パオと高床

あこがれの移動と定住

蜂飼耳『紅水晶』(講談社)

2008-05-20 11:10:55 | 国内・小説
この震えるような感性は何なのだろう。とても感度のよい感性が微妙に揺れる。その特殊が違和感なく共鳴を呼ぶ。病的といえる鋭敏さが、むしろ常態を感じさせる。抱きしめながら突き放す、突き放しながら抱きしめる。近くにあるのに遠い、遠くにあるのに近さがふいに現れる。相反するものが宿り合う世界。背理が道理で、背離は公理で、希求の危うさが浮遊する。境界は境界をまたぐものにとっては失われているのかもしれない。日常に非日常、正気にも狂気、生にも死、存在にも不在、科学には幻影。距離が揺らぎながら人々を関係づけている。距離が、人の息遣いを伝えながら絶え入らせ、かぼそさと野太さとを交差させながら、エロスとタナトスとを、空気のなかに漂わす。そこに介在する冷たい暴力と破壊。そこに立ち上るかなしみ。
心をつかみ取る短編集だった。

この作家の文章は後追い型ともいえる文章に魅力がある。改行されると詩になるようなフレーズがつながり、文を次の文が追いかけるような筆致に速度が宿り、その認識の手順が読者に同調感を感じさせる。そして、作者の認識の手順に従って同調していった先に、境界の割れた、相反するものが共存する場所が立ち現れるのだ。そこに至った瞬間、一瞬戻れなくなる。言葉が作り出す、現実の底の底。言葉は言葉のない世界の際まで行くような印象を与える。

言葉は言葉の背後に空虚を持っている。なぜなら言葉は実体と共にあるものではないからだ。だから、実体を持たずに言葉だけをボクらは持ち歩くことができる。この詩人であり小説家である作者は、言葉を先行させるのかもしれない。言葉を、言葉の空虚を埋めるために、言葉の持つ手触りと空虚を埋めるための言葉の連鎖で繋げていく。それは、形を後発的に認識する行為に似ている。そこでは、曖昧なものは実体化に向けて像を作り始めるはずだ。しかし、ここで反転する。ボクらの現実は合点がいくような像を結ぶだけではすまないのだ。むしろ、像は異形にゆがんでいる。その地点に連れて行ってくれる作品。そんな作品が持つ魅力が、この短編集にはあった。

で、なんだかんだで、とにかく、まず、随所にある文に惹かれたのだ。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 石見銀山に行く | トップ | 姜尚中『姜尚中の青春読書ノ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

国内・小説」カテゴリの最新記事