パオと高床

あこがれの移動と定住

笙野頼子『萌神分魂譜』(集英社)

2008-03-14 03:48:53 | 国内・小説
笙野頼子は闘っている。創造的な行為とは闘いなのだということを存在させる作品自体で訴えかけてくる。何と闘うのか?それが、ある具体的なテーマだけになれば、おそらくそこへの具体的な働きかけだけで済むのであって、社会的な行為であったり、批判的な論文であったりするのだろう。実際、笙野頼子はそういった文章を書くことも場合によってはやぶさかではない。しかし、それが、その具体性を生みだす背景すべてひっくるめて、となると、これは思想の闘いになる。さらにさらに、それが思想も含んだ表象すべてになると、表象を対峙させるしかない。そこに「文学」や「絵画」などの場がある。作家笙野頼子の闘いがある。

紹介には「呪われた新世紀に『金毘羅』が放つ、愛の呪文 呪われた市場経済の世に放つ魂の唯物論。」という文がある。「魂の唯物論」に「愛の唯物論」という言葉もある。形ないものが物象化していく過程での絡め取りをいかにすり抜けるか。愛や魂が商品化や制度化の罠をどう切り抜けながら、自己が真の自己に、自由が真の自由に出会えるか。その先に愛の実現が図れるかということで「純愛小説」である。まあ、この真のという言い方も実は問題だが。

本物の体を持たない神である「俺」と神を内部に宿した作家である「私」の独白が交差する。「俺」は作家である「私」を「姫」と見極め、彼女に「君」と呼びかけながら、「君」の心地よさの中に宿り続け、自らの存在を知らせようとする。「私」を「愛している」のだ。作家である「私」は様々な苦境の中で、見続ける「俺」の気配を感じる。「俺」は「私」の魂の乗り物になろうとする。しかし、ここにも「俺」によって語られる「彼」がいるのだ。その「彼」は、「分魂」かそれとも「私」が作りだした別物の「俺」なのか。そう、すでに人称の冒険がされている。一人称の独白と二人称の語りかけが小説の閉じて開く運動を維持する。その働きを持ちながら、二重の一人称はお互いの客観性と主観性の境界を往き来する効果を生みだす。さらに、この一人称があることで、人称が自然と二人称、三人称と分化していく。それこそ「分魂譜」なのだ。そして、こんな文章が持つ高揚感に巻き込まれる。
「死にかけた魂はいつか俺の背に乗ってくれた。君の人前に出したくない足を俺の手が包み、君は安心して俺に跨がる。俺は本来の乗り手とついに出会い、かつてこの地が深海であった頃を見せる。黄水晶の月が転げ回る、海の大きすぎるうねりの中を、俺たちは白神になって浮上して行った。底に動く触手を君はウミユリだと思っていた。貧血する君の肩に海の雪がつもり、光るクリオネが翼を回していた。青く白い空と知る限りの海を、自分が所有していると君は「理解」した。」

また、この小説は神に人が奉仕することを逆転させる。人に神を宿らせることで、人が神という制度に搾取されるのではなく自分の中に神を見いだそうとしている。そこでは、神は心地よさの中に見いだされるものになりながら、人が自ら生きる生命力そのものになろうとしているかのようだ。憑依とかとの差違を作者は懸命に記述しているように思う。この逆転に、フォイエルバッハや折口信夫と違う中間点への跳躍や、日本の宗教史、特に明治以降の欺瞞への批判がほとばしる。「もし神が人間を作ったとしても、人間は神に自分を似せるのだから。」という文章には、人間の想像力が神を作るということが表現されているのではないだろうか。
さらに「私は自分だけの神様というか拝むものが欲しかった。その神は土俗的で素朴なものを選びたかった。無論土俗と言っても古代のものではなく、国家に収奪されていない「リアル」なものを。」という文章もある。これには、近代批判が隠されている。制度からすり抜けられる神様に「自分だけの」を重ね、「リアル」とすることで、収奪されない身体を希求している。

また、「萌え」という言葉もある。この言葉を使いながら、心地よさの実感すべてに渡る言葉として、「萌え」の意味の転換を図っている。商品化された記号としての「萌え」からの「萌え」の奪還。それは商品化に対する笙野頼子の批判となって表れている。

また、形のない、何にでもなれる「俺」が、不思議と何か拘束されている感じを纏っているのだ。身体と精神のような二元論をあえて提示しながら、実はその双方を貫く領域に至ろうとしている。

また、古層の新しさという言い方。新しさにオリジナルが劣化する時間を見る。その場合、古層にこそ、オリジナルの新しさがあるとする逆転。

そして、身近な出来事を書きながら、奇想で身近を過激な小説空間に変える力業。
記憶は定かではないが、ブレヒトが議論をする時、相手の使った言葉を使うことで、それを別の関係の中に置き、相手の考え自体を異化するというような方法を使うと言っていたような気がするのだが、笙野頼子の闘いもまた、そういった流布されるもの通念化されたもの、制度への、その言葉を使った逆転の手法が感じられるのだ。そして、批判への批判を突き抜けるという、際どい一点を貫いていく壮絶さがある。

『金毘羅』を読むとまた違った印象を持つのかもしれないけれど。


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