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パオと高床

あこがれの移動と定住

エイミー・ベンダー『燃えるスカートの少女』管啓次郎訳(角川文庫)

2009-04-18 02:36:25 | 海外・小説
『わがままなやつら』を読んで、びっくりしたのは、もう一年も前になる。はかったように、ちょうど一年。あの十五編に、「短いどれもが、鮮やかで、愛おしい」と感想を書いたのだが、ここに収められた十六編、文庫で10ページから20ページくらいの各小説が、鮮やかで、痛くなるほど、愛おしい。

淡々とした語り口に、時に詩のようなフレーズ運びを加えながら、そこにあり、そこにしかあり得ない言葉になっていく叙述は、作者の奇想を謎めいた現実として存在させる。奇妙な話が、作り物のそらぞらしさを感じさせることなく切実な現実として心に迫る。
解説冒頭で、堀江敏幸は「そこがいちばん大切なのだと直前まで知らずにいた部分を、エイミー・ベンダーは永久凍土でできた楔のような言葉でまっすぐに突き刺す」と書く。うまいな、そうなのだ。さらに、「永久凍土」は冷たいはずなのに「刺された私たちの胸にはその瞬間じわりとした熱の波紋がひろがり、今度は予想外のあたたかさにとまどうことになる」と続く。そう、いくつかの感情が、溢れるように、あるいは沁みるように、読者をつかまえる。何だか生きていることの核にある存在の何かに、不意に刻印を押されるような感覚を感じる。同様ではない個々であることが持ってしまうセパレーツな哀しみ。何かを失うことでしか生きていけない者の持つ喪失感と希求心。包まれていながら疎外される気持ち。あるいは包まれていることの持っている、すでにある綻び。冷たくて非情でありながら、どこか痛さがすくいとられるような、ほのかな温かさの漂い。しかし、あっさりと突き放される物語の苛酷さも兼ねそなえている。だが、一方では、かぼそくも結び合えるお互いの居場所も描き出されたりする。
解釈は可能である。ところが、その解釈を無効にするような、他の言葉に置き換えられない、いろいろなものが混ざった全体の空気のようなものがある小説たち。

「思い出す人」では、恋人が逆進化していく。恋人から、猿になり、海亀になりサンショウウオになる。そんな特異な設定の中で、「人間だった彼を見た最後の日、彼は世界はさびしいと思っていた」という文がズバッと立ち上がる。
「癒す人」も傑作だ。「町には二人、突然変異の女の子がいた。ひとりは火の手をもっていて、もうひとりは氷の手をもっていた」と書き始める。ベンダーは、最初の一文で、その魔法の世界に読者を引きずり込む。この火と氷の手は握りあったとき、中和されて普通の手になる。着想だけでいけば、展開が困難になりそうな設定を、癒す、癒されるの関係などに迫りながら、おとしどころのない、オリジナルな世界に引っ張っていく。予想されるような展開、結末はない。ただ、作者は、解釈や意味づけで合点がいってしまわない存在自体が孕むものを表現することで、世界を受容するのだ。それは、世界の中に自分がいるということでもある。

坂口安吾は『文学のふるさと』で、童話の持つ突き放す残酷さに、文学のふるさとがあると語っていたが、そうであるからこそ、愛おしく切なく離れがたい物語になるのかもしれない。


ノーマン・ロック『雪男たちの国-ジョージ・ベルデンの日誌より』柴田元幸訳(河出書房新社)

2009-03-31 00:59:30 | 海外・小説
作家、劇作家であるノーマン・ロックが、サナトリウムの地下室にある古い資料の箱から見つけだしたのが、ジョージ・ベンデルによる『雪男たちの国』という日誌であり、ロックが編集したのが本書であるということになっている。そんな仕掛けの「偽書もの」と言っていいのかもしれない。そのベンデルは、どうやら「スコット、ウィルソン、バワーズを祀る記念碑を棚氷の上に建てる任を与え」られた建築家であり、氷の上で発狂していったらしい。その狂気の中で出会うスコットら南極探検隊との交感が、南極をめぐる思考や美しさを伴って、ひらめきのある文章で綴られる。

「スコットは南極に、意味を持たない場、象徴と無縁の領域に入る機会を見てとった」
とか
「私たちは見すぎて目が見えなくなった」
とか
「ここでは詩なぞ要らん! 私は解釈から逃れるために南極に来たのだ」
とか
「暗喩は混乱へと至る橋だ。ひとたび渡ったら、あと戻りできる保証はない」
などの実体としての世界をめぐる思索的警句や、
「外へ出ていって青氷河に触れられるというなら、月にだって触れられるのではないか?」
などの氷の世界を描写する詩的な表現や、
影さへ氷ってしまい、鳥の影やかつての人の影を袋に入れて収拾し、その影が暖かい室内で、再び動き出して立ち去ってしまうといった表現や、倦怠の中で無為な営みに没頭するしかなくなった人々が、スプーンで小さな穴を掘り続けるとか、皇帝ペンギンにワルツを教えるとか、何も見晴らせない氷の丘に見晴台を作るといった表現の面白さ。
ただ、ただ、その表現に魅了されてしまった。

チェーザレ・パヴェーゼ『月とかがり火』米川良夫訳(白水社)

2008-11-28 03:19:00 | 海外・小説
丘の上には月。そして、かがり火。かがり火が燃やすもの。かがり火が明るみに出すもの。「わたし」の追憶は月の光に映しだされる。追憶は映しだされては、燃やされていく。過ぎていった時間。それを包み込む季節の移り変わりの不変さ。情感は、叙事的記述の背後に抑え込まれる。故郷を離れた「わたし」は、「わたし」の共有した時間の追憶に自らのなくしてしまった時間を見いだす。取り戻せない時の弔いだろうか。そして、自らが不在だった時も過ぎていった丘の時間が、故郷に残ったものから告げられるとき、「わたし」は喪失した故郷の前で、自らが抱える空白を寄る辺ないわたしの不在として感じるしかないのかもしれない。追憶だけが誠実に生きられる時間。しかし、それが作りだす場所は単に追憶だけの世界ではなく郷愁を伴った人が生きる場所として現れる。すでに、人は大戦の悲惨の中でお互いの無惨さと誠実さと、そして狂気と正気を裏返し反転させながら生きたのかもしれない。日々の暮らしの中で、あるいはファシズムとそれへの抵抗の中で、翻弄される生。生き抜くしたたかさと、脆弱な人間の運命。そこにある人が生きていることの証しが、静かに綴られていく。小説を貫く緊張感は、張りつめていながら、突きつけてくるようなものではない。その緊張感が読者を引っぱるのだ。問うことがただの問いにならない。むしろ作者の自らへの問いのようなものが、ボクらを引きつける引力になる。彷徨う心が行き着く場所は、どこなのだろう。ボクらがボクらの生活の場所の中でうずたかく積み上げていく時間の堆積。抗いながら、抗いがたく、ある故郷のイメージ。イメージとしての故郷は喪失されたのだろうか。故郷を離れたあとの「多くの土地を知っているということは、また、だれも知らないということだった。」という表現と、故郷に戻ってから、故郷を記述する「わたしはこの白い、乾いた土に見おぼえがあった。丘の小径の踏みしだかれた、滑りやすい草。日の光のもとではやくも収穫の香りがする丘やぶどう畠のあの酸いような匂い。空には風の吹き流す長い縞模様、うっすらと白い泡のような雲が浮いていた」という表現のどちらもが心に残る。そう、そして、故郷のこの表現の続きに、「子供のころ、雲や星の行く道を眺めていたときから、わたしはもう自分でも知らないうちに放浪の旅を始めていたのだと気がついた。」で、あっ、この「わたし」にとって故郷は離れるべき場所だったのだということを、それまでの動機付け以上に納得させられるのだ。その結果として抱えこむ痛さとともに。1949年にこの小説を脱稿し、翌年パヴェーゼは自殺している。彼はこの小説の先に何を見たのだろうか。そこにも、丘にあがるかがり火が見えるような気がするのだ。

アンナ・カヴァン『氷』山田和子訳(バジリコ株式会社)

2008-10-09 23:13:00 | 海外・小説
「小説の極北」という言葉は魅力的だ。でも、では極北とは何といわれても困るのだが、おそらく、この一冊、極北に入れてもいいのではないだろうか。地上を覆い尽くそうとする氷。氷河期へと入っていく気象異変の中で、地球は終末を迎えようとしている。その中で、少女を追う「私」の物語である。話の基本ラインだけを考えれば、囚われの姫を救う騎士の物語なのだ。そのファンタジーは悪夢のようなSF的設定で、現代文学の洗礼を受ける。寓話に姿を変え、理由と結論のない現代文学の迷路に変貌するのだ。冒険にはっきりとした意味とヒロイックな活力はない。また、騎士に潔白な正義の意志はない。第一、救済されたとしても、その場所は終末を迎える世界であって、あらかじめ失われた楽園なのだ。また、少女を捕らえる男と少女を追う男に異質さはない。むしろ同質の者の現れ方の違い、社会的力の違いがあるだけであって、この二人には同根のような離反と共感の入れ替わりがあるのだ。さらに、少女が果たして実在するのか、妄念が生みだしたものなのかが定かではない。追えば離れる、捕まえれば拒絶する、常に対等になり得ない暴力の図式が描き出される。それを生みだす精神の動きは、見事に封じられた無意識の層として書かれずに表現されている。無意識といいながら、意識上に明快に記述していくご都合のよい小説とは違うのだ。恐怖から服従を反射的に選択してしまう少女。その少女に対して屈服させる快楽に取り憑かれてしまう男たち。崩壊する世界の中で、戦いに明け暮れる国家と人びと。その国家を統べる独裁者でありながら、少女を追う長官。長官の「城」は要塞のような「高い館」であり、そこは迷宮の様相も見せる。また、ガラスと氷が常にある。「私」は時間の妙なずれを見せながら、事態の順序が微妙に逆転した語りに乗って、夢のなかの飛躍のような移動を見せながら、なぜか少女に行き着きながら、離れてしまう。少女のために少女を救うというよりも、「私」は「私」の欲望として少女を救済することに取り憑かれている。二人はどこに行きつくのだろう、無機質化する世界の中で。様々な解釈を生みだしそうな、イメージの冒険がここにはある。ただ、矛盾した言い方だが、どこか多様性が拒絶されているような印象も与えるのだ。「虹色の氷の壁が海中からそそり立ち、海を真一文字に切り裂いて、前方に水の尾根を押しやりながら、ゆるやかに前進していた。青白い平らな海面が、氷の進行とともに、まるで絨毯のように巻き上げられていく。それは恐ろしくも魅惑的な光景で、人間の眼に見せるべく意図されたものとは思えなかった。その光景を見降ろしながら、私は同時に様々なものを見ていた。私たちの世界の隅々までを覆いつくす氷の世界。少女を取り囲む山のような氷の壁。月の銀白色に染まった少女の肌。月光のもと、ダイヤモンドのプリズムにきらめく少女の髪。私たちの世界の死を見つめている死んだ月の眼。」 こんなイメージに入り込めれば、作者の幻視をともに味わえるのだろう。

Shan Sa(シャンサ)『天安門』大野朗子訳(ポプラ社)

2008-09-30 11:25:00 | 海外・小説
パリ在住の北京出身作者によるフランス語の小説である。原題は『天の平安の門』で、「天安門」という固有名詞を題名にしているわけではなく、それをフランス訳した題名自体に小説の内容に関わる含意がある。どうしても時期的に楊逸の小説と比較してしまうようになっているのだが、この作家24歳ぐらいの時の処女作で、10年ほど前の小説の翻訳である。「天安門事件」を書くということは、当然、それをどう書くかということに繋がり、自らをどこに置くかが問われてくるのだと思う。シャンサは自身が高校生のとき向かえたこの事件を、まず自分自身との関係で描き出そうとしているようだ。それはシャンサが生きていることと密接に重ね合わされる。民主化運動の主導者の一人である主人公の女性が、少女時代にどんな違和感を感じたか、世間はその私の違和感にどう応えたかがベースとして語られる。これはシャンサ自身が感じた社会との違和感である。その違和や社会との齟齬が、不条理をもたらし、それは、天安門の民主化運動に繋がっていく。ここには若さが持つエネルギーがある。それは若さが持つピュアな感性と結びついている。一方、この出来事を巡る立場の違った同世代の「あなた」に向けて、私たちの関わりは何なのかを問おうともしているようだ。立場の違う鎮圧軍側に属してしまう青年を別の章で描く。この二つの立場に、もうひとつ上の世代を描く章が挿まれて、交互に小説は進んでいく。鎮圧軍側の青年が、軍隊に入り、教育を受け、成長する過程が描かれる。彼の違和感は心の奥深くに封じ込められる。しかし、その彼が逃亡した主人公を追ううちに、主人公の日記に触れ、彼女が受けた状況を知り、新たな価値観に出会ってしまう。そして、青年は主人公との交点を求めるように、追跡を続けていくのだ。この立場の違いを描く章が、短い文の文体で、比喩を効かせながらスピーディに展開していく。後半、逃亡して海辺の村に来て、言葉をしゃべることができない、しかし、鳥などと会話する青年に出会い、かつて社会から攻撃を受ける原因になった恋の相手の面影を抱きながら、日常の幸せのなかに光を見いだしていくところから、主人公の新たな成長へと話は進んでいく。「天安門事件」を描くことは、今の作家たちにとって、楊逸もそうであったように、「天安門」以降を書くことであり、現在の中国に至る状況と今の中国自体をあぶり出すことを要請しているのかもしれない。海辺の暮らし、そしてさらに、森への逃亡と森のなかでの生活は、徐々に象徴性を増すようにして、どこかファンタジックになっていく。そこに小説としての問題もあるのだろうが、この若書きの持つイメージの勢いは魅力的でもある。前を向き、シャンサが今いる地点に、小説の主人公を至らせようとする「天の平安の門」へ向かう立ち姿は、それを追う青年の姿と重なって、希望の力であるような読後感を感じた。主人公を、作者であるシャンサが今いる地点へと歩き出させること。これが、この小説が描き出した境界線になっている。ちょうど、この小説の前に『蒼ざめた馬』を読んだが、世紀末的な虚無感の色彩に彩られた『蒼ざめた馬』と違って、この小説の挫折感や痛さは、前向きの背筋の立った姿勢に貫かれているような気がした。この印象は楊逸の小説にもあった。一概には言えないが、これが中国の持っている、現在の一面なのかもしれない。それにしても、外国で、その国の言葉で小説を書く中国人の作家が活躍している。母語以外の言葉で書く、越境した作家たち。「脱領域」の作家たちのなかに確実に中国人作家がいる。その彼らは今、積極的に「中国」を描き出そうとしているようだ。そう、音楽の世界でもランランなどのソロの音楽家だけではなく、多くの楽団のなかで中国人演奏家が活躍している。中国は製品の超輸出国としてだけではなく、人材の輩出国、文化の輸出国としても強い力を持っている。この人たちが描き出す世界に何が見えるか、目が離せない。