パオと高床

あこがれの移動と定住

河野俊一『ロンサーフの夜』(土曜美術社出版販売 2019年6月30日)

2019-09-29 13:31:21 | 詩・戯曲その他

起こっている出来事と、拮抗する、対峙することば。ボクらは事態が切実で痛切であればあるほど、その事態そのものに心を奪われてしまう。
だが、詩が表現であり、詩を紡ぐ者が表現者であったときに、表現する者の宿命は生きられる。表現する者は、その宿命を生きなければならな
いのかもしれない。むしろ、表現者の救いは事態を表現するために、なおことばを腐心することにあるのかもしれない。
そこでは、痛切な事態を抜けようとする作者がいるように、表現として立とうとすることばがある。そのことばは事態を引き受けながら、抜け
ようとする作者の身体を通ることで、強靱な表現の力をまとい、ことばは火の言葉、水の言葉になるのかもしれない。
そのとき、ことばは生と死との緊張関係の中から、ことばとしての生き直しにも似た輝きを発する。かえがたさといえるものだろうか。
ボクは、この詩集のことばに打たれた。

人を饒舌にする詩集(表現)と人が沈黙せざるを得ない詩集(表現)がある。前にもそんなことを書いた。いずれもが詩集自体の強度が強いと
きに、より激しく訪れる。
河野さんのこの詩集は、しばらくの間、ボクを沈黙させた。それは事態の重さのせいではない。事態とことばとの緊張感が別の言葉を一瞬空疎
に思わせたからだ。だが、ことばはやって来る。そのこと自体を表記せよとことばが告げる。

日常に訪れる出来事に対して、日常の中にありながら常に日常をおびやかす、また日常を過酷でありながらかけがえのないものにする事態に対
して、日常的なことばが詩語となる峻烈な現場が、この詩集である。そして、この詩集が成立するために過ごされた時間である。確かにここに
は「峻烈さ」がある。しかし、それは「峻烈さ」を演出することはない。むしろ自然なのだ。なぜか。それは自然なことばが求められたからだ。
ことばが常に自然であること。それが、日々が確実に毎日として過ごされていることへの、そこに生身のボクたちが生きていることへの証しに
なるからだ。生身のボクたちが在ることが、死者を吸引する。なぜか。それは、生者しか死者を語れないからだ。生者しか死者となる際(きわ)
を見つめられないからだ。

詩集名『ロンサーフの夜』の「ロンサーフ」は癌自体の進行を抑え、延命および症状緩和の目的が主の進行・再発大腸癌治療薬と詩集の中で註
釈される。詩集は闘病しながらも青春を生きた娘との日々を描きだしている。詩「霧の鹿」を全篇引く。

 再発がわかった日に
 お前は実家には帰らず
 職場の街へと向かう高速バスに飛び乗った
 付き添った母親には
 できるときに仕事をしておきたいと
 言い残して

 お前が帰ってこなかった家で
 何も知らない時間がたわみながら
 暖かく揺れている
 目を閉じると
 霧の中にうっすらと立ち上がる
 鹿が見える
 こちらに
 差し出すものを考えている
 そんな眼差しで
 言葉を置き去りにして

もう1篇。なにげなさは、詩語をとき放つ。詩「雲の行方」は、こう書き始められる。

 今朝も目が覚めた
 起きれば
 高速バスに乗らなければならない
 高速バスに乗れば
 福岡に行かなければならない
 福岡に行けば
 緩和ケアの話を聞かなければならない
 おはよう晃子
 ベッドから見える
 福岡の天気はどうですか
 ロンサーフは
 二か月で効かなくなってしまったね
 バカヤロウ

この数行に、作者の「しなければならない」ことの辛さとそれを受け入れようとする心情、そして語りかけながら受け入れられなさを吐露する
心が書きつけられている。詩は病室から見る雲で閉じられる。

 病室からでもなければ
 こんなに雲を眺めることなんてない
 その中で
 小さな雲は
 形を変えながら
 ひときわ小さくなり
 たなびきながら
 さらに小さくなり
 空の途中で消えてしまう
 そんな雲だってあるのだ
 日が暮れてゆく
 病室の窓からは
 たよりない宇宙の色が見え始める

詩集には18ページに及ぶ「十一月五日、晃子を入院させる」という長詩が収録されている。大分から湯布院、久留米、鳥栖、佐賀を抜け長崎の
娘さんのところに行き、彼女を乗せて太宰府インターから老司の国立九州がんセンターに入院させるところまでが描かれている。

 湯布院の木立には
 晩秋の気配が塗り付けられ
 散る葉が煩わしく風に舞う
 大分から長崎は遠い
 十二時二十五分に発ち
 湯布院を通り水分峠を越え
 豊後森を過ぎ日田を抜け
 浮羽で十四時五十四分休憩
 十一月の空気は硬い

と、詩は書き始められる。行程が具体的に書き込まれていく。そして、その間のようすや気持ちの揺れも書き込まれていく。

 なかなかたどり着かない
 (長崎はこんなにも遠い)
 頭の中で詩がいくつも生まれる
 そしていくつもの詩を殺す
 晃子の代わりに
 言葉を殺す

この長崎へとたどり着けない長い行程は、それがそのまま生の行程なのかもしれない。この距離の長さは実は短いのだ。
短い生の中での、ただひとつの長さであり、これが生の時間なのだという思いが胸に迫ってくる。
詩を殺しながら生まれだした詩がここにはある。

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