パオと高床

あこがれの移動と定住

安岡章太郎「走れトマホーク」(講談社文芸文庫『走れトマホーク』)

2013-02-16 09:39:30 | 国内・小説
短編小説は、削っていく作業によって成立するのだろうか。短編として成立する、その一点に向けて純化していく小説というものを、まず思い浮かべる。これは、どこか俳句とかぶった勝手なイメージなのかもしれない。ただ、その短さによっては、盛り盛りに盛り込まれると辟易してしまうということがある。そう、結局、何だったのという感じになる。だが、『純化』とは逆に、長編小説への可能性と動機を込めながら一編の短編を仕上げる作者も、もちろん、いるのだろう。
で、そのバランスをうまくとることができる短編の名手がいる。というか、そのバランス、盛り込みがありながら作品としては「純化」されているような短編とでもいったらいいのか、そんな作品がある。この「走れトマホーク」を読むと、これは削ぎ落としではなく、盛り込みだと思わせる。でありながら、盛り込みが破綻ではなく、削いだものを描かなかったことにはせずに、背後で見せる技というか、遠近法の焦点をいくつか持っている、そんな小説なのだ。

この小説は、「或るビスケット会社」がスポンサーとなって、「アメリカ西部の山岳と曠原地帯を団体旅行」する「私」の旅行中の話である。一行は私とS君以外は外国の人ばかりの十何人のグループである。彼らの旅は、ドイツ人の婦人記者が「あたし達は、いったいどんなことをしたらいいんでしょう」と聞くように、目的のない、ただ西部を移動する旅行となっている。これだけでも、寓話的な、ある種カフカ的な小説が進みそうなのだが、安岡章太郎だから、そうはならない。

いくつかの焦点のひとつ。一行の中に、頑なに流儀を守るスイス人がいて、彼は、浮いている。これが、順応と孤絶、流されると流されないといった、遠近法の焦点のひとつとなる。
また、小説全体は、前半、次の文によって基礎トーンがつけられている。

  「あたしたち、いったいどんなことをしたらいいんでしょう」という
 リリー小母さんの心許ないつぶやきも、結局このトリトメもなくひろが
 った曠野の真ン中をひた走りに走りつづけている旅の、奇妙な空白感か
 ら生じたに違いない。

目的の無さ、そして生じる空白感。これは現代人の時代の中での精神風景を描き出している。これも遠近法の焦点のひとつ。あっ、これは遠近法ではなく、全体の通奏低音か。上手いのは、引用した部分で描きだしたい心情を表現したあと、すぐに、テーマ性のある次のような文章を続けるところだ。

  旅というのは所詮、何処かへ行って帰ってくることだ。それは月旅行
 でも莫大な費用と労力をかけて何をしに行くかといえば、結局地球に戻
 ってくることでしかない。われわれが宇宙船の飛行士によせる期待や不
 安は、月でどんな石ころを拾ってくるかというより、どうやって彼等が
 無事に戻ってくるかである。これは旅というより、われわれの生そのも
 のの不安というべきだろう。だから日常不断の生活の中でも私たちは、
 ふと旅に出ているような心持であたりを振り返ったりする。―いったい
 おれは、こんなところへ何をしにきているのだろう?

随筆のように、うまく滑り込ませる。これが、小説ラスト、馬の「トマホーク」に乗って、無事、馬舎に戻ってきたときの感慨と重なり、小説を着地させる。帰る「ホーム」の問題。小説は、「私」の軍隊時代や「父」への回想のよぎりを含みながら、そこにかすかにネイティブ・アメリカンの歴史性への思いも漂わせ、「ホーム」へと収斂していく。その、それぞれの部分が焦点のひとつひとつとなって、描かれた短編の背景を作りだしている。

この小説は昭和47年発表。70年代の初頭に描かれた小説である。高度経済成長の最終時期、石油危機の前年ごろの作品である。その時期を合わせて考えると安岡の精神風景が何を見ていたのか興味深い。連れて運ばれた戦時中と同じように流れの中で目的を見いだしていたはずなのに、それがすでに、ある終焉の予感を孕み、目的が目的化するという時期の中での目的それ自体の喪失感。安岡の感性は諧謔を持ちながらも、帰路へのまなざしを示し、批判性をたたえている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする