パオと高床

あこがれの移動と定住

樋口一葉『にごりえ』(集英社文庫『たけくらべ』から)

2008-03-16 02:17:23 | 国内・小説
『たけくらべ』の美登利が吐く「ええ厭々(いやいや)、大人になるは厭なこと、なぜこのやうに年をば取る」という言葉が、お力の「ああ嫌だ嫌だ。どうしたなら人の声も聞こえない、物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうっとして、物思いのない処へ行かれるであろう。つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情けない悲しい心細い中に、何時まで私は止められているのかしら。これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だ」という言葉と反響し合う。
お力の心の中心にある飢餓感のようなもの、空虚な感じは深い。

『たけくらべ』の思慕と離反は、閉ざされた明日を前にした今の切なさは、『にごりえ』では暗い闇を伴う。可能性の糸を断ち切られた子どもの時間は還らない時として封印されてしまう。『たけくらべ』の大人一歩手前、大人一歩後という過渡期は、切なさを永遠の時間のまま停止し、終えられた。それは、『にごりえ』の主人公お力にとっては、すでに離反した時間である。貧窮の子ども時代であり、子どもの時の暮らしを思慕することさえどうしようもないものになっている。過去にも明日にも見放された今があり、その刹那の享楽にだけ身をやつすこともできない。求めたい気持ちがあって求めたい形がない。ただ漠然と不可能性に覆い尽くされている。その漠然とした気持ちを生活は許容しない。お力には頭痛が、ただ、頭痛が、ある。自分自身との一体感から脱落した、行き場のない自我があるのだ。しかも、それが生活の重圧を伴って。

勝手な思いこみだが、この小説は、ラストの方から着想され構成されていったのではないかと思えてしまう。心中ものは、それこそ浄瑠璃など豊富にあるし、また何か実際の事件に着想したのかもしれない。そこに変形が加えられている。まず、心中をそれ自体心中だったのかという謎の中に置く。さらに、心中が二人にとっての愛の成就という形をとっていない。お力は源七を愛しているわけではないのだ。源七にしても、お力への思いが心中に向かわせたのかは定かではない。むしろ思い出への執着のような気がする。それは源七のかつての楽しかった過去への執着でもあるのだ。それは今を放棄する情念の世界でもある。環境による不条理から自ら抜け出す道を持ち得ないお力。自らの情念によって抜け出せない環境を作ってしまった源七。二人の暗がりが交差する一点は何か?犯罪か死か。その両方がこの死にはある。無理心中とした場合の犯罪性と心中とした場合の死と。ただ、ぎりぎりのところで求められたお力は、そのとき、境遇からの解放と同時に自分の担う役割を感じ得たのか?そこにラストを救いと見るかの分かれ目があるのかもしれない。
また、この二人の死について様々に喧伝する人々の噂は、一葉自身の辛い経験から出た告発なのかもしれない。真実は手渡された読者の中にある。

お力にとって客の結城朝之助は、別世界の人間であり、お力にとってはかなわぬ思いの相手。身の上話をするうちに二人の距離はかえってはっきりし、せめて一夜をともにするという行動に出てしまうお力が、つらい。5章から6章にかけて、ただならぬ凄さを感じてしまった。
この結城朝之助は、その後の明治大正期の生活が保障された知識人の姿に移っていくのかもしれない。そう、漱石の主人公の苦悩に引き継がれていくのではないだろうか。

集英社文庫の『たけくらべ』は、読みやすくてよかった。
樋口一葉は、この文庫のあとがきで俵万智が書いているように「この話は、読んでしまっている。だけど、もう一度読みたい」となる作品を生みだした作家の一人だ。そう、さらにあとがきを引かせてもらえば「読んでいるときにしか味わえない、あの独特の感じ。それをまた体験したくて、ページをめくる」気にさせてくれる、とびきりの作家かもしれない。



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