「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

たとえ早逝しても幸せな男「松田直樹」、田中隼磨が受け継いだ魂

2015年02月15日 21時08分31秒 | Jリーグ・三大タイトル
BS-TBSの番組に「裸のアスリートⅡ」というスポーツドキュメンタリーがある。
昨日、2月14日は、昨シーズン、J2から見事J1昇格を果たした松本山雅のDF田中隼磨(はゆま)選手を取り上げていた。

田中隼磨選手は、横浜M時代、長く松田直樹選手とディフェンスラインでコンビを組み、その間、5歳年上の松田直樹選手からプロフェッショナルとしての生き方を学んだという。

そして、時は流れ、田中隼磨選手は名古屋に移籍、残った松田直樹選手は戦力外となり、当時JFLだった松本山雅に活路を見い出した。

ところが松田直樹選手に突然の悲劇が襲い、34歳の若さで生涯を閉じた。

田中隼磨選手が、名古屋を去ることになった時、選んだ先が松本山雅だった。この時、田中隼磨選手には「松田直樹先輩の志を継いで松本山雅をJ1に昇格させる力になる」という明確な目標を持てたという。

もらった背番号3は松田直樹選手がつけていた番号で、田中選手は「この番号は松田選手そのものだと思ってつけている」と語っていた。

そして、2014年シーズン、松本山雅は悲願のJ1昇格を果たした。田中隼磨選手の思いは見事に結実した。

2015年シーズン、J1を戦う田中隼磨選手に2つの意味でいいシーズンであればと願う。一つは松本山雅が堂々たる戦いぶりでJ1の生存競争に打ち勝てるといいのだがという点、もう一つは田中隼磨選手自身がレギュラーとして充実したシーズンを送れればという点である。

私は、この「裸のアスリートⅡ」という番組を見て思ったのは、松田直樹選手の、なんと幸せな男か、ということだ。

松田直樹選手は、後輩の田中隼磨選手が、自分の志をこれほどまでに引き継いで、しかも実現してくれると、どれほど手ごたえを持っていただろう。もし自分が健在でいたら、同じように松本山雅をJ1に引き上げる力になれていただろうか?

そんなことを考えながら見ていた。

田中隼磨選手という、松田直樹の志を律義なまでに受け継ぎ、その実現に闘志を燃やした後輩のおかげで、松田直樹の「魂」は生きた魂となったのだ。だから、松田直樹は、たとえ早逝しても幸せな男になった。そう思わずにはいられないのだ。

人生にとって何が幸せなことか。いろいろな考え方があるのは確かだが、松田直樹の人生、これもまた一つの幸せのカタチだと思う。

彼は一途に「サッカー小憎」的な生き方を全うした。その生き方の中で、彼自身が意識したかどうか別にして田中隼磨選手という後輩が、彼をサッカー選手としての手本だと受け止めてくれた。不幸にして松田直樹自身は早逝したが、彼の魂と志を引き継いでくれた後輩が、見事なまでに全うしてくれたのだ。

私は松田直樹選手のことを思う時、いつも中田英寿選手のことを思い浮かべる。なぜなら、彼らはU-17世代当時から世界大会を共に戦ってきた、日本サッカーの歴史でも稀有の経験値を持つ二人だからである。

中田英寿選手は、その後、日本サッカーのエースとして長らく君臨するとともに、海外でも華々しい活躍をした。

しかし一方で、中田英寿選手の「魂」とか「志」を引き継いでくれた選手はいるのだろうかということも考えてしまう。

松田直樹選手には海外での実績もない、日本代表での実績も中田選手には及ばないかもしれない。しかし、彼の「魂」と「志」はまぎれもなく受け継がれた。

どうしても、そう考えてしまうのだ。松田直樹選手と中田英寿選手と並べて論じることには、いろいろな意見が出ると思う。中田英寿選手だって、そんなことを比べられても当惑するかも知れない。

いや、中田英寿選手のことだ。きっと「それは人それぞれの考えだから、自分がどうのこうの言うことはない」とクールに反応するに違いない。

「裸のアスリートⅡ」を見て、最終的には、共感を呼ぶ生き方とはどういうものか、ということを考えさせられたのだ。
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次から次と代表監督候補者の名前

2015年02月08日 20時12分20秒 | サッカー日本代表
アギーレ監督解任後、スポーツ紙は競って次期監督の名前をあげている。いつまで続くやら。
とりあえず、これまでの名前を並べてみよう。





ここにあげた各紙の1面にあがった名前は8人、このうち、ブランデッリとラリエリには断られたとある。

また、日本人監督にはしないという方向性なので城福氏の目もないか・・・。

各紙ともスクープを狙っているから、今後も、新しい名前が出てくる可能性がある。
まぁ、お次は誰ですか? といった感じで、しばらく見るしかない。

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「伝説の年、1997~1998年」 もう一つの検証事項

2015年02月05日 22時27分47秒 | サッカー日本代表
前回の書き込みで「伝説の年、1997~1998年」、それはただの伝説の年ではなく、検証すべき事が残された「伝説の年」ということで、日本代表加茂監督更迭、岡田コーチ昇格に絡む検証事項を取り上げた。

そして、この年の、もう一つの伝説は「カズ選手のワールドカップ代表落ち」である。これも、まさしく大事件、大伝説となった。
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日本代表監督解任と危機管理

2015年02月04日 18時47分33秒 | サッカー日本代表
アギーレ監督解任が発表された。当然のごとく今朝のスポーツ4紙とも1面トップで報じている。
これについては、またの機会に書き込みしたい。

今回のテーマは「日本代表監督を解任する」という出来事に関する危機管理についてだ。
これまでも、時々、サッカー映像をビデオテープからHDDに取り込む作業についてご紹介しており、現在、1998年分を作業していることもご紹介した。

そして、1997年9月から1998年7月までの時期が、日本サッカーにとって、永遠に語り継がれる「伝説の年」であることを、あらためて実感しながら作業している。

「伝説の年、1997~1998年」

この期間に何が起きたか、日本サッカーを愛する多くの皆さんは、詳しくご存じでしょうけれど、かいつまんで書いておきます。
1997年9月上旬から、フランスW杯アジア最終予選が5ケ国総当たりホームアンドアウェー方式で始まった。5ケ国中、1位チームは自動的に出場権獲得、2位チームは別ブロックの2位と第三代表の座をかけた試合が残されている。

加茂監督率いる日本代表は、初戦ホームのウズベキスタン戦に快勝、日本中の盛り上がりを受けて上々の滑り出しを見せたが、第二戦アウェーのUAE戦に引き分け、第三戦ホームの韓国戦で痛恨の逆転負けを喫した。これで、それまでのワッショイムードから一転「大丈夫か?」という空気が蔓延した。なにしろ1位確保はおろか第三代表決定戦に進む権利を残す2位確保すらおぼつかなくなったからだ。

そして第四戦アウェーのカザフスタン戦、先制しながら試合終了近く同点を許して勝ち点1にとどまったことで、遠くカザフスタンの地で加茂監督が更迭された。最終予選のさなかだ。後任の選択肢は一つしかない。内部昇格だ。

真の「伝説のゴール」は第四戦目の井原のロングボール

急遽就任した岡田監督。続く第五戦アウェーのウズベキスタン戦、先制され敗色濃厚となった試合終了間際、自陣深いところからDF井原正巳が蹴ったロングボールが最前線にいた呂比須と相手DFが交錯する中、ゴールに吸い込まれるという劇的な形で貴重な勝ち点1を拾った。

帰国してUAEをホームに迎えた第六戦、勝てば自力2位を大きく引き寄せる一戦とあって、再び日本中が盛り上がったが、日本は勝ちきれず試合を終えた。長くつらいW杯への道のりの、まさに正念場、第7戦はアウェーの韓国戦。

しかし、このあたりから運が実は日本側に傾いていた。韓国はすでに1位で出場権を決めていた中での戦いだったこと、日本が韓国に勝って2位を争っていたUAEは敗れたのだ。

そして、いよいよ最終戦ホームのカザフスタン戦、韓国に勝って再び勢いを取り戻した日本の前にカザフスタンはもはや敵ではなかった。
そしてマレーシア・ジョホールバルでの第三代表決定戦である。岡野雅行選手の劇的なVゴールは、日本が初めてW杯という舞台に立てる鍵をこじあけたゴールとなった。

その結果、加茂監督の更迭、岡田監督による指揮は、なんの問題もなく正しいこととなった。

しかし、これほど「結果オーライ」の危機対応もないのではないか。まともな組織のやる危機管理といえるのか、そういった点は、その後の日本サッカーの順風満帆な航海の中で、触れられずにきていないか、そうした体質が、今回のようなアギーレ解任の遠因になっていないか、そういう視点で述べたい。

つまり「伝説の年、1997~1998年」とは、単に伝説として語り継がれるだけでなく、キチンとした検証を必要とする年でもあるというのが、わたしの見解だ。

危機管理の検証 その① 加茂監督で危機が訪れた場合の処方箋とは

まず、何といっても、加茂監督で戦績が思わしくない場合、どうするかというシュミレーションがあったのか、なかったのか。まぁ、当時も現在も、選んだ監督に不測の事態が発生した時どうするか、なんて、実は考えていないのではないだろうか。

当時の日本サッカーの体制を考えれば、例えば国家の危機管理とか企業の危機管理というレベルの対処システムは、ほぼなかっただろうし、ここで検証が必要だと議論すること自体、ないものねだりかも知れない。

そういう意味では、むしろ未来に向けた検証材料という位置づけで述べたい。

加茂監督をカザフスタン戦のあと更迭した。すると選択肢は岡田コーチの昇格しかない。となると、もし岡田コーチでなかったら、どうなったことやら、という話になる。たまたま岡田コーチが、日本人最高の指導者資質を持った人だったから、日本サッカーは救われた形になったが、加茂監督を選び、その加茂監督が岡田コーチを選んだのは、どういう経緯だったのか、検証しておきたい。

危機管理の検証 その② 岡田コーチ昇格決定は、出場権獲得に失敗した時のエクスキューズにもなるという意識の有無

岡田コーチを昇格させた結果、日本は出場権を獲得できた。しかし、昇格させる時、どれほどの成算があったのか、成算があったかどうか問い詰めるのが酷だとしたら、出場権獲得に失敗しても、協会としてやるだけのことはやったのだというエクスキューズになる、という意識があったのではないかを検証する必要があると思う。

なぜなら、監督経験ゼロの人を、いきなり代表監督、しかも、のるかそるかの正念場に投げ込む荒療治だ。成算があったとしたら、どうして最初から岡田監督でいかなかったのか、という話になりかねない。成算の有無など聞かれても困るというのが本音だろう。

むしろ、私は、その時のメディアが、カザフスタンで協会が発表したのに対して、どういう反応をしたのかを問いたい。「協会としては、監督経験ゼロの人を、こんな修羅場に起用するということは、ダメモトという気持ちなんですね?」という質問をキチッとしたかどうかを。

危機管理の検証 その③ 「蚕室での勝利」に、日本代表の実力以外の有形無形の「力」が働いたのではないか

第六戦、アウェーの韓国戦、0-2で日本は勝利した。すでに書いたが、韓国は日本を迎え撃つ前に出場権を決めていた。あとは消化試合だ。しかし、通常の日韓戦に手心を加えるシナリオは考えられない。

にもかかわらず、ホームの韓国は日本に屈した。果たして本当のガチンコだったのだろうか? 何か有形無形の「力」が働いたのではないか、漠然と語られることは、いくつかあってもキチンと検証された形でのものはないと思う。この部分も避けて通れないと思う。

危機管理の検証 その④ 第七戦ホームのカザフスタン戦、そしてジョホールバルのイラン戦、負ける気がしない流れがある

日本が韓国に勝って、UAEが負けたというニュースが入った途端、日本中が「いける、大丈夫だ」という気になった。あればなぜなんだろう。カザフスタンにも負ける気がしないで、そのとおり大勝した。ジョホールバルでのイラン戦も、勝ち負けは五分五分だったはずなのに、負ける気がしない雰囲気の中で劇的な勝ち方をした。

イラン戦などは、実は、延長に入って絶体絶命の場面があったにも関わらず、見ている多くの日本国民が負ける気がしないで応援していたと思う。それはなぜか? いわゆる「試合の流れ」「勝負の流れ」というのもなのか、つまり、勝負の女神はもはや日本に微笑んでいたのだろうか、そういうことが実はあるのだろうか、今後も勝負とはそういうものだと心に決めておいたほうがいいのか、一度は検証しておきたい。

「伝説の年、1997~1998年」には、こんなにも多くの検証すべき事柄が残っている。当時の記録を丹念に掘り起こすと、おそらく相当のことが浮き彫りになるに違いない。わずか17~18年前のことだが、すでに歴史の中に少しづつ埋没しつつある。しかし、今回のアギーレ解任問題にも共通する検証結果が導き出せると思っている。

私は「伝説の年」シリーズを、そういう切り口でまとめていきたいと思っている。どうか、楽しみにしていただきたい。
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