九州国立博物館に行く。阿修羅に会いに行く。戦う神の憂いに会いに行く。すくっと立っている。屹立というわけではない、むしろぞんざいに立っている。天平仏なのだ。その立ち位置から、腰が、手が、動く。そして表情が、一瞬の静止の中に、感情の打ち消しがたい痕跡をとどめて、「憂い」と「峻厳」と「切実」を、問いに転化して放散してくる。その前にいて、魅了される。心を揺さぶってくる、ある静謐が、ここにはある。それは、むしろ動が静に移ることで、封じられた沈潜のようであり、人は心の揺らぎを阿修羅に投影させる。
思ったよりも、明るい照明だった。また、円形の場所に立つ阿修羅に、360度移動しながら語りかけていける空間は、係員の誘導の手際よさもあって、不要なストレスを感じることもなかった。
鎌倉仏の四天王との造形の違いも感じることができ、また、八部衆のうちの四体との出会いにも、時間の充実を感じられた。
それにしても、様々な阿修羅グッズの開発力はたいしたものだ。ただ、これも、仏像の本来性から考えると、むしろ当然のことなのかもしれない。
そのグッズとは別の話だが、作られる仏像それ自体は、アイドルの原義に忠実でありながら、精神性のレヴェルを保つ、いや、むしろ精神性の充溢があってこそアイドルとしての実在性に至ることが出来るのであり、ここに仏像が作りつづけられる営為の凄まじさがある。
思ったよりも、明るい照明だった。また、円形の場所に立つ阿修羅に、360度移動しながら語りかけていける空間は、係員の誘導の手際よさもあって、不要なストレスを感じることもなかった。
鎌倉仏の四天王との造形の違いも感じることができ、また、八部衆のうちの四体との出会いにも、時間の充実を感じられた。
それにしても、様々な阿修羅グッズの開発力はたいしたものだ。ただ、これも、仏像の本来性から考えると、むしろ当然のことなのかもしれない。
そのグッズとは別の話だが、作られる仏像それ自体は、アイドルの原義に忠実でありながら、精神性のレヴェルを保つ、いや、むしろ精神性の充溢があってこそアイドルとしての実在性に至ることが出来るのであり、ここに仏像が作りつづけられる営為の凄まじさがある。
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