パオと高床

あこがれの移動と定住

パトリック・モディアノ『暗いブティック通り』平岡篤頼訳(白水社)

2008-06-06 02:03:41 | 海外・小説
白水社で平岡篤頼訳とくるとヌーヴォー・ロマンの牙城のような気がする。モディアノは、それ以後のポスト・ヌーヴォー・ロマン(?)に位置するのだが、白水社が持っていた現代世界文学の前線基地といった印象は強い。
『暗いブティック通り』というこの小説自体が、ボクの記憶の深みからフイと蘇ってきたようだ。そう、小説の中身が記憶喪失の主人公の過去の追求、蘇りであるのと同調するように。

「私は何者でもない。その夕方、キャフェのテラスに坐った、ただの仄白いシルエットに過ぎなかった。雨が止むのを待っていたのだった。ユットと別れた時に降りはじめた夕立だ。」という書き出しは、直球勝負である。
いきなり「私は何者でもない」から始まる「私探し」の旅なのである。そして、この冒頭、単行本二行に沁みだしているフランス文学の佇まいが、いい。短い章構成が断片的な記憶の回復を表しながら、そこにだけ集中していく現在の主人公の場と状況を綴り、織りなしていく。そして、断章は印象的に像を刻み、その空気を醸し出すのだ。歴史の背景が、時代の重たさが、行間にくすぶっている。そして、余韻ある洒落た文との出会い。
「建物の玄関というものには、そこを通り抜けるのを習慣にしていてその後ろ姿を消した人々の足音の谺が、いまも聞こえるのではないかと思う。」とか、
「《砂はと彼の使った言葉をそのまま引用するが何秒かの間しかわれわれの足跡を留めない》」とか。これに酔えたら、かつて言われた言葉「モディアノ中毒」なのかもしれない。

この小説は1978年ゴンクール賞受賞作だが、同じ私探しが母の虚像からの自立へと向かう『さびしい宝石』は2001年作で、モディアノは19歳の少女の語りに挑戦している。私自身の喪失した記憶探しから、傷ついた少女の存在の基盤探しに向かう作家の歩みは、モディアノ自身が他者性の中に自らの「私」を追求していく営みでもあるのかもしれない。

それにしても平岡篤頼の訳を久しぶりに読んだ。あとがき共々、うれしい気持ちになった。3月にロブ・グリエが死に、追悼文を菅野昭正が朝日新聞に書いていたが、内面へのアプローチと存在を取り巻く問いの連鎖は、この本のあとがきで平岡篤頼が手際よく整理してみせている。
あるいは、「すぐれた現代小説は推理小説的構造をとる」という説。そして、さらに「たいてい最後まで謎の解けない推理小説である」という、もう一つの説という書きぶりなども、またまた、いくつか、この人の訳や文章を読んでみたいなと思わせるものがあった。

今回の新装版、2005年発行で、『冬のソナタ』ブームの影響があるらしい。確かに『冬のソナタ』の脚本家が好きな小説だろうという気はした。写真のイメージや記憶の使い方、醸し出される情感に似た味わいがあるのかも。



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