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パオと高床

あこがれの移動と定住

高橋源一郎『さよならクリストファー・ロビン』(新潮社)

2013-03-15 11:05:12 | 国内・小説
2012年4月25日発行の短編集である。収録作品は、2010年1月発表の表題作、2011年1月発表の「峠の我が家」、そして、2011年4月号から12月号までに発表された「星降る夜に」「お伽草子」「ダウンタウンへ繰り出そう」「アトム」の全6篇だ。
物語を生きる、書く、読む、そして、忘れるという、それぞれをめぐる物語である。それが、ボクらが現在を生きるということと何故か、交差してくる。さらに、そこに物語でなければ生きられないという思いが滲み、痛さがこぼれてくる。
「さよならクリストファー・ロビン」は、こう書き出される。

  ずっとむかし、ぼくたちはみんな、誰かが書いたお話の中に住んでい
 て、ほんとうは存在しないのだ、といううわさが流れた。
  でも、そんなうわさは、しょっちゅう流れるのだ。

そして、浦島太郎や赤ずきんのお話をパロディにしながら、誰かの「お話」を生きているボクたちの消失を描き出していく。それは、物語が「虚無」と戦う道筋を示しだす。が、同時に、物語自体が「虚無」であり、そうでありながら、「虚無」に吸い込まれていくものだという切実なジレンマを呈示する。

  ある時、ひとりの天文学者が、星の数が減っていることに気づいた。
 (中略)星は生まれ、成長し、死んでゆくものだった。だから、時に、
 その数は増え、またある時に、その数は減ったりもした。だが、(略)星
 たちは、どこの時点からか、一定の割合で減り続けていた。

宇宙が「無」によって喰われていく。SFやファンタジーの文脈を取り込みながら、消えていく物語の中で、消えていく作者と登場人物を描き出す。確か、アメリカの作家で、短編でエントロピーを扱った作品があったが、それを高橋源一郎は援用しているのかもしれない。
そして、世界は消失する。ボクらの世界は、誰かの意識の中で、お互いの意識の中で出来ている。日々、膨大な意識が世界を形づくり、膨大な死が、意識の消失が、世界を消していく。その「虚無」を前にして、高橋源一郎は、彼の特徴のひとつである少年性で、リリカルに戦う。

  「あれは『虚無』というものさ」と、ぼくに教えてくれたのは、そし
 て、「世界は『虚無』にどんどん浸食されている。どうしようもない」と
 もいってくれたのは、誰だったろう。
  それが誰だったにせよ、その誰かも、もういないのだ。
  ねえ、クリストファー・ロビン。
  それでも、ぼくたちは、頑張ったよね。

世界が誰かの物語であるなら、そして、自分たちが誰かの「お話の中の住人」にすぎないのなら、「おれたちのお話を、おれたち自身で作ればいいだけの話さ」という方法を戦いの方法として、最後の人となった「ぼく」と「クリストファー・ロビン」は「最後のお話」を書こうとする。この小説「さよならクリストファー・ロビン」を冒頭に、他5篇の小説が続く。

誰かが作った登場人物たちが集まってくる「ハウス」で、作者の死と作者によって作られた者の死の同時性を切なく綴った「峠の我が家」。これも、世界が消えるということはどういうこことなのかに、謙虚さと羞恥をもって触れているのかもしれない。
それにしても、この2篇を読んだとき、今、テレビで放送されている『泣くな、はらちゃん』と結びついた。岡田惠和は、この小説、読んでいるんじゃないかな。もちろん、テイストは全く違うけど。いや、全くって、ほどでもないかな。あっ、ドラマ、たいへんたいへん、面白い。

「星降る夜に」では、今度は、物語を語り聴かせる。という設定を使う。物語作者の死と登場人物の死から、誰かに物語を語り聴かせる、その相手の死に対して、物語はどこに向けて語られるのかを、これもまた切なく問うている。
また、蓄積ではなく忘却へ、進行ではなく退行へと時間を逆に進む状況を描く「お伽草子」。
死者が生者の世界に来て、生者と共に過ごす時間を描いた「ダウンタウンへ繰り出そう」。
世界と世界の『つなぎ目』でのアトムとお茶の水博士の出会いを軸に、『つなぎ目』での人称の錯綜や時間軸の交錯を描き出した「アトム」。
どの作品にも、じわりと涙が溜まりそうな痛さがある。これは、ボクたちがどんなところまで来て、どういうところに今立っているのかに思い至らせるからであり、その取り返しのつかなさへの痛切な思いを呼び起こすからである。
生きている者を描き出していくことで、死と再生を描こうというリアリズムではない手法で、生と死の境界を跨いで、境界線を綱渡りしていく。その綱渡りのバランスの中に再生への願いのようなものが、かすかに、かすかに漂ってきた

高橋源一郎は、ケリー・リンクやブラッドベリなどの味わいを持ちながら、バーセルミのように物語自体の関節をはずしながら小説を作りだしていく。そして、さらに抒情の滲み出しがあって、少年少女小説の衣裳も羽織ってみせるのだ。様々な作品をパロディ、コラージュしていきながら作られるタカハシワールド。読むと、やっぱり、刺激的だ。
あっ、それと、この人の小説がいいのは、この人の持つ羞恥心のようなものもあるのかなと思う。実際の人物が傲慢かどうかはわからないが。

黒田夏子「abさんご」(文藝春秋2013年3月号)

2013-02-24 16:03:09 | 国内・小説
表現のジャンルの中で、そのジャンルが持つ約束事と抗ってしまう作品というものがある。意図的に、あるいは作者が創造力の赴くままに書いた結果として。
その場合の意図的にか、そうでないかは、重要なことだろうか。おそらく、出て来た作品の持つ魅力を語る場合には、それほど問題ではないのだろう。意図しようとすまいと、魅力がある作品は魅力的なのだ。が、時として、壮大な失敗作というものが生まれることがある。その壮大さは、紛れもなく意図の壮大さなのだ。

と、こんな書き出しをすると、まるで、この小説が、そうであるかのようだが、ここまでは、この作品と一切関係ない。ただの連想である。言えることは、「abさんご」は、ジャンルとしての小説の約束事に抗った小説であるということだ。
ジャンルとしての小説とは、言い方がよくない。小説は、本来、なんでもありのジャンルなのだ。うーむ、近代小説の約束事としておこう。それと、対峙してしまった小説なのだ。詩が詩ではないもの、夾雑物を差し込むことで詩を成立させようとするように、詩が散文脈を取り込んで、詩を成立させようとするように、小説が、詩のようなものを取り込んで小説として成立しようとする場合がある。もちろん、その場合に、詩が散文になっては詩でなくなるように、小説は、詩になってしまうと小説ではない。そこで「詩的な」という「的」という接尾語がくっついてくる。だが、小説とは、本来、何でもありなのだ。「詩的」であっても小説なのだ。そして、この小説は、何かを名指そうとするところ、名指す前に戻って、それが何ものかを問うところから始める点や、人称代名詞の曖昧さによって、主格が平気で入れ代わるところ、曖昧なものを曖昧なまま残していくところなどは詩の方法を取り入れているといえるのだ。が、その指し示すものが、決して多様ではないという点で詩とは一線を引いている。あるいは、喩の研ぎ澄まし方が、喩だけで自立しないところが、詩とは一線を画している。つまり、名指されないものは、名指すものを持っているのだ。だから、今、名指されいなくても、それは既知の何かに到るための表現なのだ。そこが、この小説は、散文なのだと思う。
で、この小説の「開かれ」を考える。列記、ここからはメモになる。

黒田夏子「abさんご」メモ

近代小説の発生、確立以前に戻し、近代を超克しようとする試み。私小説のパロディや昭和のパロディ、そして、今回のこの試み。このような形になってしまうのかな、と思う。
太宰治をヌーボーロマンと源氏物語、枕草子で処理したような。
久しぶりの文学少年、文学少女の小説。文学的素養に支えられた、小説それ自体を考える小説という意味で。

クンデラはセルバンテスなどで、近代文学の乗り越えを図った。また、外国文学では、「源氏物語」などに小説の可能性を見ている人もいる。説話、物語など。この小説は、古典で近代の超克を図ろうとしている。

○ 文章が等価成立している
通常文章は主節従節関係があるが、規定する主節に同等の主節が重なるような表現が多い。
肯定文の後に否定文をつながえる。あるいはある断定を避けるような付帯状況。「~であるようであり、~ではないようでもあり」のような。これは古文に多い。同格でつなぐ文。
例えば、下手な物まねをすると、付帯状況は、「~の男の、齢三じゅうばかりなる者が、まだ三じゅうには届かないとも見えるようであり、また見えないようでもあり、うつろにしたたる、したたると思えたのは、家事がかりが干していた白妙の、いつか流した光りの粒を映すような、」とか、つなげてみると面白いかも。
○ 人称代名詞をなくす
主語の溶解。人称がつねに溶け合っていく。これがあわいを生みだしている。記憶の妙な共有化が起こる。
この、あわいの往還は、詩ではよくやる手法だが、散文の場合、主語人称に邪魔される場合が多く、人称が往還しても、その往還を書き記してしまう場合が多い。その点、人称代名詞を使わないので、往還が自在になっている。ただ、やはり女性性は残っているような気がする。
○ 人称代名詞がないことで、語り手が登場人物と一体化したり、離れたりする。どこにむかって語られているのか。作者の死といった近代文学の問題を乗り越えようとしている。むしろ、作者の過剰?
○ コギトからの脱却
近代小説の「私」=人称から脱出する。「我思う故に我あり」は「我」の堂々めぐりに帰してしまう。それへの挑戦は、ずっと試みられたが、その中の一人と考えられる。回想の無個性化。朝吹真理子の「きことわ」を連想した。あれは、立ちあがっている三人称を往還していたように記憶しているが。
○ 音
短歌は昔から、詩はまた最近、音の流れが復活している。散文での音へのアプローチは重要。音は呪術性を持つ。意味から遠ざかるように音配列を生みだすことができる。そこに大和言葉の可能性を賭けているとも言える。
○ シニフィアン過剰の文学
本来、詩に近くなるのは当然で、指し示すもの、記号表記の方によりそっていけば、シニフィアンは過剰になる。だが、詩は、その一方で、シニフィエ、つまり意味されるもの(記号内容)にも揺さぶりをかける。つまり多対一ではなく、多対多を平気で容認する。しかし、散文の場合、一対一を崩すように、シニフィアンを増殖させても、基本示すものは一つを守ろうとする。そこで、シニフィアンがシニフィアンを捕捉しようとして膨らむ。
例―詩は、「花も紅葉もなかりけり」とない状態だけを記述することで、ある花と紅葉の像を刻みながら、その不在も語る。つまり、言葉が本来持つ存在の不在を前提としながら、その言葉が宿すイメージをあるものとしても呈示する。しかし、散文の場合、「そこには、花も紅葉もなかった」と書いただけでは、「ない状態しか伝えていないという不安が残る。そこで、「そこには、あの時咲いていた花も、また散り際を彩った紅葉もなかった」とかいうように書きくわえをおこなっていくのではないだろうか。で、黒田夏子の書法になれば、「花も紅葉もあったかもしれないし、いや、すでになかったかもしれない」のようになる。さらに、花と紅葉の指定を解除しようとする。「多肉質の~」とかのように。言葉の始まりへの歩み寄りともいえるのかもしれない。この地点では、ふたたび詩に接近する。

もう一点。ここに到る動機。荒巻義雄が、詩誌「饗宴」で書いていたラカンの引用が参考になる。「現実界」「想像界」「象徴界」。不気味で、不定形で、真理から遠い、脳が作りだす現実界、これは実存空間である。すっきりと安住できるイメージの世界の想像界=母と子の世界。そして、荒巻が「父」的世界という法、言葉、規則の象徴界。この象徴界からの逸脱。つまり、小説の中の父と思われる存在との関係を考えてもいわゆる「象徴」的である。また、近代小説の制度は、ここでは父的世界=象徴界と考えられないだろうか。

あるいは「一そう、二そう」という表現にも、これは無意識に反映していると思う。階と区別する「そう」の世界。重なり、堆積している状態。
○ 題名
a=1、b=2、ここまでは高樹のぶこは正しい、それから、「さんご」だから、これは「いち、に、さん、し」を「ご」にしている。
「さん」=cで、a,b,cが成立して、cは「し」で四になって、次が五。
地点のaと地点のbという分岐ともとれる。Aliveとblancの頭文字、afterとbefore、adultとbabyと考えても面白いかも。あとは分岐した「珊瑚」もイメージできる。
で、結局、aとbにわかれる枝分かれと珊瑚の枝分かれのイメージだろう。「文学界」の蓮実重彦との対談で、黒田夏子はこう語っていたように記憶している。でも、これを言わなかったら、いろいろ考えられたのに。知人は、「さんご」で15。つまり15章の小説構成だと言っていた。これは、すごく楽しい着眼だと思った。
○ 作者の教養が、国文学を踏襲させている。
○ 役割による人称代用の問題点。つまり、人称を関係性と役割に置いて様式化している。その問題はないのか?ただ、その場合の問題指摘は倫理的なものでしかないため、結局、表現態においては、人称を補完するものとしての役割表記は有効と考えられる。
  また、役割、関係によってその人物を名指すのだから、同じ人間が、
  幾重もの呼ばれ方で登場する。
○ 名指されない回想。
  回想、記憶は固有名詞でのみ想起されるわけでは
  ない。むしろ、形容詞や動詞、形容動詞で記憶は想起され、その後名
  指される。その命名以前の状態へのアプローチがある。結果、回想は
  漂いはじめる。しかし、そのことで身近な記憶の気配を残す。
○ 後半、わかりやすくなる。人物の成長と同時に理屈の介入があり、了
  解しやすくなる。「自由」と「貨幣・経済」についての実存性と唯物性
  の語りが、ちょっと浮いている。主人公とおぼしきものの成長が、小
  説に理屈を介入させたのかもしれない。
○ ラストと始まりの円環。
  これは、回想のエンドレスを告げている。
  そして、また、回想はずれながら回帰する。
○ ベースとしての「うつほ物語」。「うつほ物語」をぱらっとめくったら
数字が多かった。
○ 「未実現の混沌にもがく変態途上の不定形」という表現が途中(後半)
  あらわれるが、このあたりは、作家による、この小説の小説論のよう
  に読める。

いろいろと語りたくなるテキスト。その点では面白い小説なのかもしれない。

安岡章太郎「走れトマホーク」(講談社文芸文庫『走れトマホーク』)

2013-02-16 09:39:30 | 国内・小説
短編小説は、削っていく作業によって成立するのだろうか。短編として成立する、その一点に向けて純化していく小説というものを、まず思い浮かべる。これは、どこか俳句とかぶった勝手なイメージなのかもしれない。ただ、その短さによっては、盛り盛りに盛り込まれると辟易してしまうということがある。そう、結局、何だったのという感じになる。だが、『純化』とは逆に、長編小説への可能性と動機を込めながら一編の短編を仕上げる作者も、もちろん、いるのだろう。
で、そのバランスをうまくとることができる短編の名手がいる。というか、そのバランス、盛り込みがありながら作品としては「純化」されているような短編とでもいったらいいのか、そんな作品がある。この「走れトマホーク」を読むと、これは削ぎ落としではなく、盛り込みだと思わせる。でありながら、盛り込みが破綻ではなく、削いだものを描かなかったことにはせずに、背後で見せる技というか、遠近法の焦点をいくつか持っている、そんな小説なのだ。

この小説は、「或るビスケット会社」がスポンサーとなって、「アメリカ西部の山岳と曠原地帯を団体旅行」する「私」の旅行中の話である。一行は私とS君以外は外国の人ばかりの十何人のグループである。彼らの旅は、ドイツ人の婦人記者が「あたし達は、いったいどんなことをしたらいいんでしょう」と聞くように、目的のない、ただ西部を移動する旅行となっている。これだけでも、寓話的な、ある種カフカ的な小説が進みそうなのだが、安岡章太郎だから、そうはならない。

いくつかの焦点のひとつ。一行の中に、頑なに流儀を守るスイス人がいて、彼は、浮いている。これが、順応と孤絶、流されると流されないといった、遠近法の焦点のひとつとなる。
また、小説全体は、前半、次の文によって基礎トーンがつけられている。

  「あたしたち、いったいどんなことをしたらいいんでしょう」という
 リリー小母さんの心許ないつぶやきも、結局このトリトメもなくひろが
 った曠野の真ン中をひた走りに走りつづけている旅の、奇妙な空白感か
 ら生じたに違いない。

目的の無さ、そして生じる空白感。これは現代人の時代の中での精神風景を描き出している。これも遠近法の焦点のひとつ。あっ、これは遠近法ではなく、全体の通奏低音か。上手いのは、引用した部分で描きだしたい心情を表現したあと、すぐに、テーマ性のある次のような文章を続けるところだ。

  旅というのは所詮、何処かへ行って帰ってくることだ。それは月旅行
 でも莫大な費用と労力をかけて何をしに行くかといえば、結局地球に戻
 ってくることでしかない。われわれが宇宙船の飛行士によせる期待や不
 安は、月でどんな石ころを拾ってくるかというより、どうやって彼等が
 無事に戻ってくるかである。これは旅というより、われわれの生そのも
 のの不安というべきだろう。だから日常不断の生活の中でも私たちは、
 ふと旅に出ているような心持であたりを振り返ったりする。―いったい
 おれは、こんなところへ何をしにきているのだろう?

随筆のように、うまく滑り込ませる。これが、小説ラスト、馬の「トマホーク」に乗って、無事、馬舎に戻ってきたときの感慨と重なり、小説を着地させる。帰る「ホーム」の問題。小説は、「私」の軍隊時代や「父」への回想のよぎりを含みながら、そこにかすかにネイティブ・アメリカンの歴史性への思いも漂わせ、「ホーム」へと収斂していく。その、それぞれの部分が焦点のひとつひとつとなって、描かれた短編の背景を作りだしている。

この小説は昭和47年発表。70年代の初頭に描かれた小説である。高度経済成長の最終時期、石油危機の前年ごろの作品である。その時期を合わせて考えると安岡の精神風景が何を見ていたのか興味深い。連れて運ばれた戦時中と同じように流れの中で目的を見いだしていたはずなのに、それがすでに、ある終焉の予感を孕み、目的が目的化するという時期の中での目的それ自体の喪失感。安岡の感性は諧謔を持ちながらも、帰路へのまなざしを示し、批判性をたたえている。

片山恭一『愛について、なお語るべきこと』(小学館)

2013-02-01 13:03:20 | 国内・小説
  地球上のあらゆる人間は、勝つか負けるか、得るか失うかといった、
 利害関係だけで結びつけられてしまい、やりたくもない競争を、世界が
 終わるまでつづけることになる。

 「戦争をなくすためには、愛を宇宙空間に廃棄しなきゃだめってことに
 なりまね。」

  普段は、いろいろな音に紛れて聞こえないけれど、誰のものとも知れ
 ない泣き声は、空気の澄んだ空のずっと高いところを、いつも途切れる
 ことなく流れている。落ちてくることも、宇宙の果てへ飛んで行ってし
 まうこともなく、過去にも未来にも流れつづける。

幾つかの文体に織りなされた小説世界を進む。ある程度の速度で、ただ、流れるだけではなく、時々、突っかかりながら。でも、一気に。

人類が考えだし、創り出した価値観が、システムが、人類とその棲息する場を疲弊させる。人類の求めた快適さと効率の良さは、結局、人類の欲望の解消へと向かって果てることなく肥大化していく。それは、人類の快楽原則に従った欲望の解決法が資本主義の基盤を支えるものであるからだ。生産と消費の無限の繰り返しは、消費への欲望が常に生産の欲望よりも余っていることに置いて、限りない消費欲を生みだし続ける。消費し続けるということは、生産し続けなければならないということであり、生産し続けることは、人とその環境を疲弊させながら、消費の完全な満足に対しては、常に不完全なものでしかありえない。そして、人間は本来生産するという労働よりも、消費するという行動の方に快楽を感じるものであるのだ。そこに歯止めをかけることができるものはなんなのだろう。危惧は蔓延する。しかし、危惧はそこにある危機を回避できるのだろうか。思想が、哲学が、そして文学が、危惧をもたらす現在を鋭く問いつめる。その先にある倫理は、おそらく、ボクたちの加速する時間にブレーキをかけることができるのかもしれない。だが、倫理は、その役割に置いて、ボクたちを疎外してしまう。あるいは、ボクたちは倫理を隠蔽する。その現況自体も含めて、文学はもう一度、いや何度でも問いを発し続ける。言葉と想像力と、そして創り出された世界が示す創造の力で。

570ページに及ぶこの小説は、想像力をばねにして、現在と格闘する思索の軌跡を示す。
小説は、二重構造を採っている。奇数章は「彼女の本当の名前」という近未来小説であり、偶数章は各章ごとに「微笑」「経済」「楽園」「戦場」などの漢字二文字の章題がつく、「愛について、なお語るべきこと」という現在の小説になっている。その二つのパーツが入れ子構造になって、ゆるやかに連関する。

「彼女の本当の名前」の章は、人類の大半が死んでしまった災厄後の世界が舞台である。少年オサムと言葉を話せない少女ギギが、その世界の中で、街の暮らし、山の狩猟の暮らし、農耕の暮らしを経て、自然の原理に従い生きていく姿を描き出していく。これは、もう一度人類が生きるためのリセットの可能性を探る物語でもある。狩猟で生きる、かつて畜産農家だった老人との山で生きる知恵をめぐる対話や、今は見かけなくなった鍛冶屋の男との交流と罪が介在した葛藤などが面白い。
農耕を行う「耕す人」と狩猟する老人との価値観の差と共生は、農耕牧畜の価値の多様性にも重なってくる。そして、物を交換することで生きていく街の暮らしとの構図は、これまで人類が経てきた時間を再認するようで、大仰に言えば、縄文と弥生、農耕と牧畜、生産と交換、などの文明史的対立が再考できる。これを進化史観ではなく、価値多様性として、どう捉えていくか。未来において、それぞれのもつ限界は、また繰り返されるのか。それは、物語の外に置かれる問いになるのだろう。
少女ギギは本当の名前を持たない。少年はギギの本当の名前を探そうとする。ボクらは名指された名前を持っている。だが、関係の中で、自分たちが見いだす名前、それを本当の名前というのなら、名指し名指される関係をリセットすることは、自らの生を新たに獲得することにつながるのかもしれない。また、名指すことは、概念と向き合うことにもなる。少年とギギの物語は、まだ「愛」という言葉にならない、それ以前を描き出す。「愛」な名指すもの(こと)をまなざすことでもあるのだ。
横に並んで、同じ明日を見るのではなく、互いが互いの顔を見る関係。そこにお互いを名指すという行為が生まれる。「顔」のない成長の夢を追っていた時代から、お互いの顔を探す時代への変化、その大切さが静かに語られているようである。

作者片山恭一は、「言葉の初期化」という言い方を自作紹介で使っていた。概念や価値をもう一度初期化するところから考え直し、構築し直してみる。人類は、愚かにも繰り返す。が、一方で、生の営為を続けていく人類が、別の価値観を得る初期化の地平はどこにあるのか。小説の想像力は、そこに向けて駆使される。

もうひとつの物語「愛について、なお語るべきこと」は、作家辻村がタイで失踪した息子を捜す物語である。軽いのりも交えて始められた物語は、中盤以降、重さを持ってくる。こちらにも「ウァン」という「本当の名前」ではない呼び名を持つ女性が現れる。辻村にとっては、この女性の「本当の名前」が、彼女の実体を探すという象徴的な意味を持っている。また、かつて戦場カメラマンであった川那部との生と死、リアルとフィクション、グローバリズムと多様性などをめぐる対話は、それ自体が文明批評になり、観念小説的体裁も持っている。
登場人物たちが、バンコクから離れて、タイの奥地にいく空間の移動は、グローバリゼーションの網の目の隙間への移動でもある。だが、そこで生じることが、すでにグローバルな世界へと影響を及ぼすのだ。
そして、奇数章の物語は、この偶数章の物語のあとの世界を描く物語ではないかと思わせる。が、一方で、作家辻村が書いた小説が、奇数章の小説ではないかという劇中劇の構造も考えられる。
時間的な継続の小説とも思わせ、併置された物語とも取れる、そんな構造になっている。

それにしても、長編小説っていい。長編小説のよさを味わうことができた小説だった。そして、小説は、登場人物に語らせることができるのだということを改めて感じた小説だった。語り手=作者と、それぞれの人物たち、彼ら、彼女らが、小説の中を駆け抜ける。



井本元義『ロッシュ村幻影 仮説アルチュール・ランボー』(花書院 2011年10月20日)

2012-05-27 17:45:00 | 国内・小説
帰還にかける思いとは何だろう。
奪われた帰路がある。そこでは、帰ることへの強い思いが宙づりにされている。
だが、帰路は、断念の導く結論でもあるのだ。または、断念自体が帰路につくのかもしれない。それは、地理的故郷へであるかもしれないし、精神の帰郷かもしれない。その道筋は、ある者の帰郷のあとを辿る自分自身の帰還の道筋となる場合もある。

 よく旅をするんだってね、帰ってきたらいつでもここにおいでよ。
 お帰りなさいと言って私が迎えてあげる。
                (「その日のアルチュール」)

迎える者はこう語る。だが、戻る者は、帰路の前にあって自分自身を抱きしめる。

 何かから逃げるためにさすらうのか、それとも何かを求めて未知の街
 へ足を踏み入れるのか。何もない。虚しいだけだ。悲しみはもう思い
 出さない。悲しみが浮かんでこようとすると、それはいきなり彼(ラ
 ンボー)を打ち倒さんばかりの頭痛になって襲ってくるのだ。
                (「その日のアルチュール」)

帰路をたどる帰路になる。しかし、それは、常に同じ場所へではない。ずれながら回帰する。何故か。同一の地点などないからである。また、同一性には回帰できないからである。ジル・ドゥルーズは『ニーチェ』の中でこう書いている。「〈同一なもの〉は回帰しない、ただ回帰することのみが、生成しているものの〈同一なこと〉なのである」と。ものではない、ことなのだ。さらに、事態は回帰することであって回帰するものではない。帰路をたどろうとする自らは決して自らとの同一性を保証されることはない。それは同時に他者への回帰を図ろうとする場合にもそうである。作者の井本さんは決して自身の過去に同一化できない、それはランボーの過去に同一化できないことと同様であり、それはまた、ランボーがランボーの過去に同一化できないこととも同様である。
つまり、歴史的記載は変更される。アルチュールにとっての「その日」は、ずらされる。ずらす手法が、井本さんにとっては小説化だったのだ。そうすることでしか、ランボーには辿り着けない。つまりは自分自身へも辿り着けない。そこに小説が生まれる。
そして、ランボーの夢の残滓に、作者は夢の形象を見いだそうとするのだ。作者の耳元には囁く声が聞こえる、「ランボーは生きている。ランボーは死んではいない。ランボーは夢の残滓に溺れながら、おめおめ生きなければならない」と。
そして、四つの小説が生みだされた。ランボーを、作者自身のランボーを、生かすために殺さなければならないとして。解放するために小説の中に閉じこめるように。それは、作者が作者自身を生かすために小説の中に封じようとした行為だったのかもしれない。

創意溢れる小説は、時に散文詩のような文体で書かれている。4つの小説は独立しているようで、絡み合っている。各作品には「一」から「四」までのノンブルが打たれているのだ。

冒頭は、ランボーの足跡を追ってシャルルビルに行き、さらに「地獄の季節」を書いたロッシュ村を訪れる「僕」を描いた「ロッシュ村幻影」。この小説では、ランボーが宮沢賢治と対話するという「幻影」が書き込まれる。「僕」は限りなく作者に近い位置にいる。全体のプロローグのような配置である。

次の「その日のアルチュール」では、1880年のアデンへの旅立ちを起点にして、その旅立ちの前に過去を回顧するランボーを描く。詩が溢れる日々。だが、その中でむしろ拘束され、失意にさいなまれ、「見者」の不幸を生きるランボーが現れる。この小説の最大の「幻影」は、コミューンの中で現れる父の幻影である。小説は時間を遡行する手法で描きだされる。過ぎてしまう過去の仮借なさに抗いながら、精神が肉体共々、拘束を解き放とうとする姿を、作者は痛みを伴って表現する。なぜか、すでにそこに結論が置かれているからである。昔の映画の題名ではないが「あらかじめ失われた」ものへの思いが、今なおある「私」の中に充溢しているからである。

そして、三つ目の「ヴォンク駅から」。1891年、死を前にしたランボーが描かれる。アフリカからの帰国の時が幻想される。ここでの「幻影」はランボーその人である。作者は伝奇作家の面持ちで、ランボーを史実通りには殺さない。人はその人の過去を生きられないように、人はまた他人の過去を生きられない。だが、むしろそのことは、歴史的事実とされたものからのずれや逸脱を可能にする。想像力はそこに賭けられる。83歳まで生きたランボーを幻想する。そして、アフリカでのランボーを想像する。詩の先にあった単調な日々を、その日々が何であったのかを、それは死によって生まれた時間だったのかを、問いながら想像する。作者自身が「あとがき」で書いているように「ハラルでの十一年間の闇、そこから発せられた数多くの手紙こそ、文学の最高峰のひとつである、と僕は思う」ということを、創作を通して検証するように、作者は想像する。これは、作者にとっての実業の日々と重なる思いがあるのかもしれない。

そして、四つ目の「エピローグ」となる。一つ目の小説では作者に近かった「僕」は、ここでは装置としての「僕」として虚構の時間を生きている。この「エピローグ」の僕が「その日のアルチュール」と「ヴォンク駅から」を書いたと設定されるのだ。そして、「僕」はエチオピアのハラルに行く。すでに死んだランボーは、ハラルに棲む「曾お祖父さん」という「幻影」として現れる。この「僕」が追うランボー。作者は「僕」を追いながら「ランボー」を追う。距離のからくりがこの小説には宿っている。虚構が虚構を欲するという、極めて自然な連鎖が、この「エピローグ」を生みだしている。それは現実の時間に対峙する想像力の生みだす夢の時間なのだ。
僕らは重なるような夢の襞の中で生きている。それは彼が見た夢でもあり、僕が見た夢でもあるのだ。そして、決して出会うことのない僕にとっての「あなた」の夢でもあるのだろう。

過去の時間の中に置き去りにしてきた忘却の時が、辿り着けない帰還の道を敷設していく。
そこには記述された言葉の軌跡が刻まれている。


  詩を書くのをやめて八年、二十七歳からのランボーの人生のイメー
 ジが激しく僕を打ちのめすようになったのは何時の頃からだったろう。
 紺碧の空と海の間にきらめく大理石の石切り場。すべてを枯渇させる
 灼熱の太陽と砂漠の無味乾燥。瞬時に蒸発する水分。あるいは蒸し暑
 い澱んだ空気の中に浮遊する糞尿の匂う住まい。裏切り者から与えら
 れる屈辱。未開の地、ハラル。なぜ彼はそこで生きるのか。生きねば
 ならないのか。僕には何故かそれが分かるのだ。僕は彼がいとおしい。
 痩せこけて日焼けした狡猾な眼の男。苦悶と苦痛のうちに泣きながら
 死んでいく男。僕は彼の悲しみを美しいと思いそれを愛する。そして、
 百年経った後、想像の中でしか彼を愛せない自分が悔しい。
                  (「ロッシュ村幻影」から)

  絶対感覚を抹消するためにだ。それは解放されることだ。灼熱の太
 陽と熱風とでそれらを焼切ることだ。純白の雪の奥深くに凍結させる
 ことだ。ついに彼の解放はすべての感覚を抹殺することだと結論づけ
 られる。肉体を酷使することだ。もはや言葉は必要ない。一体の肉体
 として生きる事だ。定住し沈黙のうちに滅びていくことだ。ハラルの
 日々を送ることだ。
                  (「エピローグ」から)