唐から、演劇界を駆け抜けた唐から、元気をもらおうと思って、この本の中の数篇を拾い読みする。
これは、以前『腰巻きお仙』に収録されていた。
千田是也を中心にした新劇界に肉体の特権性で挑みかかった唐という印象がやはり強い。頭でっかちになっていき、
時間や空間の中に「スルスルと吸い込まれ」ていく、その「スルスル」に「特権的肉体」で待ったをかける。
肉体とは、……最も現在形である語り口の器のことだ。(「いま劇的とはなにか」)
とか、
もし、この世に、特権的時間という刹那があるなら、特権的肉体という忘れ得ぬ刹那もまたあるにちがいない。(「石川淳へ」)
「ホラホラ、これが僕の骨……」とうたう中原中也に痛みという肉体を見出し、檀一雄に雪の中で投げ飛ばされ、
「お前は強いよ」と言って立ち上がった中原中也の話から始められるこの本。芝居という空間を作り上げる肉体の特権性をめぐる話は、
勢いのある文章とその文章を支えると独特な論理とイメージの疾走がかっこいい。
痛みは、肉体を気づかせ、恥は、肉体の痛みを持続させる。しかし、痛みの意識は、自らの内に自然に発生するものではなく、
そこには必ず他者の視線が介在する。石に頭をぶつけて、痛いという感覚とは逆に、視られた肉体の痛みは、自らを石にさせるのだ。
(「いま劇的とはなにか」)
痛みを与えたものになる自分をみつめるまなざし。自分が相手になるその瞬間。これは見る—見られるを超える瞬間かもしれない。
演劇の発生する現場かもしれない。
肉体が自らのものであるのに、自らのものでなくなってゆくこのような麻痺は、あの痛みの意識から始まる。(いま劇的とはなにか))
身体と精神の二元論的な考えが、一瞬に瓦解するその刹那の麻痺をとらえているのかもしれない。
この文章には実存の深みをみつめる一節も出てくる。存在は、この瞬間に舞台に立つ。
存在の井戸を覗き込んでいるうちに、逆に、井戸から覗き込まれるとしたら、そこから身を離しても、意識は逃げのびるどころか
井戸の底に向って降りてゆかねばならぬ。(「いま劇的とはなにか」)
唐は、この1970年の文章で書く。
これはけっして芝居の世界だけではない。現代芸術というものが、すべからく、肉体を枯らした空騒ぎの世界に包含されているのだ。
ならば、肉体の特権的時間とは何か、肉体の山水花鳥とは?—
いつだって、見るべきものがなくなるなどということはけっしてないのだから、君は足を使って出かけてゆくのだ。
どこかにある現代の河原へ。(「幻の観客へ」)
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