パオと高床

あこがれの移動と定住

ロープシン『蒼ざめた馬』川崎浹訳(岩波文庫)

2008-09-26 11:09:00 | 海外・小説
「視よ、蒼ざめた馬あり、これに乗る者の名を死といい、黄泉これにしたがう」というヨハネ黙示録の一節が冒頭に引かれている。これが書名である。さらに、これから五木寛之の『蒼ざめた馬を見よ』という小説が生まれる。もうひとつ引かれているヨハネ第一の手紙の一節。「その兄弟を憎む者は暗黒にあり、暗きなかを歩みて己が往くところを知らず、暗黒がその眼を朦(くらま)したればなり」 作者ロープシンは、自身テロリストであり、モスクワ総督の暗殺に成功したロシア革命期の人物である。この本は1907年にニースで刊行されると西欧で爆発的な人気を呼んだと「あとがき」に書かれている。五木寛之が66年の小説の題名にしているように、この『蒼ざめた馬』は魅力的な小説である。ロシアの都市を彷徨う、爆弾を持ったテロリストの心情や思索が詩的な日記体で書かれている。ここにある疎外感や孤独感は、どうしようもなく痛々しい。総督暗殺に至る行為が逡巡を持って綴られているのだ。行為できない自己への、無力化してしまう自己への、激しい怖れが、行為を遂行することへと自身を追い立てていく。自らの行為の正当性を確認しながら、死の意味づけを行っていくような日々。わき起こる疑いとそれを打ち消す論理の組み立て。その亀裂からは人であることの思いに引き裂かれた心の傷が溢れ出してくる。ここには短絡を嫌いつつ、思考し感じる力の魅力があるのだ。さらに、引き裂かれる心を象徴するかのような二人の女性を巡る思いも書かれている。一方の女性は彼女自身が主人公の男と夫との間で心が割かれている。そう、この小説では、常に引き裂かれた状況が描き出されている。その状況を抱えこむしかない心情が迫ってくるのだ。総督暗殺と決闘という二つの死。組織と実行者の軋轢。憎悪と無関心の差。革命とテロの違い。救済のためという行為の生と死をめぐる問い。いずれのなかに、何を考え取っていくか。その問い自体が読者を試しているような小説なのかもしれない。「今、現在にあって」というアクチュアルな状況を踏まえながら。例えば、こんな部分があった。「ヨハネ黙示録で言ってるね。『このとき人びと死を求めどあたわず、死を望めど死は逃げ去れり』と。いったい、死を招き願うときに、死がきみから逃げ去るほど恐ろしいことがあるだろうか?」 この一節でも、例えば死刑制度廃止への動機付けの一つとして考えることが可能なような気がする。魅力を持つ魔性の力に、理性はどこで拮抗できるのか。一切の暴力は否定されるべきではないのか。国家における暴力だけが許されるわけもないのである。かりに、それが、法的に保障されているとしたら、その法とは何だろう。さらにあとがきで川崎浹はこう書いている。「しかもロシアのロマン派的テロリストには現在の無差別テロとことちがい、正義のた
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1 コメント

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蒼ざめた馬を見よ (せきさん)
2011-01-03 20:15:29
五木寛之の小説はロープシンの小説から題名のヒントを得たとしても、内容としてはユダヤ系の大作家、西側の謀略という設定から考えると、パステルナークがモデルではないでしょうか?
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