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パオと高床

あこがれの移動と定住

カフカ『変身』想(1)

2011-09-24 13:50:46 | 海外・小説
2008年1月に書いたカフカの『変身』論を何回かに分けてアップする。その一回目。

1

  ある朝、グレーゴル・ザムザが不安な夢から目を覚ましたところ、ベッド
 のなかで、自分が途方もない虫に変わっているのに気がついた。
                        カフカ『変身』池内紀訳

 夜、寒さに耐えるように毛布にくるまって蒲団の中で『変身』を読む。もし、迎えた朝に自分が虫になっていたらどうしようと、思わないだろうか。その時、僕の家族は、知人は、どうするだろう。僕が義務教育に通うくらいの年齢で、同じように家族はどういう態度をとるのだろうと考えることができれば、実は案外、幸福な暮らしを送っているのかもしれない。事態は、「虫」になることを切望する状況や、望まないのに「虫」化させられてしまう状況を想定できるところにある。そこでは、家族がどういう態度をとるかといった心配にすら向かえない切迫したものが横たわっているのだ。「君は虫になったことがあるか」あるいは過去形の問いではない、より強迫的な問いが僕らを責め立てる。そして、僕らは「虫」に寓意されるものをあれこれ考えてしまう。あなたにとって「虫」とは一体何なのか。もちろん、僕にとっても。ところが、そこまで考えたときに、カフカの小説は、むしろ笑いかけてくるのだ。

  「どういうことだろう?」
  と、彼は思った。夢ではなかった。(中略)
  それからグレーゴルは窓をながめた。いやな天気で-窓を打つ雨つぶの音
 がする-気がめいってしまった。
  「もうひと眠りすれば、こんなバカげたことなど、きれいさっぱり忘れら
 れる」(中略)
  「まったくなあ」
 と、彼は考えた。

 こんな具合に、ぶつくさと独り言のグチが続くのだ。訳者の池内紀はカフカの小説におかしみを見いだして訳を続けているようだ。池内は、冒頭の虫への変身という設定よりも、それを巡る主人公や家族の対応に『変身』の独創を見ている。

  実をいうと、このあたりまでは風変わりな小説でも何でもない。目が覚め
 てみると、へんてこな生きものになっていたといった物語なら、お伽噺をは
 じめとして、古今東西ごまんとある。中国の伝奇小説には、その種の変身譚
 がめじろ押しだ。
  カフカの『変身』がちがうのは、つぎのくだりからである。
  「まったくなあ」
                        池内紀『となりのカフカ』

 そのグレーゴルが驚くのは、池内が指摘するように時計に目をやったときだ。

  それから時計に目をやった。戸棚の上でチクタク音を立てている。
  「ウッヒャー!」

 そして、心配した母の声。呼びかける父。反対側のドアからは妹の声がする。舞台劇のような展開である。舞台中央に虫の姿の主人公がいる、舞台袖から三人の声が聞こえてくる。ここから、虫となったグレーゴルの身体の動きが綴られていく。日常は、その当事者が変身したとしても、疑義を差し挟ませる前に適応を要求するかのようだ。

レイ・ブラッドベリ『永遠の夢』北山克彦訳(晶文社)

2011-02-06 12:50:01 | 海外・小説
大げさにいえば、ブラッドベリ体験があるかないかで、その人の小説観はかなり違ったものになってしまうのかもしれない。もう少し、大げさにいってしまえば、現実感も変わってしまうのかも。
と、いいながらボクはそんな体験をしていないのだが、そんなことをいいたくなるくらいに、オリジナリティの強さがある作家なのだ。しかも、その強さは押しつけがましさやこれみよがしなところがなく、すいと小説の愉悦のようなものを感じさせてくれるのだ。
『バビロン行きの夜行列車』の短編たちには、うなった。そして、この『永遠の夢』。二つの中編が収められている。2007年刊行と書かれているから、作者87歳かな。それも驚き。で、この二編、訳者あとがきによれば、「ひとつはファンタジー、ひとつはSF」となる。

ストーリーをどこまで語るか。ここはブックカバー裏の紹介文による。
まず、「どこかで楽隊が奏でている」は、
「夢と詩にみちびかれ、記者カーディフは、アリゾナ州の小さな隠れ里サマートンに降りたった。不思議なことにそこでは子どもが遊ばず、住民のだれも年をとらない……。魔法に魅せられながら、やがて崩壊する町の謎をさぐる中編」。
萩尾望都の傑作に『ボーの一族』というのがあったが、それを思い出した。ただ、アリゾナの平原の先が、ちょっと渇いたイメージを運んでくれて、テイストはかなり違う。「永遠の時間」とは、人にとって何なのかをさらりと、しかし切なく語ってくれる。ああ、もしかしたら作家と作品の関係も、作家という有限の生身の人間と、その作品や読者との関係も情感含めて語れば、こうなるのかなとも思えた。アレクサンドリアの図書館の挿話がよかった。
「わたしたちは時間の旅人ですから、永遠への旅路の途中で救えるものは救って、なおざりにされれば失われるものは保存して、遠く旅するわたしたちの長い人生のなにがしかをささやかながらつけ加える、それを当然のことと考えたのです。」
「夏はいつも角をまがったすぐ先にあって、秋は道のどこか遠くにあるもの、その噂さえなかったのだわ。」
詩と思索がありなす抒情に酔うことができる小説だった。

もう一編、「2099年の巨鯨」。
「メルヴィルの「白鯨」における帆船を宇宙船に、白鯨を白い彗星におきかえて描かれた」、「乗組員たちが、深宇宙へ飛びたち、運命、永遠、そして神そのものに接触する」。
主人公イシュメイル、心に語りかけるクモのような異星人クエル、船長エイハブなど人物が魅力的で深い。そして、時間との闘いと共生を語るような哲学的な内容の難解さがなぜか心地いい小説である。
どっちの小説が好きかな。今は、「どこかで楽隊が奏でている」の方かな。小説として、よくできていたし。
で、挿入詩の一節。

どこかで楽隊が奏でている
そこでは月は空にけっして沈むことなく
そしてだれも夏に眠ることなく
そしてだれも死に落ちこむこともない
そこで〈時〉はまさに永久に進みつづけ
そこで心臓は鼓動をつづける
古い月の太鼓の打ち鳴らす音と
〈永遠〉の足のすべるような歩みに合わせて

アガサ・クリスティー『メソポタミアの殺人』石田善彦訳(早川書房)

2010-11-27 09:54:47 | 海外・小説
推理小説が読みたくなって、それも探偵もので犯人捜しの本格派の王道をいく推理小説が読みたくなって手にした有名すぎる一冊。あっというまの満足いく本だった。ポアロもいいな。って、今ごろ言うなとファンには怒られそう。
クリスティーの展開のリズムがいい。ダレて弛緩するところがない。そして、しゃれた言葉や描写が出てくる。殺人事件であるのに、陰惨さがない。どこか品性があるのだ。また、人物それぞれに性格描写が効いていて、各人の心理の分析に至るときに説得力があるのだ。さらに、今回の舞台メソポタミアの風景が、行ったことはないのだが、思い浮かべられる。謎やトリックも大切なのだが、小説は、その奥行きがしっかりしていないとダメなんだなと思うことができた。
今のイラクの情勢とかを考えても、この発掘現場の時代がかった感じは、ノスタルジックな感じがして、もちろんこれが平和だとは思わないが、いい気分に浸ることができるのだ。

解説で春日直樹は書いている。
「クリスティーの作品には、国や時代を超える何かがある。同時代のファンやクリスティー自身さえ気づかなかったような、ミステリアスな力が宿っている」と。そして、一冊手にとって見るとよいと誘いながら、
「ワールドカップの興奮、テロ事件の衝撃、大国のエゴイズムへの憤り、その渦中にあえて彼女の一冊を開いてみるとよい。平静な自分、ふだんの自分がきっと戻ってくる。それが現代にクリスティーをミステリイとして読むことの意味である。」と結んでいる。
そうかもしれない。そんな時間を持てたかもしれない。そんな気がした。

ジェラルディン・ブルックス『古書の来歴』森嶋マリ訳(ランダムハウス講談社)

2010-04-17 03:47:44 | 海外・小説
邦訳通りに、一冊の本がたどった道のりを探っていく物語である。その本は「サラエボ・ハガダー」。実在の本である。そこに、作者あとがきによると「現時点で明らかになっている歴史に基づく部分」と「架空」の「大半の筋と登場人物」を織り交ぜて、500年に渡る歴史の一端を描き出していく。
訳者の森嶋マリが、あとがきで、「ハガダー」について説明している。「ハガダーとはユダヤ教徒の過越しの祭の正餐の席で使う本だ。その祭は奴隷だったユダヤ人がエジプトを脱出して自由の身となったことを祝うもので、ハガダーには“出エジプト記”や祭の次第が記されている。出エジプトの物語を親から子へと語り継げというユダヤ教の教えを守るために、不可欠な本である。」
ところが、この「サラエボ・ハガダー」は、中世ユダヤ教が絵画的な表現を禁じていたという定説を覆すような見事な彩色画が描かれていた。

物語は、ほぼ100年前にサラエボで見つかったこの本が、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争下の危機的状況から学芸員によって守られ、95年の国連調停後の博物館で展示すべく修復を行うというところから始まる。
始まりは1996年春。修復を任されたのは保存修復家のハンナ・ヒース。このヒロイン、ヒースの進んでいく時間軸の物語が7章ある。その各章は、ヒースの見出した古書に刻まれた様々な痕跡から、その痕跡が刻まれた時代の物語へと繋がっていく。この過去の物語は時を逆行して、「ハガダー」が作られた時代へと突き進んでいく。現在と過去を交互にくり返しながら、物語は古書の謎をひとつひとつ解き明かしていくという構造になっている。そして、終章前の一章だけは過去の物語と現在が交錯する。

それぞれの物語が胸を打つ。
ハンナの物語は、自分自身の根を探る旅と文化の衝突、家族の物語を描き出している。ヒロインがオーストラリア人であるということで、ヨーロッパの紛争地域へのスタンスを持った眼差しが感じられる。
また、1940年サラエボ、1894年ウィーン、1609年ヴェネチア、1492年スペイン、タラゴナ、1480年セビリアと綴られる物語は各時代とその時代を生きた登場人物を魅力的に描き出している。ユダヤの受苦が語られる。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の相克と時代に翻弄されていく人間の欲望と良心、献身と忍従がストーリーの面白さを伴いながら描き出されている。そして、それぞれの信徒でありながらも救い合おうとする人々の姿も可能性の側で願いとして語られている。
お互いの文化を破壊するのではなく、築き上げ、守り、伝えていくための共存。そのためにこそ傾けられるのが人類の叡智なのだという作者の声が聞こえるような気がする。

トーマス・マン『ヴェネツィアに死す』岸美光訳(光文社古典新訳文庫)

2009-06-25 03:01:39 | 海外・小説
梅雨の湿気の中で、突然読みたくなって、読んだ一冊。
作家の思索や価値観が、登場人物の口を借りて語られる。いや、むしろ作家が作り出した人物が、その人物の思索を語るといったほうがいいのかもしれない。作家は自身を作り出すこともできるし、自らにとって否定的人格を作ることもできるし、理想的な人物を創作することもできるのだ。ただし、その人物が生きて動くことができるかどうかは、作家の力量である。一個の巨大な知性が生み出した人物は、それ自体が時代を体現する。
とにかく、作中に挿入されていく美学が酔わせる。

「彼が海を愛するには深い理由があった。まず困難な仕事を続ける芸術家の休みたいという欲求。様々な出来事や人物を多種多彩に描き出すという課題の難しさのために、単純で巨大なものの胸に隠れたいと思うのである。つぎに、尺度もなければ分割することもできない永遠のもの、つまり無に向かおうとする、禁じられた、自分の課題に真っ直ぐ対立する、だからこそ魅惑的な性向。優れたものを求めて努力する人は、完全なものに触れて安らぎたいという憧れを持つ。そして無は完全さの一つの形ではないだろうか。しかし、彼の夢想がこんな風に深く漠とした方向に入りこんだとき、とつぜん波打ち際の一本の線を人の影が断ち切った。彼が境界のない領域から視線を回復し集中すると、それはあの美しい少年だった。」

少年と老芸術家との出会いの場面である。無に完全さを求めてしまうという境界の思考から、美が形となって、その境界を突き抜けてくる。虚無のあわいに立ち現れる存在。少年への想いはある種、背徳と退廃を含むのだろうが、虚無の淵とコレラという死の使者と、ヴェネツィアのどこか退廃した光景の中にあっては、その芸術家の想いは、むしろ虚無への誘惑との拮抗線に思えてくる。美が破壊しながら救済するとでも言ったらいいか。
理性的なものだけで掌握し得ない美の感性から貫かれてくる全体性。これが、芸術家自身を死と充実に導いていく。
訳者は「閑暇」と訳す言葉に価値を見いだし、解説でもそのことに触れている。

「読者はここで〈閑暇〉の時を思い起こしてみてはどうでしょうか。そこには人間が一つの全体として回復する希望が秘められています。マンはここで、男女の性差を超え、人間の全体性の予感を託して〈美しい少年〉という寓意のカードを引き抜いて見せたのです」

そうか、こういう読みもできるのかと思った。美をそれに誘惑されていく退廃からのみ捉えるのではなく、美の中での人間の感覚と知性の統合が、力強い倫理レヴェルでの人間性の回復につながっているのかもしれない。だが、そこに待つものは何なのだろうか。
小説の読みにも強く時代性の投影がある。

小説中に「愛するものは愛される者より神に近い、なぜなら愛する者の中には神がいて、愛される者の中にはいないからである」という表現があって、何かで読んだなと思ったのだが、プラトンを思い出すより先に、C・ノーテボーム『これから話す物語』(鴻巣友希子訳)を思い出した。その中に
プラトンの引用として、「愛は愛するものなかにあるのだ。愛されるもののなかではない」というフレーズが書かれていた。

それから誰かが、マンの「にもかかわらず」について評論を書いていたと思うのだが、この小説にでてくる「にもかかわらず」は、ドラマや小説の人物造形の基本になるものなのかもしれない。例えば、「裕福であるにもかかわらず悲しい」とか、「冷酷であるにもかかわらず優しい」とか。そんなところを見通せないとドラマは作れないといったようなセリフがテレビドラマ「彼らが生きる世界」にあった。