の再点検によって消えつつあります。
やはり、当時はシンパシーだとか感情面に左右された判断があり、その残滓が「わだかまり」として長く心に残っていたようです。

また一つ、30年の記録をひもとく中で、問題が解決したような気持ちになりました。
ありがとうございました。


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Jリーグスタート以降、日本サッカー30年間の記録から(1)「ドーハの悲劇」は、いつから見出しになったのでしょう。

2022年12月21日 18時04分54秒 | サッカー日本代表
これからは、過去30年間続けてきた、サッカー試合・番組の録画保存や、スポーツ紙等の収集保存の中から、あらためて再発見したことなどをお伝えしていくシリーズを始めたいと思います。

今回のW杯、カタール・ドーハの地で、我らが日本代表はドイツ、スペインを撃破する快挙を成し遂げました。それは、かつて29年前にこの地で味わった「ドーハの悲劇」を上書きする形で「ドーハの歓喜」と呼ばれ、これから長く語り継がれていくであろう出来事でした。

これで「ドーハの悲劇」は、遠い歴史の一コマになり、次第に人々の話題から遠ざかっていくことと思います。
ちょうど、そのような時、1993年当時のスポーツ紙などの新聞をデジタル保存する作業を行ないました。A3サイズの複合機で新聞をスキャンしてPDFで保存する作業です。

実はスポーツ紙の大きさはA2サイズありますから、その大きさでスキャンをかけたいと長らく検討してきました。しかし、いろいろと調べてみて、A2サイズのマシンを用意するのは至難の技だということが明らかになりA3サイズでデジタル保存することに決め、今月からスタートしたところです。

能書きはそれぐらいにして、1993年のサッカーにおけるハイライトは、Jリーグ開幕と「ドーハの悲劇」という結末だったアメリカW杯アジア最終予選です。

アメリカW杯アジア最終予選を報じるスポーツ各紙の扱いは試合を重ねるごとにヒートアップしてきましたが、最後、出場権ならずというところでは「悪夢ドロー」や「日本呆然」「夢散った」といった見出しが躍りました。

その関連の一番最後に、試合翌日の「夕刊フジ」が「ドーハの悲劇」という見出しを打った記事が出てきました。

当方の保存資料では、これが一番最初に「見出し」になったようです。

ウィキペディアで「ドーハの悲劇」を検索すると、かなり長い説明があり、その中で、次のような記述があります。

「試合終了の数時間後に発行された読売新聞10月29日付朝刊では、すでに解説文中で「ドーハの悲劇」という言葉が使われていた[13]。現地で取材した読売新聞記者は、1986年のUEFAチャンピオンズカップ決勝で優勝候補のFCバルセロナがステアウア・ブカレストにPK戦で敗れた「セビリアの悲劇」を思い浮かべながら記事を書いたという[13]。その日以降、ほかの新聞や雑誌でも「ドーハの悲劇」というフレーズが用いられた。」
【出典[13]】
^ a b c 大西秀明 (2013年9月5日). “ドーハの「悲劇」と「奇蹟」”. ことばマガジン (朝日新聞DIGITAL) 2018年7月17日閲覧。[リンク切れ]

このウィキペディアが正しいとすれば、夕刊フジの編集部も、この読売の解説を読んで「これだ」と思い「見出し」につかったのかも知れません。

その後、これほど長く語り継がれることになろうとは、当時は想像もつかなかったことでしょう。
それも、今回の「ドーハの歓喜」により上書きされ、その役割を終えたのかも知れません。

では、次回のテーマをお楽しみに。
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当ブログの「カタールW杯日本代表に対する思いについての総括」

2022年12月17日 18時03分43秒 | サッカー日本代表
2022年カタールW杯も、いよいよ三決戦と決勝を残すだけとなりました。決勝のフランスvsアルゼンチン戦は、今大会でもっとも華のあるカードと言えます。

メッシが悲願の優勝を果たせるか、現在、最高レベルにあるフランスが連覇を果たすか、結果は神のみぞ知る、あまり物議を醸すような場面のない、すっきりした試合になって欲しいと願うばかりです。

そんな中、我らが森保ジャパンは戦いを終え、さまざまなメディア出演などを通じて、今大会を振り返り次にどうつなげるかを語っています。

当ブログは、大会前、グループリーグの対戦相手である、ドイツ、スペインとの戦いで、勝てないまでも十分守り切る力があり、それほど悲観したものではありません、というスタンスでした。

このうち、各ポジションの構成については、当方の見立てが少し違っていた部分があり、何人かの選手には「申し訳ありませんでした」と申しあげなければなりません。

まずGK、当ブログはシュミット・ダニエル選手がいいのではと感じていて「権田選手なのか、シュミット・ダニエル選手なのかわかりませんが」とボカしていました。けれども森保監督のチョイスはこれまでの序列どおり権田修一選手でした。

その権田選手、ドイツ戦、スペイン戦のマンオブザマッチに選出されたのですから脱帽です。川口能活選手や川島永嗣選手のように闘志が前面に出るタイプではありませんが、その分、冷静沈着、たとえミスしても引きずらないメンタル、見事でした。

次にDF陣、まず私の知識不足はキャプテン・吉田麻也選手の高さでした。冨安選手や板倉選手に比べて高さがないと思い込んでいたところに当方の基本的な誤りがありました。

十分に高さのあるキャプテン・吉田麻也選手の経験、リーダーシップ、身体能力は守りの要として欠かせない存在でした。大会前、当ブログは「冨安選手、板倉選手のどちらかがケガで間に合わなければ、吉田麻也選手で行くしかない」というスタンスでしたが誤りでした。

今大会、逆に吉田選手を要として板倉選手、冨安選手そして谷口彰悟選手が、入れ替わり組み合わさって構成した最終ラインは、これまでのどの大会よりも安定感のある布陣で、惚れ惚れするぐらいの仕事をしてくれました。

日本代表のDF陣もここまで来たか、という感慨にも似たものを感じました。

そしてMF陣、特筆すべきは遠藤航選手と守田英正選手が組むボランチです。この二人がいてこそ日本の守りが支えられたと言えます。

このどちらかが出られない場面では鎌田大地選手が入っていました。鎌田選手がこのポジションも十分こなせることをあまり知らなかった当ブログは「大丈夫なのかしら」と見ていましたが海外クラブの評価は上がったようです。

今大会、鎌田選手はトップ下のポジションでスタメンでしたから多くのファンが得点に絡む活躍を期待したでしょうし、その点では本人も不本意だったかも知れません。
ただ当ブログは、鎌田選手の4年後、今大会のグリーズマン選手のような、攻守にわたる、まさに司令塔として試合を支配できる選手への成長を期待したいと思います。

最後は前線の選手について、当ブログは以前の書き込みで「森保監督が記者団の質問に答えて『FW陣にはW杯経験者が一人もいないが、彼らが、このW杯で何かをやってのけたいという野心を持っており、それに期待したい』と述べました。

まさに、そのとおりだと思います。当ブログでは以前から、守備陣がベストコンディションで臨めば、持ちこたえる可能性はあるので、あとは前線の誰かが、あっと驚くようなことをしてくれることを期待するしかありませんと、考えています。」と書きました。

その「前線の誰かが、あっと驚くようなこと」を堂安選手が、そして浅野拓磨選手、三笘薫選手、田中碧選手、前田大然選手がやってのけたということになります。森保監督は「経験のある選手ではなく経験はないけれど野心に満ちている選手」を選択しましたが、見事に、それに応えてくれたと思います。

「あっと驚くようなこと」をやってのけた要因は、野心を持った選手をチョイスしただけではありません。その選手たちの沸々たるエネルギーがMAXになったところでピッチに解き放つ、絶妙のタイミングでカードを切ったという点でも見事だったと思います。

すなわち監督の「ここだ」というタイミングと選手たちの「いまこそ」というタイミングが見事にシンクロしたことによって生み出された結果でもあります。

このシンクロ感がなければ、実は「笛吹けど踊らず」状態になり、結果は付いてこないのです。多くの監督がうまくいかないのが、このシンクロ感を見極めるという点です。

森保監督の場合、1度だけ、そのシンクロ感がずれてしまった場面がありました。ベスト8を賭けて戦ったクロアチア戦、同点にされた時が選手と監督の思いがシンクロするタイミングだったと思います。

あそこで監督は9分ほど時間を空けました。それによって投入される筈の選手もピッチにいる選手も「さて、どうなるのだろう」と真空状態になってしまいましたが、同点にされてすぐ間髪を入れず投入していれば全員が「よし、また取りに行くぞ、取るぞ」という気持ちの切り替えができたのではないでしょうか。

あの9分間が、監督と選手の思いがシンクロせずに、選手たちのエネルギーをMAXに仕切れなかった唯一の采配の迷いだったように思います。

若い選手たちの野心に期待して、それを結果に結びつけるためには、監督の用兵を通じて選手のエネルギーをMAXに引き出す監督と選手の思いのシンクロ感が欠かせないと痛感させられました。森保監督はドイツ、スペインを撃破する采配を通じて、それを見事に成し遂げ、全世界から高い評価を受けました。

よく、交代選手が結果を出し「監督の采配ズバリ」と称賛を浴びますが、それは交代時期が、まさに選手のエネルギーをMAXに引き出すタイミングとシンクロしたからにほかなりません。

名将と言われる監督たちは、それを、どの場面でも冷静に的確に間違いなく決断して、結果を残してきた人たちです。森保監督も、その資質と可能性をもった楽しみな監督です。

日本代表監督が、野心に満ちた若い選手に期待する考え方は、小野伸二選手や本田圭佑選手を抜擢した岡田武史監督の時から引き継がれているスタンスですが、今後の代表監督も継承して欲しいと思います。

前線の選手でもう一人コメントしておきたい選手に伊東純也選手がいます。今大会、守りでの奮闘が目立った分、点に絡む場面を作れなかったことについて、鎌田選手同様、不本意だったことと思います。

当ブログは、縦へのスピードもさることながら、強引にカットインしてベナルティエリアに持ち込む数が少なかったように感じていて、なぜなんだろうと思いました。やはり守りを意識するあまり自重ぎみにプレーしていたのかなと思いながら。

同じことは久保建英選手にも感じました。守りへの貢献を意識しすぎてはいなかっただろうかと。

さぁ、そして、今後のことですが、クロアチア戦のあとの最後の夕食の場で、選手たちから出された声が「ドイツ、スペインに勝ったものの、それは守り勝ったというだけのことで、将来につながる勝ち方ではないと思う。やはり日本として攻めて勝ち切るパターンを構築しないと、次には進めないと思う」というものでした。

そして多くのサッカー評論家たちも同様の意見を述べています。しからば、それを求めていった場合の落とし穴について、過去の大会を知るベテラン選手たちが、その食事の場で正鵠を射た話を出したそうです。

すなわち「2010年南ア大会も守りを固めてグループリーグを突破したものの、攻めのパターンを持たなかったためにベスト16どまりになった。そこで攻めを重視する戦いに軸足をおいた結果、2014年ブラジル大会は1勝もできなかった」と。

そういった話し合いの帰結として、やはり、しっかりした守りの基盤を持った上で攻めの形をどう作るかというふうに次の4年を使おう、ということになったそうです。

選手たちは、しっかりと次にやるべきことを整理して前を向ける状況になったと言えます。
そうなった時、当ブログが心配するのは、やはり監督を誰に託すべきかという明確な道筋が見えないことです。

しっかりした守りの基盤を持った上で攻めの形を作れる監督さんとは誰なのか、森保さんなのか、他の日本人、あるいは外国人監督なのか、収れんしないまま誰かに決まる感じがして怖さを感じています。

森保監督の今大会における采配を通じて明確になったことは、全員が守りにハードワークをすることが必須であり、攻めの形という点については、フレッシュな状態の両サイドからの崩しに頼るという戦術です。

例えば日本人で最高のプレースキッカーをチョイスして、デザインされたセットプレーを持つといった点が疎かになったことは否めません。
またポストプレーヤーを使わなかったことも戦術の幅を狭めたと思います。森保監督が続投した場合、それらを改善する戦術転換があるかどうか、です。

一方、他の監督になった場合、これまで積み上げてきたものが瓦解しないかどうかという懸念があります。なかなか難しい問題です。

最後の課題は、やはり個のレベルの部分でしょう。メッシやエムバペのようなスーパーな選手とは言わないまでも、前線から一列下がった位置で新境地を開いたグリーズマン選手のように、この4年の間に「大化け」してくれる選手が2人か3人は欲しいところです。鎌田大地選手が、その一人になって欲しいという点は、すでに書いたとおりです。

次回大会、日本が出場権を失うことは、まず考えられないアジア枠になりましたが、その分グループリーグ突破の難しさは増すと言われています。

歴史上初めて2大会連続でグループリーグを突破した日本代表には、国内から「グループリーグを突破して当たり前」という風潮が醸し出されることは間違いありません。

つまり「あとはどこまで勝ち上がれるのか」という風に要求基準が上がったとも言えます。そうは言っても、いざ大会前になれば「いかにしてグループリーグを突破するか」の議論に花が咲き、また1試合ごとに日本列島が一喜一憂するでしょう。

そうやって「日本におけるサッカー文化」が大会を重ねるごとに深く厚みを増していきます。今大会も、スペイン戦とベスト16クロアチア戦をフジテレビが放映したこともあり、フジテレビを中心に民放のW杯サッカー露出ぶりは、まさに4年ぶりの喧騒状態でした。

2002年日韓大会あたりから形作られたワイドショーやニュースショーでのW杯サッカーの番組パターンが4年に一度復活するという感じです。

一つだけ違うのが専門的な解説をしたりコメントするサッカー関係者が、大会を重ねるごとに多彩になってきて楽しい限りです。

また今大会はネット配信による試合が大幅に増え、本田圭佑氏(氏と付けるのにまだ慣れていませんが)がネット配信の解説で出番が多かったということで、その活躍ぶりがテレビで取り上げられたりSNSで話題になるなど、新たな時代に入ったことを実感させられました。

そんなことを思いつつ、当ブログとして「今大会の総括」としたいと思います。

さる12月6日の書き込みでも申し上げましたが、この年末をもって、試合や番組等映像の新規録画保存、スポーツ紙・サッカー雑誌等の収集保存は区切りにします。

したがって、旬のネタで当ブログに書き込みする場面は激減するかも知れません。やはり年々歳々、情報量が少ないまま書き込みをして、トンチンカンな中身にしてしまうリスクが高まっています。
本日のブログでも吉田麻也選手の高さを見誤っていましたし、前回の書き込みでもフランス代表選手の主力でケガのため出られない選手の情報を持たないまま、ということがありました。

やはり旬のネタに関する情報を十分持たないまま書き込むのは危険だと痛感しています。
これからの書き込みの中心は、現在進めている「サッカー文化フォーラム」のwebサイト「ようこそ、サッカーの世界へ」に盛り込むコンテンツのための基礎データのデジタル化そしてデータベース作り、さらにはテキスト作成の過程で感じたこと、再発見したことが中心になると思います。

一例をあげますと、今回、カタール・ドーハで行なわれた試合で、過去に味わった「ドーハの悲劇」を「ドーハの歓喜」に変えたわけですが「ドーハの悲劇」というフレーズが最初にメディアに現れたのを見つけました、というような具合です。

これは日をあらためて書き込みしたいと思います。

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2022カタールW杯日本代表の「新語・流行語3選」

2022年12月08日 20時12分12秒 | サッカー日本代表
2022カタールW杯が始まってまもなく、日本ではこの時期恒例の「新語・流行語大賞」が発表されました。
いろいろなノミネート語の中から「村神様」が大賞に選ばれたそうです。

その後、スポーツ紙などが2022カタールW杯日本代表の「新語・流行語」を10語ノミネートしてくれて「新語・流行語大賞」の時期とずれてしまったのが残念とコメントしてくれました。

その中から、後世まで語り継がれるであろう日本代表の「新語・流行語」を3つあげて、記録しておきたいと思います。順不同です。

1.三笘の1ミリ
2.新しい景色
3.ドーハの歓喜

いずれも説明の必要がないフレーズです。とりわけ「ドーハの歓喜」は、あの「ドーハの悲劇」を完全に拭い去ったという意味で、今大会を象徴していると思います。

逆に「新しい景色」は、今大会見ることができず、次回以降に持ち越しとなったという意味で、今大会を総括する言葉かも知れません。

また「三笘の1ミリ」は昨日の書き込みでも話題にしたように、世界のサッカー史に残る画像を生み出したという意味で、日本代表の「新語・流行語」の枠を超えて、2022カタールW杯全体の「新語・流行語」になると思われます。

すでに大会は、ベスト8が出揃いました。カードは、
・オランダvsアルゼンチン
・イングランドvsフランス
・クロアチアvsブラジル
・モロッコvsポルトガル
とのことです。

どうやら決勝はブラジル、もう一つはフランスなのかアルゼンチンなのか、という感じがしますが、あまり「これで決まり」感はありません。
やはり、日本代表の挑戦が終わったことによる喪失感は大きいものがあります。

【上記、決勝カード予想の訂正】
ベスト8からの勝ち上がりの山をよく確認しないで書いてしまいました。ブラジルとアルゼンチンは勝ち上がれば準決勝でつぶし合いますので、以下のように訂正します。
どうやら決勝はフランス、もう一つはブラジルなのかアルゼンチンなのか、という感じがしますが、あまり「これで決まり」感はありません。

ところで、この3チームにはPSG(パリサンジェルマン)の三銃士がいますね。フランス・エムバペ、アルゼンチン・メッシ、ブラジル・ネイマール。PSGはカタール資本とのことですから、決勝のピッチに三銃士のうち二人が立てば、まさに絵にかいたような話になりそうです。
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森保監督とその選手たちと共に「新しい景色を見に行く」長い旅路が終わりました。

2022年12月06日 18時47分54秒 | サッカー日本代表
本日12月6日未明、2022年カタールW杯決勝トーナメント1回戦・クロアチアとの試合は1-1のまま延長PK戦までもつれ込み、森保ジャパンは力尽きる形で大会を去ることになりました。

4年以上もの長い間、森保監督とその選手たちとともに「決勝トーナメント1回戦の壁を突破して、日本中のみんなで、新しい景色を見に行こう」という合言葉を掛け合いながら続けた長い旅路は、未完のまま終わりました。

それにしても何という壁の厚さでしょう。今回もまた何かが足りなかったということになりますが、少なくとも、あと4年をかけないと次の挑戦の場に立てません。

しかもアジアの壁を突破して、グループリーグの壁を突破するという大変な挑戦を、一から出直さなければならないのです。

サッカー日本代表は、もはやワールドカップに出るのは当たり前、グループリーグ突破も折り込み済みといったところまで実力をあげては来ましたが、イタリアが本大会に来れず、ドイツやベルギーがグループリーグで敗退といった具合に、どんな強豪国にも約束された地位などなく、ひたすら勝ち取って積み上げていかなければならないことを考えると、本当に大変なエネルギーが必要なんだということがわかります。

これまで4年以上もの間で、森保監督が成し遂げたこと、結構、日本サッカー史に刻まれることが多かったと思います。

代表的なことをあげれば、一つは既に11月20日の書き込みで触れた「代表監督が新チームを結成してからW杯本大会に臨むまで交代なし」で来た史上初の監督であること。これは、この先もどれだけの監督が成し遂げられるかわからない、かなり希少な偉業だと思います。

もう一つは、ベスト8進出こそ逃したものの、2大会連続となるグループリーグ突破を果たしたわけで、これは、1998年の初出場以来、グループリーグ敗退と突破が交互にやってきた歴史を塗り替えた点です。これは偶然ではなく2018年ロシア大会の成果と反省を無駄にすることなく、継続性のもとチーム作りを進めてきた結果です。

今後、この継続性をどれだけ保てるのか、JFA協会の問題でもありますが、対応を誤ると、せっかく築き上げてきたものが瓦解するリスクもある部分です。

それにしても、今大会、ドイツ戦、スペイン戦、クロアチア戦それぞれ出場したメンバー、特に守りのメンツはレベルの高い選手が揃ったなぁ、という感慨を持ちました。各試合とも一人か二人はベストメンバーが欠けましたが、代わりに出た選手の質を見ると、つくづく感じます。

また、あたかも前半と後半のターンオーバーのような選手の入れ替え策も、大会レギュレーションの変更やタイトな日程をにらみながら、うまく機能しました。

惜しむらくは、クロアチア戦、後半10分、同点に追いつかれたあとの交代投入が間髪を入れずというタイミングではなく、さらに10分ほど引っ張ってしまい、相手に行った試合の流れを取り戻すことに失敗したように思いました。
あそこで、すぐ前線の選手を投入していたら、チームとしての攻めの意識共有がすばやくなされ、攻撃が活性化したと思います。残念でなりません。

やはり、これぐらいの大一番になると、ほんのちょっとの躊躇が命取りになることを、まざまざと見た気がします。

さて、日本の選手たち、冬の移籍市場でどれぐらいキャリアアップするか楽しみです。冨安選手のアーセナルはそのままでしょうが、遠藤航選手、板倉滉選手、三笘薫選手といったところは、あらたなオファーを受けるように思います。

そして4年後、これからの選手たちの成長、例えば松木玖生選手やレアルマドリーのカスティージャにいる中井卓大選手などの逸材が、どんな姿で新たなメンバーに加わるか、楽しみでなりません。

最後に、私事ですが、この年末をもって、試合や番組等映像の新規録画保存、スポーツ紙・サッカー雑誌等の収集保存は区切りにします。

これは今年年末が、Jリーグ丸30年経過、来年は31年目に入るということで、録画保存や収集保存も丸30年で一区切りということからです。

このあとの録画保存や収集保存は、あとに続く方に託します。
私は、これまで蓄積した資料をひたすらデジタル化すること、そして「サッカーの世界にようこそ」のサイトに反映して、日本のサッカー文化の萌芽と成長・進化の歴史を、余すところなく記録して100年先まで伝え残す作業に、残された人生のすべてを捧げることとします。

自分の余生があと何年かわかりません。けれども90歳台半ばにしてなおお元気に活動をされていらっしゃる神戸の賀川浩先生のように、ひたすら伝え残す作業を続けたいと思っています。

その間に、どなたかに「伝え残す作業」に加わっていただき、並走しながらバトンを渡せることを、ひたすら願っています。
このブログを始めてから10年になりました。まだまだ呼びかけ続けなければならないと思っています。
よろしくお願いいたします。



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