パオと高床

あこがれの移動と定住

渡辺玄英詩集『星の(半減期 』(思潮社 2019年4月25日)

2019-06-12 00:30:29 | 詩・戯曲その他


 これはずいぶん前に書かれたものだ
 読みづらい文章の中に
 欠落した言葉があって
 かけた言葉の向こうに
 ぼんやりと夕日が差している
 ひとが影になって歩いている
           (「未読の街」冒頭)

目次よりも前に置かれた冒頭の詩で、一冊の詩集が始まる。
書かれた言葉がそこにありながら、まるでそこに欠落した言葉を拾っていくような、そこにひとがいるはずなのに、
まるでひとの影に出会うような、すでに書かれているはずなのに、だからすでに読んでいるはずなのに未読の物語
られる街に住むような、世界が=セカイが始まる。半減期で消えていく星の住人であるような、それでいて半減期
に消えていく星を目撃する星の住人でもあるような、ぼくのぼくらの物語が語られる。もちろん、反物語が語られる。
そう、すぐれた現代作品が、すべからく推理小説のようであり、冒険小説のようであるように、謎をめぐる、未解決
の状況におかれた冒険が始まる。しかも、今現在を描く作品がそうであるように、物語は常に反物語であり、メタ
であることを合わせ持つ宿命を生きている。読者であるぼくは「未読の街」を読んだ後、目次の世界に入っていく。
そして言葉の森に入っていく。木々が茂るわけではない。むしろ木々はなく、そこは言葉が、せつないまでに言葉と
折り重なった森である。既読のはずなのに未読な言葉が誘う。

「開かれた作品」ということばがあって、人を饒舌にする作品がある。あれこれ語りたくなる。だが、一方で詩や
小説はそれを語ることばを拒んでいる領域を持つ。当然だ、解説的なことばで語りつくされてしまうなら、詩や小説
にするわけがない。つまり「開かれた作品」は人を饒舌にしながら、人を黙らせる。そこには刺激の感覚が残る。
そして、広漠の中に置き去りにされたような痛みと不思議に解放されたようなやわらぎの気持ちが沁みる。たぶん、
この感情も坂口安吾なら「文学のふるさと」というのかもしれない。
渡辺玄英さんの詩集を読んだときに、そんな感じがした。

 夜の空の
 無数の星がひそかにささやいて
 いる(きこえない

 見たことがある(けれど
 見覚えのない街に(街灯だけが点々と灯って
 角をまがると
 また同じ街がある
           (「星の(闇 」冒頭)

 きのうセカイは壊れたらしい
 (星の光は星そのものではない(ように
 ムス−の見えない星が散りばめられた
 ひとつひとつは意味があるささやきかもしれないけれど
 それが一度に響きはじめると(こんなにも
 暗いかたまりになったのだ(かもしれない
 ムスーの見えない星が(闇になって
 ムスーの街がさいげんなく(闇になって
 くりかえされるぼくがくりかえし夜に迷いつづける
 死んだ未来にまがり角で出会う
           (「星の(闇 」第3連冒頭)

セカイを語ること、抒情をこぼすことは衒いや恥を伴うし、すでにその語られつくした樹海の先にぼくらはいる。
そこでは語るべき世界は、帯びるはずの抒情は、組みかえられるし、ずれてしまうし、すでに逆さパロディでいない
ではすまされないのだろう。語る相手がいない、と同時に語る相手が無数にいる。そんな状態の中で「( 」で、
液晶に書かれるように言葉は言葉に切断されながら、立ち止まりながら、ためらいながら、それでも流れるように
続いていく。詩は、まるで音楽のように流れる。

吉本隆明の詩集に『記号の森の伝説歌』という詩集があって、その題名いいなと思ったが、発売は86年、もう30年以
上前になる。75年頃から84年までに書かれた詩で編集されていて、石油危機以降バブル景気の前まで。高度資本主義
社会の中で、過剰な記号が溢れ出している時期。
もちろん、記号が過剰でない時代はないわけだろうが、そこにあるものが記号として認識されて、解読される記号た
ちが記号であることの衒いをなくした時期なのかもしれない。記号がアナログなものからデジタルなものへ移行して
いきながら、より記号として自立していく時期かもしれない。インベーダーゲームやパソコンの普及などなど。
「自立していく」といういい方に、擬人法の臭いがしてしまうのは、すでにボクの認識がアナログだからだろう。
そんな中で、吉本の詩はまだ、ことばが「記号の森」に棲息しながら、記号の森に迷い、そこから離れ、羽ばたこう
としていた。彼のいい方を借りれば、ことばの背後に「風景」があった。だから「伝説歌」であり、ことばは記号の
中心にありながら、記号を解読し、記号化を振り切ろうとするかのような身振りを見せていた。
で、詩は、記号との比重を変えながらも、「ことば」をつかって表象されるということにおいて、このあらがいの進
行形の中でこそ詩としてあり続けると思う。
その、先鋭な表現のひとつが渡辺玄英さんの詩だ。
ことばはもちろん記号である。だが、ことばをそれ自体の社会的な機能から乖離させていく。そのきわどい距離感が
スリリングだ。それには、むしろ記号化されたアイテムが利用される。なぜか。それが現在だからだ。
そして、ことばと記号は同位体だからだ。ボクらは「半減期」にあって、その世界を往還する。詩に倣えば「セカイ」か。
そのただ中にいるのに、その外にいるかのような「セカイ」。あるはずのものはあらかじめ失われている。ぼくやぼくらの
現在はそのように認識される。

 まだ起きていますか。未来が死んだところです。
 (たえまなく
 夜空に消えていく
 ペリセウス座流星群の擦過音(のエコーを
 受信しています
           (「星の(半減期 」冒頭)

 ごらんなさい
 きらきらのぼくらわたしらがたくさんだ
 (まだ訪れていないたくさんの未来だった
 だからここには(いないはずの(ぼくらわたしらが
 次々とセカイから消滅していく
 (死んだ未来のぼくらわたしらが、
 いっせいにいいね
 って反響している(いるね
           (「星の(半減期 」第3連冒頭)

まるで量子論のような一節もある。

 鳴く猫と
 鳴かない猫のあいだに
 時間が緩慢に止まろうとしている
 あけられない箱のような街に
 たどりつけなかった過去が
 かたい胡桃になって
 (ねこの直角にあがった尾の先に
 月はうごかない
           (「胡桃(くるみのとき 」冒頭)

情景のすき間に流れる時間の粒子が見えるようだ。だが、箱を空けて見た瞬間、粒子が見えたと思った瞬間、動くのを
やめる。波は,過去は、動きをとめる。かけらになった時間は、エネルギーを失っている。
だが、そんなかけらの中を生きていることはかけらを動かすことでもある。そうして生きているぼくらによって世界は
歪むし、動くのだ。不可能性を生きているようで、詩はどこか希望の書でもあるようなほの明るさを持っている。

 虚でも実でもその境目でもすべて
 セカイのことであるのですから
 書きとめてみるとそれも世界をすこしだけ歪ませているのです。
           (「星の(半減期 」最終連冒頭)

そんな詩の言葉がここにはある。今を生きぬく表現の地平の広がりの中にある。
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