パオと高床

あこがれの移動と定住

篠沢秀夫『フランス文学精読ゼミ』(白水社)

2009-07-28 23:57:55 | 国内・エッセイ・評論
フランス語がわからなくても十分楽しめた一冊。
篠沢教授による、ランボー『地獄での一季節』の訳、精読の一部か、または、さわりかも。訳詩集は大修館から出ているが、ここでは小林秀雄、鈴木信太郎訳の『地獄の一季節』の問題点への言及が前半を占めている。

小林秀雄の訳のかっこよさは認めながらも、どこか釈然としない思いが、あったのだが、今回、篠沢教授の解釈を読むと、妙に納得させられた。特に、様々な文体を駆使しているというランボーの表記の動きを語る部分は、そうだろうそうだろうと勝手に納得した。

文体学という批評軸を提唱し、批評の先端を走っていた著者の訳本以外のまとまった本を読むのは、実は初めてである。この人の価値観や発言に違和感を持ちながらも、この人の批評の方法論にはびっくりする。
フランスが占領された時にアラゴンが書いた詩が持つ伝統形式への着眼は面白かった。また、サルトルの体質とも取れる文体学的特徴が、実はサルトルの実存哲学と密接に結びついているという指摘や、カミュやブランショの文体から、それぞれの作家が誰と類縁性を持っていたかを語る論考など、文体への執拗さが持つ凄みがあった。

「文学作品はコトバで書かれている。」と、篠沢教授は書き始める。その「コトバ」にこだわり、「コトバ」から「ピン」と来て、「ブンガク」を読み解いていく。「作者の意図のとおり」とは限らないが、また、「作者が意識していないことを読者が読み取るのも、コトバで書かれているからこそであり、それがブンガクなのです」と書きながら、作者の意図と読者の意図の双方を、「文体」から解釈していく。その方法論は徹底される。

作品は、どこに幸せな出会いを持っているのだろうか。どんな読者に出会うことが幸せで、どこに幸福な意図の一致があるのだろうか。あるいは、別読みの快感はどこにあるのだろう。そんなことを考えながら、コトバの森の迷路に迷う。篠沢教授の地図の、覗き見が出来たような一冊だった。

ランボーの訳は粟津則雄の訳が好きだった。
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