パオと高床

あこがれの移動と定住

冬、ソウル(1) 景福宮 

2013-02-09 22:25:34 | 旅行
昨日は、福岡でも雪。
で、年末12月31日から1月3日までのソウル旅行。
雪のソウル。
「景福宮」
雪かき。

韓国ドラマでよく見る池も。

かすむ、雪景色。

大統領府、青瓦台も、白瓦台に。


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小澤征爾、村上春樹『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮社)

2013-02-06 13:14:25 | 詩・戯曲その他
まず、書名。控えめさがあり、そして、村上春樹が小澤征爾に寄せる敬意と親しみが感じられる。

間違いなく現代を代表する有名な指揮者小澤征爾と、これもまた間違いなく今、世界的に知られている作家村上春樹の「音楽」をめぐる対談。対談ではないか、村上春樹による小澤征爾へのロング・インタビュー。

小澤征爾は「あとがき」で、書く、「春樹さんありがとう。あなたのおかげですごい量の思い出がぶりかえした。おまけになんだかわからないけど、すごく正直にコトバが出て来た。」と。そう、村上春樹の音楽への造詣は生半可なものではない、とボク程度が言うのもおこがましいほど深く、広そうだ。うらやましさから、しゃくに触るのは、小澤征爾までもが驚くほどのCDやレコードの珍しいものを、村上春樹がひょいと出してくるところだ。その村上春樹が語りかけることに、小澤征爾は真摯に率直に応答している。音楽には、ここまでというのがなく、また、音楽はたくさんの個性によって彩られ、たくさんの個性の追求によって成立していることが伝わってくる。その音楽に正面から向き合い、格闘し、大切にし、自分の存在をかけてきた小澤征爾の姿勢が、会話から溢れ出している。それが、なんだか胸を打つ。

正直に語らなければならない。ボクは、今ひとつ小澤征爾のCDがしっくりこない。もちろん、好き嫌いの問題だ。そして、村上春樹の小説は、これもまた正直、ほとんど読んでいない。では、なぜ、この本を読んだのか。小澤征爾にしっくりこないのは、ボクの趣味の問題であり、小澤征爾が凄くないということではないからで、彼の個性の際立ちと音楽について語る言葉を聞きたいと思ったからだ。で、読んで、正解だった。面白かった。

二人は、CDを聞きながら、その演奏、演奏者、指揮者、ホール、録音などと会話を広げていく。話が、単に楽屋落ちの裏話ではないのは、そこに常に小澤征爾がいて、彼自身がどう考えるか、何を目指そうとしていたか、そして、それぞれの演奏がそうなったのはどうしてかなどが、語れているからだ。生きてきた時間、生きている時間、そしてこれから生きようとしている時が、言葉を支えているのだ。
例えば、この本の冒頭部分、グールドのピアノ、バーンスタインの指揮、ニューヨーク・フィルでブラームスの「ピアノ協奏曲第一番」を聞きながら、こんな会話が始まる。

  村上「うーん、たしかにテンポが異様に遅いですね。バーンスタイン
    が聴衆に向かって言い訳したくなる気持もわからないではない」
  小澤「ここのところは明らかに、いちにっさん、しいごおろく、とい
    う大きな二拍なのね。でもレニーは六つに振っちゃってるわけ。
    二つでは遅くてとても間が持たないから。六拍にして振るしかな
    い」

とか。続けて、

  村上「そうです。カーネギー・ホールのライブです」
  小澤「うん、だから音がデッドなんだ。」

とか。そして、グールド、バーンスタイン、カラヤン、内田光子などなど、話は続く。さらにさらに、ボストンやベルリンなどの音の違いとか、もちろん音楽の素養のないボクには、えっどんなこと、というところもあるが、それでも理解できるように砕いて話は進む。演奏の違いのとても小さなブレスの話から、曲全体の構想の話まで、あるいはベートーベンとブラームスの曲の弦楽器と管楽器の拮抗の仕方の違いや、マーラーとシュトラウスの差異。
だが、そんな話ばかりではない。若手育成にかける小澤の挑戦の話も面白いし、サイトウ・キネンで何を目指したいのかも伝わってくる。それは、ボクがサイトウ・キネンで違和感を持ったこととも関係するが、小澤自身は、そんなこと承知でやっていた。
他には、時代による音楽の厚みの変化の話も面白く、演奏の古くささが、単に録音の古さではなく、演奏スタイルに時代の変遷があるのだということも感じられた。

そして、「教育」。このインタビューの終盤は「セミナー」の話になる。教育と育成。これは文化が文化として伝承されるために不可欠のものであり、それがいわゆる「一流」の人たちの責務なのだということがひしひしと伝わってきた。齊藤秀雄に師事し、その指導を受けながら、ただ踏襲するのではなく、そうではない指導法で後進の育成に当たっている小澤征爾。カラヤンやバーンスタインにつきながら、その違いを認識し、自らの形を作りだした小澤征爾の、後進の個性に対する向き合い方。クラシックが、大きなクラシックの歴史の時間の中にありながら、常に時間を刻みつけて続いているものだということが理解できる。そして、それは自然にそうなるのではなく、そうしている人たちの努力の結果のだということが真っ直ぐ伝わってくる。

音楽について、語られる言葉が面白い。テレビでは坂本龍一の「スコラ」という番組は抜群に面白いし、吉田秀和を初めとして、必死で、でも楽しく音楽を語っている人たちがいる。音楽は言葉にできないということと抗いながら、音楽を言葉にしようとしている人たちの本は、たいへん興味をそそる。
あっ、この場合、ボクの場合、音楽そのものの楽理的なものというわけではなく、歴史、背景、そんなこんな、すべてを含んでだ。
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片山恭一『愛について、なお語るべきこと』(小学館)

2013-02-01 13:03:20 | 国内・小説
  地球上のあらゆる人間は、勝つか負けるか、得るか失うかといった、
 利害関係だけで結びつけられてしまい、やりたくもない競争を、世界が
 終わるまでつづけることになる。

 「戦争をなくすためには、愛を宇宙空間に廃棄しなきゃだめってことに
 なりまね。」

  普段は、いろいろな音に紛れて聞こえないけれど、誰のものとも知れ
 ない泣き声は、空気の澄んだ空のずっと高いところを、いつも途切れる
 ことなく流れている。落ちてくることも、宇宙の果てへ飛んで行ってし
 まうこともなく、過去にも未来にも流れつづける。

幾つかの文体に織りなされた小説世界を進む。ある程度の速度で、ただ、流れるだけではなく、時々、突っかかりながら。でも、一気に。

人類が考えだし、創り出した価値観が、システムが、人類とその棲息する場を疲弊させる。人類の求めた快適さと効率の良さは、結局、人類の欲望の解消へと向かって果てることなく肥大化していく。それは、人類の快楽原則に従った欲望の解決法が資本主義の基盤を支えるものであるからだ。生産と消費の無限の繰り返しは、消費への欲望が常に生産の欲望よりも余っていることに置いて、限りない消費欲を生みだし続ける。消費し続けるということは、生産し続けなければならないということであり、生産し続けることは、人とその環境を疲弊させながら、消費の完全な満足に対しては、常に不完全なものでしかありえない。そして、人間は本来生産するという労働よりも、消費するという行動の方に快楽を感じるものであるのだ。そこに歯止めをかけることができるものはなんなのだろう。危惧は蔓延する。しかし、危惧はそこにある危機を回避できるのだろうか。思想が、哲学が、そして文学が、危惧をもたらす現在を鋭く問いつめる。その先にある倫理は、おそらく、ボクたちの加速する時間にブレーキをかけることができるのかもしれない。だが、倫理は、その役割に置いて、ボクたちを疎外してしまう。あるいは、ボクたちは倫理を隠蔽する。その現況自体も含めて、文学はもう一度、いや何度でも問いを発し続ける。言葉と想像力と、そして創り出された世界が示す創造の力で。

570ページに及ぶこの小説は、想像力をばねにして、現在と格闘する思索の軌跡を示す。
小説は、二重構造を採っている。奇数章は「彼女の本当の名前」という近未来小説であり、偶数章は各章ごとに「微笑」「経済」「楽園」「戦場」などの漢字二文字の章題がつく、「愛について、なお語るべきこと」という現在の小説になっている。その二つのパーツが入れ子構造になって、ゆるやかに連関する。

「彼女の本当の名前」の章は、人類の大半が死んでしまった災厄後の世界が舞台である。少年オサムと言葉を話せない少女ギギが、その世界の中で、街の暮らし、山の狩猟の暮らし、農耕の暮らしを経て、自然の原理に従い生きていく姿を描き出していく。これは、もう一度人類が生きるためのリセットの可能性を探る物語でもある。狩猟で生きる、かつて畜産農家だった老人との山で生きる知恵をめぐる対話や、今は見かけなくなった鍛冶屋の男との交流と罪が介在した葛藤などが面白い。
農耕を行う「耕す人」と狩猟する老人との価値観の差と共生は、農耕牧畜の価値の多様性にも重なってくる。そして、物を交換することで生きていく街の暮らしとの構図は、これまで人類が経てきた時間を再認するようで、大仰に言えば、縄文と弥生、農耕と牧畜、生産と交換、などの文明史的対立が再考できる。これを進化史観ではなく、価値多様性として、どう捉えていくか。未来において、それぞれのもつ限界は、また繰り返されるのか。それは、物語の外に置かれる問いになるのだろう。
少女ギギは本当の名前を持たない。少年はギギの本当の名前を探そうとする。ボクらは名指された名前を持っている。だが、関係の中で、自分たちが見いだす名前、それを本当の名前というのなら、名指し名指される関係をリセットすることは、自らの生を新たに獲得することにつながるのかもしれない。また、名指すことは、概念と向き合うことにもなる。少年とギギの物語は、まだ「愛」という言葉にならない、それ以前を描き出す。「愛」な名指すもの(こと)をまなざすことでもあるのだ。
横に並んで、同じ明日を見るのではなく、互いが互いの顔を見る関係。そこにお互いを名指すという行為が生まれる。「顔」のない成長の夢を追っていた時代から、お互いの顔を探す時代への変化、その大切さが静かに語られているようである。

作者片山恭一は、「言葉の初期化」という言い方を自作紹介で使っていた。概念や価値をもう一度初期化するところから考え直し、構築し直してみる。人類は、愚かにも繰り返す。が、一方で、生の営為を続けていく人類が、別の価値観を得る初期化の地平はどこにあるのか。小説の想像力は、そこに向けて駆使される。

もうひとつの物語「愛について、なお語るべきこと」は、作家辻村がタイで失踪した息子を捜す物語である。軽いのりも交えて始められた物語は、中盤以降、重さを持ってくる。こちらにも「ウァン」という「本当の名前」ではない呼び名を持つ女性が現れる。辻村にとっては、この女性の「本当の名前」が、彼女の実体を探すという象徴的な意味を持っている。また、かつて戦場カメラマンであった川那部との生と死、リアルとフィクション、グローバリズムと多様性などをめぐる対話は、それ自体が文明批評になり、観念小説的体裁も持っている。
登場人物たちが、バンコクから離れて、タイの奥地にいく空間の移動は、グローバリゼーションの網の目の隙間への移動でもある。だが、そこで生じることが、すでにグローバルな世界へと影響を及ぼすのだ。
そして、奇数章の物語は、この偶数章の物語のあとの世界を描く物語ではないかと思わせる。が、一方で、作家辻村が書いた小説が、奇数章の小説ではないかという劇中劇の構造も考えられる。
時間的な継続の小説とも思わせ、併置された物語とも取れる、そんな構造になっている。

それにしても、長編小説っていい。長編小説のよさを味わうことができた小説だった。そして、小説は、登場人物に語らせることができるのだということを改めて感じた小説だった。語り手=作者と、それぞれの人物たち、彼ら、彼女らが、小説の中を駆け抜ける。


コメント (2)
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