パオと高床

あこがれの移動と定住

樋口一葉『たけくらべ』(教育出版『たけくらべ にごりえ ほか』)

2008-03-05 03:56:54 | 国内・小説
この短い小説、一葉の文体にのれるかどうかが、ハードルとしてある。
今回は、冒頭「まはれば大門(おほもん)の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝(どぶ)に灯火(ともしび)うつる三階の騒ぎも手に取るごとく」で、柳と水面に揺れる妖しい灯火が視覚に、なにやら三味線も聞こえているような騒ぎの音が聴覚に入り、すいと流れにのれた。あとは「解かば足にもとどくべき毛髪(かみ)を、根あがりに堅くつめて前髪大きく髷おもたげの」や、「打つや鼓のしらべ、三味(さみ)の音色(ねいろ)にことかかぬ場所も、祭りは別物、酉の市を除けては」とか、「待つ身につらき夜半(よは)の置炬燵、それは恋ぞかし、吹く風すずしき夏の夕ぐれ」などの唄うような、語るようなリズムに、身を任せた。
この小説は色彩や音が溢れている。少年たちの走る音、下駄の音、雨音、騒ぎ立てる音、着物の色彩、夜の遊郭の灯り、昼の質素な色、声も会話も混ざり、遊郭の喧噪と昼の生活空間とが流れるように動く。その流動の中で、美登利の額に当たる草履や、信如の「足ちかく散りぼひたる」美登利の投げた「紅入り友仙の雨に濡れて紅葉の形のうるはしき」布などが、静止した画像を刻む。
その静止は、時間の一瞬も捉える。活発に遊ぶ美登利が、「ええ厭々(いやいや)、大人になるは厭なこと、なぜこのやうに年をば取る」と言うようになり、町で遊ばなくなり、「女らしう温順(おとな)しうなったと褒めるもあればせっかくのおもしろい子を種なしにしたと誹るもある」女へと変わっていく、少女から大人への一瞬。それは、そのまま遊女になることを宿命づけられている、その一瞬である。また、美登利のことを意識する信如が僧侶へと進む、少年から大人への一瞬。小説は、その一瞬によぎる、かけがえのない淡い思いを捉える。
しかし、それが、甘い抒情にはなっていない。それは、唄うようでありながら、抑制されキリッと締まった一葉の文体と、時代と社会の中にある作者の眼差しの強さがあるからだ。将来を覆う宿命のようなものの前で、淡い一瞬がかけがえのないものとなる。思い通りになれない、闊達になれない、思いと行為。受け容れるようにして生きていく時間の流れが始まる直前の、少し静止した時間。そこにある切なさが、胸を打つ。そして、この切なさは、実は、時代を越えてどうしようもなくある、思慕することと離れることという、切なさではないのだろうか。社会性も含めた作者の実在の強さが物語の背後に直立しているようだ。
抑え込まれたラストがいい。



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