梅雨の湿気の中で、突然読みたくなって、読んだ一冊。
作家の思索や価値観が、登場人物の口を借りて語られる。いや、むしろ作家が作り出した人物が、その人物の思索を語るといったほうがいいのかもしれない。作家は自身を作り出すこともできるし、自らにとって否定的人格を作ることもできるし、理想的な人物を創作することもできるのだ。ただし、その人物が生きて動くことができるかどうかは、作家の力量である。一個の巨大な知性が生み出した人物は、それ自体が時代を体現する。
とにかく、作中に挿入されていく美学が酔わせる。
「彼が海を愛するには深い理由があった。まず困難な仕事を続ける芸術家の休みたいという欲求。様々な出来事や人物を多種多彩に描き出すという課題の難しさのために、単純で巨大なものの胸に隠れたいと思うのである。つぎに、尺度もなければ分割することもできない永遠のもの、つまり無に向かおうとする、禁じられた、自分の課題に真っ直ぐ対立する、だからこそ魅惑的な性向。優れたものを求めて努力する人は、完全なものに触れて安らぎたいという憧れを持つ。そして無は完全さの一つの形ではないだろうか。しかし、彼の夢想がこんな風に深く漠とした方向に入りこんだとき、とつぜん波打ち際の一本の線を人の影が断ち切った。彼が境界のない領域から視線を回復し集中すると、それはあの美しい少年だった。」
少年と老芸術家との出会いの場面である。無に完全さを求めてしまうという境界の思考から、美が形となって、その境界を突き抜けてくる。虚無のあわいに立ち現れる存在。少年への想いはある種、背徳と退廃を含むのだろうが、虚無の淵とコレラという死の使者と、ヴェネツィアのどこか退廃した光景の中にあっては、その芸術家の想いは、むしろ虚無への誘惑との拮抗線に思えてくる。美が破壊しながら救済するとでも言ったらいいか。
理性的なものだけで掌握し得ない美の感性から貫かれてくる全体性。これが、芸術家自身を死と充実に導いていく。
訳者は「閑暇」と訳す言葉に価値を見いだし、解説でもそのことに触れている。
「読者はここで〈閑暇〉の時を思い起こしてみてはどうでしょうか。そこには人間が一つの全体として回復する希望が秘められています。マンはここで、男女の性差を超え、人間の全体性の予感を託して〈美しい少年〉という寓意のカードを引き抜いて見せたのです」
そうか、こういう読みもできるのかと思った。美をそれに誘惑されていく退廃からのみ捉えるのではなく、美の中での人間の感覚と知性の統合が、力強い倫理レヴェルでの人間性の回復につながっているのかもしれない。だが、そこに待つものは何なのだろうか。
小説の読みにも強く時代性の投影がある。
小説中に「愛するものは愛される者より神に近い、なぜなら愛する者の中には神がいて、愛される者の中にはいないからである」という表現があって、何かで読んだなと思ったのだが、プラトンを思い出すより先に、C・ノーテボーム『これから話す物語』(鴻巣友希子訳)を思い出した。その中に
プラトンの引用として、「愛は愛するものなかにあるのだ。愛されるもののなかではない」というフレーズが書かれていた。
それから誰かが、マンの「にもかかわらず」について評論を書いていたと思うのだが、この小説にでてくる「にもかかわらず」は、ドラマや小説の人物造形の基本になるものなのかもしれない。例えば、「裕福であるにもかかわらず悲しい」とか、「冷酷であるにもかかわらず優しい」とか。そんなところを見通せないとドラマは作れないといったようなセリフがテレビドラマ「彼らが生きる世界」にあった。
作家の思索や価値観が、登場人物の口を借りて語られる。いや、むしろ作家が作り出した人物が、その人物の思索を語るといったほうがいいのかもしれない。作家は自身を作り出すこともできるし、自らにとって否定的人格を作ることもできるし、理想的な人物を創作することもできるのだ。ただし、その人物が生きて動くことができるかどうかは、作家の力量である。一個の巨大な知性が生み出した人物は、それ自体が時代を体現する。
とにかく、作中に挿入されていく美学が酔わせる。
「彼が海を愛するには深い理由があった。まず困難な仕事を続ける芸術家の休みたいという欲求。様々な出来事や人物を多種多彩に描き出すという課題の難しさのために、単純で巨大なものの胸に隠れたいと思うのである。つぎに、尺度もなければ分割することもできない永遠のもの、つまり無に向かおうとする、禁じられた、自分の課題に真っ直ぐ対立する、だからこそ魅惑的な性向。優れたものを求めて努力する人は、完全なものに触れて安らぎたいという憧れを持つ。そして無は完全さの一つの形ではないだろうか。しかし、彼の夢想がこんな風に深く漠とした方向に入りこんだとき、とつぜん波打ち際の一本の線を人の影が断ち切った。彼が境界のない領域から視線を回復し集中すると、それはあの美しい少年だった。」
少年と老芸術家との出会いの場面である。無に完全さを求めてしまうという境界の思考から、美が形となって、その境界を突き抜けてくる。虚無のあわいに立ち現れる存在。少年への想いはある種、背徳と退廃を含むのだろうが、虚無の淵とコレラという死の使者と、ヴェネツィアのどこか退廃した光景の中にあっては、その芸術家の想いは、むしろ虚無への誘惑との拮抗線に思えてくる。美が破壊しながら救済するとでも言ったらいいか。
理性的なものだけで掌握し得ない美の感性から貫かれてくる全体性。これが、芸術家自身を死と充実に導いていく。
訳者は「閑暇」と訳す言葉に価値を見いだし、解説でもそのことに触れている。
「読者はここで〈閑暇〉の時を思い起こしてみてはどうでしょうか。そこには人間が一つの全体として回復する希望が秘められています。マンはここで、男女の性差を超え、人間の全体性の予感を託して〈美しい少年〉という寓意のカードを引き抜いて見せたのです」
そうか、こういう読みもできるのかと思った。美をそれに誘惑されていく退廃からのみ捉えるのではなく、美の中での人間の感覚と知性の統合が、力強い倫理レヴェルでの人間性の回復につながっているのかもしれない。だが、そこに待つものは何なのだろうか。
小説の読みにも強く時代性の投影がある。
小説中に「愛するものは愛される者より神に近い、なぜなら愛する者の中には神がいて、愛される者の中にはいないからである」という表現があって、何かで読んだなと思ったのだが、プラトンを思い出すより先に、C・ノーテボーム『これから話す物語』(鴻巣友希子訳)を思い出した。その中に
プラトンの引用として、「愛は愛するものなかにあるのだ。愛されるもののなかではない」というフレーズが書かれていた。
それから誰かが、マンの「にもかかわらず」について評論を書いていたと思うのだが、この小説にでてくる「にもかかわらず」は、ドラマや小説の人物造形の基本になるものなのかもしれない。例えば、「裕福であるにもかかわらず悲しい」とか、「冷酷であるにもかかわらず優しい」とか。そんなところを見通せないとドラマは作れないといったようなセリフがテレビドラマ「彼らが生きる世界」にあった。
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