パオと高床

あこがれの移動と定住

ジェラルディン・ブルックス『古書の来歴』森嶋マリ訳(ランダムハウス講談社)

2010-04-17 03:47:44 | 海外・小説
邦訳通りに、一冊の本がたどった道のりを探っていく物語である。その本は「サラエボ・ハガダー」。実在の本である。そこに、作者あとがきによると「現時点で明らかになっている歴史に基づく部分」と「架空」の「大半の筋と登場人物」を織り交ぜて、500年に渡る歴史の一端を描き出していく。
訳者の森嶋マリが、あとがきで、「ハガダー」について説明している。「ハガダーとはユダヤ教徒の過越しの祭の正餐の席で使う本だ。その祭は奴隷だったユダヤ人がエジプトを脱出して自由の身となったことを祝うもので、ハガダーには“出エジプト記”や祭の次第が記されている。出エジプトの物語を親から子へと語り継げというユダヤ教の教えを守るために、不可欠な本である。」
ところが、この「サラエボ・ハガダー」は、中世ユダヤ教が絵画的な表現を禁じていたという定説を覆すような見事な彩色画が描かれていた。

物語は、ほぼ100年前にサラエボで見つかったこの本が、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争下の危機的状況から学芸員によって守られ、95年の国連調停後の博物館で展示すべく修復を行うというところから始まる。
始まりは1996年春。修復を任されたのは保存修復家のハンナ・ヒース。このヒロイン、ヒースの進んでいく時間軸の物語が7章ある。その各章は、ヒースの見出した古書に刻まれた様々な痕跡から、その痕跡が刻まれた時代の物語へと繋がっていく。この過去の物語は時を逆行して、「ハガダー」が作られた時代へと突き進んでいく。現在と過去を交互にくり返しながら、物語は古書の謎をひとつひとつ解き明かしていくという構造になっている。そして、終章前の一章だけは過去の物語と現在が交錯する。

それぞれの物語が胸を打つ。
ハンナの物語は、自分自身の根を探る旅と文化の衝突、家族の物語を描き出している。ヒロインがオーストラリア人であるということで、ヨーロッパの紛争地域へのスタンスを持った眼差しが感じられる。
また、1940年サラエボ、1894年ウィーン、1609年ヴェネチア、1492年スペイン、タラゴナ、1480年セビリアと綴られる物語は各時代とその時代を生きた登場人物を魅力的に描き出している。ユダヤの受苦が語られる。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の相克と時代に翻弄されていく人間の欲望と良心、献身と忍従がストーリーの面白さを伴いながら描き出されている。そして、それぞれの信徒でありながらも救い合おうとする人々の姿も可能性の側で願いとして語られている。
お互いの文化を破壊するのではなく、築き上げ、守り、伝えていくための共存。そのためにこそ傾けられるのが人類の叡智なのだという作者の声が聞こえるような気がする。
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