パオと高床

あこがれの移動と定住

寺山修司『月蝕書簡』(1)

2011-10-12 13:02:11 | 詩・戯曲その他
カフカの『変身』について書いたあと、2008年に書いた寺山修司の『月蝕書簡』についての文章を何回かに分けて載せたい。

誘発の『月蝕書簡』-「私」のアリバイ・反アリバイ 
                

一 鑑賞まで

 高校生の時、寺山修司の『青春歌集』が大好きだった。国語教師が教科書に載っていない短歌を印刷してきて、その中に寺山修司の有名な「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」があったのだ。読んだときの印象が違った。胸にズドンときた。角川文庫の『寺山修司青春歌集』を買って、学校に持っていき、早朝誰もいない部室で読んでいた。冬だった。その寺山修司との出会いで、中城ふみ子の『乳房喪失』を読み、岸上大作の『意思表示』を読んだのだ。だが、いつか歌人の寺山修司は劇団「天井桟敷」の寺山になり、それさえも忘れてしまった。
 そこに突然、ざわりとした出来事が起こる。寺山修司の未発表歌集『月蝕書簡』が出たのだ。没後二十五年ということで、寺山修司再評価の機運は高まった。そこに、打ち上げられた旗幟は、歌集だった。ざわりとした感じは残ったまま、それでもこの本を手に取らずに時間が過ぎた。そんな折り、没後二十五年特別企画として演劇実験室「万有引力」による『引力の法則』が上演された。寺山修司作、構成・演出・音楽は「天井桟敷」で音楽を担当していたJ・A・シーザーである。音楽劇の様相を見せながら、おそらく演劇自体はシーザーと「万有引力」のものになっていたのだろうと思う。しかし、そこに展開される舞台情景、動く道具、吐かれるセリフ、場面転換はまさに寺山修司のものだった。僕の中に、ふたたび、寺山修司がやってきた。
 そして、『月蝕書簡』である。果たして寺山修司は思い出の中の人だったのか。違う。この歌たちは、確かに既知感があるものが多い。ところが、その既知感自体が寺山修司の出現なのだ。失踪した寺山が住所のひとつをぶらさげて、物語の沃野を背後にし、立っているのだ。影さえ映しながら。
 寺山修司未発表歌集『月蝕書簡』は、寺山の秘書的役割をはたしてきたといわれる田中未知によって、編まれた。この本に記載されている田中未知による「『月蝕書簡』をめぐる経緯」には、一九八一年に「現代詩手帖」で行われた寺山と辺見じゅんとの対談が引かれている。その中で寺山は「自分の過去を自分自身が模倣して、技術的に逃げこむわけでね、(中略)だんだん自信がなくなってきてね」と語っている。また、「書栞」として差し挟まれた、付録のような佐々木幸綱との対談「現代短歌のアポリア-心・肉体・フォルム」でも「人は、一つの形式を通して表現する方法を獲得した瞬間から、自分自身を模倣するという習性が身についちゃうからね」と語っていることから、『月蝕書簡』に収められた短歌は、これまで未発表のままだったのかもしれない。それが、発表された。そうなると、読者というものは困ったもので、作者の思惑に関係なく、この歌集の歌たちを自己模倣に過ぎないと思う人も含めて、なお、ここでの寺山修司の短歌との出会いを楽しんでしまうのだ。このスリリングな出会いを、それこそ月を蝕するように。

二 鑑賞アプローチ1 

 面売りの面のなかより買い来たる笑いながらに燃やされにけり

 冒頭に配された歌である。いきなり寺山ワールドだ。ボクらは縁日のお面売り場の棚の前に立たされる。赤、白、黒、肌色。並ぶお面としての顔、顔、顔。そのお面のなかから買ってきた面があった。ところが、笑いながら燃やされてしまうのだ。「笑いながらに」とは、何が、誰が笑っているのだろう。連体形の「買い来たる」のあとに「面は」を補えば、燃やされるのが面だということになる。しかし、笑っているのは面なのか、面を燃やしている人なのか。炎の中にある笑い顔の面という像が浮かぶ。同時に、炎に浮かび上がる笑う人たちの顔という映像も浮かぶのだ。ここに何があるのか。どんな物語があるのか。ボクらは記述されない物語の可能性の前に立たされる。歌はそこで成立する。寺山修司は、その隙間に演劇を仕掛けるのかもしれない。面を燃やされる少年の物語か、あるいは面が経てきた時間の旅か。また、燃やされるのは何故なのだろう。夏祭りで買ってきた面が、秋になり冬になり、いつか不要のものとなって燃やされると読むのが常套だろうか。だが、ここに宿る江戸川乱歩のような気配は何だろう。あるいは少女性と怪奇性の出合った梅図かずおの『笑い仮面』を連想したりもする。さらに誰と買ったのだろう。母か父か。寺山修司が刻んだ短歌の中の家族の影も歌の中にほの見える。ただ、ボクらは気づかされるのだ。燃えたのは紛れもなく、少年期のある時期であり、自らの時間が燃やされたという事実だけが記憶されているのだということを。語りたい過去を前にして、季節の消失しか語られない。そこに抒情が宿る。創り出された虚構の隙間に虚構を引き寄せる引力なのかもしれない。しかし、そこに物語を見なくても、この歌自体、スリリングな連想を生む。ボクは面売りのなかから面を買う人物が現れるのが見えるのだ。その人物は実は自らが買う面を顔にはめている。並んだ面の一つが動くイメージが伝わる。そして、その面は笑いながら燃やされてしまうのだ。その面をかぶった人物は即座に消尽してしまう。面の下の顔の不在は、面が燃やされることと存在が消えることを同質にする。ここには創造者としての寺山の虚構にかける思いが見える。作り出し、被せられる面が、その虚構性ゆえに消えていく、いや燃やされていくという寺山の創作にかける思いが見えるような気がするのだ。演劇の舞台は役者が消えたとき、何もない空間になる。
 さらにこの歌は「燃やされにけり」と「けり」を使って収束する。「けり」は伝聞したことを回想として述べるのではなく、過去にあった事実に気づいて回想して述べる用法として使われているのかもしれない。もちろん、この言葉に詠嘆はあり、それが歌を歌わせている。が、この虚構を事実化して語るという意図を持って「けり」を使ったのではないかとも考えられる。
 面売りをモチーフにしている歌があと三首載っている。

 面売りが面つけしまま汽車に乗るかなしき父の上海事変
 面売りが面売りと逢う港町われは一人の母をさがして
 面売りの売れのこりたる面ひとつ母をたずねて来し旅の果て

 面売りがつけたままの面は表情が無表情の面なのかもしれない。去る父や不在の母を追う「われ」につきまとう面と面売り。それは少年期のノスタルジイであり、記憶の暗がりがそのままつながる精神の暗部を表している。「われ」は面に取り巻かれている。ペルソナに溢れる面の世界と、その中で顔につけた、あるいはひとつ残った面の刻印。そこに自身の故郷への細い一本の糸がほの見えるようでもあり、切ない。冒頭の歌で面が着けられて動くように感じられるのは、この本の中にあるこの三首との交感によるのかもしれない。
 ここで、年譜と照合してみよう。寺山修司は一九四五年、九歳の時に青森大空襲に遭遇している。年譜では「炎の中を母子逃げまどう」(新潮日本文学アルバム寺山修司)と書かれている。これが、「燃やされにけり」なのではないのだろうか。笑い顔の面が空襲の炎の中で燃やされていく。空襲という子どもの時の体験が歌に刻まれていると考えられる。
 さらに、「父」。警察官の父は寺山が五歳の時に出征する。一九四一年の秋とある。日中戦争と呼ばれることになる第二次上海事変から太平洋戦争に移る年の秋である。「母子は青森駅で見送る」と年譜に書かれている。そして、青森大空襲の同年、終戦後に父病死の報が届く。「汽車に乗るかなしき父の上海事変」なのだ。
 母はベースキャンプで勤め始め、留守がちになり、寺山十二歳の時、福岡県の「米軍キャンプで働くために三沢を去る」とある。このころから俳句に熱中しだしたらしい。早稲田大学の学生になり、短歌研究新人賞を取る十八歳の時に、母は「立川基地に住込みメイドの職を」得ている。これが、「母をさがして」や「母をたずねて」になる。その父と母を見失う前の記憶に面は結びついている。それは、短歌の中での上の句と下の句の結びつきを支えている。

三 鑑賞アプローチ2 

 霧の中に犀一匹を見失い一行の詩を得て帰るなり

 この歌は二重の言語が漂流しているようなのだ。犀の実在を見失うことでの言葉の獲得と、「犀一匹」と書かれてはいるが、そもそも犀が霧の中にいたのかというこの言葉自体の実在性への問い。確かに寺山自身が犀を目撃したということは考えられるし、その結果書かれたものかもしれないのだが、見失って得ている詩というこの歌には何か犀の実在を疑わしくさせるものがある。喩に喩を重ねるというか、虚構が虚構を引力で引き寄せ、その不在に言葉を生みだし、その言葉は実在するかのような物語の可能性を見せる。言葉は定着する。この歌の次にくる歌はこうだ。

 消しゴムの孤島に犀を飼わんとす言語漂流記をなつかしめ

 消しゴムの孤島の犀なのだ。
 なぜ、「犀」なのだろう。「犀」の属性は何だろう。「犀」は寺山自身が使ったモチーフの一つである。例えば、犀は父のイメージに繋がっている。寺山の俳句に「父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し」というものがある。動かざる動物。鎧の皮膚を身につけた動物。それが父と重なっている。この句の凄さは、犀の古色蒼然とした印象と父が重なりながら「嗅ぐ」という嗅覚になり、それが書斎の本のセピアカラーやかび臭さを想起し、その古色騒然を膨張させながら、「幻想し」という作者の立ち位置に帰ってくるところである。消えた父の気配と存在していた時の父の印象が17文字の中に封じ込められている。『月蝕書簡』中の短歌の多くは、以前の短歌や俳句のモチーフであったりする。そこにも生前寺山が発表しきれなかった何かがあるのだと思うが、むしろこのモチーフの再録は、寺山が寺山修司という圧倒的な個性だったということを迫ってくる。
 さらに、寺山の詩に次のようなフレーズがある。

 発狂した母が
 浴槽の中で美しい犀を飼いはじめる
               (『寺山修司詩集』から「水の中の少女」)

 こうなると犀を飼う行為は狂気と結びつく。浴槽に住む犀の像が衝撃的である。「美しい犀」を「父」とおく連想もできるが、むしろ妙に性的なイメージも立ち上っている。組み合わされ変奏していく「犀」なのだ。
 短歌に戻る。霧に霞んでいく犀という絵画を連想させるような一首目と、消すことを方法の中心に置いた短歌の書き方を示す二首目がくっついている。「犀」を飼うということの意味が不在でも、犀を飼いたいという、その何とも不思議な感覚は伝わるのだ。

 父ひとり消せる分だけすりへりし消しゴムを持つ詩人の旅路

 次の歌である。消しゴムで先の歌とつながっている。この本には「個への退行を断ち切る歌稿-一首の消し方」という文章が収録されているのだが、J・A・シーザーが構成演出していた『引力の法則』でも大きな消しゴムが舞台の背後を移動した。「消す」という行為は大きな意味を持っている。

  もともと、あらゆる物語は書かれつくされてしまっていたのである。これ
 からの作者の仕事は、消すという手仕事でしかない。
  どの部分を消し残すか、ということが作歌のたのしみに変ってゆくことだ
 ろう。
             (「個への退行を断ち切る歌稿-一首の消し方」)

 言葉は作品が完成した時点で残されたもののはずだ。しかし、切り捨てられた膨大な言葉がそこにはある。さらに、残った言葉は、すでに具体的な物の手を離れ、言葉としての具体をあるいは言葉という抽象を生きている。そこにはこれまた廃棄された膨大な実体や物があるのだ。そして、もうひとつ重要なことはおそらく寺山修司にとって演劇が、他の創造行為にも強く影響を与えているということだ。もちろん、俳句、短歌の後に演劇行為は現れてくる。しかし、短歌などにある演技せられた「私」や役割として生きる「私」および作中の人々や、舞台として設置せられた虚構の空間などは、すでに演劇的なのである。そして、演劇はその劇の終演に向けて加速度的に消失を目指す表現形態なのだ。空間に創り出された世界は、その空間の何もなさに向けて走る。猫をめぐる二首を並べてみよう。

 王国の猫が抜け出すたそがれや書かざれしかば生まれざるもの
 幻燈のひなたぼこりに一匹の猫がけむりとなるを見ており

 どうだろう。田村隆一の詩集『言葉のない世界』の中の「帰途」なども連想できる。

 言葉なんかおぼえるんじゃかった
 言葉のない世界
 意味が意味にならない世界に生きていたら
 どんなによかったか
                         (田村隆一「帰途」)

 言葉を知らなければ生かしめなくてすんだものを、言葉で生みだしたものだから、消しちゃわなければならなくなったという思い。しかし、言葉があるから生みだせるのだ。「王国の猫」に西洋の童話的世界が感じられ本から抜け出してくる「たそがれ」の猫というイメージも浮かぶ。逆に「幻燈」は土俗の祭りのような印象があり、何か江戸川乱歩の初期作品や夢野久作の短編小説の世界を思い出させる。そして、こちらは「ひなたぼこり」で「けむり」になるのだ。ノスタルジーが漂う。けむりになっていく猫のいた場所にノスタルジーの気配が立ち上るのだ。そこはただの空白になっていこうとしている。

 満月に墓石はこぶ男来て肩の肉より消えてゆくなり

 消える短歌である。この本の中の秀歌に選ばれる歌だと思う。人が月の光にとらわれて、きらきらと光の粉末に変わっていきながら消える物語がなかっただろうか。「肩の肉」という言葉がそこだけを逆に強く印象づける。ロシア・フォルマニズムの絵画を連想し、隆々とした脈打つ筋肉の実在がデフォルメされて浮かぶ。と、そこから「消えてゆくなり」なのである。ボクは死へ向けて解かれる引力を感じてしまった。墓石はふつう、土中に立てられる。しかし、この「はこぶ男」は土の中に消えるのではない。肩から消えるのは空に消えるのではないのか。肩から土の中にくずおれて消えるという読みもできるだろうが、「満月」がやけに煌々としているのだ。東ヨーロッパ風のテイストか。フォークロア的世界を感じさせながら、吸血鬼伝説や狼男伝説にもつながっていくような物語世界がある。舞台の奥、作られた斜面を墓石を担いで無口に歩く男。斜面を昇っていくほどに舞台端から端に至り、最後は頭、肩と客席の視界からは消えていく。プロメテウス的な実存も連想してしまう。
 
四 鑑賞アプローチ3 

 一夜にて老いし書物の少女かな月光に刺す影のコンパス
 一夜にて老いし書物の少女追う最後の頁に地平をすかし
 一夜にて老いし少女をてのひらで書物にかくす昼の月蝕

 言葉が疑問の波となって押し寄せる。そこには何が封じ込められているのだろうと思わせる。一夜で老いてしまう少女の物語とは、寺山修司のよく使う言葉で言えば行方不明の少女なのだ。物語のこもった物語の中に一夜で消えてしまい、老女となって少女を喪失してしまう、時間の中に消える少女。ここには、書物の物語と、まるで書物から抜け出したような少女の物語と、それに対処する「私」の物語という三つの物語が孕まれながら置き去りにされる。この歌集の中で、家族が登場する歌の方が、歌の背後に物語を連想させ、物語の胚胎についてはよりわかりやすいのかもしれない。だが、挙げた三首は、その物語を書物に封じるという構造で面白いのだ。
 佐佐木幸綱は本書解説で短歌における物語という問題に触れながら、寺山の歌を解説する。この歌集自体が、寺山修司が短歌で問い続けた、「消す」ということ、類型化、「私」の問題、物語性を濃厚に持っている以上、佐佐木幸綱の解説もそれに則して展開されている。

  短歌には、物語を抱き込む短歌と、物語を排除して、瞬間つまり時間の断
 面をうたう歌がある。古典和歌では藤原定家が一首の背景に物語を想像させ
 る歌を好んだとされている。近代では、例えば石川啄木が物語を抱え込んだ
 歌を多く作っている。寺山修司は、その点で啄木の強い影響を受けた。
                    (佐佐木幸綱『月蝕書簡』解説)

 物語の抱え込み方の問題はあるが、これは現代における表現すべての分野に適応できる分別である。小説も、演劇も、詩も、絵画、音楽さえ物語との関係は立ち位置を規定する。そして、寺山の短歌の特質に迫る。

  演歌的物語あるいは童心の物語などをいったん深く抱え込んで、シュール
 な色合に染める手ぎわが、寺山短歌の大きな魅力だった。
                    (佐佐木幸綱『月蝕書簡』解説)

 「演歌的物語」と「童心の物語」を繋ぐものとして江戸川乱歩や夢野久作的世界、小栗虫太郎もいるのかもしれない、それに、サーカスや縁日の世界が出現したりする。原色、セピア色、月光と影、白粉、かび臭さ、古典、土着、古き家具、玩具に文具、もやの中で開けられたおもちゃ箱からいろいろなものが唐突に出現する。あるいは、古びた巨大な図書館か。その図書館の迷宮から開かれた書物はさらに書物の迷宮を作り出し、それを手にする者は、おのれ自身の精神の迷宮にも行き迷ってしまう。書物を開いた途端、そこに唐突に出現するのだ、夢のイリュージョンが。

  具体的にいえば、物語をベースに置きながら、突出した特異な映像の発明
 に賭けるのである。
                    (佐佐木幸綱『月蝕書簡』解説)

 この衝迫力が、寺山の短歌を立たせる。コラージュやモンタージュのような技法を使いながら、特異なものが三十一音の中で出会うのだ。そして、佐佐木幸綱がさらに書くように、寺山短歌の人物たちは「みな話せば長い物語を抱いている」のだ。
 「一夜にて老いし」三首。どれか一首を残そうとしたのだろうか。短歌の場合は同じ上の句で数首連作することもあるし、また同じモチーフでの連作はあるので、別に一首に収斂させようとしたのではなく、三首共が完成品なのかもしれない。組み替えや下の句のぶつけ方が巧みな三首だと思う。ここにもうひとつ、寺山修司の俳句を並べてみよう。

 肉体は死してびっしり書庫の夏  
 老いたしや書物の果てに船沈む
                   (『花粉航海』から「少年探偵団」)

 老いと死、そして封じられた書物のモチーフはすでにある。しかし、これに「一夜にて老いし少女」を重ねるところが劇的で物語的である。知識の迷宮譚に憧れと望郷と残忍さを重ねたような構成になっている。たとえば、ここに寺山の詩句を置いてみれば、先ほどの俳句や詩句との出会いが想像できる。

 少女が眠ると時計の老婆が目ざめ
 時計の老婆が眠ると少女が目ざめる
                (『寺山修司詩集』から「水の中の少女」)

 それにしても、少女が一夜で老いる物語。何かそんな物語があったのではと思いつきそうで、なかなか思いつけない。ただ、例えば『卒塔婆小町』の百夜通いを連想したりする。九十九夜の次の一夜を果たせずに、小野小町に会えずに死霊となって老いた小町に取り憑く深草少将の物語を連想する。あるいは少し飛躍するが習俗としての「一夜官女」のような生け贄の儀式も想起する。でありながら、歌どおりに鑑賞すれば、老いるのは書物の中の少女である。書物の中では少女は時間を加速して一夜のうちに老いてしまう。読み始め、出会った書物の少女は、読み終えるときすでに老女となってしまう。そして、書物から抜け出してこようとするのだ。それをこの三首の最終歌では「てのひらで書物にかくす」と儀式的に封じ込めるさまが刻まれている。二首目の少女を追って「最後の頁」を「地平にすかす」という書物からの溢れ出しと好対照になっている。孔子の「光陰矢のごとく」をロマンティックに歌い込んだと考えられなくもない。消えてしまう少年期に抒情が宿るように、過ぎゆく時の取り返せなさにも普遍的な抒情がこもる。二首には三句目に「かな」と「追う」が使われている。「少女」が三音なので、そこに残る二音に、この名詞を支えるための作者の自由が保証される。短歌の定型は音の拘束力を持つだけではなく、使われた名詞が定型の音を残した場合、その名詞を動かすために残り音に作歌の自由が賭けられる。二音ほどの隙間がどこに連れ出すかの広大な空隙になり得るのだ。
 一首目の「かな」は詠嘆の切れ字である。このため息が詠嘆のもやを歌に吹きかける。少女への思いが煙となって漂いながら、思いを残す。そこに下の句の「月光」が射すのだ。「射す」はここで「刺す」に変わる。ため息のもやに射し込む月光。それに「刺す」のは「影のコンパス」。意味を越えている。音とイメージされた物との出会いが頭の中で炸裂する。射した月光は刺されたコンパスによって影に蝕されるのだ。「かな」のもや、月光、影と短歌後半一気に転換する。そして、ボクらは時間の中で月蝕する月の像を脳裏に刻み歌を読み終える。さらに、この「影のコンパス」はクルリとコンパスを回すと円が描かれながら、その円の内部が影になっていくという動的契機を孕んでいる。その動きだしまでが、結句の中に集約されている。コンパスを「刺す」までは記述されているが、回しはしない。しかし、「影のコンパス」で回転の動作が見えるのだ。運動エネルギーが静止の瞬間に蓄積されている状態なのだ。体言止めが、動作の起動の瞬間を止めている。四句と結句の倒置が生んだ体言止めは、次の動作まで呼び込んで効果的だ。
 もうひとつ、うがった連想ができる。月蝕とは、地球の影が月に射すのである。書物と月光という、いわば夢的世界、空想の世界が、地球という現実の影に浸食されてしまうという読みも可能である。その場合、現実の影が浸食する現象自体が、「影のコンパス」という表現でむしろ夢幻的状況に包まれるているところが凄いのかも知れない。この三首ともに、もっとも素直に読めば、上の句の書物の世界と下の句の現実世界という図式が成り立つだろう。上の句を抜けて現実の時間に出会ってしまう。しかし、そこにある現実世界が寺山の言語感覚とイメージの力で変質しているところが魅力的なのだ。これは演劇に似ている。劇場やテント、あるいは街頭においてボクらが演劇に出会ってしまえば、そこをひとたび抜けたとき現実は異質な姿を見せてしまう。そこにあるのは現実、しかし、また異なる現実になる可能性をもった現実なのかもしれない。
 二首目の「追う」は作者とともに読者に追跡をさせる。少女を追っていく、その先に下の句が横たわる。最後の頁の先に地平線が現れるのだ。しかも、「すかし」。これは横たわる地平線ではない。遠く遥かに透けるように地平線が現れるのだ。淡く透けている地平線は開かれた頁との遠近法を見せるようだ。そこに消えていく、あるいは帰っていく少女。永遠の思慕が漂う。追いかける少女が持って消えるのは、少女への思慕であり、時間への憧れのようなものなのかもしれない。これは抒情の本流ではないだろうか。
 三首目では三句に「てのひらで」が入ることで、「少女」と「書物」の配置が移り変わる。少女への働きかけが先の二首と比べると「てのひら」を返しているのだ。この「てのひらをかえす」という慣用句が、そのままこの歌の態度を決定している。この慣用句から発想したのではないかという気にもなる。先の二首は、少女への追跡とその果てのとらえ難さで歌が終わっているのに対して、三首目は自ら書物の中に「かくす」という封じ込めを行っているのだ。書物を閉じる「私」の位置で歌が終わっている。「私」がどこか巨大化している。ところが同時に、このかくれんぼは、かくされて消尽してしまうのだ。ここにほんの少しきざす「私」の老いのような気配。すでにわからないものはわからないまま、ありえないものはありえないまま、「昼の月蝕」として呈示される。一首目の影は二首目で透けた色彩になり、三首目では真昼の白になる。これは空白の白ではないのだろうか。そして、その中で時は止まったままになる。

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