田島安江さんの「明けない夜に」の続き。
四つの詩の三つ目「日曜日の雨戸」。この詩は一転して、日曜日の朝のある時間帯の表現に絞り込まれる。その第一連。
朝早く
隣のまち子さんが雨戸を開ける
毎朝決まった時間
わたしが夜戻ったとき
すでに雨戸は降ろされている
部屋の明かりだけが
ほんのかすかに漏れてくる
音がなく明かりだけというのが
夕暮れが来ない一日のように落ち着かない
ふいに
首筋を通って針を刺されたような痛みを伴う音が
地球の裏側にむかって一気に降りる
首筋を通った音の針は
一直線に地球の中心へと向かう
(「日曜日の雨戸」第一連)
詩は現在の日常性に立ち戻る。日常の習慣的な時間が書かれる。この詩では、習慣をしめす用法として現在形が多用される。その日常の間に介入するように「吊るされた言葉」からの連鎖が現れる。あるいは、これによって二章に立ち返らせるかのように。「夕暮れが来ない一日」や「地球の裏側にむかって」という詩句が前の詩と有機的につながっていく。しかも、ここで、「針を刺された」という痛感が書かれるのだ。この痛みは、心の奥に過去が与える痛みと呼応する。さらに使われている技は、その痛みが「痛みを伴う音」として、聴覚から入ってくるのだ。「地球の裏側」の「言葉を吊る」している場所に音が運んでいくのだ。と、読めば、「地球の中心」が心の中心に限りなく近づく。耳から入った痛みを伴った音は、心の側にある痛みと交感しているのだ。すると、この「雨戸を開ける」音は「ウナギ釣りに行くぞ」の声と重なってくる。ウナギ釣りは夜中に行われる。そうすれば、この二つには、深夜と朝という時間のズレが起こっているが、寝ている子どもだった「わたし」の状態と朝まだ寝ている今の「わたし」の状態は重なっているのだ。不思議なのは、これが何だか、「ウナギ釣り」から夜遅く戻った翌日のようにも読めるところで、それぞれの時間が浸食しあっているのだ。
謎は、「痛み」の原因である。まち子さんと朝というモチーフと共に、これは四つ目につながる新しいモチーフなのだ。現実にまち子さんという人物はいるのかもしれないが、この名前から朝を待つのライトモチーフも読みとれるのだ。
そして、第二連。ここで「日曜日の朝」がでる。
日曜日の朝
まち子さんが洗濯機のスイッチを入れる
うなり声をあげて洗濯機の音が迫ってくる
その音は
父が連れていた犬の遠吠えに似ている
まち子さんはつぎに掃除機をかける
それが終わると
まち子さんは電話をかける
甲高い笑い声が聞こえる
わたしはそっと窓を閉める
ここで「父」と「犬」がまた顔を出す。結構アクロバティックな展開のさせ方で、洗濯機の音から犬の遠吠えへと音の連想でもってくる。そのあと、まち子さんは掃除機をかけ、電話をかけ、笑い声が聞こえ、窓を閉める。洗濯機の音は、別の音に遮断されるのだ。「父」と「犬」のモチーフは、生活の音に消される。そこで、「そっと窓を閉める」。
詩は最終連の第三連に進む。閉められた窓の中で、「わたしの洗濯機」は回り続けている。その「止まらない」洗濯機の音に乗って、今度は、まち子さんの部屋の電話が鳴る。まち子さんは知らない女としゃべり続ける。
眠気がやっと去る
あと27分
わたしの洗濯機もなかなか止まらない
電話が鳴る
まち子さんと知らない女が
ずっとしゃべり続けている
どうもわたしのことらしい
もう何十年も前のわたしのこと
そのいくつかに覚えがある
だけどそんなことはおくびにも出さず
わたしは黙って聞いている
誰も知らないはずの体のことを言われ
顔から火が出るほどうろたえる
それがわたしなのか
あの子のことなのか
わからなくなる
(「日曜日の雨戸」全編)
「犬」へとつながった「洗濯機」は閉ざされるが、「わたし」の「洗濯機」は「わたし」と「まち子さん」と「もう何十年も前のわたし」と電話の相手の「知らない女」などを一気に入れて、「誰も知らないはずの体のこと」まで主客を混在させて回り続ける。「わたし」を存在させている「わたしのこと」は、「しゃべり続け」られることで、「ことがら」として存在する。それは、誰に向かってか、また、どうして知っているのかさえもわからなくなる、とてつもなく「うろたえる」現象なのだが、そこに「わたし」は存在している。すでに「わたし」は見られ、語られることで「わたし」なのだ。ところが、その「わたし」、はたしてどこまで「わたし」なのか。その脈略は、「わからなくなる」のだ。
しかし、「わたし」は現在にいる。現在に戻ってくる。まどろみから混沌への三つ目の詩、三楽章の回転するような旋律は、四つ目の詩に向かう。
「冷たい春の雨」は、終楽章のような趣を持っている。その第一連。
黄ばんだノートが
歳月のかけらをとどめて
机の上に置かれている
父の右上がりの癖のある文字が
並んでいる
激しい雨が降り続いている
いつまでも冷たい春の雨
激しい雨は大切なものを
根こそぎ流していく
そんなとき雨は快感となる
「ノート」が「置かれている」という静かな書き始めで、これまでの過去への旅が、この「机の上」のノートから始まっていたのではないかと思わせる。四楽章は、このように静かに始まる。そこに雨の音が重なる。前の詩の「雨戸」が「雨」を呼ぶ。ここで、作者は「雨」を降らせる。「洗濯機」の水が排水されるように雨が降る。水は、この作者の通奏音として流れている。「ウナギ釣り」の川や「洗濯機」の水、そして、雨。混在した過去を雨が、混在して「大切なもの」を雨が「根こそぎ流していく」。これはしかし、「快感なのだ」。この快感は、「明けない夜」に対して、明けそうな、明けられそうな快感なのかもしれない。
そして、雨の音の中、「友人」が現れる。
友人が雨のなかを訪ねてくる
雨とともに
知らない街の空気を運んでくる
夜の雨は
人の心までも踏み倒していく
友人の
後ろに影のように
父の犬が立っている
過去にずっとつきまとっていた、戻れない時間、至れない時間は、死の側になる。死のイメージが常に漂っていたのだ。雨の中、訪れる友人には、影がない。影には「父の犬が立っている」のだ。最初の詩の「よたよたと歩いていく」犬が、時空を超えて現れる。犬が引き寄せるのは過去と同時に、死である。「知らない街の空気」を「運んでくる」友人は、はたして生きた友人だろうか。ここにある「かなしみ」のようなものが、いなくなった友人という印象を与える。訪ねてくる友人に、その雨によって「心」は「踏み倒されて」いるのだ。
最初ふたつの比較的過去の時間の詩は、「行く」という行為が示されるが、「日曜の雨戸」と「冷たい春の雨」という現在の時間の詩は、「来る」が詩を包んでいる。現在に過去は来るものであり、死は訪れるものなのだ。そこで、「行く」とのせめぎ合いが生まれる。訪れた過去、そして死は、別の世界を誘う。
おいでよ
小さな声が聞こえた
カム・イン
別の声が聞こえる
あんなにもすぐ近くまで行けたのに
勇気のないわたしはついに引き返してきた
父には会えなかった
いくじなし
また声がいった
まち子さんの部屋のベランダに
バタバタと羽音がして
鳥が戻ってきた
鳥にまで笑われた気がする
この第三連がピークである。過去の側、死の側と現在が交錯する。「おいでよ」は友人の声か。「カム・イン」は「犬」の呼びかけか。「父」のモチーフと「犬」のモチーフが絡まり合う。「友人」によって呈示された別の世界は、「わたし」がそこには行けないという思いを微妙な悔いとして残す。詩句は、その微妙さを刻む。「すぐ近くまで行けたのに」の「のに」にこもる悔い。「勇気のないわたしはついに引き返してきた」の「勇気のない」という言い訳と、「ついに」というぎりぎり感へのやさしい逃げ。父に会えなかったということへの悔いをオブラートする自己弁明。ここでは、「た」という動詞の文末が、多用される。そこに、かすかな詠嘆が残るのである。引き寄せきれなかった時の存在が感じられるのだ。
そして、「いくじなし」というフレーズが現れる。
責めてはいない。何も責めない。ただ、ここに在る言葉は、友人の側からの「いくじなし」でもあり、「わたし」の心の声の「いくじなし」でもあるのだ。そして、別の世界と往還できる、死の使いでもある「鳥」の羽音がする。これが「明けない夜に」の最終モチーフである。この「鳥」が詩全体を終わらせるピースになる。
「鳥」は「戻ってきた」。つまり、行ってきたのだ。だから、そんな「鳥にまで笑われた気がする」のである。この世に隣接するあの世。現在の横にある過去。「わたし」の周囲を包み込む膨大な別の時空。
激しい雨が鳥の羽根の隙間から入り込む
飛行機が空をよぎる
本を閉じる
窓に椅子を寄せる
ふと世界を感じる
すぐそばに父の犬がいる
鳥が飛び立つ
(「冷たい春の雨」全編)
終連は、現在にこだわるように、また現在形が積み重なっている。この畳みかけが、案外、最終楽章のラストを思わせるのだ。
最終連は「羽根の隙間から入り込む」雨という微細なまなざしから始まる。一転、その背後の空がイメージされる。この空のイメージが「わたし」から空を見るまなざしを逆転させる。逆に、空から「わたし」を見るような像を作るのだ。カメラが引いて「わたし」を撮っているような印象だろうか。「本を閉じる」のは「わたし」の視線なのだが、読者には同時に、遠くから「本を閉じ」ている「わたし」が見える。「窓に椅子を寄せる」のも「わたし」なのだが、寄せている「わたし」が見える。そして、「わたし」は「世界」を感じる。これはリアルな現在の世界である。「父に会えなかった」という「わたし」は、「世界」に立ち戻る。ところが、ここにある「感じる」世界は、そのリアルを現在の時間にだけ置いているのではない。世界のリアルは見えているものとそれを包む膨大な見えないものとの総和の中にある。
「世界を感じ」ている「わたし」が、部屋の窓の近くの椅子に座っている様子が像を結ぶのである。それは世界のただ中にある一隅である。周囲の既視の世界の周りには、死者や過去の時間がある。そこでは距離は自在となっている。だから、「すぐそばに父の犬がいる」。再来する「犬」のモチーフ。
そして、戻ってきた鳥は、「飛び立つ」のだ。世界はそこにある。
四つの詩の三つ目「日曜日の雨戸」。この詩は一転して、日曜日の朝のある時間帯の表現に絞り込まれる。その第一連。
朝早く
隣のまち子さんが雨戸を開ける
毎朝決まった時間
わたしが夜戻ったとき
すでに雨戸は降ろされている
部屋の明かりだけが
ほんのかすかに漏れてくる
音がなく明かりだけというのが
夕暮れが来ない一日のように落ち着かない
ふいに
首筋を通って針を刺されたような痛みを伴う音が
地球の裏側にむかって一気に降りる
首筋を通った音の針は
一直線に地球の中心へと向かう
(「日曜日の雨戸」第一連)
詩は現在の日常性に立ち戻る。日常の習慣的な時間が書かれる。この詩では、習慣をしめす用法として現在形が多用される。その日常の間に介入するように「吊るされた言葉」からの連鎖が現れる。あるいは、これによって二章に立ち返らせるかのように。「夕暮れが来ない一日」や「地球の裏側にむかって」という詩句が前の詩と有機的につながっていく。しかも、ここで、「針を刺された」という痛感が書かれるのだ。この痛みは、心の奥に過去が与える痛みと呼応する。さらに使われている技は、その痛みが「痛みを伴う音」として、聴覚から入ってくるのだ。「地球の裏側」の「言葉を吊る」している場所に音が運んでいくのだ。と、読めば、「地球の中心」が心の中心に限りなく近づく。耳から入った痛みを伴った音は、心の側にある痛みと交感しているのだ。すると、この「雨戸を開ける」音は「ウナギ釣りに行くぞ」の声と重なってくる。ウナギ釣りは夜中に行われる。そうすれば、この二つには、深夜と朝という時間のズレが起こっているが、寝ている子どもだった「わたし」の状態と朝まだ寝ている今の「わたし」の状態は重なっているのだ。不思議なのは、これが何だか、「ウナギ釣り」から夜遅く戻った翌日のようにも読めるところで、それぞれの時間が浸食しあっているのだ。
謎は、「痛み」の原因である。まち子さんと朝というモチーフと共に、これは四つ目につながる新しいモチーフなのだ。現実にまち子さんという人物はいるのかもしれないが、この名前から朝を待つのライトモチーフも読みとれるのだ。
そして、第二連。ここで「日曜日の朝」がでる。
日曜日の朝
まち子さんが洗濯機のスイッチを入れる
うなり声をあげて洗濯機の音が迫ってくる
その音は
父が連れていた犬の遠吠えに似ている
まち子さんはつぎに掃除機をかける
それが終わると
まち子さんは電話をかける
甲高い笑い声が聞こえる
わたしはそっと窓を閉める
ここで「父」と「犬」がまた顔を出す。結構アクロバティックな展開のさせ方で、洗濯機の音から犬の遠吠えへと音の連想でもってくる。そのあと、まち子さんは掃除機をかけ、電話をかけ、笑い声が聞こえ、窓を閉める。洗濯機の音は、別の音に遮断されるのだ。「父」と「犬」のモチーフは、生活の音に消される。そこで、「そっと窓を閉める」。
詩は最終連の第三連に進む。閉められた窓の中で、「わたしの洗濯機」は回り続けている。その「止まらない」洗濯機の音に乗って、今度は、まち子さんの部屋の電話が鳴る。まち子さんは知らない女としゃべり続ける。
眠気がやっと去る
あと27分
わたしの洗濯機もなかなか止まらない
電話が鳴る
まち子さんと知らない女が
ずっとしゃべり続けている
どうもわたしのことらしい
もう何十年も前のわたしのこと
そのいくつかに覚えがある
だけどそんなことはおくびにも出さず
わたしは黙って聞いている
誰も知らないはずの体のことを言われ
顔から火が出るほどうろたえる
それがわたしなのか
あの子のことなのか
わからなくなる
(「日曜日の雨戸」全編)
「犬」へとつながった「洗濯機」は閉ざされるが、「わたし」の「洗濯機」は「わたし」と「まち子さん」と「もう何十年も前のわたし」と電話の相手の「知らない女」などを一気に入れて、「誰も知らないはずの体のこと」まで主客を混在させて回り続ける。「わたし」を存在させている「わたしのこと」は、「しゃべり続け」られることで、「ことがら」として存在する。それは、誰に向かってか、また、どうして知っているのかさえもわからなくなる、とてつもなく「うろたえる」現象なのだが、そこに「わたし」は存在している。すでに「わたし」は見られ、語られることで「わたし」なのだ。ところが、その「わたし」、はたしてどこまで「わたし」なのか。その脈略は、「わからなくなる」のだ。
しかし、「わたし」は現在にいる。現在に戻ってくる。まどろみから混沌への三つ目の詩、三楽章の回転するような旋律は、四つ目の詩に向かう。
「冷たい春の雨」は、終楽章のような趣を持っている。その第一連。
黄ばんだノートが
歳月のかけらをとどめて
机の上に置かれている
父の右上がりの癖のある文字が
並んでいる
激しい雨が降り続いている
いつまでも冷たい春の雨
激しい雨は大切なものを
根こそぎ流していく
そんなとき雨は快感となる
「ノート」が「置かれている」という静かな書き始めで、これまでの過去への旅が、この「机の上」のノートから始まっていたのではないかと思わせる。四楽章は、このように静かに始まる。そこに雨の音が重なる。前の詩の「雨戸」が「雨」を呼ぶ。ここで、作者は「雨」を降らせる。「洗濯機」の水が排水されるように雨が降る。水は、この作者の通奏音として流れている。「ウナギ釣り」の川や「洗濯機」の水、そして、雨。混在した過去を雨が、混在して「大切なもの」を雨が「根こそぎ流していく」。これはしかし、「快感なのだ」。この快感は、「明けない夜」に対して、明けそうな、明けられそうな快感なのかもしれない。
そして、雨の音の中、「友人」が現れる。
友人が雨のなかを訪ねてくる
雨とともに
知らない街の空気を運んでくる
夜の雨は
人の心までも踏み倒していく
友人の
後ろに影のように
父の犬が立っている
過去にずっとつきまとっていた、戻れない時間、至れない時間は、死の側になる。死のイメージが常に漂っていたのだ。雨の中、訪れる友人には、影がない。影には「父の犬が立っている」のだ。最初の詩の「よたよたと歩いていく」犬が、時空を超えて現れる。犬が引き寄せるのは過去と同時に、死である。「知らない街の空気」を「運んでくる」友人は、はたして生きた友人だろうか。ここにある「かなしみ」のようなものが、いなくなった友人という印象を与える。訪ねてくる友人に、その雨によって「心」は「踏み倒されて」いるのだ。
最初ふたつの比較的過去の時間の詩は、「行く」という行為が示されるが、「日曜の雨戸」と「冷たい春の雨」という現在の時間の詩は、「来る」が詩を包んでいる。現在に過去は来るものであり、死は訪れるものなのだ。そこで、「行く」とのせめぎ合いが生まれる。訪れた過去、そして死は、別の世界を誘う。
おいでよ
小さな声が聞こえた
カム・イン
別の声が聞こえる
あんなにもすぐ近くまで行けたのに
勇気のないわたしはついに引き返してきた
父には会えなかった
いくじなし
また声がいった
まち子さんの部屋のベランダに
バタバタと羽音がして
鳥が戻ってきた
鳥にまで笑われた気がする
この第三連がピークである。過去の側、死の側と現在が交錯する。「おいでよ」は友人の声か。「カム・イン」は「犬」の呼びかけか。「父」のモチーフと「犬」のモチーフが絡まり合う。「友人」によって呈示された別の世界は、「わたし」がそこには行けないという思いを微妙な悔いとして残す。詩句は、その微妙さを刻む。「すぐ近くまで行けたのに」の「のに」にこもる悔い。「勇気のないわたしはついに引き返してきた」の「勇気のない」という言い訳と、「ついに」というぎりぎり感へのやさしい逃げ。父に会えなかったということへの悔いをオブラートする自己弁明。ここでは、「た」という動詞の文末が、多用される。そこに、かすかな詠嘆が残るのである。引き寄せきれなかった時の存在が感じられるのだ。
そして、「いくじなし」というフレーズが現れる。
責めてはいない。何も責めない。ただ、ここに在る言葉は、友人の側からの「いくじなし」でもあり、「わたし」の心の声の「いくじなし」でもあるのだ。そして、別の世界と往還できる、死の使いでもある「鳥」の羽音がする。これが「明けない夜に」の最終モチーフである。この「鳥」が詩全体を終わらせるピースになる。
「鳥」は「戻ってきた」。つまり、行ってきたのだ。だから、そんな「鳥にまで笑われた気がする」のである。この世に隣接するあの世。現在の横にある過去。「わたし」の周囲を包み込む膨大な別の時空。
激しい雨が鳥の羽根の隙間から入り込む
飛行機が空をよぎる
本を閉じる
窓に椅子を寄せる
ふと世界を感じる
すぐそばに父の犬がいる
鳥が飛び立つ
(「冷たい春の雨」全編)
終連は、現在にこだわるように、また現在形が積み重なっている。この畳みかけが、案外、最終楽章のラストを思わせるのだ。
最終連は「羽根の隙間から入り込む」雨という微細なまなざしから始まる。一転、その背後の空がイメージされる。この空のイメージが「わたし」から空を見るまなざしを逆転させる。逆に、空から「わたし」を見るような像を作るのだ。カメラが引いて「わたし」を撮っているような印象だろうか。「本を閉じる」のは「わたし」の視線なのだが、読者には同時に、遠くから「本を閉じ」ている「わたし」が見える。「窓に椅子を寄せる」のも「わたし」なのだが、寄せている「わたし」が見える。そして、「わたし」は「世界」を感じる。これはリアルな現在の世界である。「父に会えなかった」という「わたし」は、「世界」に立ち戻る。ところが、ここにある「感じる」世界は、そのリアルを現在の時間にだけ置いているのではない。世界のリアルは見えているものとそれを包む膨大な見えないものとの総和の中にある。
「世界を感じ」ている「わたし」が、部屋の窓の近くの椅子に座っている様子が像を結ぶのである。それは世界のただ中にある一隅である。周囲の既視の世界の周りには、死者や過去の時間がある。そこでは距離は自在となっている。だから、「すぐそばに父の犬がいる」。再来する「犬」のモチーフ。
そして、戻ってきた鳥は、「飛び立つ」のだ。世界はそこにある。
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