パオと高床

あこがれの移動と定住

チェーホフ『桜の園』小野理子訳(岩波文庫)

2008-07-18 14:26:28 | 詩・戯曲その他
太宰治の「トカトントン」はどんな音だっただろうか。
いきなりラストを書くルール違反を許して欲しいのだが、このチェーホフ最後の戯曲は、切り倒される桜の木の音で幕を閉じる。最後のト書きはこうである。

 遠くで音が、天から降ってきたような、弦の切れたような、すうっと消え
 ていく、もの悲しい音が響く。ふたたび静寂がおとずれ、聞こえるものと
 ては、庭園の遠くで樹を打つ斧の響きだけである。

この遠くの音は樹を打つ音とは違うような気がする。これは、包み込む静かな死の音であり、桜が切られる壊される崩壊の音とは区別されているような気がする。ひとつの時代の終わりに向けた鎮魂の思いと身を切られるようなかなしみの思い、そして壊されることへのかすかな告発。さらに、樹を切るということの再生への願いのようなものが、このト書きには渾然として、ある。人びとが立ち去り、いったん何もない空間になった舞台に八十七歳の老従僕フィールスが現れ、去っていった人びとを確認し、長椅子に腰をおろす。忘れられた従僕。
 
 人の一生、過ぎれば、まこと生きておらなんだも同然じゃ……。(横たわる)
 ちょいと寝ていよう……。お前も、衰えたもんだなあ……、まるっきり、な
 んにも残っちゃいねえ……。……ったく、……この、未熟者めが!……(横
 たわったまま、動かない)

そして、最後のト書きになるのだ。このフィールスの台詞にも様々な思いが読み取れる。あきらめかそれとも穏やかさか。悔恨か無力感か。だが、悔いや後悔やくやしさが前面に出てくる感じがしないのである。もっと包まれている感じがする。それが動かなくなった彼を包むト書き指定の音に現れているような気がするのだ。
全体をおおう憂いを含んだ空気。退廃しているのではないし、激情がぶつかりあうのでもない。むしろやさしさのようなものが、お互いの思いの中を行き来しているようだ。だが、利害がないのではない。思惑がないわけでもない。それを持ちながらも、人は愛されたい人には愛されたいし、慈しむ人を慈しみたい。その思いが交差する。また、人はその人の人生を生きている。多くは満足のいかないものであるだろう、しかし、ここにあるためにはそこまでの人生を生きているのだ。その人生への愛おしさが感じられるのだ。だから、喪失の瞬間にあっても、絶望よりも希望を欲する。桜の園を失うという一時代の終焉にあって鎮魂への思いを浮かべながらも、どこか若さへの希望も感じられるのだ。だからこそ、三幕の最後十七歳のアーニャの台詞が心に響く。
 
 桜の園は人手に渡って、もう無くなった。その通りよ。でも、泣かないで。
 ママの人生はまだこれからだし、ママの美しい心だって、そのままなんだも
 の……。御一緒に、ここを出て行きましょう!あたしたちの手で、ここより
 立派な新しい園を作るわ。ママはそれを見て、おわかりになる静かで深い
 喜びが、ちょうど夕方の太陽のようにママの心に降りてくるのがね……。
 そしてにっこりなさるでしょう。行きましょう、ママ、行きましょう!

訳者の小野理子の解説は、ラネーフスカヤ夫人の性格やロバーヒンの思いを読み解き、また「桜の園」の場所などを考察して面白い。
この戯曲が演出家によってどう読み取られていくのか。ひとつひとつの台詞のどこに比重を置いていくのか。様々な読みへの可能性を感じさせながら、役者がどう台詞を吐くか、どんな舞台作りになるのか。考えだしたらきりがなく、楽しいのだろう。その楽しみに溢れた戯曲だろうと想像できた。
抗っても抗いきれない運命に翻弄されるのが悲劇であり、人の愚かさやどうしようもなさが生み出してしまう、他ではないその結果の中に立たされるのが時として喜劇と呼ばれる現代の「悲劇の死」の時代にあっては、チェーホフの人間ドラマは喜劇なのだろう。胸に迫る喜劇なのかもしれない。

また、「かわいい女」や「犬を連れた奥さん」を読みたくなった。新潮文庫の「ユモレスカ」もいいかも。



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